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107 青い瞳の王子様 その1



 誰かが靴で細い枝を踏んだような音が室内のあちらこちらから聞こえ始めた。泥の匂いが強くなる。窓は開いていないのに、蝋燭の火が風に吹き消されたように一本また一本と消えてゆく。

 バタン! という大きな音と共に、突然入口のドアが閉まった。室内の全員が大きく体を震わせて一斉にドアを見る。廊下側の窓から入ってきた風に煽られたのかもしれないし……そうではないかもしれない。


「基本二階は出ないけど、この部屋だけは例外なんですよね。今日はいつになく激しいな。やだな……」


 ダニエルがぼそぼそとそんなことを言いながら、リリアに歩み寄った。

 リリアは、網の中で背中を丸めて、両手で耳を塞ぎ、ぎゅっと目を閉じている。ずっと強気の姿勢を崩さなかった彼女が、別人のように大人しくしているのだ。

 ……これで何も起こらない訳がない。グレイスはごくりと喉を鳴らした。


 次に聞こえてきたのは、トントントントン、トントントントン、という軽いノックのような音だった。ドアではなくそれが天井から響いてきているのだ。もしかしたら、上の階の部屋の床を誰かが叩いているのかもしれない。しかし、それを今やる意味がわからない。

 グレイスは顔を引きつらせて、恐る恐る天井を見上げた。ちらっと確認して、何でもないと安心したかったのだ……が、黒い影のようなものがさっとシャンデリアからシャンデリアへ飛び移っていったのをしっかり目撃してしまった。え? 今のは何? と固まっていると、ポンポンと軽く肩を叩かれた。


「今、何か飛んだよね! ここからあっちへ」


 ニールは興味深々というように、シャンデリアを指差した。……残念ながら見間違いではなかった。

 どうしてこの状況でニールはこんなに楽しそうにしていられるのだろうか。グレイスは思わずまじまじと従兄の顔を見つめてしまった。


「何が起こるか楽しみだね!」


 そこで同意を求められても困る。グレイスとしてはもう何も起こらないでほしい……しかし、その願いを神様は聞き届けて下さらなかった。


 室内の闇が一段と深くなった。エラが持っていたランタンの火がなんの前触れもなく突然消えたのだ。ニールが「お!」という顔をして室内を見渡し始める。

 火のついた蝋燭の数はいつの間にやら随分減っている。グレイスが座っている椅子の周囲はまだ明るいのだが、離れて行くほどに炎の数は減り、入り口付近はすっかり闇の中に沈んでしまっていた。

 グレイスの位置からはもう、エラとセーロの姿を見ることができない。向こうからはこちらの様子がはっきり見えていることだろう。暗い客席からは明るい舞台がよく見えるように。


「あ、きえちゃいましたね。……びっくりですね! ふふふっ。……せーろさん、こわいですか? こわいですよね? ないてもいいですよー……ふふふふっ」


 普通の状態の彼女なら、たとえ思っていてもそんなことは決して口にはしない。恐らく今のエラは気持ちが大きくなっている。

 ジョエルは、エラを自分の命令に素直に従う意志のない人形にするつもりだった。だけど上手くいかなかったのだ。抑え込まれるはずの意思や感情が、逆に開放された状態になっている。

 そして、ジョエルから『迎えに来たよ』と呼びかけられた時点で、本当ならばグレイスも、黄色いドレスで参加させられた舞踏会の時と同じ状態になっているはずだったに違いない。

 

 トントントントン、トントントントン、という音が急に大きくなる。蝋燭の炎がまた一斉に伸び上がって揺れ始めた。気を逸らすな、こちらに注目していろというように。


「何だ、何が起きようとしている!」


 怒りと焦りがないまぜになった声でジョエルが叫ぶと、八つ当たりのように近くの燭台を蹴り倒した。耳を塞ぎたくなるような大きな音を立てて、金色の燭台が床に倒れる。泥水で濡れていたため、蝋燭の炎が床に燃え移るようなことはなかった。

 想定外の事態に次々見舞われたジョエルは冷静さを失っている。


「大丈夫だよ、グレイス」


 優しい声がして、ベールの上から頬を軽くつつかれる。ニールは少し屈むようにしてグレイスの耳元に顔を寄せて囁いた。


「彼をよーく見てごらん。落ち着きなく体を揺らしているだろう? 精一杯虚勢を張っているだけで、本当は怖くて仕方がないんだ。この部屋から今すぐにでも逃げ出したい。でも、尻尾を巻いて逃走する姿をここにいる者たちに見せる訳にもいかない。いつまで待っても味方がここに辿り着くような気配もないし、相当焦っている」


 ニールは一度背筋を伸ばして、ジョエルに向かって意味ありげに笑いかけた後、再び身をかがめてグレイスとの内緒話を再開する。視線はジョエルの方に向けたままで。

 ……実は少し意地悪な人なのかもしれない。


「だって、考えてもごらんよ、彼が恐怖を感じていないのなら、自ら君をここまで迎えに来られるはずだ。それなのに、わざわざあの女の子に頼んだのは、足が震えて品よく歩けないからってとこだろうね。ああやって必死に恰好つけているんだ」


