109 青い瞳の王子様 その3
ずるずるとヒューゴの腕からクインの体は滑り落ちそうになる。
ヒューゴはすでに掃除が終わっている場所まで移動して、クインを床におろした。自由になった腕をさすっているから、多分ニールの言う通りもう限界だったのだ。
「歩けるだろうか?」
ヒューゴは軽く曲げた腕をクインに差し出した。……あの夜と同じように。
ずっと握りしめていた水色の花の枝を反対側の手に持ち替えて、クインは肘の上にそっと手を添えた。彼の腕は、まだ小刻みに震えている。きっとたくさん無理をさせてしまった。
ずきりと胸が痛むと同時に、どうしてもこの人を失いたくない。誤解されたままでいたくない。そんな気持ちが抑えきれずに一気に溢れ出した。
あの日、闇の中に自ら堕ちて行こうとしたクインに光の在処を思い出させてくれたのは、厳しい表情をした青い瞳の天使様だった。
今ならわかる。……あの時、あのまま何もかも諦めてノーヴェと一緒に行けば――二度と抜け出せない深い闇の中でジョエルが待っていたのだと。
「ボクは、間違えてないです!」
どうしても今ここで伝えなければならない。焦る気持ちのままヒューゴの腕に縋りつくようにして必死に訴える。
ヒューゴはクインの剣幕に驚いたように大きく目を瞠った。
「光の差す方に連れて行ってくれるって、思ったから……どうしても、ボクは、天使様といっしょに行きたかった」
灰色の世界の中で目に飛び込んできた美しい青に、一瞬にして心を奪われたことを覚えている。イザベラやヒューゴの青い瞳を見つめる度に、胸がどきどきして苦しくなった。……それも認める。でも、だけど……
「ボク、自分で選んだんです……だから……」
「この瞳の色がきっかけになったのなら、私は自分が青い目でよかったと思っている」
その一言で、追い立てられているような焦燥感が嘘のように消え失せた。
落ち着き払った声でヒューゴは言葉を続ける。
「先程も、私と一緒に行くと何度も言ってくれただろう? 私は絶対に君のことを疑ったりはしない。……ここにいると掃除の邪魔になるから行こうか」
最後に付け加えられた一言がクインを現実に引き戻した。周囲を見渡すと、黒い軍服を着た人たちは手を止めて首を横に振っていた……が、確かにヒューゴの言う通り、いつまでもヒューゴとクインがここにいては、掃除の邪魔というだけでなく、色々不都合なこともあるに違いなかった。
「……ごめんなさい」
一気に頭が冷えたクインは、しょぼんとして謝罪する。途端に彼等はぶんぶんぶんぶんと勢いよく首を横に振って、『あちらです』と無言のまま一斉に同じ方向を手で差し示した。
クインは彼等に向かって小さく頷いてから、ヒューゴに促されるままに歩き出す。
リリアに手を引かれて歩いた道筋を逆に辿っているだけのはずなのに、ランプで明るく照らされた廊下は、全く別の場所に思えた。クインの胸を高鳴らせた幻想的な雰囲気はもう欠片も残っていない……まるで魔法が解けたかのように。
――舞踏会の夜だから、魔法を解いてあげましょう。
リリアはそう言って悪戯っぽく目を輝かせた。
彼女の言う通り、悪い魔法は今夜全部消え去った。
無理矢理結婚させられそうになった男の顔を思い出そうとしても、頭の中で『私の旦那様!』というメロディが鳴り響くばかりだ。衝撃的な音楽劇によって、クインの記憶は完全に上書きされていた。
幽霊は本当に恐ろしかったけれど、屋敷を汚されることに苛立ち怒っていたとわかれば納得もいくし、すべての音が幽霊の仕業という訳でもなかった。
ジョエルのことはもうどうでもよかった。彼は悪い魔法使いで、グレイスに沢山の呪いをかけていた。でも、今夜それも全部消え失せた。偽物の気持ちは消え失せて本物だけが残った……それでいい。
クインはヒューゴの横顔を見上げる。ヒューゴはすぐに視線に気付いて足を止めた。
「疲れたなら、少し休もうか?」
ヒューゴはクインの歩調に合わせてゆっくりゆっくりと歩いてくれていた。舞踏会の夜よりよほどクインの歩みはしっかりしているのに、彼は心配で仕方がないという顔をしている。
「だいじょうぶ、です。まだ、疲れてないです」
「辛くなったら言って?」
優しく微笑みかけられると、心がふわりと火がともったように明るくなった。
きらきらとした光が照らす廊下を、ベールを被って、花を手に持ち、男性と寄り添って歩いている。あの日クマのぬいぐるみを抱いてシーツを被って歩いていたように。
『その男は決して君を幸せにはできない。住んでいる世界が違いすぎるのだからね』
それは、悪い魔法使いが最後のあがきのように、クインに投げつけた呪いの言葉だ。でも、その言葉には何の力もなかった。
いつか今夜のことを胸の痛みと共に思い出すとしても、クインはこの選択を後悔したりはしない。……今確かに幸せだから。
悪い魔法使いは、リリアが靴を顔にぶつけて退治してくれた。宣言通りクインを守ってくれたのだ。
――だから……あまり怒らないであげて欲しい。クインはまだ会った事のない優秀な執事さんに心の中でお願いしておいた。
当然のようにクインはヒューゴの部屋に連れて来られた。
ヒューゴはクインを寝椅子に座らせると、何のためらいもなくベールを外してしまう。
室内は贅沢にも沢山のオイルランプで明るく照らされている。白く煙ったような世界に慣れていた目には眩しすぎてクインは思わず目を閉じた。何度も瞬きを繰り返して少しずつ目を慣らしてゆく。
「そのままだと花が萎れてしまうから、水に入れてあげてもいいだろうか?」
