104 青い瞳のお姫様 その5
先程から、ごく自然にヒューゴと呼んでいることが気になり、グレイスは思い切って従兄に尋ねた。
「あの……ニールお兄さまは、ヒューゴさまと、親しいのですか?」
「……うん、君は本当に素直ないい子だね」
また大きな手がそっと頭に触れてから離れていった。ニールは何故か苦しそうに微笑んでいた。
「……ああ、質問の答えとしては、親しくはないよ。でもよく知ってる」
曖昧な答えにグレイスが首を傾げると「同年代だからね。存外狭い世界なんだよ」そう付け加えてニールはこれでこの話は終わりというように前を向いた。
「グレイスさま、そろそろ、この雰囲気に慣れました?」
そのタイミングで入り口から顔を覗かせたダニエルが、グレイスに向かってそう尋ねる。グレイスは、ちょっと胸に手を当てて規則正しく打つ心臓の音を確認してから頷いた。
「はい……だいじょうぶ、です」
「では、主賓がそろそろ到着されるようなので、その前に片付けてしまいましょう。ブレアさん呼んできます」
ダニエルはそれだけ言って姿を消した。ブレアという名前には聞き覚えがあった。どこでだったろうかと考えていると、リリアがグレイスの隣までやってきて、無言ですっと手を差し出した。反対側からニールも手を差し出してくるから、グレイスは持っていた花を膝に置いて、二人と手を繋ぐ。
すぐに戻って来たダニエルは、迷いなく室内を進み、先程までリリアが立っていた位置で立ち止まった。
「ここにいる全員で必ずお守りいたします。ですから、何も心配いりませんよ。ニールさまは、こういう時に全く役に立たないヒューゴお兄さまとは違います」
「リリアさま、だから怒られますって」
ダニエルがげんなりした様子でリリアを窘めた。
「……まぁ、本当のことだし?」
ぼそりとニールが呟いているのをグレイスは確かに聞いた。グレイスの両側に立つこの二人の中で、ヒューゴの評価は相当低いようだった。
「……来ますね」
ダニエルが低い声で呟く。椅子の両側に立つ二人と手を繋いでいるグレイスの心は、波のない湖のように静かだった。この時点ですでに、何か予感めいたものはあったのだ。
しんっと室内が静まり返る。やがて、今までの王子さまより年老いた男性の声が聞こえてきた。
「ここか。全く、随分歩かされた」
びくっとグレイスの体が震えたことに気付いた両側の二人が少し強く手を握る。はっとして二人を交互に見ると、大丈夫だというように笑顔で頷いてくれた。グレイスはぐっと奥歯を噛みしめ、俯きそうになる顔を上げる。見たくはないけれど、確かめなければならない。
鏡の間に入って来たのはやはり、グレイスもよく知っている顔に目立つ痘痕のある壮年の男だった。ベールのおかげではっきりと顔は見えないことにまずはほっとする。
男はあの舞踏会の夜と同じくイブニングドレスコート姿だ。指先が冷えて痺れたようになり、鼓動が走り始めるが、それでもぎりぎりの所で冷静さを保てたのは、男が若い女性を伴って目の前に現れたから、というのが大きかった。
「暗いので、どうか足元に気を付けて下さいね、もし万が一旦那様が転んで怪我でもなさったら、わたくしどうしていいのか……」
暗くて色ははっきりとわからないが、女は肌を完全に隠す清楚なアフタヌーンドレスを着ていた。男に抱きついて胸元に顔を埋めるようにしな垂れかかり、指先で白い蝶ネクタイをなぞっている。
二人は見つめ合ったままゆっくりとグレイスに向かって歩いてきていた。
「暗くて恐ろしいですわね。旦那様、どうかわたくしを離さないで下さい……とても怖いの」
弱々しい声でそんなことを言いながらも、女の方がさりげなく男の体を引っ張って、進む方向を誘導しているのがわかる。二人の後ろには、三つ揃えのスーツを着た中年男性が完全なる無表情でついてきていた。手に筒状にした紙を持っている。
「わたくしは旦那様のことを誰より愛しております……どうかその気持ちを疑わないでいただきたいのです。旦那様の気持ちがわたくしから離れてしまわないかどうしても不安なの。私はこの通り器量が良くないものですから……」
甘えた声で彼女はそう告げると、ぎゅうっと男の首にしがみついた。そして上目遣いで男の表情を窺う。
呆気に取られているグレイスの耳元に唇を寄せて、リリアが「今からお芝居が始まるのですよ」と囁いた。
「…………え?」
