103 青い瞳のお姫様 その4
短いです。申し訳ございません。
いきなり怒鳴りつけられてもあまり怖くなかったのは、ベールのおかげだった。たった一枚のレースなのに、まるで真珠色に輝く強固な殻に守られているような気がするから不思議だ。不躾な視線も失礼な言葉も、グレイスの心に深い傷をつけることはできない。
「非常に不愉快だな」
低く威圧するような声が室内に響き渡る。グレイスは肩を震わせて隣の青年を振り仰いだ。先程まで楽しそうに笑っていた彼は、眉間に皺を寄せて暴言を吐いた男を睨みつけていた。
「そうですね、非常に不愉快ですね」
リリアの声も、聞いた事がないくらいに冷たい。室内の闇が濃くなったような気がした。
「どうしてくれようか」
「どうしましょうね」
(お二人とも……怖いです)
グレイスは怒鳴られたことなどすっかり忘れ、はらはらしながら二人の様子を交互に確認する。ベールの下から見てもわかるくらい二人は怒り、苛立っていた。
一番気になったのは。リリアの体の横で震えている固く握られた拳だ。あれで殴りかかるつもりかもしれない。
「リリアさま! お約束、です」
その声にはっとリリアは拳を解いた。グレイスの方を見て、大丈夫だというようにしっかりと頷く。
「女性をいきなり怒鳴りつけるような方は、グレイスさまに相応しくありません」
緑の軍服の男を見据えたまま、リリアが温度のない声でそう告げた。さっと男の顔色が変わる。
「お引き取り下さい 隣のお部屋で弁護士が待っていらっしゃいます。お帰りの前にそちらへどうぞ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、私はグレイスに会うためにわざわざここまで……」
「ですから、あなたはグレイスさまに相応しくないと先程申し上げました」
リリアは相手を見据えて、毅然とした態度で断言した。緑色の軍服の男は気おくれしたように体を引いたが、すぐにそんな自分を恥じるように、突然声を張り上げた。
「冗談じゃないっ。今すぐ本物のグレイスをここに連れて来いっ。わざわざ来てやったのに、偽物を用意するとか馬鹿にしているのかっ」
そう言って駆け寄ろうとした男は突然、足をもつれさせて床に倒れ伏した。オレンジの炎が一斉に揺らめく。男は自分でもどうして倒れたのかわからないというように、驚愕に目を見開いて上半身を起こした。いかにも恐る恐るといった感じで後ろを振り返り、床にだらしなく伸びている足を見て、ひいっという情けない声をあげる。ズボンの一部が切り裂かれ、切り傷から血がにじみ出していた。
「幽霊たちが怒りだす前にお引き取りいただけますか? このままだと、呪われてしまいますよ?」
リリアの言葉が終わるか終わらないかの内に、今度は男の頬にぴっと赤い線が引かれた。唇を真っ青にした男は慌てて体を起こし、片足を引きずるようにして、一度もグレイスを振り返ることなく逃げて行った。
リリアは男が倒れていた辺りまで歩いてゆくと、燭台の手前に落ちていた何かを拾い上げて、エプロンのポケットにしまっている。
「大丈夫かい、従妹殿」
傍らに立つ従兄という男性が体を屈めて、ベールに隠されたグレイスの顔を心配そうに見つめていた。
「だいじょうぶです……怖くなかった、です。……心配してくださり、ありがとうざいます」
「そうか、ならよかった」
男は安堵したように笑って「次はもう少し紳士的な王子様であってほしいね」と続けた。
「……えっと、これは、どういうことなの、ですか?」
意を決してグレイスが尋ねると、彼はちょっと考え込むような目になった。
「ああ、うん。偽物のお姫様がね、君の名前を使ってちょっと困ったことをしてくれたんだよ。でも、偽物のお姫様に心を奪われてしまった王子様たちは、何度説明してもお姫様が偽物だったと認めたがらなくてね。……鬱陶しいからちょっと怖い目にあってもらうことになった。自分の見ていた夢が悪夢だとわかれば、現実に戻りたくもなるだろう?」
