100 青い瞳のお姫様 その1
ダニエルが運んできた夕食はサンドイッチだった。クインの分は予め二口くらいで食べられるような大きさに切ってあったため、ヒューゴは露骨に残念そうな顔になった。
「……かわいいな」
自分の分には手をつけようともせず、ヒューゴが頬杖をつきながら、俯いてサンドイッチを一生懸命食べているクインをじぃぃぃっと凝視している。
でも、もう気にしないとクインは決めたのだ。心を無にして食べ続ける。サンドイッチは六切れだ。とにかく早く全部食べ切ってしまいたい。
「そうですね。ちいさな子がひとりで一生懸命食べている姿は大変可愛らしいですね。でもあんまり見ないであげて下さいね」
壁際に控えているダニエルが、窓の外に向かってそう言った。どうせ効果はないだろうけれど、一応注意だけはしておこうというような軽い口調だった。
すっと指先が伸びてきて、唇の端についたパンくずが払われる。そのまま軽く頬をつつかれた。食べにくいからやめてほしい。クインはいやいやとちいさく首を振る。
「膨らんだほっぺたがかわいい」
ヒューゴはそれでもつつくのをやめない。抗議するために目を上げると、彼は嬉しそうに笑った。
「やっと目が合った」
クインは頬がぽっと赤くなる。ヒューゴは軽く首を傾げて、赤く染まった頬を擽るように指先を滑らせた。
「うん、やはりかわいい」
クインは身体を固くしてぎゅっと目を閉じる。恥ずかしくてもう消えてしまいたい。
二つ目のサンドイッチを食べ終える頃までは、目も合わせず俯いて食べている事を申し訳なく思う気持ちもあった。しかし、三つ目を食べ終える頃には、罪悪感はきれいさっぱり消え失せた。
ヒューゴはどうやら、食事に集中しているクインを構いたいようなのだ。
じっと目を合わせている時は何もしないのに、クインが目を伏せると、頭を撫ぜてみたり、頬をつついたりし始める。
「食べるのを邪魔するのはやめてあげて下さい。やりたくなるのはわかりますよ? 私も妹にやりましたから。迷惑そうな顔もちょっと可愛いとか思うのもわかりますが、ほどほどにしておかないと嫌われます」
見かねたダニエルがさりげなく注意するが、
「嫌だと言われたらやめる」
と、ヒューゴは取り合わない。
「……クインさまがんばってください、あともう少しです」
ダニエルは悲し気な目をクインに向けて、首を横に振った。もう何を言っても無駄だと言いたいのだとクインは察した。
ダニエルの応援を心の支えにしながら、クインは、何とか五つ目のサンドイッチを食べ終える。
次が最後! と思ったら、クインより先にヒューゴの指がサンドイッチを摘まみ上げてしまった。ここで何か言おうと口を開けばどうなるかは昼食で経験済みだ。
どうしてもヒューゴはクインに手ずから食べさせたいようだった。寛いだ雰囲気のヒューゴはこの時間を心から楽しんでいるように見える。決して嫌がらせをしている訳ではないのだ。それはわかっている。わかっているのだが……
どうしよう……。クインは途方に暮れてしまった。
トマスは十二歳という設定だと言っていたが、ヒューゴの中で、クインはもっと幼い子供にされているような気がしてならない。
そういえば、リリィが「それは十歳以下だから!」と、ヒューゴに向かって何度か繰り返していた。
――もしかして、ヒューゴの中でクインの設定は十歳以下に勝手に引き下げられてしまったのでは!
クインはサンドイッチを持つヒューゴの手を両手で持って、動かないように固定する。面白がるような目をしたヒューゴに、クインは真剣な顔で告げた。
「ヒューゴさま、ボク、十二歳です」
「八歳」
ヒューゴはにっこりと笑って訂正した。
八歳と言う言葉を耳にした瞬間にクインの胸はちくりと痛む。クインはぬいぐるみ。或いは、八歳の男の子。そうでなければヒューゴには受け入れてもらえない。そんな現実を目の前に突きつけられた気がした。しゅんと萎れてしまったクインを見て、ヒューゴが少し驚いた表情になる。
「クイン?」
心配そうな声で名前を呼ばれるから、クインは何でもないとゆるく首を横に振る。でもうまく表情が取り繕えない。
「クインさま、もうお腹いっぱいなんですよね?」
明るい声でそう言いながら、ダニエルがクインの側に歩み寄る。その声に救われたような気持になってクインは泣きそうな顔でダニエルを見上げた。
「バスの準備ができるまで、休憩しましょう」
ダニエルは「失礼します」と言って椅子からクインを抱え上げると、さっさとドアに向かって歩き出した。ドアを出た途端に、廊下に立っていたとても太った男性がドアを閉め、横に置いてあった飾り棚をドアの前に移動させる。
ガンっという音をたてて家具にぶつかる音がした。太った男が家具次々とドアの前に移動させると、床に座って飾り棚に凭れかかり、自らの体重まで使ってドアを押さえ始めた。
「ギ……ギリギリだった……」
ダニエルがクインを抱えたまま安堵の息をついた。
