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105 青い瞳のお姫様 その6



 一見優しく微笑んでいる王子様が、とても恐ろしい人だとグレイスは知っている。

 母の葬儀が終わった後、彼はグレイスの目の前で、巣から落ちた雛鳥の死骸をナイフで切り刻んだ。


「こうやって生き物の体の中がどうなっているのか調べるんだよ。生まれたての赤は本当に美しいよ……そうは思わないかい? かわいそうな私のグレイス」


 血で染まるナイフに怯えながら、グレイスは頷くことしかできなかった。母親がこの世を去ったということを受け止めきれない少女の心に、その出来事は深い傷を残した。

 そして、その日を境にグレイスを取り巻く世界は少しずつ少しずつ壊されていったのだ――



「リリア嬢も久しぶりだね。元気そうで何よりだ」


「以前どこかでお会いしたことがございましたか? まーったく覚えておりません。申し訳ございません」


 リリアは澄ました顔でそう返す。誤魔化したというよりまるで記憶がないというような自然な態度だった。そして特に興味もないといった様子でグレイスに向き直ると、膝の上に置かれたままの、水色の花の咲いた枝をそっと持ち上げる。

 目の前に差し出された枝をのろのろとグレイスは受け取る。水色だったはずのその花が今はもう灰色に見えていた。どんどん目の前が暗くなってゆくような気がする。


 懐かしいけれど、ひどく不快に感じられる香水のにおいが漂ってきている。母がつけていたものと似ているけれど……少し違う。花のような果物のような香りは、母の葬儀の時の記憶に繋がっている。重苦しい空。黒い服を着て泣いている人々。グレイスの記憶の中で小鳥の体から流れた血だけが赤い。


「おいで、かわいそうな私のグレイス。ここは君には相応しくないよ」


 記憶の中と同じ、甘く優しい声が耳に届いた。それだけでグレイスの体はまるで見えない糸に縛り付けられたように自由に動かなくなる。喉がつまったようになって上手く呼吸ができない。


「さあ行こうか。君はかわいそうなままで私のそばにいれば……」


 その言葉を途中で遮るように、どたどたどたという足音が聞こえてきた。


「グレイス、迎えに来たよ!」


「グレイス、さあ、僕と一緒に逃げよう」


「いや私と一緒に逃げよう」


「ちがう、グレイスは私と一緒に行くんだ」


 我先にと鏡の間に駆け込んできたのは、泥まみれの王子様たちだった。彼等は燭台が不規則に立ち並ぶ鏡の迷路に惑わされて入り口付近で足を止め、グレイスに向かって手を伸ばし、口々に叫び始めた。


「……へ?」


 唇から零れ落ちた自分の声を、グレイスの耳は確かに拾った。

 顔もわからないくらいに汚れ切った男たちが、どんどん鏡の間に集まってくる。全員が全員声を張り上げて勝手な事を喋っているせいで、あっという間に耳を塞ぎたくなるくらいに騒がしくなってしまった。しかも小競り合いまで起こっているようだ。泥まみれの人の壁に阻まれて、ジョエルを含めた服が汚れていない人々の姿はグレイスの位置からは見えなくなった。


「グレイス―、来たよー。待たせてごめんね、さあ一緒に行こう!」


「何を言っているんだ。グレイスは私が連れて行くんだ」


「ふざけるな俺だっ」


 先頭にいる者たちがその場で立ち止まってしまっているせいで、室内に入りきれない者たちの間で喧嘩になっているようだ。廊下から怒声が聞こえはじめた。


「……あ……れ?」


 いつしか体に纏わりついてきていた香水の香りも消えている。室内は……泥臭い。グレイスの意識は一気に浮上した。


「悪夢から覚めましたか?」


「お目覚めかい、かわいいお姫様?」


「大丈夫ですか? グレイスさま」


 リリアとニールとダニエルからそう声をかけられて、グレイスはおずおずとちいさく頷く。


「……あの男にとっては耐え難いまでの屈辱だろうね!」


 楽し気なニールの笑い声が、最後まで意識に纏わりついていた不快な匂いを吹き飛ばしてしまった。グレイスはお腹を押さえて笑っている従兄をぼんやりと見上げる。


「毎回どうやって思いつくんでしょうね……」


「後片付けとか後始末とかまーったく考えないですからね。全部部下任せにしてやりたい放題。トマスさまとイザベラさま、戻って来てこれ見たら泣くだろうな……夜は長いなー」


