118 今夜はお城の舞踏会 その1
お待たせして申し訳ございません。新章始まります……
ガルトダット伯爵家の時代遅れの馬車に遭遇すると、呪われて白髪が増えるらしい。
見た者の老化を促進させるとかいう迷惑な馬車は、キリアルト家が経営するホテル目指して大通りを進んでいた。王宮に向かうには早すぎる時間のため、まだ渋滞は発生していない。
リリィと同じ馬車に乗っているのはトマスとキースだけだった。エミリーとジェシカは、幼馴染だと言う青年が用意した別の馬車に乗って、後ろをついてきているはずだ。
ジーンと名乗った青年は、朗らかで礼儀正しい人だった。東洋の国々からの輸入品を扱っている大きな貿易商の跡取り息子らしい。……それはつまり、キリアルト家の商売敵ということだ。
自分の容姿に自信がある人。話していると疲れる人。ジェシカとエラはそんな風に言っていたが、さすがに初対面で自分の容姿を自慢してくるようなことはなかった。リリィはジーンに対して、誰もがイメージとして持つ『普通』を体現しているような人だと感じた。例えるなら、小説に登場する『善良な脇役』のような。……でも実際はどうなのだろう?
エミリーは「ジーンの用意した馬車になんか乗りたくない」とつーんとそっぽを向いていたのだが、ジェシカに説き伏せられ、いかにも不承不承といった様子で幼馴染と一緒の馬車に乗ることを了承していた。我が儘で自分勝手なお嬢さまだった頃のエミリーはあんな感じだったのかと、興味深く眺めてしまったことは内緒だ。
(後ろの馬車もこんな感じで静まり返っているのかしらね……)
向かい側に並んで座っているトマスとキースは暗い表情で物思いに沈んでいる。最悪の状況を色々想像することによって、心の準備を整えているようだ。
……おかしいな。とリリィは思う。
王子様が用意してくれたドレスを着てお城の舞踏会に行こうとしているのに、幼い頃夢にまで見た状況が現実になろうとしているのに……ちっとも心が浮き立たない。
むしろ、これじゃないんだよなぁという物悲しさが胸に渦巻いている。ユラルバルト伯爵家の舞踏会に参加した時に、思ったより規模が小さくてがっかりした時と同じだ。
……面倒くさいな。とか思っている時点でもうダメな気がする。
「うん、今回のこれは予行練習。本番は来年に取っておこう……」
リリィは自らにそう言い聞かせた。ちらっと目を上げたキースとトマスが「それがいい」とばかりに数回頷いた。そして、全員が同時に深いため息をつく。
――面倒だな。行きたくないな。何とかしてサボれないかな。
全員の気持ちは完全に一致していた。
エミリーとジェシカと一緒の馬車だったら、また違ったかもしれない。きっと女の子同士のお喋りで盛り上がって、初めてのお城の舞踏会を楽しもう! というような空気になっていたのではないだろうか。リリアやエラやクインも一緒だったら、絶対に楽しかったのになぜこうなった。
トマスとキースの顔色がどんどん悪くなってきている。起こってもいない未来を悲観しても仕方がないと思うのだが……
「……どうせ、想像よりも最悪な事態に見舞われるに決まってるわよ」
心の中におさめておくつもりだったのに、ついつい声に出してしまった。
「…………」
「…………」
向かい側の座席に並んで座る二人が無言のまま恨めしそうな顔をリリィに向けた。馬車の中の空気がますます暗く淀んでゆく。舞踏会ではなく、夜の墓地にでも向かっているかのような気分だ。
「あーあ、エミリーさんたちと一緒が良かったなぁ」
思わずぼやいて天井を仰ぐ。陰気臭くてカビが生えそうだ。
そのまま目を閉じていると、馬車が大きく揺れて停止した。
「え? もう着いた?」
「それにしては停まり方が雑」
トマスが緊張した面持ちで締め切られたカーテンに手を伸ばす。一体外で何が起こったのだろうかと馬車の中で身構えていると、軽いノックの音がして、よく知っている声が聞こえてきた。
「リリィさまお迎えに上がりました。オーガスタさまの了承は得ております。こちらの馬車に乗り換えていただいて、直接王宮に向かいます」
オーガスタ、という名前を聞いた途端に、トマスの顔から完全に血の気が引いた。
オーガスタの名前は唱えるだけで、一部の人間を不安に陥らせるという謎の効果を発揮するのだ。
