112 幽霊と墓守と死神 その2
「…………何でここにいるんですか?」
足があることを確認してからルークは尋ねる。どうやら幽霊になって出てきたという訳ではなさそうだった。
「サボったからだね」
窓枠を乗り越えて部屋に入って来た王子様がさらりと答えた途端に、あちらこちらで様々なものが床に物が落ちる音がした。
室内がしんっと静まり返る。
舞踏会はもうとっくに始まっているから今さら何を言っても仕方がないが、一体いつ侵入して、今の今までどこに身を潜めていたのかが非常に気になる。だが、それを尋ねても答えが返って来るとは思えない。
「ほらほら、手が止まってるよ? さっさと掃除しないと泥が乾く」
――一体誰のせいで、屋敷が泥だらけになったと思っているのだろうか。
ぎくしゃくとした動きで床に落とした掃除道具を拾い上げた隊員たちは、自分たちは何も見なかったというように、黙々と手を動かし始めた。
第二王子が舞踏会に参加していないなどという報告は、こちらに届いていない。つまり王宮から飛び立った鳩たちは、夜の王都に嘘をばら撒き続けているということになる。……情報操作はオーガスタが最も得意とするところだ。
離宮で動きがあったというのは恐らく本当の事だろう。嘘つきな鳩に騙されたのかもしれないが、こうなってしまうと、王宮のことはもう全くわからない。
「王子様から贈られたドレスを着てお姫様がお城の舞踏会に行ったのに、王子様サボって不在ってどうなんだ……」
燭台の泥を拭きながらダニエルが疲れ切った様子で呟いた。必死にドレスを縫い上げたリリアは、諦めきった表情で燭台から蝋燭を外して回っていたが、ふと何かに気付いたように手を止めた。
「……あ、実は、私たち日付間違えてて、お城の舞踏会明日?」
……そんな訳はないが、疑いたくなる気持ちもわかる。舞踏会に必要不可欠な王子様がここでのんびり夜空を眺めている。
「リリィにはカラムがついているから心配しなくていいよ。今頃静かな場所でのんびり本でも読んでるんじゃないかな?」
アーサーがリリアを振り返って、安心させるように笑いかけたが、部屋の空気は再び凍り付いた。
舞踏会に行ったお姫様が、どうして静かな場所で読書をしていることになるのだろうか。でも、リリィがあちらこちらで喧嘩を売っているかもしれないという心配をする必要はなくなった。……ただそうなるとアレンが今何をしているのかが、非常に気になる。
「やっぱり日付間違えてたんですね! 間違いに気付いて戻っていらっしゃる前に、できるだけきれいにしておきましょう!」
うっかりしてました! というようにリリアが可愛らしく笑った。誰も否定しなかった。もうどうにもならないからそういうことにしてしまおう、というような空気が出来上がっていた。全員が気を取り直したように、掃除に集中し始める。
「あーあ、結局、私も想像力足りなかったってことですかね。……従妹殿とヒューゴの様子でも見てくるかなー」
片手ずつ天井に挙げて大きく伸びをしてから、ニールが気の抜けた顔で笑った。
「『王』を飛び越えた『塔』は王宮に辿り着いたんですか?」
チェスのキャッスリングに例えたニールに対して、第二王子は冷ややかに笑っただけだった。
「僕は彼とチェスをするつもりもなければ、トランプで遊ぶつもりもないよ」
チェスにおける最強の駒は『女王』だ。しかし、トランプでは違う。それで、ニールの口から「これがチェスの勝負であるのならば、そうなんだろうけどね」という皮肉が飛び出したのだ。
「人生は遊戯だの女王が守れないだのまだ怒っているかだのバカなことばっかり言ってる奴らは、一度全員まとめて痛い目みればいいと思うんだよね」
短気な王子様がいつもの如く、黒い笑顔で暴言を吐いている。隊員たちは顔色を悪くしながらも、何も聞いていませんよというように一心不乱に掃除をしていた。
「…………何しに王宮行ったんだろ」
ダニエルが燭台を雑巾で拭きながらシャンデリアを見上げた。主語が省かれていたため、該当者は片手の指では足りない。本当に、全員何をしに王宮に行ったのだろうか……