「あ、やっぱりこうなるってトマス知らされてないんだ。……帰ってきたら絶望するだろうね!」


 ニールは笑いながらその場にしゃがみこんでしまった。従兄はもう何を見ても何を聞いても笑いが止まらないという状態に陥っているようだ。


「邪魔だ退け、グレイスが待っているのは俺だ!」「いや違う俺だ。俺を待ているんだ」「というか。最前列の奴ら何やってるんだよ、早く中に進めよっ」「後ろがつかえてるんだよ! もっと前つめろ」「いってぇな、やんのかよ!」「私じゃない。隣だ隣!」「んなもんもうどっちでもいいんだよっ。だから押すなって言ってんだろうがー!」


 怒号に打ち消されて、ニールの笑い声は全く目立たない……

 リリアにちらっと視線を移すと、彼女も口元を両手で隠して肩を揺らしている。ダニエルは焦点の合わない目でぼーっと泥まみれの男達を見つめていた。

 気付けば世界に色が戻っている。グレイスの心はすっかり落ち着きを取り戻していた。 


「グレイス私と行こう」「いや俺だ」「何を言ってる俺に決まってるだろう」「お前はもう一度穴に戻れ」「グレイス、迎えにきたよ」「グレイス、一緒に行こう」「グレイス。迎えに来たよー!」


 ……先程まであったはずの深刻な空気は一体どこへ消え失せてしまったのだろう。グレイスは心臓に手を当てて少し考えてみる。……もう、欠片も残っていない。


(あ、だいじょうぶ……)


 そう気付いた途端に、すとんと体中の力が抜けた。

 そうだった。リリアたちがそばにいてくれるのだから、何の心配もいらない。だって、グレイスのことを必ず守ると約束してくれたのだから。そうなると別のことが気になり始める。


「リリアさま、フィンと、マーゴが……エラさんも……」


 泥だらけの人間が乱闘騒ぎを起こしているせいで、彼らの姿は全く見えない。安全な場所に避難できただろうか。


「多少泥は被っているかもしれませんが、大丈夫だと思いますよ。……それより、グレイスさま、後で一緒にお掃除がんばりましょうね!」


 リリアに底抜けに明るい声でそう言われた瞬間に、グレイスははっと気付いた。泥だらけの人間が館内を走れば……玄関は、大階段は、廊下は……そしてこの部屋は……


「どこもかしこも見事に全部泥だらけですね!」


 リリアはもう笑うしかない! という表情だった。


「……お……おそうじ、たい、へんだね! ……ははっ……く……くるし……」


 ニールは床に手をついてまだ笑い続けていた。ひくっとグレイスの顔が引きつる。今この間にも、部屋や廊下は汚れている。どんどん屋敷は汚されてゆく。


「だからグレイスは俺と一緒に行くんだよ」「ちがうっ、私と一緒に行くんだ」「おっまえ、ふざけんな、さっきから肘が当たってるんだよ」「だから隣の奴だっていってるだろう」「うるせーんだよ。ってかいつになったら進むんだよ」


 俺だ、私だ、僕だ……グレイス、さぁ一緒に行こう! いや私と一緒に行くんだよ。さぁ行こうね……迎えに来たよ! 




 ――グレイス! グレイス! グレイス!




