97 お姫様と墓守 その4
9/15 加筆しました。そしてサブタイトル修正しました……本当にすみません。
明かりも持たずに物置部屋に入り、そのまま地下を目指す。足音で気付かれるからノックもしない。
階段をおりて地下室に入ると、テーブルの上には裁縫道具が広げられたままだった。
ドレスは無事完成し、今メイジーがアイロンをかけてくれている。
ルークはベッドの端に座って、右手に持った書類に目を通していた。傍らに置かれた椅子の上に書類の束が置いてある。
丁度ルークの後ろに隠れるように、リリアが体を丸めて横向きになって眠っている。背中に回されたルークの左手を彼女はしっかりと握りしめていた。
ルークの隣に座って、体を捻るようにして後ろを振り返り、リリィは熟睡しているリリアの顔を覗き込む。「寝顔は昔と変わらないわねー」と思わず呟いて、手を伸ばして昔のように頭を撫ぜると、妹はとても幸せそうに笑った。
――だいすきよ。ずっとそばにいてね。
今思えば、それは二人の時間を止める魔法の言葉だった。
「どうしましたか?」
ルークが持っていた書類から目を上げる。
「ん-? これ、部屋のテーブルに置いてあったの。売り払うって言ったら、ブレアさんに反対された。可哀想だから、ルークに買い取ってもらいなさいって」
「舞踏会終わってからにしてもらってもいいですか?」
プレゼントの箱をちらりと一瞥したルークは意外と冷静だった。ロバート程ではないが、レナード関連でも彼は結構露骨に嫌な顔をするのに、今は平然としている。
「……もう色々考えるのが面倒くさいので、自称友人見習って、来た順番で潰していこうかと思っているんですが、前がつかえておりまして」
……なんか、違った。言葉の選び方が物騒だった。
「開けていい?」
「今ここで開けたければ、どうぞ?」
本当にそれでいいのか、という言葉が言外に込められているような気がして、リリィは水色のリボンの縁をつまんでいた指先を離した。今になってようやく、ブレアたちがどうしてああいう反応をしたのか理解できた。
「……そっか、なんか、違うわね」
自嘲するように笑って、眠っているリリアを振り返る。
……思い出した。リリアはルークから贈られたプレゼントをその場で開けなかったのだ。水色のリボンを見つめながら、いつか贈り主の目の前で開けるのだと言って、少し寂しそうに笑っていた。
リリアが欲しかったものも、箱に詰めてリボンをかけられるようなものではなかった……
(レナードは、一体どんな気持ちでこの箱の中身を選んだのだろう)
これは、一生に一度の特別な日のための特別な贈り物だ。何かのついでのような感じで開けてしまったら、絶対に後悔するだろう。
嬉しくて舞い上がっていた。カードの文字を見たら、無性に会いたくなってしまった。
レナードに会うためには、彼に借金を返してもらうのが手っ取り早い。少しでも手伝えるなら手伝いたいと考えたのだけど……
もし立場が逆だったら? 自分が贈ったプレゼントをレナードが借金を返済するために売り払ったなんて聞いたら、リリィは立ち直れない。
ごめん。と心の中でレナードには詫びておく。でも、なかなか会いに来ないレナードも悪い。直接手渡してくれれば良かったのに! と、こちらの言い分もしっかり付け加えておいた。
そうしてから、カードの文字を指でなぞってみる。この文字を書いた時の彼の気持ちを探ろうとするかのように。
「……ルークは、嬉しかった? リリアが目の前で箱を開けた時」
「……そうですね。『まだ開けていない』という手紙をもらった時には、驚きましたけどね」
頭の上で微かに笑う気配があった。「そういうところ、頑固よね」とリリィも最後の文字の上で指を止めて、つられるように笑ってしまう。きっとルークは今とても幸せそうな表情をしている。それを見るのは今のリリィには少しだけ辛い。
「これで、中身のわからない箱が二つだわ」
ロバートからお土産にもらった蝶の小箱と、レナードからの贈り物。『開けられない』の意味は違うけれど。
「レナードのことは今考えても仕方ないから、舞踏会に行く準備してくる」
自分自身に言い聞かせるために言葉に出す。そうしないと、少年だった頃のレナードの面影をいつまでも引きずってしまいそうだった。
今夜リリィは、まるで童話の中のお姫様のように、王子様が贈ってくれたドレスを着てお城の舞踏会に向かうのだ。だから、レナードの事ばかり考えてもいられない。
緊張で息もできないような状態になるかなと思ったのに。そんなことは一切なかった。まるで何かの役目を果たしにゆくようなそんな感覚だ。不思議と心は落ち着き払っている。
ガルトダット伯爵家の長女を演じていたリリアは、そのたたずまいの美しさで一目置かれる存在だった。それだけの努力を彼女は重ねてきたのだ。誰にも文句を言わせないために、彼女は自分を磨き続けていた。
この短期間でリリアに追いつけたとは思っていない。そこは最初から諦めている。できるだけ目立たないようにひっそりと、オーガスタの後ろにでも立っているつもりだ。
「ねぇ、ルーク、右手を貸してくれる?」
プレゼントの箱をルークの横に置いてから、リリィは水色の瞳を見上げる。
ルークは書類をベッドに置いて、右手を差し出してくれる。少しだけ気取って左手を乗せて、そのまま立ち上がる。出来る限り優雅に見えるように心掛けて、深く一礼し、顔を上げると、あの頃と変わらずに優しく微笑む王子様がいた。
『大人になったら、ずっと一緒にはいられない』
とうとう現実の時間が、その言葉に追いついてしまった。
「ずっとずっと子供のままで、三人で手を繋いでいられたらよかった」
ルークとその後ろで眠っているリリアに向けた言葉は、気持ちがこもりすぎて少し掠れてしまった。
ルークが二人を守るために作ってくれた居心地のいい温室。そこにずっとひきこもっていたいというリリィの願いを叶えるために、或いはそれを言い訳にして、妹は空回りを続けていた。
それでも彼女は、昔捕まえた王子様と『ずっとずっと一緒にいる』ための努力を惜しまなかったのだ。いつか届かなくなるかもしれない手を、それでも伸ばし続けていた。
――そうすれば、良かったのだろうか?
