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111 幽霊と墓守と死神 その1



 鏡の間には、使用人が待機するための隠し部屋がある。


 小部屋に繋がる鏡で作られた大きなドアを開くと、窓をひとつ隠すようにして、四つある角の内のひとつが斜めに欠ける。使い古された奇術の仕掛けだが、宙に浮かぶ炎の数に惑わされたジョエルは全く気付いていない。


 三角形の空間に身を潜めたルークは、開け放たれた窓の枠に凭れかかるようにして地上を見下ろしていた。高い位置から見下ろせば、動き方で素人かどうかなどすぐにわかる。 


 手入れが行き届いていないガルトダット伯爵家の庭では、半野生化した蔓バラや木苺があちらこちらに大きな茂みを作っている。それは天然の檻のようなものだ。薄暗がりの中そこに足を踏み入れれば、たちどころに鋭い棘に取り囲まれ身動きが取れなくなる。茂みの中で狼狽える者たちの姿がここからはよく見えた。

 壁をよじ登ろうとした者たちは、くくり罠にかかったり、二階と三階のベランダから容赦なく投げつけられる石に当たって次々落下していった。そのまま猟犬に追い立てられて逃げ惑う人々の群れに巻き込まれ、流されるまま落とし穴に落ちてゆく。

 当然お姫様を迎えに来た王子様の中にも味方を紛れ込ませてあったから、彼らは穴の中で拘束され、泥まみれのまま地下牢に放り込まれた。


 王宮ではなく伯爵家の方にすべての戦力を集中させていると気付いた時点で、何故退却するという判断ができなかったのか理解に苦しむ。


 ジョエルは何としてでも今夜、エルナセッド子爵の一人娘を取り戻したかったのだろう。リリアが言うには、彼女は顔立ちがクラーラとよく似ているのだそうだ。異常なまでにジョエルはクラーラに執着し続けている。ルークにはそれがどういう感情に基づくものなのかまではわからないし、興味もない。


 ジョエルが香水瓶を叩き割ったことによって振りまかれた強烈な香りが、つむじ風にさらわれて上空に消えてゆく。ルークの傍らに立っていた老いた調香師は苦々しく笑って、声に出さずに『朽ちた蕾』と呟いた。

 

 ――それが少女たちを彼の『駒』に変える香りの正体だった。





 ヒューゴがクインを抱えたまま部屋を出て行く。顔を両手で押さえて呻き声を上げているジョエルには二人を追う余裕はなさそうだ。リリアが投げつけたのは鉄板入りの靴ではないが、あの勢いで鼻に当たれば……骨が折れたかもしれない。

 投げたのは間違いなくリリアだが、幽霊が多少軌道を修正したのでないか。そう思わせるくらいに、見事に顔の中心に命中していた。もう完璧としか言いようがなかった。


 ……きっとこれでリリアの気も済んだだろう。そうであってほしい。


「鼻の骨が折れたんじゃないか? 鼻血が出ている。腫れてきているだろう?」


 ニールはもう楽しくて仕方がないといった様子で笑っている。ああやって時間を稼ぎながら、頭の中では相手を追い詰める戦略を練り続けている。視線の動かし方、笑い声の大きさ、言葉の選び方……彼の一挙一動はすべて計算し尽くされたものだ。ニールが口を開く度にジョエルは苛立ちを募らせ、自分を見失っていった。


 警備が手薄になっていると考えていた伯爵家には、第二王子の私兵すべてが投入されていた。素直にジョエルに従うはずだった二人の少女は命令を拒否し、全く想定していなかった相手と対峙することを余儀なくされた。……何もかもが予想と外れて焦ったジョエルは、鏡の間の異様な雰囲気に飲まれてどんどん冷静さを欠いていった。心理的に有利な立場にいたニールが、うまく状況を利用して追い詰めていったとも言える。

 アーサーは『相性というものがあるからね』と言っていたが、実際その通りで、彼はジョエルが最も苦手とするタイプだったようだ。


「戦力を分散させた方が負ける。王宮にいる私の『女王』が必ず君たちの『王』を仕留めるさ」


 片手で覆った顔面から血がぽつりぽつりと床に落ちる。だらりと下げられた左手の指先からも赤い雫が滴り落ちた。床が汚される度に警告のように蝋燭の火が伸び上がる。やがて、シャンデリアが小刻みに揺れ始めた。不安そうな目で、ニールとジョエル以外の全員が天井を見上げている。