男は穏やかな声で優しく言い聞かせるように説明してくれたのだが、グレイスには意味がよくわからない。
リリアは、今度は先程グレイスたちが眺めていた窓のそばにしゃがみ込んで何かを探していた。目的のものを見つけると拾い上げてエプロンのポケットにしまう。そして、すっと立ち上がるとグレイスを振り返った。
「便利ですよね。呪われた伯爵家って言葉。もう何が起こっても全部呪われてるせいになりますし!」
そうかもしれないが、それでいいのだろうか。そんなことをグレイスが考えていると、再びダニエルの声がした。
「次が来ます。三人です」
従兄は背筋を伸ばし、リリアは元の位置に戻った。その時「うわぁっ」という悲鳴が聞こえてきた。叫び声は館内からのようだがまだ遠い。
「あ……くくり罠踏んだみたいですね」
しばらくすると、また一人の男性が鏡の間に入って来る。二人目の王子様、ということらしい。泥水を吸って汚れた服はもう、元の色さえわからない。彼は怯えたように周囲を見渡しながら、震える声で言った。
「何なんだよ、一体何なんだよこの屋敷は」
「呪われた幽霊屋敷です」
懇切丁寧にリリアが答える。まさか答えが返って来るとは思ってなかったらしく、二人目の王子様は大きく体を震わせた。
「も、もう嫌だ。グ、グレイス? 迎えに来たよ一緒に逃げよう……」
「ひとちがいです」
さすがに二人目ともなれば、グレイスも落ち着いて対処できる。
「何でだよぉー。あんなに怖い思いして、やっとここまで辿り着いたのに」
気弱そうな王子様は両手で顔を覆いながら天井を仰いだ。
「グレイス迎えに……」
「ひとちがいです」
間髪入れずにグレイスは答えた。
「……うそだろ、ここまできてそれかよ」
三人目の王子様はへなへなとその場に座り込んだ。
「グレイ」
「ひとちがいです」
最後まで名前を呼ばせることなく、グレイスは同じ台詞を繰り返した。すでに彼女はこの場での自分の役割を理解していた。
四人目の王子さまは茫然と立ち尽くした……と思ったら、いきなりグレイス目指して走り出した……が、一人目の時と同じように突然足をもつれさせて床に倒れ、お腹を強く打ったようで、一言呻いたきり、動かなくなった。
「うわああああ、もういやだぁ、俺は帰るー」
二人目だったか三人目だったかの王子様が、床に座り込んだまま大声で叫んで、駄々っ子のように床をバンバンと叩き始める。
「弁護士がお隣のお部屋で待機しております。そちらに立ち寄ってからお帰り下さい」
リリアが冷静な声でそう言って出入り口を手で差し示す。恐怖と絶望で半狂乱になっていた王子様は、ぴたりと口を閉じてすっくと立ちあがると、すたすたと廊下に向かって歩き出した。その後をもう一人の王子様が追いかけて行った。倒れたままの四人目は、ダニエルが足を持って運び出した。
リリアは男が倒れた辺りでしゃがみ込んで何かを探している。誰かがナイフのようなものを投げているのだろうとグレイスは見当をつけた。それを見失わない内に回収しているのだ。
気がつけば従兄の姿がない。グレイスが椅子の後ろを覗き込むと、彼は椅子に隠れるようにして体を二つに折って笑っていた。
「あ……あの……」
「ニール。トマスがトマスお兄さまなら、私はニールお兄さまでいいよ、かわいいグレイス」
目に溜まった涙を払いながら、彼は手を伸ばしてグレイスの頭をポンポンと優しく触れた。何がきっかけだったのかはわからないが、先程までより言葉に温かみがあった。最初から彼はグレイスに対して親切ではあったけれど、どこか一歩引いて眺めているような感じもしていたのだ。
「この屋敷にすっかり染まってるね君も。うん、いいと思うよ。この調子でどんどんいこうか。……でも、なんかヒューゴにすんなり渡すのは、勿体ないような気がしてきたな」