そうすれば、レナードは直接リリィにこのプレゼントを手渡してくれたのだろうか。
「開かない箱二つを担保に、いくら貸し付けてくれるか考えておいてくれる?」
無茶を言っている自覚はある。でも、彼は伯爵家の子供達にはとことん甘いのだ。
「もう私に会うつもりはないってことよね。きっとこれ、私が貸してたお金の代わりなんだろうなって、わかってる。……でも、それでも、私が『名前のないお嬢さん』のうちに、レナードには会っておきたい。まだチェスの勝負もついてないしね!」
明るく笑って言えただろうか。泣きそうになっていなかっただろうか。
大人への第一歩を踏み出す今になって気付いた。何度も繰り返された言葉の意味がようやく理解できた気がした。
『君はダージャ領に行った方がずっと楽だよ』
――好きな時に好きな人と会えて、自由に生きられる。何も手放さなくていい。
後に続く言葉は、きっとそんな感じなのだ。
アレンと一緒にダージャ領に行って、ラーセルテート子爵夫人とやらになれば、リリィは今とほとんど変わらない日常を送ることができるのかもしれない。リルド領に隣接しているから、ルークやリリアにだってすぐに会いに行ける。トマスはキースと一緒に遊びに来てくれるだろうし、キリアにオーガスタたちを訪ねて行くこともできる。……もうひとりの墓守にも会うことができる。
そういう未来を、リリィは今から選び取ることだって、できる。
一度部屋に戻ったついでに、頼まれていた本を数冊持ってヒューゴの部屋へと向かう。
アレンはどうやら騎士団本部に向かったらしく、姿を見せなかった。
ドアは大きく開け放されており、ヒューゴはテーブルに書類を積み上げて書き物をしていた。明日から仕事に復帰するので、片付けておかなければならないものも色々あるのだろう。
本を抱えているからノックができない。ドアの横に置いてある飾り棚の上に本を置くと、その音でヒューゴがリリィに気付き、静かにというように、唇の前で人差し指を立てた。
奥の寝椅子でクインが眠っている。本当に色々あったので、疲れ果てて眠ってしまったのだ。
そこに至るまでにも色々あった……
立ち上がってドアまで歩いて来たヒューゴに、「これ、頼まれてた童話集」と小さな声で伝える。お留守番中にクインが読むための本だ。ヒューゴが読み聞かせることができるように、大陸標準語と母国語のものを選んできた。
「ああ、ありがとう。クインもきっと喜ぶ」
そこでちゃんとお礼を言える人ではあるのだ。ヒューゴは懐かしそうに本の表紙を眺めている。
「……一応言っておくけど、膝の上に乗せての読み聞かせは十歳までだったからね!」
……残念そうな顔をするな。
声には出さずに心の中で呟いて、リリィはちらっと寝椅子の方に目を向けた。
あまりクインに精神的な負担をかけないでほしいとも思うが、言ってもどうせ通じない。無理矢理引き離そうとすると抵抗するに決まっているので、もうヒューゴの好きにさせておくことになった。
クインは恥ずかしがってはいるけれど、ヒューゴと一緒にいることを嫌がってはいない様子だ。どういう訳だかヒューゴに好意的なのだ。
……リリィだって、昔アレンのことが好きだったので、他人のことをどうこう言えない。
幼い頃からだらしない所を散々見てきた筈なのに、一体彼の何が良かったのだろう……
(やっぱり顔が好きだったのかしら……)
……やめよう。落ち込む。
きっとアレンはリリィにとってわかりやすく『王子様』だったのだ。
同じように、クインにとってヒューゴは、わかりやすく『天使様』なのかもしれない。
真っ赤な顔をしてオロオロしているクインは、いつまでも眺めていたいと思うくらい可愛い。
だが、ヒューゴはこの先どうするつもりなのだろう。今はただ、『弟』としてのクインが可愛くて仕方がなくて舞い上がっている。でもいずれその気持ちが落ち着いたら?
