115 幽霊と墓守と死神 その5
加筆しました。大変申し訳ございませんでした。
ダニエルはきれいに磨き上げた燭台を持ち上げた状態で、エラたち四人の姿が完全に見えなくなるまで見送っていた。小さく息をついて第二王子に向き直る。
「……結局、エラさんとクインさまにかけられていた暗示は解けたんですか?」
「どうなんだろうね? ウォルターが言っていたんだけど、催眠暗示をかけた人間が被験者に『目を覚ませ』と命じることによって、すべての暗示を消し去ることはできるものらしい。実際、ジョエルから『目を覚ませ』と命じられた後、彼女たちは『自分はクラーラではない』と言って彼の命令をきっぱりと拒否したよね。そして、それを見たジョエルの方も暗示が解けたと思い込んでいた。……でも、目に見えないものだから実際のところはわからない」
質問に答えながら、アーサーはクインが座っていた椅子に向かって歩き出した。
「……さすがに疲れた。もうお城に戻ってお姫様たちと踊る気力は残ってないな」
いかにも王族らしく泰然と椅子に座って薄く笑う。天井に向かって放たれた声には先程までの覇気がない。王子様には代わりがいないから、彼も最近まともに寝ていないのだ。
護衛のいない状態で屋敷の外に放り出す訳にはいかないため、舞踏会をサボった王子様は伯爵家で預かることになる。館内を自由気ままにうろつかれると掃除の邪魔だ。カラムが迎えにくるまで、鍵のかかる部屋に閉じ込めておくのが一番安全だろう。
「リリアさま、厨房に行ってお湯を用意してくれませんか? 使用人棟の二階の角部屋を使います。運ぶのはこちらでやりますから」
「承知いたしました。すぐにお部屋をご用意いたします」
リリアは第二王子に向かって一礼すると、ウズラの血で汚れたエプロンを外し、燭台の脇に置いてあった『朝食の食材』を丁寧な手つきで包む。そして、それはもう大切そうに両手で抱えて部屋から出て行った。扉の近くにいた隊員が二名、掃除道具を置いてその後についてゆく。
「王宮にいる『女王』が必ず『王』を仕留めるとか言ってましたけど、どうするんだろう……」
まるで見えない駒をそこに乗せているかのように、ダニエルはじーっと自分の掌を見つめていた。
「僕の代わりにオーガスタがまとめて相手をしてくれるらしいよ」
抑揚のない声で告げられた名前を聞いた途端、掃除をする隊員たちの手が機敏に動き始めた。オーガスタの名前は、一部の人間に対して、唱えるだけ作業効率を上げる魔法の言葉のようになっている。
「たまにはチェスで遊びたいから勝負を譲れと言われた。駒も完璧に用意したそうだよ」
「……ただでオーガスタに譲ったという訳ではないですよね?」
疑わし気なルーク視線を受け止めた第二王子は、疲れたように笑った。
「ジョエルを売って時間を買った。ジョエルだけでは足りないって言われたから、アレンも売った。……ダニエル、アレンを海に投棄したいとかずっと言っていたよね。良かったね、もうすぐその願いは叶うみたいだ」
天井を仰いで小さく息をつくと、目を閉じて背もたれに体重を預ける。
「…………それ、結局アレンさま海に拾いに行かされるの、キリアルトさんと私ですよね」
そう返したダニエルは非常に不満そうだった。ロバートは海に捨てられても毎回自力で陸に戻ってくるが、アレンには無理だろう。どこかに流れて行ってしまう前に、船で拾いに行く必要がある。そうしないとリリィとリリアが絶対に泣く。
「結婚式……何年後まで引き延ばせたんですか?」
ルークが視線に力を籠めると、アーサーはいたって軽い調子で「残念ながら、二人合わせても三年にしかならなかったね」と答えた。
はははっと力なく笑いながらダニエルが「安いなー」と呟く。
「五年欲しいと言ったら、笑顔で『あなた五年後自分が何歳かわかってる?』って凄まれたよ。年齢に不満があるなら、今すぐ辞退するけど…………何?」
顎に人差し指の付け根を当てて考え込んだルークに、今度はアーサーが胡乱な目を向けた。
