120 今夜はお城の舞踏会 その3
頭の中で複数の言語が混ざり合って訳がわからないことになっている。
脳が疲れ切っている。目が滑る……思考力が低下している。
どれくらいの時間が経過したのか全くわからない 目の奥がチカチカしてきて、思わずリリィは机の上に両肘をついて固く目を閉じた。こめかみをぐりぐり押しながら、このまま前のめりに倒れ込んで目の前の書類の上に額をぶつけたい衝動に必死に抗う。……本当に帰りたい。
今日まで悠々自適な引きこもり生活を続けていたのだ。正直に言って、体力も気力も人並以下。もう限界。誰が何と言おうと無理。
「……ちょっと……がんばりすぎましたねぇ……」
リリィの背後に立っていたカラムが少し脇にずれて、机の上のペンを手に取るのがわかった。リリィが投げ出した翻訳作業の続きを引き継いでくれるようだ。
「リリィさま、一度休憩いたしましょう」
よく知った声が頭の上から降ってきた。リリィはのろのろと顔を上げる。
……なにゆえソフィーも半笑いなのだろう。そこが非常に気になる。
「そろそろ舞踏会が始まりますので、休憩がてら髪を整えましょう。アクセサリーの用意もできております」
リリィは力なく両手を机の上に下ろすと、情けない顔をしてソフィーの目をまっすぐに見つめた。その声は力なく掠れていた。
「……帰りたい」
その言葉しか思い浮かばない。これは自国語……だったはずだ。違うだろうか。
「……まぁ……そうでしょうね……」
ソフィーは唇の両端を上げたまま、少しだけリリィから目を逸らした。
「もうちょっとだけがんばってくださいね。大丈夫ですよ、この後はにこにこ笑って置物になっているだけのお仕事なので、目を開けたまま寝ていても問題ありません」
リリィの頭の後ろから労わりに満ちたカラムの声がした。彼は机の前から回り込んでソフィーの横に立ち、「お嬢さまは、がんばれる子ですよね?」と優しい目をして続けた。帰してくれるつもりは一切なさそうだった。
……でも、もう十分、妹と従兄がかけた迷惑分は働いたと思うのだ。だからそろそろ帰りたい。目を開けたまま寝るという特技も持っていないことだし。
「むり」
リリィは空っぽの瞳をカラムに向けて、短く答えた。今日ここにきて、ヒューゴが壊れた理由がよくわかった。
「お嬢さま、もう少しだけがんばると、暗くて狭い場所で誰にも邪魔されずにひたすら読書三昧というご褒美が待っていますよ。お城の図書館の地下には、積み上がった本で作られた巨大な迷路があるんですよ。行ってみたいですよね?」
カラムはにーっこりと笑って身を屈めると、そっとリリィに耳打ちした。ぴくっとリリィの肩が上下する。
「……そこに、アレンお兄さま、いない?」
リリィは声を潜めて二人に尋ねた。どれ程読書に最適な静かな場所であったとしても、アレンが登場した時点で平穏は失われてしまう。ここだけはしっかり確認しておかねばなるまい。
「はい」
「勿論」
カラムとソフィーは揃ってよく似た笑顔で大きく頷いた。
――なんと素晴らしい!
一瞬にしてリリィの心は歓喜の渦に包まれた。唇の両端がゆっくりと上がってゆく。まるで恋に落ちたかのように胸が高鳴った。
つまり、頭空っぽにして笑顔で立っているだけという簡単なお仕事をすれば……大変素敵なご褒美が手に入るということなのだ。その頃アレンは海を流れているかもしれないが、兄が一緒に流れるならルークがまとめて回収するだろうから問題ない。読書の邪魔をされたくないので、当分そのまましばらく船の上にでもいてくれると助かる……
「うん……なら……がんばれる」
リリィは熱が集まってきた頬に両手をあてた。胸がどきどきしていた。
「頭が働かない状態の方が、余計なこと何も考えずに済むから楽ですよ?」
「そうですそうです。何を言われても全部、雑音として右耳から左耳に通り抜けてゆくような状態になっているのが、一番望ましいんですよね」
ソフィーとカラムは笑顔のままなのに、何故か背中がぞわぞわした。……しかし、脳が疲れているためその理由を考える気にもなれない。
ご褒美のためにがんばろう。リリィの中にあるのはその一念のみになっていた。
アレンと離れて好きなだけ本が読める。ゆっくり本が読める、誰にも邪魔されずに本が読める。そのためなら、何でもできる!
