幕間 数字の話(*)
流血するシーンがあります。あと全体的に重くて暗いです(特に後半)。
幕間は、読んでいなくても本編に影響はあまりない……と思うので、暗い話が苦手な方はそっとお戻りください。
泥で汚れた服を着替えている間は部屋から出ていてくれとセーロは懇願したのだが、着替え終わる前にエラは夜食を持って戻って来た。
全く気にせず室内に入って来ようとするエラを、マーゴが必死に説き伏せ、部屋の外で一緒に待機していた……というか、見張っていた。
まさに弱った家畜扱いだ。「そんなことはない」「自分を卑下しすぎだ」とフィンとマーゴは言ってくれたが……着替え途中でも平気で入ってこようとするのだから、人間と認識されてはいない。
セーロが横たわっているベッドの横には、椅子が三脚並べて置かれていた。真ん中の椅子に笑顔で座っているエラが持っているスープボウルの中身は……濃い緑色だった。
両脇に座っているフィンとマーゴが、身を乗り出すようにしてスープを凝視している。
「……あ、緑色はクレソンですので」
水差しと薬を持って来たダニエルが、固まっているセーロとフィンとマーゴに向かってそう言った。
「とっても体にはいいはずですよー。美味しく召し上がって下さいねー」
スプーンでくるくるとスープをかき混ぜながら、エラがにーっこり笑う。一瞬にしてセーロの顔から表情が失われた。
「キリアルトさんが色々足して、だいぶ薄めたから大丈夫だと思う。最初は怨念を感じさせる禍々しい色だった……」
ダニエルがスープに関する補足説明を加えた。つまり、多少怨念は薄まっているという理解でいいのだろうか。……ただでさえ、傷口に染みそうだから食べたくないのに、ますます食欲が失せる。食べたらそれこそ呪われそう……
しかし、食べるまで開放してもらえない。ならばせめて、気持ちの準備もあるので、自分のペースで口に運びたい。
「痛み止めが切れる前に食べてしまいましょうね! はーい、お口開けて下さーい」
渋々セーロは小さく口を開いた。以前、抵抗していつまでも口を開けないでいたら、しびれを切らしたエラに鼻を摘ままれたのだ。息が苦しくなって口を開けるのを、笑顔で待ち構えられた。……彼女は弱り切った家畜に対して全くもって容赦なかった
口の中に流し込まれたスープはしっかり冷ましてあった。思ったほど染みなかったが、どうしても口の中に食べ物を入れるのが怖いのだ。体を動かしていないから、お腹も空いていない。
でもエラは食べろと強要する。食べないと……泣く。だから心を無にして再び口を開ける。味なんてほとんどわからないが、食べられない程青臭いということはなかった。
「私は大丈夫でしたけど、食べられそうですか? 無理そうなら別のものを用意しますけど」
……結局、『食べない』という選択肢は存在しないのだ。
「見た目ほどでは…………ない」
確かに体には良さそうなので、もうこれでいい。……もう何でもいい。何でもいいから早くエラから解放されたい。そして、できることなら、一番常識人だった医者のところに帰りたい。
エラは寝食を削ってまでセーロの看病をし続ける。そこまでされるような価値など自分にはありはしない。
心配されているということはわかる。しっかり栄養を取って早く治しましょうという言い分も理解できる。そして、怒らせるようなことをした自覚はある。
――この緑のスープのように、怨念の籠った嫌がらせの方がまだマシだ。
自己犠牲という言葉にしてしまえば美しいけれど、強い信念があった訳でもない。罪悪感を抱えたくなかっただけだと自分でわかっている。
スプーンを持つエラの手には火傷のあとがある。それを目にする度、セーロは大声で泣き叫んで許しを請いたくなるのだ。
「無理して食べなくてもいいんだよ」
何とかすべてのスープをお腹に収め、ぐったりとベッドに倒れ込んだセーロに上掛けをかけながら、マーゴが呆れ果てたような声でそう言った。エラは先程、食べ終わった食器を片付けるために部屋から出て行った。
「食べないと……不安そうな顔、するんだよ」
その言葉を聞いたフィンとマーゴは顔を見合わせて、深いため息をついた。
「本当に、バカだねぇ」
「本当にバカだ」
恨まれても仕方がない事をしてきたのに、どういう説明を受けているのか、フィンとマーゴはセーロに親切だった。