「いや、祖父母が結婚した時の年齢は、いくつだったかなと……」
「三十八歳と十八歳だったらしいね。オーガスタの上限はそこらしいよ。結婚式の準備に一年以上はかかるから、あと三年しか待てないそうだ。……という訳で、あと三年であの二人を何とかしないといけない」
現時点で、リルド家とフェレンドルト家が出した『孫娘と結婚するための条件』を満たしているのはアーサーだけだ。アレンはリルド家の、レナードはフェレンドルト家の出した条件に当てはまらない。
そんな事もあって、『国王の失言の責任を取って結婚する』という話は、当事者の気持ちなど完全無視でどんどん進んでいるようだった。
「たった三年でアレンさまの優柔不断な性格が直るとも思えないし、レナードさんが借金完済できる訳ないし、リリィさまが心変わりするとも思えません。そもそも、選ぶ権利は男性側には与えられてない訳ですから、辞退もできないと思います」
ダニエルも疲れているので思っていることが全部口に出る。だが、言っていることは何一つ間違ってはいない。
「結婚するか、海に投棄されるかの二択ですね」
ルークが無機質な声でそう告げると、アーサーは再び微かに笑った。
「王子様と結婚しても、いいことなんて何もないんだけどなぁ。……ダニエル、僕といて幸せ感じた事ある?」
「一度もないですね」
ダニエルは力強く即答した。迷う素振りは全く見せなかった。
「でも、元王子様と一緒にいても幸せを感じたことないですね。むしろ思いっきり不幸ですね」
やめておけばいいのに、今までかけられた迷惑の数々を記憶の中から掘り返し始めてしまったようだ。ダニエルの眉間に深い皺が寄った。
リリアに準備を頼んでおいた角部屋に入った途端に、ふわりと微かにハーブが香った。それだけのことなのに、ふっと肩から力が抜けて気持ちが穏やかになる。室内は明るくなりすぎないように、ちいさな蝋燭で照らされていた。ベッドの脇に置かれた飾り棚の上には、さりげなく白い小さな花が飾られている。部屋を見回してそういうささやかな気遣いに気付く度に、疲弊した心が癒されてゆくのがわかる。
テーブルの上にはお茶の用意がされていた。ルークはポットを持ち上げて、香りの良いお茶をゆっくりとカップに注いでゆく。
夜は本来、眠るための時間なのだ。……当たり前の事が、当たり前にできないから、忘れてしまう。
「人手が足りないので後は自分でやって下さい。冷めないうちにどうぞ」
カップから湯気と共に香りが立ち昇る。時間が引き延ばされるような奇妙な感覚と共に、軽い眩暈がした。気が緩んだせいで一気に蓄積した疲れが体に圧し掛かってきたのだ。ルークはポットを置くとゆるく首を振って眠気を払う。おかしなものは何も入っていない天然の香りのはずなのだが、薄暗さと相まって効果は絶大だった。このままここにいたら本当に崩れ落ちるように眠ってしまいそうだ。
「……すごいな。変な薬を盛られたくらい眠い」
欠伸を噛み殺しながら、アーサーは上着を脱いで椅子の背にかける。立ったままカップに手を伸ばして二口程飲むと、穏やかな笑みを浮かべてソーサーの上に戻した。お茶の色を見つめているエメラルドグリーンの瞳が眠たげに揺れる。
「…………話したことがあったのか。僕の方は覚えていないから、きっと、軽い雑談程度のものだったんだろうね」
「リリアさまは……よく覚えていますよ。時々驚かされます」
――例えば好きな色、好きな食べ物、或いは好きな花。
何気ない日常会話の中から拾い上げた言葉を、彼女はずっと覚えている。多分忘れないように後でメモにして残しているのだろうと思うけれど。
「私たちのお姫様を甘く見ない方がいい。それはオーガスタが一番わかっていることです。五年なんて必要ない」
テーブルに手を置いて、アーサーはエメラルドグリーンの瞳を眇めて苦く笑う。
