117 天使様とお姫様
肩に凭れてうとうとしていた。
隣に座って童話を読み聞かせてくれる声が心地良かった。時折頭を撫ぜてもらえると嬉しくて満ち足りた気持ちになる。
幸せな気分でまどろんでいたクインは、ぼそぼそと言い争うような声で目を覚ました。
「……全然、まったく似合っていないから元に戻せ」
「大きなお世話だ。俺は結構気に入ってる」
「別に染める必要なんかないだろう」
「髪が金のままだったら、俺がどこの誰だかすぐに相手にバレただろう。『そうかもしれない、でも違うかもしれない』という疑念を持たせることが重要なんだよ。その心の揺れがじわりじわりと不安を呼び込む。死んだはずの相手が目の前にいたら……それは幽霊だからな」
「幽霊が怖いなら、最初からこの屋敷に来なければいいんだ。……で、いつ戻るんだ髪色」
「俺の髪の色が何色だろうとおまえに関係ないだろうが!」
「似合ってない」
「この色もこの髪型も、女の子たちには評判がいいからいいんだよ! 髪の色や髪型は結構重要なんだよ。おまえには一生理解できないだろうがな!」
「髪が傷んで抜け毛の原因になるから、染めるのはよくないと祖父がいつも言っている。……髪はいつまでも当たり前にあると思ってはいけないらしいぞ」
「不吉なことを言うな!」
一方はのんびりとした調子だが、もう片方はかなり苛立っている。クインは目を擦りながら体を起こした。途端に声がぴたりと止む。
「……ああ、起こしちゃったか。ごめんね」
ぼんやりとした視界の中で、ニールが困ったような笑みを浮かべて立っていた。視線を巡らせて隣に座っているヒューゴの表情を確認すると、彼は何でもないよと穏やかに微笑んだ。
「喧嘩している訳ではないよ。私の髪の色が……」
「その喋り方も気持ち悪い」
ヒューゴに言葉の途中で遮られたニールは、面倒くさそうな表情になって乱暴に頭を掻いた。
「おまえしばらく黙っとけ。喧嘩売るなら買うが? 今すぐ顔に靴めり込ませてやろうか?」
クインは呆気に取られて、別人のようになってしまったニールを見上げた。
「……クイン、これがこの男の本性だ。この通りかなり口が悪い。でも、女性相手だと話し方が変わるんだ」
クインに向かってヒューゴはにっこりと感じよく微笑んだ。……イラっとしたらしく、ニールの口元が引きつる
「自分だけいい人ぶるのやめろ。おまえだってトマスだって相当ぶっ壊れてるだろうが!」
「喧嘩っ早くて問題ばかり起こす。ついでに逃げ足も速い。紐をつけておかないとすぐにどこかに消える」
ニールの本性を引きずり出すことに成功したヒューゴは非常に嬉しそうだった。親しくないとニールは言っていたが、二人は言いたいことを言い合える仲のように見える。
「ヒューゴさまは、ニールお兄さまと親しいのですか?」
クインは小首を傾げて、ニールにしたのと同じ質問をヒューゴにぶつけてみた。
「ああ」
満面の笑顔でヒューゴは頷いた。その一方で、ニールが苦虫を嚙みつぶしたような顔になっている。
「寄宿学校で同室だったんだ。トマスも一緒だった。そうか、クインはニールの従妹ということになるのか。……良かったな」
さらりと付け加えた最後の一言はニールに向けられたものだ。
「ああそうだな。よかったよ。……うん。相変わらず嫌なヤツで安心した」
これで話は終わり、といった感じでニールは踵を返したのだが、「どこに行くんだ?」とヒューゴが尋ねると振り返り「捕らわれのお姫様を助けに行く」と律儀に答えた。
「ふーん……」
聞くだけ聞いておいて、ヒューゴは膝の上に開かれたままになっていた本に目を落とし、頁をパラパラとめくりはじめた。
「……興味持てないなら聞くな」