「これがチェスの勝負であるならば、そうなんだろうけどね。……やはり、君は想像力が足りない」


 むっとジョエルが眉を吊り上げ……そのせいで鼻に激痛が走ったらしく奥歯を食いしばるようにして呻き声をあげた。


「今から自分の目で確かめに行けばいい。渋滞も解消されただろうし」


 嘲るようにそう言って、ニールは『お帰りはあちら』とでも言いたげにドアを手で差し示した。

 そのタイミングでドアが開いて、灰色の軍服を着た騎士たちが入室してくる。


「王宮までお送りいたします」


 隊長が慇懃無礼に一礼し、総勢十数人の護衛騎士がぐるりとジョエルを取り囲んだ。……記憶にある光景と同じ様に。


「王宮で腕のいい信頼できる医者を紹介してもらうといいよ。鼻が折れ曲がっているようなら、早めに骨の位置を戻さないと一生そのままだ。完全に元に戻せるかどうかは医者の腕にかかってくるけどね」


 ニールがさりげなく脅しをかける。さすがに鼻が折れたままの状態になるのは嫌なようで、ジョエルは素直にドアに向かって歩き出した。ぎぃぎぃ音を立てながら揺れているシャンデリアの下にいるのが恐ろしくなったというのもあるのかもしれない。……落ちてくることはないと信じたい。


「ああそうだった。私もアーサー殿下からの伝言を預かっている。『目的はすべて達成したから、もういいんだ。証明できてよかったよ。僕が君たちよりずっと優れているということをね』……以上」


 ルークは思わず苦笑する。当時の報告書をわざわざ引っ張り出してきたのだろうか。第二王子はすべての怨恨を自分一人に向けさせるつもりのようだ。

 ジョエルはまるで何も聞こえなかったというように、平然とした様子で部屋を出て行った。パタン……と、ドアが閉まる。


 誰もその場から動かない。たっぷり三十秒数えた頃、バンっと勢いよくドアが開いて、ランタンと掃除道具を持った男たちが部屋に雪崩れ込んできた。鏡の壁となっていたドアを閉めて、ルークは燭台の隙間を縫うようにしてクインが座っていた椅子の近くまで移動する。

 ランタンの光が闇を払いのけると……改めて部屋の惨状が明らかになった。

 床には泥水が溜まり、飛び散った泥が壁の鏡や窓、燭台を汚している。泥が固まる前に急いでふき取ってしまなければならない。そのあと乾いた布で水気をしっかり拭き取らないと錆びの原因にもなる。


「……これは……思った以上にひどいね。……幽霊が激怒する訳だ」


 室内を見渡したニールが、思わずといった様子で呟いた。

 マーゴとフィンが手分けして窓を開け放ち、エラがセーロと協力して、大きく広げた布を泥水の上に被せてゆく。


 調香師の老人と共に、ルークはジョエルが床に叩きつけて割った香水を探す。床に零れた香水は幸いにも泥水と混ざってはいなかった。傍らにはガラスの破片が散らばっている。手の中にすっぽり収まるくらいの小さな香水瓶だったようで、中に入っていた香水もほんの僅かな量だった。親指の先くらいの大きさの綿に香水を吸わせて、調香師が差し出した薬瓶に入れる。

 

「もっとも高価な香水として売り出された『新月の水』の()()です。天才的な調香師が、高価な香料を安価なものに置き換えて作り上げたものでした。恐ろしいくらい『新月の水』にそっくりなのに、原材料費は半分以下に抑えることができる。誰が言い出したのかはわかりませんが、いつしか『朽ちた蕾』と呼ばれるようになりましてね、退廃的な名前も当時の世相に合っていたのでしょう、爆発的に流行して短期間で飽きられた。流行が終わって大量に売れ残ったものは、海の向こうの国々に売りつけられました。今では覚えている者も少ないでしょうね。結局『新月の水』が割を食うことになった訳です。……それが目的だったのかもしれません」


 調香師は香りを確認してから蓋をして、重いため息をついた。


 ルークは立ち上がってリリアの姿を探す。彼女はダニエルと一緒に蝋燭の火を消して回っている。どうやら、過去の嫌な思い出に捕らわれるようなこともなかったようだ。


「すみませんニールさま、そこから動かないで下さい。靴泥だらけです。今靴底拭く布用意します」


「……本当だ。これで歩くと被害が甚大だね。裾も結構汚れたし、シャツにも泥が飛んでるな。新品だったのに」


 振り返ったダニエルに指摘されて、改めて自分の服を確認したニールはやれやれと肩を竦めて天井を見上げていた。


「シャンデリアの揺れが小さくなってきたね。あれはさすがに怖かった。……素直に出ていってくれて助かった……」


「そうだね。リリアが靴を顔にぶつけていなかったら、もっと居座たんじゃないかな? 本当に鼻の骨が折れてるかどうかはわからないけど、退却するいい理由にはなっていたよね」


 ニールがその姿勢で固まり、ダニエルとリリアが限界まで大きく目を見開き、掃除をしていた全員の手が止まった。


 それは間違いなく、絶対にこの場にいてはいけない人の声だった。


 ……とうとう幻聴が聞こえるようになったかと、ルークは固く目を閉じた。




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