ヒューゴの顔をまともに見られないまま、クインは頷いて素直に水色の花を差し出した。この花は心に決めた人にお渡しくださいと言われていたから……何も間違っていない。
「まだ怖い?」
「……はい」
本当はもうそれ程怖くはなかったのだけれど、どうしても今は彼に甘えたい。八歳の弟だから許して欲しいと、こんな時だけ都合よくヒューゴの言葉を利用する。
「基本的にあの部屋以外、二階は幽霊は出ないんだと言っても、怖いものは怖いから……どうしようか……」
真剣に思い悩んでいるようなので、さすがに嘘をついている罪悪感からクインの胸はちくりと痛んだ。
「ゆっくり二十数えていて。それまでに戻るから」
ヒューゴは何か思いついたようで、花を持ったまま隣室に入っていった。
「いち……に……さん……し……」
言われるままに声に出して数をかぞえながら、彼が消えた四角く切り取られた暗闇に目を凝らす。一人にされると、急に寂しくなってしまった。じわりと目に涙が浮かび、足が震えはじめる。
「じゅうご……じゅうろく……じゅうしち……」
数える声も涙声になってしまっている。……あれ? あれれ? と、クインは慌てて涙をぬぐう。少し一人にされただけで、自分がこんな風になってしまうなんて全く想像していなかった。これでは本当に八歳の子供だ。
ヒューゴは水色の花の代わりにシーツを抱えて戻って来ると、シーツを大きく広げて空気を孕ませるようにしてから、ふわりとクインの頭の上に落とした。すぐさま隣に腰を下ろし、自らもシーツを頭から被る。
「ほら、こうすればもう、怖いものは何も入って来られない」
今までで一番近い位置で目が合う。
その青を見ても、呪いがとけたクインはもう何も感じない……はずだった。
心臓をくすぐられるようなふわふわと浮き立つような気持ちになったりはしない……
――なんてことは全くなかった!
ぼんっと顔が真っ赤になる。鼓動がどんどん早くなり、恥ずかしさが熱となって全身を駆け巡った。慌ててクインは俯いてヒューゴから赤い顔を隠す。
シーツによって外界から閉ざされた狭い世界に二人きり。これは……これは心臓に悪すぎる。しかし、動揺しているのはクインだけで、ヒューゴはいたって平然としていた。
「よかった、戻ってきてくれて。さっき怒らせてしまったようだったから、もう一緒にいてくれないかと思った」
最初は何を言われたのかわからなかった。冷たい指先がクインの顎にかかりそっと持ち上げる。ヒューゴは切なげにクインを見つめていた。鼻先が触れそうなくらい顔が近い。
「サンドイッチを差し出した時、泣きそうになっていたから、ずっとずっと気になっていたんだ。クインが嫌がることはしたくないから、どうして怒ったのか教えてほしい。……実はクレソンが苦手で、無理をして食べていたとかなのだろうか?」
……何故、クレソン。どうして今クレソン。クレソンはどこから。
シーツの中は熱が籠る。だから頭がのぼせたようになって働かない。
クレソンは夕食のサンドイッチに入っていて、クインは食べられるけれど、ヒューゴは多分苦手としていて……
「……くれそん、きらいじゃない、です」
それ以外の言葉が何も思い付かなかった。クインの返事を聞いたヒューゴは力なく肩を落とし、とても悲しそうな顔になった。
落ち込む前に、顎を持ち上げている手を外して欲しい。この体勢は恥ずかしいのだ。シーツのおかげで誰にも見られないだろうけれど。
……そうだった。思い出した。今日一日ずっとこんな感じだった。話が全くかみ合わなかった上に、突拍子のない言葉や行動に振り回されてきた。
「……では、食べさせようとしたのが、そんなにいやだった?」
ヒューゴは不安そうな顔でクインの答えを待っている。どうやら彼の時間は夕食後にクインと離れたところで止まっているらしい。
ヒューゴは気遣いを嘘と取ってしまう人だから、クインは嘘偽りない気持ちを伝えなければならない。そうでなければ……終わらない。
「……食べさせてもらうのは……ぎゅってされるより、恥ずかしい、です。………でも、いやじゃないです。きらいじゃないです」
「では、なぜ、あんな風に落ち込んでいたの?」
クインは言葉に詰まって目を泳がせる。……言いたくない。でも、言わない限り、ずっとこのままだ。それも困る。顔が、顔が近い……
「……ヒューゴさまは、ボ、ボクが女の子の姿をしたら……い、いいいやなのかなって思ったら、か、悲しくなって……」
「燕尾服姿も可愛かったけれど、そのドレスもとても良く似合っている。とても可愛い」
意味がわからないという顔で返された言葉の意味が、クインにはわからなかった。頭の中は疑問符だらけになる。
「クインの気持ちが楽になるのなら、十二歳の弟でも、ぬいぐるみでも、どんな設定でも私は受け入れるよ。でも、それでかえって君を不安にさせてしまったのなら申し訳なかった。その水色のドレスはあの日のレモン色のドレスより君に似合っていると思う。とてもかわいい。ベールは髪の長さを隠すためのものだと聞いたけれど、髪が短くてもかわいいよ」
一瞬何かおかしいと思ったはずなのに、その後に繰り返された『かわいい』という言葉で、違和感は頭の中から吹き飛んでしまった。
ますます落ち着かない気持ちになってクインは強く目を瞑った。頭がくらくらしている。今すぐこの閉ざされた空間から逃げ出したい。
……そんな風に思った時、クインはふと気付いてしまったのだ。
今ここには、暴走しかけているヒューゴを止めてくれる人が誰もいないという事実に。
そういえば、トマスとキースが幾度となくヒューゴに言っていた。『その自分本位な性格を直せ』……と。