ニールは体ごと振り返ると、ヒューゴを睨みつけた。鏡の間では笑い転げていたのに、あの時とは別人のように不機嫌な顔をしている。
「で、いつ戻って来るんだ?」
目を上げることなくヒューゴは尋ねる。ニールは一瞬言葉を失い、どういう表情を浮かべていいのかわからないというように顔を顰めた。
「もう戻る家がないんでね。……嫌味か?」
「部屋は沢山余っているぞ」
「ここはおまえの家じゃないと思うんだが」
「燃料費及び食費は後払いだそうだ」
「おまえ会話を成立させる気がないよな。っとに、損した気分になるんだよな……」
ニールは顔を背けて聞こえよがしにため息をついている。ヒューゴは再び本のページを捲った後、近くの椅子を指差した。
「そこに座ったらどうだ?」
「だぁから、これから一仕事あるんだよ」
そう言いつつも、ニールは椅子を引いて座ると、不貞腐れたようにテーブルに頬杖をついた。……この一連の会話で、二人の力関係が垣間見えた気がした。
クインに視線を移ししたニールは、やれやれとばかりに肩を竦めてみせる。
「この通り、話が通じないし、もう本当にわがままで面倒くさい奴なんだよ。……いやになったら俺の所においで」
ヒューゴと話している時とは声の高さも、話し方も全く違う。ヒューゴの言葉を信じるならば、彼は女性に対してのみこうだ、ということになる。
「ニールがここに来ればいい。トマスも文句は言わないだろう」
「世界はおまえを中心にして回っている訳ではない!」
……しかし、紳士の仮面は一瞬にして剥ぎ取られた。
「……仕事、行かなくていいのか?」
「ここに座れと言ったのはどこのどいつ……」
「で、いつ戻って来るんだ?」
相手に最後まで言わせることなく、強めの口調で再び尋ねる。たじろいだように灰色の瞳をそらして、「……多分、夜明けまでには戻って来られる」とニールは口の中で呟いた。そして拗ねたようにふいっと顔を背ける。
その仕草が子供っぽくて、相手は自分よりずっと年上の男の人なのに、可愛いと思ってしまった。くすっと小さくクインが笑うと、ニールは頬を赤らめる。
「おまえにこの子は勿体なさすぎる! 納得いかない」
とりあえず何か言っておかないと気が済まないという感じになっているニールに対し、ヒューゴは余裕の表情で「そうだろうな」と返した。
「私はクインに選んでもらえるようにがんばるから、ニールもクインとずっと一緒にいたいならがんばればいいんじゃないか?」
ニールは顔を強張らせ「がんばる?」とちいさく呟く。そして焦ったように椅子から立ち上がると、ヒューゴの肩を掴んで軽く揺すった。
「おまえ、何をどう『がんばる』つもりだ! 頼むからやめろ。どうせいつもみたいに、俺やトマスに迷惑かけるだけだ。大人しく部屋で植物図鑑でも眺めてろ!」
「とりあえず、私は海賊とリリアをたおさないと……」
「リリアさまを倒すのは、絶対ダメ、です」
黙って成り行きを見守っていたクインは、ヒューゴの膝に両手を伸せて、伸び上がるようにして青い瞳を覗き込んだ。そのまま数秒間黙って見つめ合う。先に目をそらしたのはヒューゴだった。勝った! とクインは嬉しくなった。エミリーやリリアの気持ちが少しわかったような気がした……
「…………体を鍛えるのはいい事だとは思う」
耳に届いた声は、低く掠れていた。驚いて顔を上げると、ヒューゴを見下ろしているニールの顔から一切の表情が失われていた。灰色の瞳に浮かんでいるのは、嫉妬や憎悪といった暗く淀んだ負の感情だ。――エルナセッドの屋敷で使用人として働いていた頃、鏡の中の自分が同じ目をしていたからわかる。
それはどこまでも深く昏く……
ニールは顔を顰めて目を閉じ、纏わりついてくるものを振り払うように、数度首を横に振った。