グレイスは思わずアフタヌーンドレス姿の女性を、頭のてっぺんからつま先までまじまじと眺めてしまった。視線に気付いた彼女はグレイスの方に顔を向けると、男に見えないように軽く手を振る。まるで顔見知りの観客に対するサービスのように。
「ああ旦那様! わたくしの旦那様! 誰よりも愛しいわたくしの旦那様!」
そして、すっと息を吸ってから、両手を天井に向かって持ち上げ……高らかにそう歌い上げたのだ。
「……え?」
「……は? 歌?」
「……へ? 何で歌? 何の歌?」
リリアとニールとダニエルがかたまっている。どうやら歌うのは想定外だったようだ。
――その瞬間から、鏡の間は彼女の独壇場となった。
いつの間にやらグレイスは、劇場の椅子に座って、幻想的な舞台の上で繰り広げられるお芝居を観ているような気分になっていた。
女は男の手をとって自らの頬にあてる。そして、その手のひらにそっとキスをすると再びしどけなく男の胸に凭れかかって目を閉じた。ひとつひとつの動作がわざとらしいまでに大袈裟なのに、男は全く気にする様子もない。締まりのない顔で、愛おしそうに彼女の顔だけを見つめている。
「旦那様がわたくしよりもずっと可愛らしい彼女をお選びになるかもしれないと思うと、わたくし……わたくし……ああ、嫉妬でおかしくなってしまいそう!」
開いた手のひらを上にしてまっすぐ前に勢いよく右手を突き出し、宙を切るように大きく左から右へと動かしたと思えば、突然がくっと項垂れてゆるく首を振る。しばらく静止した後、両手を広げて大袈裟な動作で男に抱きつくと、胸に頬を擦りつけはじめた。彼女の声は若い女性にしては少し低めだったが、それがぞくりとするような色気を醸し出している。
「そうかそうか。そんなに不安にさせてしまったんだねぇ。では、さっさと終わらせて明日朝一番で登記所に行こうか」
男は上機嫌だ。女性の背中から腰を撫でまわして脂下がった顔でにたにたと笑っている。男の目はもう完全に節穴になっていた……
「ほんとうですか? ……わたくしはずっとずっと旦那様と一緒にいられるの? 旦那様は本当に、たいして器量が良くないわたくしを選んで下さるのですか?」
女はがばっと顔を上げて、男の両頬に手を当ててその目を覗き込む。
「もちろんだとも。さあ早く終わらせよう」
「ならば、あの方の前で、わたくしの方を選ぶと宣言してください。どうか…どうか、わたくしの願いを叶えて……」
唇が触れそうな位置まで顔を近付けながら女は哀れっぽい声で懇願した。男は鼻息を荒くして落ち着きなく身体を揺らしはじめる。
「それでおまえが安心するのなら、さっさと済ませてしまおうねぇ。ああ本当におまえは可愛いねぇ」
「うれしいですわ。旦那様! わたくしは心から旦那様のことをお慕い申し上げております!」
大袈裟に男の顔を両手で撫ぜ回して喜びを表現してから、彼女は男の頬に音を立てながら何度もキスをした。男の顔がますますだらしなく緩む。もう口が半開き状態だ。
背後に立っているスーツ姿の男性は、ぼーとどこか遠い場所を眺めていた。
「でも……」
突如女は暗く沈んだ声を出す。ちらっとグレイスの方を見てすぐに、額に手を当てて大きくふらつくと、力尽きたように床に崩れ落ちた。急展開にグレイスは思わず息をのんだ。
「そうは言っても、わたくしよりずっと若くて可愛らしいあちらのお嬢さんをお選びになるのですわ。だってあの方はわたくしよりずっとずっと可愛らしい。わたくしがあの方に勝てるものがあるとするなら、それは旦那様への愛だけ。……でも、きっと旦那様はわたくしの言葉を信じては下さらない」
横座りで床に両手をつき、暗く沈んだ声でそう言うと、女は両手で顔を覆って勢いよく首を横に振り始めた。グレイスは彼女の迫真の演技に一気に引き込まれ、瞬きも忘れて見入ってしまう。
「旦那様はわたくしをお捨てになるのですわ。わたくしより彼女をお選びになるの。そんなの耐えられない。わたくし、わたくし、やはり身を引きます。でも、どうか忘れないで下さいまし。わたくしはこの世で一番旦那様の幸せを願っております。この心を旦那様にお見せすることができればいいのに!」
再び急な眩暈を起こしたかのように哀れっぽく床に両手をついてから、顔を背けて涙を拭う仕草をする。そのまま女は口元に手をあてて、声を詰まらせながら泣き始めた。
「落ち着きなさい。ちゃんとおまえの気持ちはわかっているよ。そうかそうか、これがあるだけでそんなに不安にさせてしまったのか」
男はそう言って、背後の中年男性が持っていた筒状の紙を奪い取ると、いきなり近くの蝋燭の火の上にかざした。
