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98 天使様も暴走 その3



 ――優しく頭を撫ぜられて意識が浮上する。


 ぼんやりと目を開けたクインは、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。体を起こして寝椅子の上に座ってぼーっと目を擦っていると、またそっと頭を撫ぜられる。

 もっと撫ぜてほしい。寝ぼけていたクインは、傍らに座って頭を撫ぜてくれている人の太ももを枕にしてころんと横になる。小さく笑う気配があって、今度は軽く肩を揺すられた。


「まだ眠たいだろうけれど、リリィがそろそろ着替え終わったみたいだ。ドレス姿を見に行こうか」


 優しい手と声が心地いいから、このままがいい。クインはふるふるとちいさく首を横に振った。


「寝ぼけているのか……かわいいな」


 寛いだ様子の穏やかな笑い声がする。……なんて幸せな夢だろうとクインは嬉しくなる。


「惜しいような気もするけれど……あまり時間がないから……起きて?」


 甘くて優しい声が、眠りにおちようとするクインの意識を引き上げる。でも……目覚めたくない。

 肩に触れる手も、そっと囁く声も好き。ここはあたたかくて心地いい。好きなものだけで作られた夢の中の世界だからもう少し……もう少しだけこうしていたい。


 昔、こうやってよく母に膝枕をしてもらった。ベッドの端に座った母の太ももに頭を乗せて、頭を撫ぜてもらうのが好きだった。

 フィンが丹精込めて育てた花が飾られた明るい部屋。両親や祖父母、そしてフィンとマーゴの明るい話し声が、風のように頭の上を通り過ぎて行った。うとうとしていると「甘えん坊さんねぇ」という声がして、顔を覗き込むような気配を感じて……

 穏やかな笑い声に満ちた遠い日々の風景。そこには、暗い影など何ひとつなかった。


「困ったな……」


 言葉ではそう言つつも、あまり困っているようには聞こえない。額に触れた指先がそのまま頬を滑ってゆく。くすぐったさにぎゅっと目を瞑ってから、クインはゆっくりと体を起こして目を開けた。枕代わりにしてしまった人を、ぼんやりした目で見上げる。まだ頭がうまく働かない。


「おはよう」


 言葉と一緒に前髪の上にキスがひとつ落とされる。クインはパチパチと瞬きを繰り返す。次第に視界がはっきりしてきた。


「顔を拭こうか。今用意するから」


 そう言ってヒューゴは立ち上がって隣の部屋へ行ってしまった。一人残されたクインは、ぼーっとその背中を見送っていたが、その内意識がはっきりしてくると、自分がとんでもない事をやらかしたのだと気付いてしまった。

 ばっと両手で額の辺りを押さえる。じわじわと頬が赤くなってゆくから、慌てて今度は両手を口に当てた。変な叫び声を上げてしまいそうだ。 


 ――ぬいぐるみ。そう自分はクマのぬいぐるみ。


 自分にそう言い聞かせる。


 濡らした布を持ってもどってきたヒューゴは、やさしくクインの手首を持って両手を口元から外させる。ぎゅっと目を閉じたクインの顔を丁寧に拭いて、また隣室の方に戻って行った。


 ――ぬいぐるみ……ぬいぐるみ……ぬいぐるみ……

 

 ひたすら胸の中で念じる。

 ここはヒューゴの部屋なのだ、だから、彼がここにいるのは当然のこと。

 どうしてクインが与えられた自室ではなく、この部屋でお昼寝をしていたかといえば、この部屋でクインを昼寝させるのだと、ヒューゴが絶対に譲らなかったからだ。





 明日から仕事に行けとトマスに言われたヒューゴは、「じゃあ今日は一緒にいる。ここで昼寝させる!」と宣言した。

 速足で寝椅子まで戻って来てくると、ぐったりしているクインの隣に座り、聞き分けのない子供のようにクインを抱きよせて、再び腕の中に閉じ込めてしまった。

 疲れ果てたクインは抵抗する気力もなく、されるがまま……


 リリィが頭痛を堪えるような顔になり、トマスは深いため息をついてから、心配そうな目でクインを見つめた。


 二人はこれから舞踏会の準備がある筈だ。これ以上クインのことで煩わせたくはない。自分は大丈夫だという気持ちを込めて、クインはヒューゴの胸に耳を当てた状態で小さく頷く。

 傷付けられている訳ではない。ぬいぐるみ扱いされているだけだ。だから、お昼寝くらいは平気だ。ぬいぐるみなのだし……

 ヒューゴに対する嫌悪感は全くない上に、恥ずかしさにも慣れてきてしまった気がする。

 こうして抱きしめられていると、何だか安心する。


 ……きっとぬいぐるみはこんな気持ちなのだ。


 トマスは困ったように小さく笑って「疲れたよね、ごめんね」と、眠たそうな目をしているクインに一言謝ってくれた。


「リリアだって、クインが眠っている間ずっと一緒にいたじゃないか」


 拗ねた声が頭の上からおちてくる。どうしてヒューゴがそんなにリリアと張り合うのか、クインにはどうしてもわからない。


「……君、逃げたよね。それでリリアが怒ったんだよねぇ」


 ぼそっとトマスが低い声で呟いた。


「クイン、リリアがお迎えに来たら、リリアと一緒に行く?」


 トマスに尋ねられたクインはしっかり頷いた。その途端に抱きしめる力が強くなった。少し苦しい。「やっぱりそうだよねぇ」と呟いているトマスの声を聞きながら、ベストに頬を擦りつけるように首を横に振ると、少し肩を押さえる力が弱まる。


