幕間 クレソンの話
「私の一生をかけて、君の心を傷付けたことを償う。絶対に、絶対に君を幸せにする」
その言葉でクインは現実に引き戻された。ゆっくり顔を上げて無言のままヒューゴと見つめ合う。
冗談でこういうことを言う人ではない。ヒューゴは本気だ。だからこそ……どういう反応を返せばいいのかわからない。
確かにクインの心は深く傷付いたけれど、それでヒューゴを一生自分に縛り付けてしまうのは違うと思うのだ。しかし、ここで否定したり拒絶したりすれば、彼はきっと深く落ち込むのだろう。真面目で繊細で、心の綺麗な人だから。
「えっと、今でも、幸せです。……でも……はい……よろしく、おねがいします」
クインは空気を読んで頷いた。ヒューゴが緊張を解いてほっとしたように笑う。
「うん。君が幸せを実感できるように、出来る限りの事はする」
そこまで責任を感じる必要はないと伝えるべきなのだろうが、上手く伝えるにはどうしたらいいのだろう。クインには難しすぎてわからない。否定することができないなら、肯定的な言葉で何とかするしかない。
「えっと……えと……ボクは、ヒューゴさまが、大好きなので、こうして、一緒にいてくれるだけで……えっと……その……しあわせ、ですよ?」
ヒューゴの表情を確認しながら、クインは頭の中で一生懸命言葉を探して、無理矢理つなぎ合わせ……最後まで言い終えてから気付いた。
――考えながら話したせいで、何を言ったのか覚えていない。
何だかとんでもなく恥ずかしい事を言ってしまったような気もする……
「わかった。クインがそう望んでくれるのなら、明日からもずっとずっとこうして一緒にいる。どこにも行かない」
ヒューゴがそれはもう嬉しそうに笑う。ドキンとクインの胸が高鳴った。……が、何かおかしい。確認及び訂正しなければと思うのだが、自分が今何を言ってしまったのかもはっきり思い出せないクインは、頭が真っ白になってしまった。オロオロしていると、力ないノックの音がした。
「お取込み中失礼いたします。……ヒューゴさま、伯爵家の平和のために明日からお仕事行って下さい」
食器が乗ったお盆を持って部屋の入口に立っていたダニエルは、かたく目を閉じて、何かから必死に顔を背けていた。
「はなしてっ。今まで言われ続けてきた事を、ここで一度全部言い返さないと気が済みません。私たちには、異民族にひっつ……く……むが……ぁて……くせ……ぃ」
廊下の奥でリリアが怒りに任せて大声をあげている。その声はどんどん遠ざかってゆき、不自然に途切れた。
「夜食をお持ちしました。夕食の量が少なかったので、召し上がって下さい。だ、そうです。……どうぞ」
ダニエルはクインとヒューゴに向き直ると、平坦な声でそう告げて部屋に入ってくる。その後ろに続いていたエラは、廊下の右手側を気にしてちらちらと視線を向けていた。
ダニエルとエラの手によってテーブルの上に並べられた二人分の夜食は――緑色だった。
くるくると巻かれた薄いパンケーキも、ちいさなスープボウルに入ったポタージュスープも、とてもきれいなみどりいろ……そして、クレソンの香りがした。
「スープの方はクレソンの風味が強すぎたので、優秀な執事さんが手を加えていました。最初はもっと濃い緑でした。セーロが見た目ほどじゃないとか言ってたんで、多分大丈夫です」
「とーっても体にはいいはずですよー。美味しく召し上がって下さいねー」
エラがにーっこり笑った。一瞬にしてヒューゴの顔から表情が失われた。
ダニエルがぼそっと「……見事に反応が同じだな」と呟いていた。
セーロというのは、片頬が腫れあがった大柄の男性の名前だったはずだ。確か、歯を八本抜かれたと言っていた……
彼は多分あの恐ろしい屋敷にいた人だ。力仕事が必要になると老婆に連れて来られるのだが、彼は『グレイス』の方を見ようとせず、一言も声を発しなかった。だから、声を持たない人だと勝手に思い込んでいたのだ。そのせいで、同一人物だと気付くのに時間がかかった……
クインはゆるく頭を振って、それ以上思い出さないように暗い記憶に重しをつけて深く沈み込ませる。そうしないと息ができなくなってしまう。次に思い出すのは十年後だ。それでいいとトマスが言ってくれたから。
「厨房に大量のクレソンが水に挿した状態で置いてありました。ペーストを作るそうなので、多分これ、しばらく続きます」
ダニエルが抑揚のない声で予告した。ヒューゴの顔が引きつった。