二人の大切な青い瞳のお姫様も、顔の形が変わっていたせいか、セーロがユラルバルトの屋敷にいた下男だと気付いていない様子だった。……そのことに心の底から安堵している自分は、本当にどうしようもなく狡い人間だ。
「俺は、薬に逃げようとしてただけなんだよ……」
天井に向かってぽつりと呟く。乾いた笑いが口元に浮かぶ。その途端にパンっと手のひらで額を叩かれ、予期せぬ衝撃に目の前に星が散った。
「二度とそんな事を言うんじゃないよ! エラが聞いたらどんな気持ちになるか、少しは考えてごらん」
マーゴに叱り飛ばされて、一瞬にして頭が冷えた。
「逃げたのは私たちも同じだよ。老人だからどうすることもできなかった。一日たりとも忘れたことはなかった。自分達にできる限りのことはした。……これも全部言い訳だ」
フィンが悲し気に目を伏せる。
「ちがっ。言い訳なんかじゃ……」
思わず叫んで、身を起こそうとすると、二人に止められた。苦し気な表情の二人から目を背け、そのままベッドに倒れ込む。セーロは両手で顔を覆った。
自分の手を見て泣きそうになっているエラの姿を何度も見ているくせに、楽になりたくて重い荷物を下ろそうとした。そんな浅ましさが恥ずかしくて仕方がない。結局今も昔も、他人の顔色を窺って意見を変えるような卑怯者だ。
――寝て起きたら全部終わっている。
その言葉をどうしても素直に喜べないのだ。すべてが終わった後に自分の罪と向き合う覚悟が持てないから。
力のない者には誰も救えない。祈るだけでは状況は改善されない。
容赦なく他人を踏みつけ奪い取るだけ奪い取る人間たちを前にして、自分達はあまりに無力だった。……これも全部言い訳にすぎない。
何が正しくて、どうすればいいのか全く見当もつかなかった。自分が正しかったとは思わない。
でも……きっと過去に戻れたとしても同じことしかできないのだろう。
『なぁセーロ、大人たちが隠れてこそこそと何をやっていると思う?』
今でもはっきりと思い出すことが出来る。
月のない夜に焚火が赤々と燃えていた。少し調子はずれのヴァイオリンが奏でる陽気な旋律と、花冠を被って輪になって踊る人々。緑の瞳をした美しい女性が、子供たちにお菓子を配って歩いている。年に一度のお祭りで振る舞われるビールを求めて、教会には大勢の人々が集まっていた。酔っ払いたちの笑い声が響き渡る。
『祈るだけで、本当に何もかも許されるのか?』
その声が頭の中でぐるぐる回って、意識は闇におちてゆく。
――集められた孤児は十人だった。
ゼロから九までの数字で好きなものを選べと言われ、自己主張が強い者から数字を取ってゆき、『6』と『0』が残った。
どちらでも良かったから黙っていた。……違う。後で「本当はそっちがよかった」と文句を言われるのが嫌だっただけだ。
その日から、子供達は選んだ数字で呼ばれるようになった。異国の言葉だから正確な発音などわからない。だから、全員が呼びやすいように呼んでいた。
「お前の、話し方、気に入らねぇ」
褐色の肌の少年に睨みつけられると、気弱な性格のセーロは相手の顔をまともに見ることさえできない。青ざめて震えていることしかできないセーロの代わりに言い返したのはセイだった。
「喋り方って、育ちが出るからな。ノーヴェには、真似したくても真似できないだろうね!」
頭に血が上ったノーヴェがセイに掴みかかり、取っ組み合いの喧嘩になった。セーロはおろおろしていることしかできなかったが、喧嘩に気付いたノーヴェの兄のオットがすぐさま駆け寄ってきて、二人を引き離すと弟の耳を掴んで思いきり引っ張った。
「い、いだだだっ………何で俺だけっ」
「原因は、おまえにあるに、決まっている」
オットは突き飛ばすようにして弟を遠くに押しやると、地面に座り込んでいるセイに手を貸して立ち上がらせる。「ざけんな、くそ兄貴!」と捨て台詞を残して、ノーヴェは少し離れた場所で様子を窺っている他の子供たちの方に向かって駆けていった。
「悪かった。怪我は、ないか?」
「このくらい平気。オットのせいじゃない。だから、謝ってくれなくていい」
肘に大きな擦り傷を作っているのにセイは朗らかに笑う。オットは言いたいことがうまく言葉にできないのか、歯がゆそうに顔をゆがめていた。
オットとノーヴェの兄弟は奴隷船でこの国に連れて来られ、奴隷商の隙をついて逃げ出し彷徨い歩いていたところを、教会の人間に保護された。だから、最初はこの国の言葉も大陸共通語もほとんど話せなかったのだ。オットの話し方がゆっくりで丁寧なのは、教えられたお手本通りに喋っているためだ。