「クインも……私よりリリアの方をえら……」


「だから本当にいい加減にしろ! 少しはクインの気持ちも考えろ!」


 ヒューゴの言葉を、静かだが深い怒りを怒り感じさせるトマスの声が遮った。その言葉で一度ほどかれそうになった腕は、またすぐに元に戻ってしまった。どうしても離したくないのだというように。

 多分、クインはヒューゴを傷付けてしまったのだ。……でも、リリアが迎えに来たら彼女と一緒に行く。これだけはクインとしても絶対に譲れない。これからずっとこの伯爵家でお世話になるのだから、クインはちゃんと仕事をして役に立たないといけないのだ。


「いやだ。手放したくない」


 ……もう絶対に開放してもらえないような気がする。今はとても眠たい。クインはぬいぐるみだからヒューゴの行動は間違っていない……かもしれない。


「だからクインの意思を尊重しろと」


「嫌ではないと言ってくれた!」


 ……それは確かに言ったし、今も嫌ではない。でもそういう問題ではない気もする。……もうよくわからない。

 あたたかくてとてもねむたい。たぶんきっとぬいぐみはこんなきもち……。


「…………トマスお兄さま、これはもう私たちが何言っても無駄。こうなったら、オーガスタお姉さまに頼んで、一度性根を叩き直してもらいましょう」


 今まで黙ってトマスとヒューゴのやり取りを見守っていたリリィが、落ち着き払った声でそう言った。ヒューゴの体がビクッと震え、それに驚いたクインもはっと我に返った。


「……その名前、今出すの?」


 怒りを堪えて淡々とヒューゴの相手をしている様子だったトマスの顔色が変わる。そして、まるで何か恐ろしいものが目の前に出現したかのように、そろそろと後退り始めた。


「お兄さまのそれ、もう条件反射よね。……でもほら、ウォルターも言っていたじゃない? オーガスタお姉さま、きっとクインを気に入るから引っ掻き回すって」


 リリィはとても素敵な事を思いついたというようにキラキラとした笑顔を浮かべてみせた。しかし、栗色の瞳の奥には怒りの炎が揺らめいているのが見える……


「……私も反省しなくてはいけないわね。結局、相手の立場になって考えるということが私とヒューゴお兄さまにはできていないのよ。……うん。ここは手っ取り早くオーガスタお姉さまにお任せしましょう。完っ璧に性格矯正してくれると思うわぁー」


 非常に楽し気にリリィがそう続けている間にも、トマスの顔色はどんどん悪くなってゆく。「……いやぁ……どうかなぁ……」と曖昧に笑って、さらに後退り、椅子に腰をぶつけて顔を顰めた。


 リリィはヒューゴに向かって思わせぶりに、にーっこり笑いかける。再びヒューゴの体が大きく震えた。


「クイン、申し訳ないけれど、今日だけは我慢してあげてくれる? 明日からはヒューゴお兄さまもお仕事行くし、リリアも目を光らせるだろうし、一日べったりってことはないと思う。……疲れたわよね? それ、寝具だと思ってくれていいから、少しお昼寝するといいわ。その状態でも寝られそう?」


 色々あって疲れ果てていたクインは、ヒューゴの腕の中で小さく頷いた。


「ぬいぐるみなので、だいじょうぶ、です……」


「……そっか。じゃあ、少しお昼寝しようね。ヒューゴもクインが寝たらちゃんと仕事すると思うから大丈夫だよ」


 労わるような表情をしたトマスに促されるまま目を閉じる。……感情が揺れに揺れたせいか、何だかとても疲れてしまった。






 そんなことがあって、ヒューゴに抱きかかえられたままクインは気絶するように眠ってしまったのだ。どのくらい時間が経過したのだろう。ランプが灯されているから、もう夜であることは間違いない。

 手袋をつけてクインの元に戻って来たヒューゴは、ごく自然な感じで両手を伸ばしてクインを抱え上げた。まるでそうすることが最初から決まっていたように……


 これが当たり前になるのは、よくない気がする。


「あ……あの、じぶんで……ある……あるけ……あるけます」


 震え声でやっとクインはそれだけ告げる。


「寝ぼけているから危ない」


「お……おお……起きました。……あ……ああああ……歩かないと、たいりょく……が……」


 クインは懇願するように胸の前で両手を組んで、ヒューゴの目をしっかりと見つめた。


「そうか、体力を戻さないといけないんだったな。じゃあ手を繋いでいこう?」


 床におろされて、今度は左手を差し出される。その手を取らないという選択肢は用意されていなかった。おずおずとヒューゴの手を握る。満足そうに笑ったヒューゴの顔を見て、クインの頬が赤く染まった。


 こうやってずっと穏やかに笑っていてほしいと思う。厳しい顔をしているより、ずっとずっと似合っていると思うから。


「じゃあ行こうか」


 ヒューゴがゆっくりと歩き出すから、クインも後について歩き出す。まだ寝ぼけているのか、なんだかふわふわとして、足元が覚束ない。


 まだ自分は夢の中にいるのだろうか。これはやっぱり、クインの願望が見せた幸せな夢なのだろうか……

 そう疑った瞬間に爪先が床にひっかかって前のめりになる。


「やはり危ないな……」


 そう言ったヒューゴは何故かとても嬉しそうだった。

 クインは結局ヒューゴに抱き上げられて運ばれた。まだ本調子ではないのだから、歩いている時に他事を考えてはいけない。クインは自分自身に強く言い聞かせた。


またしても遅刻。本当にすみません……

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