「何故閉じ込める!」
室内からは焦ったようなヒューゴの声が聞こえてくる。ガンガン、ガンガンドアに家具がぶつかる音が廊下に響き渡る。クインは思わず顔を顰めた。大きな音は怖い。
「ヒューゴさま、クインさま怖がってます」
……ピタリと音は止まった。
「では、お着替えが終わったらお呼びしますので、サンドイッチ食べておいて下さい」
ドアの向こう側に向かって少し声を張ってそう告げた後、ダニエルは床に座り込んで重しになっている男に声をかけた。
「悪いな……人足りないんだよ……」
「……っとに、人使い荒いよな」
がらがらに枯れた声でそう言って、太った男は恨めしそうな顔でダニエルを見た。男の左の頬は顔の形が変わるくらいまで腫れあがっている
「人間って、歯を抜くとそこまで顔の形変わるんだな……十本目だっけ?」
ダニエルは男の顔をしげしげと見つめた。
「八本だよ。……もうさっさと行ってくれ……押さえとくから」
男は煩わそうにそう言って目を閉じ、家具にぐったり体を凭れかからせた。
清潔なバスルームに案内され、いい匂いのするあたたかいバスに入れてもらって、肌触りのいいガウンを羽織らせてもらう。ふかふかの背もたれ付きの椅子に深く腰掛けたクインは、リリアに髪を丁寧に拭いてもらっている。柔らかい皮の室内履きをはかせてもらった足の下には、クッションまで置いてあった。
何て贅沢なんだろう。お姫様にでもなった気分だ。クインはふわふわ夢心地でうっとりと目を閉じた。このまま体が溶けていってしまうのではないかと思うくらい心地いい。
短い髪は乾くのも早い。クインがうとうとしかかっていると、リリアはあたたかい飲み物が入ったカップを、銀盆に乗せて目の前に差し出した。
「体を少し起こせますか? カップは両手でしっかり持って下さいね。落とす方が危ないので、ハンドルに指をしっかりと入れて支えて下さい」
言われるままにカップを両手で包み込むように持つ。
「冷ましておきましたが、クインさまには熱く感じられるかもしれません。まずゆっくり一口飲んでみてください。無理に全部飲もうとしてはダメですよ?」
リリアの前ではクインも寛いだ気分でゆったりとお茶を飲むことができる。カップの中身は程よい温かさの薄緑色のハーブティーだった。ほのかにレモンの香りがする。
三口ほど飲んでちらっと目を上げると、リリアがにっこりと笑って銀盆を差し出してくれる。クインはお盆の上にカップを戻して、再び椅子の背もたれに体を沈めて、ほっと息をついた。心は静かな海のように穏やかだ。
リリアがそばにいてくれると、クインはとても安心する。ついつい甘えたくなってしまうから困る。
銀盆をテーブルの上に置いてからクインの前に戻って来ると、リリアは床に両膝をついた。
「今日は色々大変でしたね。明日からはもう少しゆっくりできますから、一緒に少しずつお仕事を覚えていきましょうね?」
どうして彼女はいつもクインの欲しい言葉がわかるのだろう。クインが「はい」と嬉しそうに頷くと、リリアは膝の上に置かれていたクインの両手を、すくい上げるように持ち上げた。
リリアがそうするのは大切な話がある時だ。クインは体を起こしてリリアの言葉を待つ。
「でも、今夜はもうちょっとだけ、クインさまにはがんばってもらわないといけないのです。せっかく舞踏会の夜なので、私がかけた魔法をといてあげましょう。……こんなに可愛らしいお姫様を、ぬいぐるみ扱いするなんて、許しがたい」
最後、少しだけ厳しい口調でそう言うと、リリアはクインの青い瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「不安になりましたよね。クインさまはお優しいから、混乱して、どうしていいのかわからなくなってしまいましたね?」
優しい声に導かれるようにして、クインはおずおずと頷く。
リリアの言う通りだ。どんどん不安が大きくなっていった。ヒューゴに受け入れてもらえたのはとても嬉しかったけれど、それは……本当の自分の姿ではない。
ぬいぐるみや八歳のちいさな子供でないなら受け入れられない。直接そう言われた訳でもないのに、その考えに捕らわれてしまった。
「ずっと魔法で守られてきたお姫様は、魔法がとけた途端に、怖くて息が苦しくなってしまうかもしれません。でも……以前お約束しましたよね。必ず私がお守りしますと。どうか私を信じて下さいませんか?」
リリアは時々、物語に登場するお姫様を守る騎士のようになってしまうので……大変困る。クインはそれこそ一瞬にして恋に落ちた娘のように、頬を染めてちいさく頷いた。不安も恐れも何もかも彼女はいつも簡単に消し去ってしまう……
「では、お姫様、お召し替えのお時間です。こちらへどうぞ。王子さまに会いに行くためのドレスをご用意いたしました」
リリアはクインの手を膝の上に戻してからゆっくりと立ち上がり、そのまま数歩下がる。そして、優雅に恭しく一礼したのだった。