106 青い瞳のお姫様 その7
「喜劇の舞台の中では、真面目な顔して立っている人間が一番滑稽に見える。……想像力の欠如か、成程、痛いところを突いたね」
ニールは真面目な声でそう言った後、頭から網をかぶったリリアを見てまた笑いの発作に襲われていた。「結構、かわ、いい……よ、……それ」と途切れ途切れに呟いている。
「クラーラ!」
苛立ったジョエルの声が聞こえてくるが、従兄の背中に阻まれてグレイスにはその姿を見ることができない。
だが、『クラーラ』という名前を耳にした瞬間グレイスの体は竦み上がってしまった。まるで見えない手で心臓を握られて徐々に締め付けられていっているかのようだ。息苦しさと痛みで意識がぼんやりとし始める。
「クラーラお姉さまは、ここにはいらっしゃいませんよ?」
リリアが呆れかえった声でそう言ったのを聞いた時、グレイスはクラーラという人物が実在する人物だと初めて知った。お姉さまと呼ぶのだから、クラーラという名前の女性はリリアと親しい間柄なのだ。
(……あれ? クラーラ? クラーラは……わたし?)
その言葉をきっかけにして、グレイスの中で疑問がわき上がる。『クラーラお姉さま』とは一体誰なのだろう。どうして自分の名前ではないのに、呼びかけられたように錯覚してしまったのだろうか。一度おかしいと思うと、その違和感は無視できないくらい大きくなった。
(ちがう、ボクのなまえじゃない。ちがう……)
それは自分の名前ではない。違うのだと何度も自らに言い聞かせる。そうするうちに、きりきりと締め付けられるような胸の痛みが少しずつおさまっていくと気付いたのだ。
「クラーラ、彼女をここに連れて来なさい」
ジョエルが誰かにそう命じる声が聞こえた。その時にはもう、クラーラという名前を聞いても、グレイスはそれが自分に向けられたものだと思えなくなっていた。
しかし、ドアの前付近で立っていたエラは、肩を大きく上下させると何かに操られているとしか思えない不自然な動きで一歩を踏み出したのだ。そしていきなり手を伸ばして傍らに立っていた太った男の腕を引っ掴んだ。
「……いや、一人で行けよ」
喋るのもつらいというのがありありとわかる掠れ声だった。彼が動かないため、エラはその場で足踏みをするだけで前に進めない。
「いっしょにいきましょう。……だって……せーろさん……てをはなすと……わたしからにげようとする……」
エラの声を聞いたグレイスはぞっとする。寝言にしか聞こえなかった。自分はああいう状態に陥りかけていたのだ……
「……だから、立ってるのもしんどいんだよ。察しろ」
「じょうずにやせないと……かわがあまってしまう……みはってなきゃ……」
「あのなぁ……」
半分眠っているような状態のエラは、セーロと呼びかけた男の腕を引っ張り続けている。フィンとマーゴを背中に庇うようにして立っている彼は全く動く気がなさそうだった。
「ふふふ……みずいろのめのおいしゃさまが、せーろさんのかんびょうはまかせるからねって……いったので……いっしょにいきましょう」
「……話がすすまねーからさ……とりあえず、行け。ひとりで」
「ふふ……なきながら……いたがるせーろさん、けっこうかわいいんですよぉ……ふふふっ……さぁいきましょう」
にこにこ笑っているが、エラの言っていることは少しおかしい。おかしいのだが……グレイスは今日一日、そんな人たちばかりを見てきたため違和感を覚えなかった。ニールの言った通り、グレイスはすでにこの家に染まり切っていた。
「……なんでこうなった」
強引にエラはセーロの腕に自分の腕を絡めてしまう。セーロは観念した様子で項垂れると、まるで刑場に引っ立てられてゆく罪人のような重い足取りで歩き出した。三歩ほど歩いたところでエラは何を思いついたように立ち止まり、いきなり方向転換をして今度はドアへと向かい始める。
「……ちがう、あっちだ」
セーロがやる気なさそうにグレイスを指差す。エラはゆるく首を横に振った。
「やっぱりおやしょくをたべに、おへやにもどりましょう……きゅうにやせると……かわが……たるんでしまうので……ちゃんとたべましょうねぇ……」
「……なんで急に?」
さっと腕を抜いて後退ろうとしたセーロは、すぐさまエラに捕まり、引きずられるように方向転換させられていた。
「ふふふ……なきながら……いやがるせーろさん……かわいいんですよね……ふふふっ……」
エラがとても楽しそうに笑っている。言っていることはかなりおかしいのだが、半泣きになっている自分の口に、楽しそうにパンを放り込んでいた人をグレイスは知っているため、ここでもあまり疑問には思わなかった。
「なんで……なんでこうなった?」
エラから少しでも体を離そうとしているセーロの声には絶望感が滲みだしていた。悲しそうな目をしたフィンとマーゴが二人を黙って見つめている。