 ぐわんぐわんと室内に声が反響して、グレイスの頭の中で回り始める。目を閉じて両手で耳を塞いでしまいたい衝動に必死に抗う。泥が飛び散って鏡を汚してゆく。暗くて見えないのだが、床はもうひどい状態になっているに違いない。きっと部屋も廊下も玄関も泥だらけ……


(部屋が……掃除……そうじが……)


 最前列の男たちが折り重なって床に倒れた途端に、グレイス中でぶちっと何かが切れる音がした。


「だから、ひとちがいですっ」


 気付けばグレイスは花枝を握りしめて立ち上がり、大声で叫んでいた。

 しんっと室内は静まり返る。


「ボクはどこにもいきませんっ」


 お腹の底から声を出す。何年振りだろうというくらいの大声だ。まだ自分はこんな声が出せたんだと驚く。泥だらけの男達が一斉にグレイスの方を向く。


「これ以上お屋敷を汚さないでーっ」


 体の中にある空気をすべて吐き出すようなつもりで叫ぶ。声は割れて喉がひりひりした。ひとりでに涙が溢れ出す。


「え? ボク?」「男の子?」「あれ? ちっちゃくないか、あの子」「え? え? 子供?」


 そんな疑問の声が次々上がり始める。すると、今まで黙って立っていたダニエルが、パンっと手を叩いた。


「はいっ。そこまでです。きれいな水と着替えと温かいスープが庭に用意されております。お怪我をされている方は、そちらで手当てをしてもらってください。では、案内係の誘導に従って順番に移動して下さい。泥で滑るので十分お気を付けください。お疲れさまでしたー」


 水と着替えという言葉に泥だらけの男たちはピクっと反応する。すると、間髪入れずに高く可愛らしい声が廊下から聞こえてきた。


「ヘイゼルと申しまぁす。はーい、こちらへご注目下さーい。こっちですよぉー。わ・た・し・に注目、ですっ! 着替えもスープも十分な量用意されておりますので、ご安心下さーい。部屋の外でお待ちの方から順番に階段の方へお進みくださいねー。一階には別の案内係がおります。では先頭の方からどーぞぉー」


「おいっ、すっごい美女がいるぞ。しかも二人もっ」「ホントか、うわっ、ホントだ」「ちょっと俺にも見せろっ」「って押すなよ」「おい、早く外出ろよっ」


 鏡の間に入ろとして揉めていた男たちは。美女がいるという声を聞いた途端に、後ろを振り返り、今度は一斉に廊下に出ようとし始めた。


「慌てなくても、大丈夫ですよー。ヘイゼルはぁ、最後までここでお客様をお見送りいたしまぁす。泥を落として着替えたら、わ・た・し・に会いに来てね! スープを用意して待ってまぁす!」


「マノンと申します。前を歩く方を押さないようお願いいたします。落ち着いてゆっくりとお進み下さい。お怪我をされていらっしゃる方はわたくしが手当いたしますので、どうぞ着替えてからおいでくださいませ」