「リリィお嬢さまはやると言ったらやります。三年もかからないかもしれない。ちいさな女の子は駆け足で大人になる。気を抜けば追い抜かれて、手の届かない遠くに去っていってしまう。腕を掴んで無理矢理時間を止めようとする者を、オーガスタは決して許さない」
当たり前のように繋いでいた手は、ある日突然届かなくなった。喪失感に茫然として立ち止まっていたら、あっという間に置き去りにされた。
不器用で泣き虫で怖がりだった女の子は、どんどん姿を変えてゆく。そのことに焦りと恐怖を感じていた。何もかも全部捨て去った自分には、立ち止まる事は決して許されない。今もずっと背中に刃物を当てられているようなものだ。
「王子様は、こういう普通の幸せを与えられないからね」
「相手の『幸せのかたち』を勝手に決めつけるな。自分の理想の姿を押し付けているだけなのだと気付け。だ、そうですよ」
「返す言葉もないな」
ベッドに歩み寄ってアーサーが腰を下ろす。生地がこすれてリネンウォーターが微かに香った。王子様はそのままベッドに仰向けに倒れ込んで目を閉じる。
……何もかも全部捨て去って、お姫様を幸せにするためだけに生きるのは、王子様には難しいだろうなとは思う。その辺りを整理するための三年という時間なのかもしれない。
「そのまま寝ないでくださいね」
陶器に入れられた小さな蝋燭は一時間程度で消えるだろうし、換気用の小窓もある。上掛けなしでそのまま眠ってしまって体調を崩すような室温でもない。
それでも念のため一声かけてからドアに向かって歩き出す。さっさと掃除しないと泥が乾いてしまうので、ここで王子様の世話をしている暇はないのだ。
ドアノブに手をかけて振り返る。眠ってしまったのか返事はない。そのまま部屋の外に出てドアを閉める。
かつて牢として使われていた部屋なので、鍵が二重になっているからそう簡単に破られることはない。王子様を閉じ込めるには最適だ。揺れる度にじゃらりと鳴る鍵束から、一際大きなカギを取り出して、鍵穴に入れて回す。
眠気がまだ体に纏わりついている。部屋に戻って一度顔を洗ってきた方がいいかもしれない。
視線を感じて横を見ると、エプロンを着替えたリリアが、階段付近で護衛についた隊員と一緒に立って待っていた。
今彼女が何を考えているのか、何を望んでいるのかルークにはわからない。
リリアは人の気持ちを察することを得意としているけれど、ルークの望む通りに彼女が行動するかといえば、そういう訳でもない。勿論、そうして欲しいとも思っていない。
二人で話し合わなければならないことは沢山ある。
リリアは、ルークの『およめさん』になるために海賊を倒したがっているが、こちらとしては、特にそこは求めていない。遠くから靴を投げる程度にしておいて欲しいのだ。危ないから。
リリアが怪我をするかもしれないと思うと、心臓に大きな氷を押し付けらえたような気持ちになる。凍り付いた心は痛みも恐怖も何も感じない。……いつか醜く腐り落ちる。
駆け寄って来た少女は、じっとルークの目を見てにっこり笑い、片手を伸ばして頬に当てた。
驚いて水色の目を瞠ったルークを見て、いたずらが成功して喜ぶような無邪気な笑みを浮かべる。
「冷たいですか? 目が覚めましたか?」
水仕事をしてきたらしく彼女の手は冷え切っている。確かに一気に目は覚めた。自然と口元に笑みが浮かぶ。リリアは安堵の表情を浮かべて手を離した。
……心配させるほど、ひどい顔をしていたのかもしれなかった。
「一階のお掃除が早く終わりそうです。説明会が終わった王子様たちが、手伝って下さっているのです。ヘイゼルさんとマノンさんがお願いして下さったのだそうですよ」
リリアが弾むような声でそう言った。その言葉でだいたい一階で何が起こっているかは想像できた。
彼女たちならば、甘い言葉を耳元で囁いて掃除を手伝わせた上に、使った掃除道具を買い取らせるくらいのことは平気でやる。
詐欺の被害者に、被害を回復させるからと持ちかけて……騙す。
彼女たちのやっていることは、まさにそれであるような気がした。