125 今夜はお城の舞踏会 その8
ギャッ、ギャギャギャー……
突然けたたましい鳥の鳴き声がした。はっとリリィは目を開ける。いつの間にか本当に眠ってしまっていた。どのくらの時間が経過したかは全くわからない。
瞬きを繰り返している内に次第に視界がはっきりとしてくる。不協和音を残しながら楽器の音がばらばらと止むと、バサバサっという羽音が聞こえてくるようになった。
どこから入ってきたのか、鳥が二羽、天井付近を縦に並んで旋廻している。その内の一羽が壁のレリーフの上に舞い降りると、「キィィィッ」と金切り声をあげて翼をばたつかせてからから再び飛び立った。
黄緑色の美しい鳥だ。オウムか或いはインコだろうか。飛び回っているのでしっかりとその姿を視界に捉えることができない。
ダンスホールにいる人々は天井を見上げて、飛び回る鳥を探しては指さしている。「あそこだ!」「どこだ?」「あれか!」「いたぞあっちだ」「あそこに止まっている」という声に混ざって今度は、「どこーどこー」「こっち、こっちー」という明るい声が響き渡った。幼い子供が会話しているようにしか聞こえなかったが、その声は天井付近から降ってきている。鳥たちが声真似をしているのだ。
王宮で飼われている鳥が籠から逃げ出して、ダンスホールに迷い込んだのだろうか。
二羽の鳥は飛び回ってあちこちに移動しながら「どこー」「こっちだよー」「どこーどこー」「こっちこっちー」というやり取りを続けていた。まるでかくれんぼをして遊んでいるかのような楽し気な声だ。
「リリィさまっ」
鳥たちのおしゃべりに交じって、切羽詰まったアレンの声がリリィの耳に届いた。はっと視線を下に向けると、アレンがこちらに駆け寄って来ようとしているのが目に入った。天井を飛び回る鳥を見上げている人々に阻まれて、アレンは思うように前に進めない。彼は必死に階段を指差してリリィに何かを伝えようとしている。
(え? なに?)
階段に視線を移す。ドレスの裾を派手に蹴り上げるようにして数段飛ばしで階段を駆けあがってきている者がいる。
リリィは彼女の顔に見覚えがあった。
運河を流れた日の夜に催された夕食会で斜め前に座っていた……結局最後までどこの誰だかわからなかった令嬢だ。自分こそが第二王子妃に相応しいとまで言い切った彼女が、リリィに平手打ちしようとした時とは別人のような俊敏さで観覧席に向かって突進してきている。
異変を察知したカラムを含めた護衛騎士たちが、護衛対象を庇うように前に出る。
「ミュリエル! 何をしているのです! 立ち止まりなさい」
ビーアトリス妃は彼女を気遣って家名をわざと呼ばなかった。しかし、ミュリエルと呼ばれた女性は止まらない。無表情のままどんどん階段をのぼってくる。あっという間に残り五段だ。
「ミュリエルさま! ミュリエルさまっ! どうかおやめくださいっ」
ポリィが必死に呼びかけているがやはり反応がない。
その時になってようやくリリィは気付いた。ポリィを最初に見た時、どこかで見たことがあると思ったのだ。ポリィは緑の目の令嬢が連れていた侍女の内の一人だ。リリィに向かって一生懸命首を横に振ってくれた彼女のことは印象に残っていた。……だが、今はそんな事を考えている場合ではない。階段をのぼり切って観覧席まで辿り着いたミュリエルは、息を切らしながらも、
「右から三番目!」
とはっきりした声で宣言したからだ。
(はぁ?)
リリィは限界まで大きく目を見開く。右から三番目とはすなわち――リリィだ。
「全員手を出すな」
カラムが落ち着き払った声で護衛騎士たちに命じる。
「右から三番目!」
表情一つ変えずに、ミュリエルは髪を留めている銀の簪を抜き取ると、リリィめがけて飛びかかってきた。
(えええええええー!)
どこか遠くで「あはははははー。どこー」「あっはははははーどこー。どーこにいるのー」と鳥が笑っている。あまりに非現実すぎてリリィは恐怖を感じる余裕すらない。
髪を振り乱したミュリエルがリリィの首筋に向かって簪を振り下ろす。それを確認してから、カラムはミュリエルの手首を掴んで押し返した。捻り上げられた手が緩んで簪が零れ落ちる。床に落ちた簪はすぐさま別の護衛騎士によって回収された。
「右から三番目右から三番目右から三番目」
ぎりぎりと手首を締めあげられているにも関わらず、ミュリエルは痛みに顔を顰めることもなく空っぽの拳を振り下ろそうとしている。だが、力の差は歴然としていた。
のけ反るように天井を見上げながら、空っぽの瞳で「右から三番目右から三番目右から三番目」と唱え続けるミュリエルの体を、カラムが壁に向かって突き飛ばす。カーテンの陰に隠れていたウォルターが彼女の体を受け止めると、抱きかかえるようにして無理矢理扉の外に連れ出した。
パタンと扉が閉まる。「どこー。あはははははっ」「こっちー、こっちだよー」という賑やかな声が頭の中で回り続ける。リリィは自分の身に起こったのか全く理解できないままだ。目の前がだんだん暗くなってゆく……
「リリィさま、しっかりして下さい。リリィさまっ」
ソフィーが必死に呼びかける声でリリィは我に返った。
「大丈夫ですリリィさま、お怪我などは一切なさっておりません。もう少しだけ頑張って下さい」
ソフィーは身を屈めて、リリィの耳元でそう囁いた。彼女の顔色も決して良いとは言えない。リリィはぐっとお腹に力を入れて小さく頷くと、顎を引いて挑むような瞳でまっすぐ前を見る。
今のところ、ダンスホールの方から悲鳴のようなものは聞こえてきていない。
誰も気付いていないのなら、このまま何事もなかったかのようにやり過ごす!