「…………倒すとか言うのは本当にやめてくれ。おまえには全く似合わない。俺は……嫌だ」
無理矢理絞り出したような、苦し気な声だった。部屋の空気が重く沈んでゆく。
クインははらはらしながら、二人の様子を見守っていることしかできなかった。何も知らない部外者が口を挟めるような雰囲気ではなかったのだ。
しばしの沈黙の後、口を開いたのはヒューゴだった。
「……本当に……その髪色似合わんな」
茶化している訳ではなさそうだった。がっくりとニールが肩を落とし、クインは止めていた息を吐いて緊張を解いた。
もしかしたらヒューゴは、ニールから向けらえた、あまりにも強い負の感情に気付かなかったのかもしれなかった。……いや、クインでさえ気付いたのだから、直接向けられたヒューゴが全く何も感じなかったということはあり得ない。
しかし、トマスやキースの言っていたように、彼は良くも悪くも自分本位な人間だった。
そうやって、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言い切ってしまえる我の強さが、クインには少し羨ましくもある。例えどんな感情を向けられているとしても、ヒューゴの中でニールは『親しい』相手なのだ。そこは揺らがない。
「女の子たちには好評なんだよ……」
瞼を持ち上げたニールは、もう相手をするのも疲れたというような顔で笑っていた。どこかほっとしているような雰囲気もあった。
……ああそうか、とクインは気付く。
ニールは嫌な事は嫌だと、はっきりヒューゴに伝え続けていた。そして『きらい』という言葉は使わなかった。心の奥底にどんな感情が渦巻いていたとしても……今の関係性を壊したくないのかもしれない。
「従妹殿、本当にコレがいいの? 隣の国とか行けば、青い目の人間なんて普通にその辺歩いているから、ちょっと時間を置いて一度考え直さないか? 君、十六歳だよね。まだ時間はあるから、ゆっくりもっと色々見て決めた方がいいよ。私も候補に入れてくれると嬉しいんだけど」
ヒューゴの肩から手を離し、少し横にずれてクインの前に跪いたニールは、クインの右手をそっと両手で握って自らの方に引き寄せつつ、甘く微笑んで青い瞳を覗き込んだ。
「……慣れてるな」
感心したようにヒューゴが言った。今回もまるで悪意はなかったのだが、ニールの完璧な笑顔に、ひびが入った。
……何となく、何となくなのだが、『親しくはない』と答えたニールの気持ちが察せられた。
「戻って来ると言ったんだから、その内戻って来るよ」
ニールが立ち去った後、膝の上の童話の本を横に退かしながらヒューゴは静かにそう言った。それはクインにというよりは自らに言い聞かせているようでもあった。
「ニールは……本当は金色の髪をしているんだ」
クインの髪にそっと触れたヒューゴは、辛そうな目をしていた。だからクインの心も沈む。
「女性にちやほやされたいのなら、髪は大切にした方がいいと思うんだ……」
予想もしていなかった方向に話が進んだ。だが、ヒューゴは真剣に思い悩んでいる様子なので、とりあえず、クインは神妙な顔のまま頷いておいた。
「おじいさまが、沢山あるうちに伸ばして鬘を作っておけとか言っていたから、……一度、伸ばそうと思う」
「いいと、思い、ます」
もう一度クインは頷いた。ヒューゴはそのままそっとクインの髪に口付ける。
「……へ?」
「何だか……甘くてキラキラした飴細工みたいに見えたから」
クインは慌てて両手を頬にあてる。顔から火が出るかと思った。
「どうして隠すの?」
楽しそうな顔になったヒューゴをクインは恨めしそうに見上げる。
ヒューゴだって耳まで真っ赤になっていたのに……何故今は平気なのだろう?