「クインさま、食べ終えたら、お着替えして一緒にお掃除のお手伝いに行きましょう!」
明るく弾むような声でそう言ったエラは、すっかり目が覚めた様子だ。クインはほっとして「はい」と頷いた。
食べ終わった頃に呼びに来ますと言って、ダニエルとエラが部屋から立ち去る。ヒューゴはテーブルの方を凝視したまま固まっていたが、やがてなにもかも諦めたようにため息をついて、ソファーから立ち上がると、クインのために椅子を引いてくれた。
「あたたかい内に食べようか」
そう言いつつも、テーブルの上の料理を憂鬱そうな顔で見つめているだけで、いつまで経ってもスプーンを手に取ろうともしない。
向かい合って座ったクインは、緊張しつつもパンケーキを小さく切って食べてみる。溶かしバターがかかっているため、それ程香りを感じない。……となると問題はスープだ。
とろみのあるスープをゆっくりとスプーンですくって口に運ぶ。ベースはジャガイモのポタージュだ。バターやミルクで味を調整してあるが、こちらはしっかりとクレソンが主張している。
夜食ということで量もそれ程多くなく、スープは五口程度だし、小さめのパンケーキも一枚だけだ。あたたかいものはあたたかい内に食べた方がいい。冷めると味は落ちてしまう。
クインはスプーンを置くと立ち上がり、椅子を持ってヒューゴの隣まで移動する。どうしたの? と目で問うヒューゴの前に置かれたスープ皿を手元に引き寄せると、スプーンでほんの少しすくい、零れないように片手を添えて口元に差し出した。
「……はい、どうぞ?」
手が震えてきてしまうので、できれば早く口を開けてほしい。
ヒューゴはとても驚いた顔をしていたが、スプーンが小さく震えているのに気付いて慌てて口を開けてくれた。そっとスプーンを傾け口の中に流し込むと、眉間に深い皺が寄る。……クレソンが苦手なら当然そうなるから、そこはもう気にしない。
先程よりも少し量を多めにすくって、再び口元に差し出す。素直に口を開けてくれたことにほっとして、スープを流し込む。実際やってみると、介助する側は、零さないように意識を集中するため、恥ずかしいと思う余裕がない。
「腕が疲れるだろう? ありがとう。後は自分で食べられるよ」
ヒューゴは柔らかく目を細めて、スプーンを持つクインの手を両手で包み込む。クインは少し残念な気持ちになりながらスプーンから手を離した。
「パンケーキの方は、きっと大丈夫、ですよ? そんなに香り、強くなかった、です」
椅子を元の位置に戻そうと立ち上がる。テーブルの上についた手の上に、ヒューゴの大きな手が重ねられた。
「近い位置がいい。ここにいて」
そう言って立ち上がり、ヒューゴはスープを自分の前に戻すと、手を伸ばしてクインの分のスープとパンケーキを移動させる。
「ちいさい手が一生懸命スプーンを動かしているのも、真剣な顔でこぼさないようにスプーンを見つめているのも、とても可愛かった。もっと見ていたいのだけれど、クインが疲れてしまうといけないから、冷めないうちに一緒に食べよう? ……それとも食べさせてほしい?」
かあっと頬に熱が集まる。それを誤魔化すようにクインは慌てて首を振った。
「だ……だいじょうぶ、です。……でも、あんまり上手に食べられない、です」
「基本はできていると思うよ。でも、それでも足りないと思うのならば、クインのお手本になっている人は、とても品格の高い美しい人だったんだね」
一瞬呼吸を忘れるくらい、その言葉に強く心を揺さぶられた。
ヒューゴの青い瞳を見つめて、クインは大きく頷く。母は、本当に上品で優しくて素敵な女性だったのだ。
もう声も顔も朧気だけれど、確かにクインの中に残っている。
そのことに今、気付かせてもらえたことがとても嬉しい。胸がいっぱいで言葉にならない。ぱあっと顔を輝かせたクインを見て、ヒューゴは幸せそうに微笑む。
「……ほら、バターが冷えて固まってしまう。食べよう?」
クインは小さく頷いてから、ナイフとフォークを手に取る。落ち着いてゆっくり丁寧に食べればきっと大丈夫。朝食の時、あれ程不安で緊張していたのが嘘のように、心に余裕が生まれていた。
「明日から、お勉強、します……」
だから今日はうまくできなくても許してほしい。そう続けようとして、やっぱりやめておく。
ヒューゴはきっと、「不安ならば食べさせてあげようか?」と嬉しそうに言って、クインの手からナイフとフォークをそっと抜き取ってしまうだろうから。