「でも、良かったんですか? 彼を王宮に入れてしまって」
ニールが気遣わし気に尋ねると、第二王子は小さなため息をついた。
「彼は絶対に自分の手を汚したりはしないよ。その辺りは非常に狡猾だ。今回はユラルバルト家の長男だと偽っていたようだけど、ほとんど表には姿を見せなかったんだろう?」
アーサーがエラとセーロに尋ねると、二人は深刻な顔で頷いた。
「使用人たちの間で、長男について話題になることは一切ありませんでした。食事を用意している様子もなかったです。ですので、あの舞踏会の夜にセーロさんに言われて初めて、長男がいるって知ったくらいです」
「俺は……離れに長男が隠れ住んでいるとだけ聞かされていたけど、実際顔を見たことはなかった……です。でも、丁度人間くらいの大きさの、布でくるまれた荷物が離れに運ばれてゆくのは何度か見たし、切り刻まれた動物を厨房に運ばされることはあった……ありま、した」
躊躇いながらも、セーロは物問いたげな視線をアーサーとルークに向ける。
「どうしてここで捕まえられないのかって、ことだよね。それは当然の疑問だ。うちだけでなく帝国軍すら彼には手を出せないからね」
「カルラは……彼の事は、何も知らない方がいいと……」
「まぁその通りなんだけど……そうだな」
アーサーは少し首を傾げて考え込むと、いきなり「むかしむかし……」と昔話を始めた。セーロとエラがぽかんとした顔をしている。
「この大陸には大きな国がありました」
「そこから始めます?」
ルークうんざりした顔になって横やりを入れた。そこから始めると……ものすごく長い。
「大きな国の王様には男二人と女一人、計三人の子供いました。ある日、王様は子供たちを呼び付けて、国を仲良く三人で分けなさいと伝えました。不安を感じた妹は二人の兄の怒りを買うことを恐れ、属国だった海の向こうの島へ逃げるようにお嫁にいきました。……この話は、聞いたことがあるかな?」
アーサーがエラとセーロに尋ねると、勢い込んでエラが身を乗り出した。
「はい! 学校で習いました。妹の懸念通り、王様が亡くなった後、兄と弟は戦争を始めちゃうんですよね? それで弟が勝った。……確か、帝国の皇帝は『弟』の子孫で、『妹』がお嫁にいった島が……ルークさまの母国なんですよね」
ルークが頷くと、エラはどうだ! と言わんばかりの顔で、隣に立つセーロを見た。「はいはいすごいすごい」と面倒くさそうにセーロはエラを褒める。
「長い歴史の中で、幾度となく『兄』の子孫を名乗る者が現れ、『祖先の国を取り戻すための戦争』を始める。『兄』の亡霊は今もこの大陸を彷徨っているんだ」
「ちいさな王女さまが巻き込まれた戦争もそうだったんですよね」
「うん。たくさんいる王子たちが、自分は『兄』の子孫だの『弟』の子孫だの『妹』の子孫だのとそれぞれ好き勝手に言い出して内乱になった。そこに帝国が介入したせいで、反発した他の国も参戦して結局代理戦争になった」
「で、最後まで生き残った王子様が王様に……」
「ばかっ、調子に乗るな。おまえ当事者の前で何ってこと言ってんだよ!」
焦った様子のセーロに遮られて、エラはさっと顔色を変えた。
「正解です。お二人ともちゃんと勉強されていますね」
ルークがエラに微笑みかけると、彼女は泣きそうな顔で俯いてしまった。
きっと彼女の中では物語の中の出来事なのだ。やがてすべては美しく優しい物語の世界の中に飲み込まれてしまうのかもしれない。リリアが駆け寄って来て脇腹にひっつくから、その頭をそっと撫ぜてやる。
「こういう話になるとわかってて、それでもルークは止めなかったんだから、ふたりとも気にしないこと。……話を続けるよ」
アーサーはその一言で片付けた。だが、こういう流れになったのは、この王子様が『むかしむかし』から話し始めたせいだ。
「ここまでくると、まぁだいたい想像つくと思うけど、ジョエルはあの戦争で『弟』の子孫だと名乗って帝国の傀儡となった王子様の血縁者なんだよね」