「はあぁぁぁ? 何考えてんだ、こんな所で紙燃やして、火事になったらどうするんだっておまえら聞けよ人の話っ」
スーツの男は慌てて炎が燃え移った紙を取り戻すと床に落とし、靴で踏んで火を消し始める。その間にも何だかよくわからないお芝居は続いていた。
「旦那様、旦那様はそこまでわたくしのことを思ってくださっていたのですね」
「当たり前じゃないか!」
感極まった声をあげて、女性が立ち上がって男に抱きつく。そして少し仰向きになって目を閉じた。男が真っ赤な顔でにやつきながら顔を寄せて行く。
(え……えええーっ)
グレイスの目が大きく見開かれる。別の意味で心臓がどきどきし始める。しかし、鼻先が触れるという瞬間に、何やら鈍い音がして男の体が後ろにのけ反った。
意識を失った男をうつ伏せで床に寝かせた女は、グレイスを振り返って、ぱちん、と片目を瞑ってみせる。ほっとグレイスは息を吐く。あまりの緊張感に息をするのも忘れていた。
「……という訳で、一緒に登記所ではなく地下牢に参りましょうね。あなたが娘たちに与えた悪夢が濃縮されて待ち構えておりますよ。ふふっ。生きて出られるとよろしいですわね?」
女は床に伏した男に対して、別人のような冷たく低い声で語りかけている。あまりの変貌ぶりにグレイスは言葉を失った。
「足、大丈夫ですか? まさかいきなり火をつけるとは思ってなくて」
ダニエルが二人の背後にずっと付き従っていたスーツ姿の男性に駆け寄ってゆく。
「焦った。焦ったよ。本当に焦ったよっ」
ぜいぜい肩で息をしながら、半分焼け焦げた紙をまだ足で踏み続けている男は涙目だった。
「ここ暗いんで、明るい所で火傷してないか確認しましょう。興奮状態で麻痺してるだけかもしれません。行きますよ」
ダニエルが男に肩を貸しながら歩き出す。アフタヌーンドレスの女性は、倒れている男の足を持ってずるずると引きずりながら、その後に続いた。
彼らが去ると、床には燃え残ったボロボロの紙切れがが残された。リリアがグレイスから手を離してそれを拾いに行く
「グレイスが怖くなかったなら良かったんだけど……すごいものを見せられたね……」
ニールが繋いでいた手を離して、またそっと頭を撫ぜてくれる。そして少しずれてしまったグレイスのベールを直した。
リリアはグレイスの正面に戻って来ると、ボロボロの紙を丁寧に広げる。燃え残った部分にあの日震える手で書いたサインが残されていた。
グレイスは言葉もなくその文字を見つめる。自然と涙が溢れた。でもその涙は恐怖ではなくて……やっと悪夢が終わったという安堵の涙だった。
ダニエルが石炭バケツを持って駆け戻って来る。リリアが先程の男と同じように蝋燭の火を紙に移し、そのまま空のバケツの中に落とした。炎をあげて紙はあっという間に黒い灰になる。瞬きもせずにグレイスはその様子を見つめていた。
しばらくの間、無言でバケツの中で燃え尽きた紙切れを見つめていた。
数人分の足音が徐々に近付いて来ていることに気付きながらも、誰も一言も発しない。
恐らくその足音の主がダニエルの言う主賓なのだろうなと、グレイスはぼんやりとそんなことを考えていた。
「約束通り迎えに来たよ」
グイレスはゆっくりと声がした方に顔を向ける。
「さあ、一緒にエルナセッドの屋敷に帰ろう。ちゃんと全部元に戻しておいたんだ。幼い君とかくれんぼをして遊んだ頃と全く同じようにね。かわいそうで愛しい私の大切な大切なお姫様」
ぼんやりとした目をしてランタンを持ったエラと、片頬が腫れた太った男性。そして、悲し気な目をしたフィンとマーゴと……
「……ジョエルさま」
久しぶりに呼んだその名前は、まるで甘い毒のように舌を痺れさせた。
懐かしい匂いがグレイスの体を包み込むと、霧が晴れるように隠されていた記憶が鮮明になってゆく。その代わりに今度は目の前の景色が急速に色を失い始めた。
欠けていた記憶が戻る。
思い出の中の穏やかな風景が、不穏な色を帯びてゆく。
記憶の中の風景にひとりの青年が降り立った。たったそれだけのことで、色鮮やかで幸せだったはずの子供時代の思い出が、すべて灰色に塗りつぶされていった。
『必ず迎えにくるよ。でもそれは今じゃない。君がもっともっともっとかわいそうな目にあって一人ではもう立ち上がることも出来なくなった時に、私が救い出して幸せにしてあげる。かわいそうなかわいそうな私のクラーラ』
記憶の中の青い瞳の青年は、いつもそう言ってグレイスに優しくキスをした。