「みずいいろのめの……おいしゃさまに……せーろさんが……けんこうてきにやせられるように、てつだってあげてねって……いわれたんです……ふふっ……だから……たべましょう……だいじょうぶ……ちょーっといたいかもしれませんけど……たべてるうちになれます……ふふふふふっ……」
腕を振りほどいてエラから逃げようとしているセーロの動きは、傷が痛むせいか小さく弱々しい。エラはもう楽しくて仕方ないという表情で、嫌がっているセーロを眺めている。
きっと、……ヒューゴに抱え上げられて運ばれていた自分は、こんな感じだったんだろうなとグレイスは思った。
「クラーラ何をしているっ。なぜ命令に従わないっ」
とうとう、苛立ちを抑えきれなくなったジョエルは、紳士の仮面を脱ぎ捨ててエラを怒鳴りつけた。びくっとグレイスは体を大きく震わせる。さあっと血の気が引いて行くのが自分でもわかる。グレイスと同じように大きく体を震わせたエラが、ゆっくりと振り返った。
「いきなりどなりつけるようなひとは、ぐれいすさまにふさわしくないですって、りりあさまがいってました」
そして、普段の彼女ならば絶対にしないであろう、完全に相手を見下しバカにした態度でジョエルに向かってそう言い放ったのだ。グレイスは驚きのあまり恐怖を忘れた。
「ぐれいすさまは、あおいめのひゅーごさまがかならずしあわせにするそうです。おふたりはそうしそうあいなので、もうあなたのでるまくではないです、さようなら」
最初エラが何を言ったのか、グレイスにはわからなかった。頭が理解するより先に、頬が熱くなった。
必ず幸せにするから。そう言った声が、耳の中に蘇って渦を巻き始める。
今はそんな場合ではないのに、頬がかあっと熱くなり、心臓がどきどきし始めてしまう。氷に触れたような指先の冷たさはすぐに消え失せた。
「…………っふっ……くっ……くくっ……ははっは……はははははっ」
ひとり含み笑いを続けていた従兄は、またもや盛大に噴き出した。ふらふらとグレイスの横に戻って来ると、椅子の背に腕を乗せて顔を隠してしまう。先程お腹が痛いと言っていたが大丈夫だろうかと思ってよくよく見ると、片手で脇腹を押さえていた。しばらくそっとしておくしかなさそうだ。
従兄が目の前から移動したことによって、ジョエルの姿が見えるようになっていたのだが……そのことにグレイスは気付いてさえいなかった。
『青い目のヒューゴさまが必ず幸せにするそうです。お二人は相思相愛なので、もうあなたの出る幕ではないです。さようなら』
ぎゅうっと目を閉じて恥ずかしさに耐える。エラは相思相愛だと言ってくれたが、そうではないとわかっている。それなのに……顔の熱がなかなか引いてくれない。会いたい。声を聞きたい。その気持ちがどんどん膨らんでゆく。
ヒューゴはクレソン入りのサンドイッチを無事に全部食べきることができたのだろうか。それが彼に与えられた魔女の試練なのだとリリアが言っていたのを思い出してしまった。
もし、食べきることができたなら、彼は王子様としてグレイスの前に現れてくれるのだろうか。
(……ボク……本当は……)
ぎゅっと水色の花の咲く枝を握りしめる。どんな反応が返ってくるのかが怖くて、心の底に押し込めておいた気持ちが、エラの言葉でふっと浮上してしまった。
心に決めた方にお渡しください。そう言われてこの水色の花を手渡された時に、心に思い浮かんだ人がいた。でも、また拒絶されるかもしれないと思うと怖くて、自分を誤魔化した。
泥が乾いてしまうから早く掃除を始めないといけないとわかっている。でも……
「クラーラ!」
ジョエルが鋭い声が鏡の間に響き渡る。グレイスは顔を上げてベールの向こうの男をまっすぐに見つめた。
『君を傷付けるだけの者を、好きでいてはいけない』
そう言って頬に触れた手のあたたかさを覚えている。
優しく抱きしめてもらったのに、八歳の弟かもしれない、ぬいぐるみなのかもしれないと思い悩んで、切なくて悲しくて逃げてしまった。けれど……
――本当は今の自分の姿をヒューゴに見て欲しい。
室内の蝋燭が不自然に伸び上がり一斉に揺れた。天井の辺りから、パキッやらバギッやら奇妙な音がし始める。ダニエルが「そろそろ時間か」と呟き、網の中のリリアが顔色を変えて耳を塞いだ。
鏡の間の出入り口付近では、エラとセーロが揉めていた。
「……さあ……せーろさんいきましょう……きゅうにやせすぎです……ふとりましょう……かわがたるまないように……しなくちゃ……」
「なぁ、おまえ、なんでこんなんになっちまったんだよ……」
セーロの悲痛な声を耳にしたエラは、ぱちぱちと目を瞬かせて、照れたように笑った。
「えー? わたしもとからこんなですよぅ?」
木材が割れるような音に重なるように、上の階で誰かが走り回っているような足音が聞こえ始める……