「ヒューゴさまは……恥ずかしくないの、ですか?」
少し意地悪な気持ちで尋ねてみると、ヒューゴは目を細めて穏やかに微笑んだ。
「恥ずかしがったり、躊躇っている時間が勿体ないのだと気付いた。……クインは恥ずかしがっていればいいよ? 真っ赤なほっぺたがかわいいな」
そっとクインの手首を持って頬から優しく外させると、顔を覗き込む。
「明日からはもう、こうやって君を独占できない。気安く触れることもできなくなる」
そうっと、花束を抱えるようにヒューゴはクインを胸に閉じ込める。残された時間を惜しむように。
頬に触れるこの熱も、ふわふわどきどきする気持ちも、お姫様の姿も今夜だけのもの。……そう思うと切なくなって、クインは唇を噛んだ。
明日からはもうこんな風に笑ってくれないのだろうか。そんな訳はないとすぐさま否定したのに、想像しただけで泣きたくなった。急に様子がおかしくなったクインに気付いて、ヒューゴが表情を変えた。
「クイン?」
どうしたの? と焦ったように名前を呼ばれる。
また昨日のように、目の前でドアを閉められ鍵をかけられて、まるでいないもののように扱われたりしたら……と、考えるだけで涙が溢れ出した。起こってもない未来を嘆いて自分を哀れむのはおかしいとわかっているのに、あの時の気持ちが蘇って、クインは涙が止まらなくなってしまう……
「いや、です。……ボクは、魔法がとけても、ヒューゴさまのそばに、いたい。きらいじゃない、です。……どうしたら、一緒にいてくれますか? 男の子なら、お部屋に入れてくれますか? なら、ボクはずっとずっと十二歳の弟で、います」
必死に言い募るクインを茫然と見つめていたヒューゴは、最後まで聞き終わると、後悔の念に苛まれて苦し気に眉を寄せた。
「ごめん……昨日は最低な態度を取った。……こんなにも傷付けたのに、勝手に許されたような気になっていたんだ」
真剣な表情でクインに謝罪すると、抱きしめる腕に力を込める。
「皆があそこまで怒るのも当然だ。本当に……私はどうしようもないな……」
違う。そうではないのだと、クインは必死に首を横に振る。そんな事を言わせたい訳ではない。怒っているのではなく、悲しくなってしまっただけ……
ヒューゴの腕の中はとても暖かくて安心できる。辛い記憶は深く沈み込んで代わりに優しい思い出が蘇る。ずっとこうしていてほしい。……ここがいい。このひとがいい。強く強く心がそう願っている。
どうしたらこの気持ちをうまく言葉にして伝えられるだろう。
「こうしていると、何も怖くない。……でも、ひとりは怖い、です。……明日からも、ぎゅってしてほしい、です」
一生懸命に言葉を探す。どうか伝わりますようにと願いながら。
恐ろしくも幻想的で騒がしくて泥臭くさい夜だった。怖い思いも沢山したけれど、クインは甘くて切ないこの夜のことを、一生忘れない。
ヒューゴにも、今夜のことを覚えていてほしい。それはクインの我が儘だけど……
水色のドレスと白いベール。手渡した水色の花。そして――
クインは少し体を離して、ヒューゴを見上げた。瞬きで涙を散らしてから、青く美しい瞳をまっすぐに見つめる。
それは、あの日クインの世界を塗り替えた色。
「……だいすき、です」
その言葉はごく自然に唇から零れ落ちた。
申し訳なさそうな表情が驚きに固まり、みるみるうちに、ヒューゴの頬が赤く染まってゆく。しかし、クインが冷静にヒューゴの様子を観察できたのもそこまでだった。ぼんっと顔が熱を持った途端に、少し乱暴に引き寄せられて痛いくらいに抱きしめられる。
「たとえ、今も残っている暗示が、そう言わせているのだとしても、一時の気の迷いでも、いいんだ。……今、すごく幸せだから」
全身が心臓になってしまったかのようにどきどきしている。目を閉じて両手を心臓の上で重ねる。そうしないと今度こそ本当に、心臓が外に飛び出してきてしまいそうなのだ。
そうやって必死になって恥ずかしさに耐えていると、内緒話をするように耳元に手が当てられ、優しい声が囁いた。
だいすきだよ……と。
その声が熱となって、全身を巡ってゆく。心が満たされてゆく。
瞼の裏に懐かしい景色が浮かんだ。色とりどりの花と、光の中で優しく微笑む女の人。懐かしくも愛おしい日々。
――そこにはもう、暗い影など何ひとつ残っていなかった。
お待たせして本当に申し訳ございませんでした。
ここまで長かった……