一方のノーヴェは仲間内の喋り言葉をどんどん耳から覚えていったせいで、かなり口が悪かった。
「本当に、大丈夫だから」
セイはオットの腕を掴んでくるっと回すと、弟が走り去った方に向かって、軽く背中を押した。
「オット、こっちで的当てしようぜ」
手作りの弓を持った手を大きく振っているのはウノだ。娼館生まれだという少年は、母親に似たのか整った顔立ちをしている。その傍らにしゃがみ込んで、矢の数を数えているシンクはきつい性格の少女だ。子供たちは全員彼女の命令に逆らえない。
「僕たちのことはいいから行きなよ。怪我の手当てしてもらってくる。セーロ行こう」
セイがそう言って、セーロの手首を掴むとさっさと歩き出した。こうやってオットがセイや自分に構うから、ノーヴェは面白くないのだ。
「オット、そんなの放っときなよ!」
背後から、シンクの明るい声が聞こえてくる。「そんなの、ね」皮肉気にセイが呟く。外見年齢はそれほど変わらないと思うのに、彼は時々妙に大人びて見えることがあった。
セーロは自分の本当の名前も年齢も覚えていない。炎の中で泣いていたのが最初の記憶だ。ただ、子供達の中で、セーロとセイだけが文字を読むことができたのだ。そのため、二人は異質なものとされ、他の子供達の遊びの輪にあまり誘われなかった。
「ノーヴェに気に入られるためにって訳じゃないんだけど、セーロは喋り方とか動作とか、あいつら真似て少しずつ変えていった方がいいかもしれない。上流階級ではなさそうだけど……中の上って辺りか」
まっすぐに向けられたセイの視線の強さにたじろいで、思わず足を止めた時だった。背後からシンクの甲高い悲鳴が響き渡ったのは……
足を止めて振り返る。セーロにはそこで一体何が起きたのか、全く理解できなかった。
ウノが両手で顔を押さえて地面に蹲っていた、少し離れた所で、オットが一人の少年を背中から抱え込んで、ずるずると引きずりながらウノから遠ざけていた。喚きながら暴れているシンクをノーヴェが抱きかかえるようにして宥めている。悲鳴に気付いた大人たちが、立ち尽くすセーロとセイの横を駆け抜けていった。
「ドゥエの奴、あれでウノの顔に傷をつけたのか……バカだな」
緊迫する空気に似つかわしくない、妙に冷めた口調でセイがそう言った。オットに拘束されているドゥエは、牧草をかき集めるためのフォークを天に突き出すようにしながら笑っていた。
「なぁ、カミサマってのは、何でも許してくれるんだろぉ? 祈れば何でもかんでも許してくれるって、言ったよなぁ!」
一気に血の気が引いた。足に力が入らなくなりセーロはその場に座り込む。もしセイの予想が正しいのなら、あのフォークの先はウノの血で汚れているということになる。
「……ああそうだよ。君のことは、きっと神様が幸せにしてくれるよ、ドゥエ」
いきなり背中に氷を押し当てられたような気分だった。恐る恐る傍らの少年を見上げると、彼は蔑むような笑みを浮かべてドゥエを見つめていた。
――闇を閉じ込めたような黒い瞳で。
事件の翌日には『2』の姿は教会から消えていた。まるで最初からいなかったかのように、大人たちは二度とその名を口にすることはなかった。
大きくバツを描くように『1』の顔はフォークで引っ掻かれていた。視力が失われなかったことが不幸中の幸いだったが、傷口が膿んで完治までに時間を要したために跡が残った。自分の容姿に絶対の自信を持っていた『1』は塞ぎがちになり、『5』と共に信仰にのめり込んでいった……
数字は教会の場所が移動する度に欠けてゆく。
仲が良かった『6』は、親戚だと名乗る者が現れ、彼等に引き取られていった。
誰かがいなくなると、大人たちは『2』の時と同様に、そんな『数字』などはじめからなかったかのように振る舞う。……最初は不気味に思っていたのに、繰り返される内に何も感じなくなった。
成人した『8』がナトンという新しい名前を神様から授けられた時、教会に残っていたのは、『0』と『1』と『5』。そして、ナトンの弟の『9』だった。
このまま……残っている数字たちとナトンと一緒に、信仰と共に生きてゆくものだと思っていた。
成人と同時に新しい名前を神様から授かり、大人たちがやってきたのと同じように孤児たちを引き取って、大陸各地を巡る巡礼の旅を続けるのだと。
――長い長い夜が、すぐ背後に迫っていた。