観覧席のすぐ前を、黄緑色の鳥が右から左へ通り過ぎてゆく。二羽の鳥はしばらくの間、シャンデリアを器用に避けながら天井付近を自由気ままに飛び回っていたのだが、その内に飽きたのか、「こっちーだよー」「どこーどこーにーいるのー」という言葉を残して、開け放たれたままになっていた大扉からダンスホールの外へと飛び出していった。
「興味深い余興であったな。音楽を!」
国王の張りのある声がダンスホールに響き渡った。止まっていた音楽が再開され、一時の夢から醒めたように、人々はパートナーの元に戻って再び踊り始める。
国王があれは予定されていた見世物であると言うのならば、例え疑問を抱いていたとしても従うしかない。ここで反発して声をあげても余計な混乱を招くだけだ。
お喋りな二羽の鳥たちの方にダンスホールの招待客たちの意識は向いていた。中には、階段を駆け上ってゆくミュリエルの姿に気付いた者もいるかもしれないが、二階の観覧室で何が起こったが確信を持って説明できる者はいないだろう。
もしあの襲撃が衆目の中で行われていたら、きっとユラルバルト伯爵家の舞踏会と同じように招待客たちは恐慌状態に陥ってしまっていた。
――そして、それもこれも全部、ガルトダット伯爵家の呪いのせいにされたに違いない。
よかった……と、リリィはほっと胸を撫でおろす。
恐らく、お喋りな鳥を放ったのはオーガスタだ。
ダンスホールに姿はないようだが、オーガスタもまたどこかに潜んで、リリィをずっと見守ってくれている。だから、祖父の言うように寝ていても大丈夫!
そう自分に言い聞かせても……『右から三番目』という言葉がどうしても気になって仕方がない。
この襲撃が、挙動不審だった第三王子と全く無関係ということは、まず、ない。
観覧室に入る前の廊下で、第三王子は六人いるのは想定外だという反応を示していた。
(でも、アーサー殿下がここに座っていたとしても、『六人』という人数は変わらない……)
第二王子がここに座っていたら、この場にリリィはいない訳だから、人数としては結局六人のままなのだ。
アーサーが今夜参加しないことはすでに諸所に通達されていたはずだ。ならば、急遽その穴を埋める形でリリィが参加することになったことで、第三王子の計画に狂いが生じたということになる。
(第三王子の計画では、この場に並んで椅子に座っているのは五人だったってこと……?)
明らかに何かに操られている様子だったミュリエルが、リリィを認識していたとも思えない。彼女は恐らく、右から三番目に座っている人物を襲うように命令されていた。
第一王子、第一王子妃、第三王子、第四王子、サミュエルの順に並んだ場合、右から三番目に座っていたのは……
――第三王子のはずだ。
(でも、自分を襲わせる訳はないわよねぇ……)
いや決めつけるのはよくないと、リリィは思い直す。
非力な貴族令嬢が簪で襲いかかったとして、果たして護衛騎士が守る王族の体に傷をつけることなどできるだろうか。実際、カラムはあっさりとミュリエルの動きを封じていた。つまり、襲われたのが第三王子であったとしても、緑の儀礼服の護衛が彼女を簡単に取り押さえたに違いない……
(単純に、彼女に襲われたという事実が必要だったということになるのかしら?)
ミュリエルは第二王子妃になりたがっていた。そんな彼女が第三王子を襲った場合どうなるか……
んん? と、リリィは思わず眉を潜める。
(あれ? そもそも、王族襲うって大罪なんじゃ……)
今回ミュリエルが襲ったのは、王族ではなく没落した伯爵家の娘だ。第二王子妃になりたかったミュリエルが、それが叶わないことに絶望して発作的にリリィを襲ってしまった。考えられる動機はせいぜいその程度……
しかし――ミュリエルが襲ったのが『王族』だった場合、話が全く違ってくる。
ぞわりと冷たいものがリリィの背中を一気に駆け下りた。リリィは思わず膝の上に揃えた手を強く握り締める。じわりじわりと悪意がにじり寄ってきているようで、なんだか薄気味悪い。
ふと誰かに呼ばれたような気がして、ダンスホールを見下ろす。
思わず腰を浮かしそうになったリリィの肩を、後ろから伸びてきたカラムの手が押さえた。慌てて姿勢を正し、ぼんやりと焦点の合わない目でシャンデリアを見つめる。
声が出なくて本当に良かった。
そうでなければ、きっと無意識の内に名前を叫んでいた。