リリィの目がキラキラ……というよりぎらぎら輝き始めたのを見て、カラムとソフィーは非常に満足そうだった。
周囲を走り回っている事務官たちから、生贄に差し出される羊を哀れむような目を向けられていることに、生贄本人だけが気付いていなかった。
「殿下の詰め物終わりました。ビーアトリスさま、そろそろお着替えをお願いいたします」
ポリィが勢いよく部屋に駆けこんでくる。ビーアトリス妃は苛立ちを抑えきれない様子で、「あーもう!」と天井を仰いで、持っていた書類の束で机を軽く叩いた。
「私にも、身代わりで舞踏会に参加してくれる『影』が欲しいと本当に思うわ……」
大きなため息をついたビーアトリス妃は、リリィをチラリと一瞥してそう言った。右耳から入って来た言葉は脳内で意味もなく三か国語に変換され、左耳へと抜けていった。
そういえば……五か国語で行われた夕食会の後もこんな感じだったなとそう思った時、リリィの心に何かが引っかかった。
指先に小さな棘が刺さったかのような、痛みと認識されない程の微かな違和感だった。
今一瞬、何か……思い出しかけた。
そんな気がしたのに、その予感めいた何かは、一瞬にして手の届かない記憶の奥底に沈んでしまった。
カラムとソフィーに連れられて、どこかよくわからない場所を移動する。何の説明も与えられないまま歩かされているのに、リリィの心は比較的落ち着いていた。
『もうすぐ好きなだけ本が読める! もうすぐ好きなだけ本が読める! もうすぐ好きなだけ本が読める!』
頭の中で同じ言葉が休むことなく繰り返されている。時折意味なく異国の言葉に変わったりもする。だいぶ自分が壊れてきているなと思う。
……でも、その言葉を口の中で唱えるだけでリリィの足は前へと進むのだ。すべての不安が拭い去られる訳ではないけれど、幽霊に遭遇してしまったキースのように、立ち竦んで動けないという状態には陥っていない。
ソフィーとカラムは大きく開け放たれたドアの前で足を止めた。
部屋の中心に大きな姿見が置かれているのが、ドアの外からでも確認できた。リリィが室内に足を踏み入れた途端にソフィーと同じメイド服を着た女性たちが一斉にお辞儀をする。衣擦れの音が右耳から左耳へと抜けていった。
壁際に、カラムと同じ灰色の儀礼服を着た女性騎士が数人並んで立っていた。ユラルバルト伯爵家の舞踏会に参加するためにダンスの猛特訓を受けた時、練習に付き合ってくれた女性たちだ。「……あ」と思わずリリィが声をあげると、彼女たちはほんの少し表情を緩ませで目礼を返してくれた。その途端に、すとんと肩から力が抜けた。
――ここは、リリィにとって全く知らない場所ではない。誘拐されて連れて来られた時のことは二度と思い出したくもない……という訳でもない。
ここで出会った人たちすべてがリリィに親切だった。用意されていた食事は大変美味しかったし、最高級寝具の寝心地は最高だった! 改めて考えると、悪い印象がない。
だから……大丈夫。たぶん。
色々考えるのがもう面倒くさい。着せ替え人形にでもなった気分で頭を空っぽにする。これが終わったら静かな場所で本が読める。もうそれでいい。
「では、こちらへ」
姿見の正面に置かれた椅子にリリィは腰を下ろす。テーブルの上に置かれたトレイには、これからリリィが身に着けることになるらしき装飾品が並べられていた。髪飾りに腕輪、そして首飾り。
メイドたちに髪を直されている間、リリィはぼーっとダイヤモンドに囲まれた緑の宝石を眺めていた。……何だろう、頭が考えることを断固として拒否している。
ソフィーの手がキラキラとオイルランプの光を受けて輝く豪華な首飾りを恭しく持ち上げる。リリィはその様子をぼんやりと眺めていた。
そういえば、ランプに照らされて抱き合うアレンとエミリーは一枚の絵のように美しかった。今思い返しても感動の再会の舞台演出は完璧だった。あの時の二人はあの宝石のようにキラキラ……キラキラ……と、輝いていた。
そんな、別に今考えなくてもいいような事が頭をよぎる。肩にずっしりとした重さがかかっても、全く現実味が感じられない。
そろそろ母と兄は王宮に到着しただろうか。オーガスタも一緒なのだろうか。……何だろう、胃が痛くなってきたような……
「いかがですか?」
メイドたちによって姿見の角度が変えられる。そこに映し出された自分の姿を見たリリィは覚悟を決めた。背中に嫌な汗をかき始めていた。そろそろ現実と向き合わないと危険な気がする。
リリィは鏡を見ながら、首元のエメラルドの上にそっと指先を翳した。うっかり触れてしまわないよう細心の注意を払いながら。
「えーっと……ソフィーさん、これって……」
「大変よくお似合いです。リリィさまの瞳の色にぴったりですね!」
ソフィーは上機嫌だった。非常に楽しそうだった。もう嫌な予感しかしなかった。
「さぁ、お披露目と参りましょう!」
そういえば今夜ルークは王宮にいない。ついでにヒューゴもいない。そして多分……アーサーもここにはいない。
――これは果たして偶然なのだろうか。
頭を空っぽにしてにこにこ笑っていたらとんでもない事になるのだと、この日リリィは身をもって知った。
今回も大遅刻です。すみません。