ドアがゆっくりと開く。外に立っていたのは暗緑色の目をした護衛騎士だった。彼はユラルバルト伯爵家の舞踏会の時と同じ灰色の儀礼服を身に纏っている。
――なにゆえカラムは半笑いなのだろう。そこが非常に気になる。
「……僕、聞いてないんだけどなぁ」
もう嫌な予感しかしないらしいトマスが、そう言って顔を両手で覆って、人生に絶望した老人のように嘆きはじめた。
その横でキースがカラムに向かって小さく頭を下げる。声でバレるから絶対に喋るなという言いつけを頑なに守り続けているのだ。……実は単純にもう喋る気力も残っていないのかもしれない。
「うん。神話に登場する潔癖な少年神といった雰囲気でよく似合っているよ。そうやって不機嫌そうにして常に周囲を睨みつけてやるといい。そういう表情がよく似合う衣装だ。普段はできないんだから、思いっきりやってごらん? 鬱積したものを発散できるいい機会だと思えば気が楽だろう?」
楽しそうに笑いながらカラムがキースに向かってそう提案した。
「けしかけないでー」
力なくトマスが顔を覆ったまま呻いたが、キースはパチパチと目を瞬いた後、ぱあっと顔を輝かせた。カラムは満足そうに頷いた後、トマスに向き直る。
「トマスさま、海水温高い時期なんで、風邪はひかないと思いますよ?」
「お城の舞踏会行くのに、どうして水温の話になるのかなぁ……」
頭を抱えた兄が、もう何も考えたくないとでも言いたげに首を横に振りはじめた。
リリィは口元にほろ苦い笑みを浮かべる。
ここで海水温という言葉が出てくるということは、やはり――
「お兄さま、せっかく髪整えたんだから、それ、やめた方がいいわよ。……やがて海に投棄されるのだとしても」
トマスがのろのろと顔を上げて、悲し気な目をリリィに向けた。
「当たり前に受け入れないでくれる? 今夜はお城の舞踏会なんだけど? お城あるの陸なんだけど? 海ってここから結構遠いんだけど」
「運河流れていけば、いずれ海に辿り着くでしょう? 私と違ってお兄さま泳げるんだから大丈夫よ」
かわいそうなので、一応激励しておいた。しかし逆効果だったらしくトマスの目から完全に光が失われた。
「大丈夫ですよ。一人で流れる訳ではないですし」
カラムが軽い口調で思わせぶりな事を言った。どうやら複数人で運河を流れるようだ。アレンも多分泳げるだろうから大丈夫だろう。リリィにできることなど何もない。……一緒に流れるのは絶対に嫌だ。
「では、リリィさま参りましょう。主に変わってお迎えに上がりました。……あの人サボったんで」
カラムが最後に一言さらりと付け加えた。その言葉はリリィの右耳から左耳へと抜けて行った。脳が理解するのを拒否したのだ。トマスとキースも目を真ん丸にしてカラムを見つめている。驚きすぎて全員声も出ない。
「急な腹痛らしいですよ? 伝染病の疑いも捨てきれないから隔離とか何とか適当な理由つけてましたけどね。……王子様に見初められようと必死に飾り立てたお姫様とその親たちがどんな顔するか今から楽しみですねぇ」
カラムは晴れやかな笑顔でそう言った後、笑いを堪えられなくなったらしく、口元に手をあてて横を向く。
「丁度いい機会なんで、大切なお姫さまから目を離すとどういうことになるか。あの方にも一度身をもって経験していただきたいなと思いまして。……こちらも今から楽しみで仕方がない」
くくくっと不気味に笑いはじめたカラムから、馬車の中の三人は身をのけ反らせるようにして距離を取った。
「さぁ、リリィさま一緒にお城へ参りましょう!」
カラムは上機嫌だった。非常に楽しそうだった。最早不穏な未来しか予想できなかった。
「……えー……何かすごく行きたくない……」
思わずリリィは素で呟いた。
「僕も行きたくない……」
トマスは背もたれと馬車の壁の隙間に体を嵌め込むようにして膝を抱えて小さくなっている。いい年した大人のやることではなかった。
キースは自分は無関係とばかりに同情的な目で二人を眺めていた。……平民でよかったとか思っているに違いなかった。
「……うん、でもきっと海に投棄される人たちよりはマシよね」
リリィは膝の上で両手を強く握って自らに言い聞かせると、キースに倣って憐みの目を兄に向けた。
それにより、この場で一番不幸なのは、当主のトマスということになった。