 明るく可愛らしい声の後に、落ち着いた清楚な雰囲気の声が続いた。廊下の方で何やら、うおぉぉぉっという歓声が上がっている。


「三列に並んで下さいねー。はーい、こんばんわぁ。おつかれさまでしたー!」


「落ち着いてゆっくり行動なさってください。ここでまた滑って転んでお怪我をされるようなことがございませんよう、十分にお気を付けください」


 女性の声にひきよせられるように、ぞろぞろと泥まみれの男たちが鏡の間から出て行く。彼等が去った後、水を含んだ泥が蝋燭の灯りを反射しててらてらと光り輝いていた。

 廊下も階段も玄関もこの状態なのだ。乾く前に拭きとってしまわないと大変なことになってしまう……くらりっと眩暈がして、グレイスは椅子の背もたれに倒れ込んだ。


「命令するだけの人っていいですよねー。誰が掃除すると思ってるんだろ。キースも泣くだろうな……」


 部屋の惨状を眺めながらぼそりとダニエルがそう言った。その言葉にがばっとグレイスは体を起こした。現実逃避している場合ではないのだ。泥はどんどん乾いていってしまう。


「リリアさま、掃除、掃除しましょう。ボクすぐに着替えます!」


「えっと……お姫様、王子様はどういたしましょうか?」


 にっこり笑ったリリアが軽く首を傾げる。グレイスは涙を目に溜めながら首を横に振った。


「どうでもいいです。ボク、お姫様じゃないし。それより、泥が乾いてしまったら、掃除が大変なことに」


「……だ、そうですよ? ですので、今夜の所はどうぞお引き取り下さいね。『文句があるなら直接言いに来い』との伝言を預かっております」


 その時、何かが勢いよくグレイスに向かって投げつけられた。リリアがグレイスの前に立ちはだかり、エプロンを広げて受け止める。


「ウズラですね。羽をむしって、内臓を取ってハーブと一緒に焼きましょう。明日の朝ご飯は少し豪華になりますね」


 リリア落ち着き払った声でそう言うと、血を流しているウズラを大切そうに両手で包み込んだ。感謝を捧げるように心臓より高い位置に持ち上げて目を閉じる。

 白いエプロンは血で染まり、指の隙間から赤い血がしたたり落ちる。でも、グレイスの心はもう、それを非日常の光景だと拒絶することはなかった。リリアは燭台のそばにウズラを置くと、エプロンで手を拭いた。


「私の手は毎日血に染まっております。人は、命を食べて生きているのですから。……そういうことを、想像することすらできないのですね」


 リリアがドアの入り口に向かって冷たく言い放った直後に、グレイスの視界は黒い背中によって塞がれてしまった。今度はニールがグレイスを庇ったのだ。同時にどこかで、ゴンという鈍い音がした。


「ちょっと、リリアさま、何で靴投げるんですか」


「血で手が滑りました。別にいいじゃないですか。このくらいのかわいい仕返し」


「よくないですよっ」


「アーサー殿下が、何してもいいよって!」


 焦っているダニエルに対して、リリアは大変可愛らしい声を作ってそう言い返している。


「はぁぁぁっ? 妙に強気だと思ったら、そのせいだったんですね」


「女性にやり込められたら相当悔しがるだろうから、好きに暴れていいよって言って下さったのです!」


「って、普通に靴投げようとしないで下さいっ。他の人に当たったらどうするんですか」


「片方だけ靴履いててもしょうがないし、他の人はセーロさんが庇ってるから大丈夫ですよ。はなして下さい。アーサー殿下の許可はいただいてます!」

 

 ニールの背中で隠されてグレイスには二人の声しか聞こえない。ばさっという音がしたと思ったら、網にくるまれたリリアがダニエルによって運ばれてきた。その手には靴が握りしめられている。ダニエルはグレイスの座る椅子の隣にリリアを置いた。


「本当に、アーサー殿下、何やってもいいよっておっしゃったのですっ」


 網の中でリリアは頬を膨らませて怒っていた。


「ここでちょーっと大人しくしててくださいね。グレイスさま、リリアさま見張っといて下さい」


「……はい」


 もう何が何だかわからないグレイスは、神妙な顔で頷いた。ダニエルが踵を返した直後、リリアは靴から手を離した。エプロンのポケットをごそごそと漁り、ちいさな刃物を取り出して網をこすりだす。


「……ダニエルさん……リリアさま、網、切ってます」


 見て見ぬふりをする訳にもいかないので、グレイスが報告すると、立ち去りかけたダニエルが、ばっと振り返った。リリアが気まずそうに手を止めてすっと背中に手を隠す。


「本当に、本当に、本っ当に怒られますからね!」


「だってアーサー殿下が……」


「アーサー殿下の名前出せば何でも許される訳ではないですっ」


「リリアさま、はやく、お掃除はじめないと、泥が乾いてしまいます」


 ダニエルとリリアの言い争いにグレイスは思わず割って入る。一刻も早く掃除しなければと、もう気が気ではない。これでは、お城の舞踏会に行った人たちを迎え入れられない。疲れ果てて帰って来るのに、屋敷がこんな状態だったら……


「戻って来られるまでに、お掃除しておかないと、リリィさまも皆様も、とても悲しみますっ」


「本当に、全っ然話が進まないね。完全無視って自尊心の高い人間には耐えられないよなぁ。もうこの空気の中、どうしたらいいのかわからないんじゃないか? ……まぁ喧嘩を売った相手が悪すぎたね」


 前を向いたままニールがまた笑い出していた。





シリアスな展開を期待されていた方が、もしいらっしゃいましたら……申し訳ございません。

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