 成程とグレイスは大きく頷いた。


「グレイス、今すぐ私のところに来なさい!」


 確かにジョエルは、グレイスの近くまで歩いて来るつもりは一切ないようだった。


「……ほらね、この程度の男なんだよ」


 ニールは得意げにそう言って、にやりと笑ってみせる。

 バキバキっという音が室内に響き渡った。だからこっちを無視するなというように。


「グレイス! いい加減にしろ。さっさとこっちに来いと言っている」


「怖いので、歩けません」


 グレイスは正直に答えただけのに、それが気に入らなかったのか、ジョエルは激高した。


「口答えするな!」


 いきなり大声で叫ぶと、スーツの胸ポケットから何かを取り出し床に叩きつけた。

 ガシャンという音を立てて割れ砕けたのは、香水瓶だったようだ。強すぎる香りは匂いとして認識されず、強い痛みとなってグレイスに襲い掛かってきた。頭の中に手を突っ込まれてぐちゃぐちゃにかき混ぜられているかのようだ。あまりの気持ち悪さに目から涙が溢れる。耐え難い程の吐き気に襲われると同時に頭が割れそうに痛んだ。


『めずらしい香りだね。どこで手に入れたのかな?』


『これは特別に作らせているものですわ。これがあれば、お人形さんたちは何でも言う事をきいてくれますよ』


 ……そうだった。あの夜、目付け役の女は男達にちいさな香水瓶を見せていた。同じ会話が何度も何度も目の前で繰り返されていた。


「クラーラ! ただひたむきに私だけを愛するんだ。『約束された未来へ導く青い瞳を愛せよ!』命令に従いこちらに……」


 バンっという音がジョエルの言葉を遮った。ドアがひとりでに開いて、再び勢いよく閉まる。蝋燭の火が大きくなったり小さくなったり不安定に揺らぎ始め、ガタガタ、ガタガタとと窓枠が鳴り出した。天井からは相変わらず、トントントン、トントントンという音が聞こえてきている。


 ――ユルサナイ!


 それは……年齢も性別も異なる大勢の人間たちが一度に喋ったかのような大声だった。耳に届いたのか頭の中に直接響いたのかはわからない。


 ――コレ以上汚スノナラ、今スグ出テユケ!


 誰も触っていないのに部屋中の窓が順番に開け放たれてゆく。生暖かい風が一気に吹き込んでくると、室内を大きく旋回して耐えがたいまでの香水の匂いを外に運び去った。

 すべての音がぴたりと止む。同時にエラの持っているランタンの火がついて、入り口付近を明るく照らしはじめた。

 今のが現実だったのか幻覚だったのかはわからない。

 この部屋にいる全員が虚脱状態に陥っているようだ。誰も一言も発しない。


 しばらくすると、足音が聞こえて来て、ランタンを持ったヒューゴが開け放たれたままのドアから鏡の間へ入ってきた。グレイスはぼんやりとその姿を見つめる。


「今夜はいつになく幽霊たちが騒いでいるな」


 明かりを少し持ち上げるようにして周囲を照らしてから。ヒューゴは迷うことなくグレイスのもとに歩いて来ると、ランタンをダニエルに手渡した。


「ここの幽霊たちは屋敷を汚されるのを嫌がると、ウォルターが言っていた。……怒らせると怖いらしいぞ」


「……みたいですね」


 ダニエルが深い深いため息をついた。ヒューゴはニールに気付いて露骨に顔を顰めたが、結局何も言わず、椅子に座るグレイスを見下ろした。


「クイン、もう夜も遅いから一緒に部屋に戻ろう」


 そう言って、返事も聞かずにさっさとクインを抱き上げると、すたすたと歩き出してしまう。

 クインは水色の花の枝を握ったままの手を首に回して、ぎゅっとヒューゴにしがみついた。今は彼の強引さに助けられている。


「なるほど、そういうことか、おまえが横から掠め取ったのか。なんだ暗示はまだ効き続けているということだな」


 ヒューゴの前に立ちははだかったジョエルは、無理矢理両方の口角を上げたような奇妙な笑顔を浮かべていた。


「グレイス、その男は偽物だ。同じ青い瞳だから君は間違えたんだよ。今なら許してあげるから私の元に戻っておいで。言っただろう? もう立ち上がれないくらいかわいそうな目にあったら私が救い出して幸せにしてあげると。あの舞踏会から君を救い出すのは本来私の役目だったんだ」


「間に合ってます」


 クインはヒューゴにしがみついたままそっけなく答えた。一瞬にしてジョエルの顔がからすべての表情が抜け落ちる。みるみるうちにその顔が怒り赤く染まり、醜く歪んだ。まさか言い返されるとは思っておらず、咄嗟に声が出なかったようだ。

 ならば、今の内に言いたいことは全部言っておかねばならない。すぐに大声で怒鳴り始めるのだということはわかっている。


「ボクは、ボクを傷付けるだけの人とは一緒にいたくない。だから一緒には行かない。さようなら」


 一度深く呼吸をして、言いたいことはこれで全部だろうかと自分自身に問いかける。……もう何も思い浮かばない。


「もういいのか?」


「はい」


 ヒューゴの青い目を見つめながら、クインはしっかりと頷いた。




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