『……難しいな。ずっと一緒にいるにはどうしたらいいんだろう』
その声が耳に蘇る。彼もいずれは、迷い……思い悩む時がくるのだろうか。
……やめよう。思考がどうしても暗い方に向かってしまう。
実は緊張していて、舞踏会に行きたくないと憂鬱になってきているのかもしれない。
「舞踏会行く前に、ヒューゴお兄さまに聞いておきたいことがあるんだけど、いい?」
リリィが真面目な顔でそう告げると、ヒューゴは不思議そうな顔をしながらもひとつ頷いた。
「ねえ、舞踏会でのリリアって、ヒューゴお兄さまから見て、どんな感じだったの?」
質問内容を耳にした瞬間に、ヒューゴは何やら非常に嫌そうな顔になり、「私か、私に聞くのか……」と呻くように言って、肩を落としてため息をついた。
「誰が説明するか押し付け合って、私に聞かれた人間が責任持って答えるとかいうことになっていた訳ね?」
いかにもそんな反応だ。誤魔化しは許さないというように、じっとりとヒューゴの青い瞳を見つめると、彼は観念したかのように、「ああ」と短く答えた。
そして、少し迷ったように目を揺らして、何か言いかけて止めて……しばらく考え込んでいた。彼は真面目だから、適当に誤魔化したりはしない。慎重に言葉を選んでいる様子だ。
リリィは、社交界でのリリアの様子をほとんど知らない。本人が話したがらなかったからだ。でも、今日から入れ替わる以上、最低限のことは知っておかなければならない。いくら大人しくオーガスタの陰にかくれているとしても、あまりに普段の行動とかけ離れていたら、誰もが違和感を抱く。
「母か兄の横にいて、ほとんど話さずただ微笑んで立っているという感じだな。将来二人が入れ替わるようなことになった時に、周囲が違和感を覚えないようにと、親しい人間も作らなかったようだ」
ヒューゴは本の表紙の上にそっと手を置いて、そのままじっとタイトルを眺めている。何を話しておくべきか、或いは、何を話さないでおくべきかを考えているといった様子だ。
「病弱だからと、ダンスも身内としか踊らない。断ることで相手の恨みを買って、後々嫌がらせをされるようなこともあったようだ。トマスの妹ということで同性から嫉妬されて、取り囲まれて一方的に責められているのを何度か見かけた事がある」
華やかな舞踏会は社交の場だ。兄も母もリリアにばかり構っていられない。彼女がひとりになる時を狙って、悪意を持った者たちは一斉に押し寄せたのだろう。
『男に媚びることしかできないあさましい娘』は誰かの愛人にでもなってどこか僻地で朽ち果ててしまえと、みんなが願っている。緑の瞳の令嬢はリリィに向かってそんなような事を言い放った。
いつも妹は、取り囲まれて、あんな酷い言葉を一方的に投げつけられていたのだろうか。
目を赤く腫らして屋敷に帰ってきても、リリアは身代わりをやめるとは絶対に言わなかった。しかし、母や兄は色々思う所があったのだろう。廊下にかけられた先代の肖像画はどんどんボロボロになっていた。……あれは一応幽霊の仕業ということになっている。
「私は第一王子の侍従としての立場があったから、間に入って止めてやることができなかった」
「……そこにヒューゴお兄さまが介入したら、余計に話がややこしくなったわよ」
リリアもそれを望んではいなかった筈だ。
ヒューゴには申し訳ないが、凶悪な形相で女性たちを睨みつけて次々気絶させてゆくという、最悪な状況しか思い浮かばない……
「没落した伯爵家の大人しく従順そうな娘となれば、良からぬ考えを持つ者も現れる。しかも、小さな王女さまの名前を引き継いでいるんだ。第三王子の支援者たちからしてみれば、目障りで仕方がなかったんだろう。リリアを害することによって取り入ろう考えた者もいたようだ。社交の場からリリアが無理矢理連れ去られそうになることが何度か続いて、これは早急に手を打たなければならないという話になった……それで……」
ヒューゴはリリィから逃げるように目を逸らし、本の上に両手を置くと、まるで謝罪するかのように項垂れた。
「……それで、第二王子がガルトダット伯爵家の長女を側室にと望んで、宰相が退けた。表向きの理由は、放蕩伯爵の娘は相応しくないとしたが……受け取り方は人それぞれだっただろうな」
……ん? とリリィは思わず首を傾げた。意味がよくわからない。アーサーがリリアを側室に望んで、それを母方の祖父が断った。ということで合ってるだろうか。確認しようとリリィが口を開きかけた途端、ヒューゴがそれを遮るように、早口でまくしたて始めた。
「それでもアーサー殿下は、ガルトダット伯爵家の長女を絶対に諦めないという姿勢を貫かれて、自らの護衛騎士に彼女を守らせるようになった。その上で、王位より彼女を選んだとわかりやすく周囲に示すために……痩せてみせたんだ。そんな訳で……元王族のアレンと第二王子のどちらがガルトダット伯爵家の長女と結婚するのか……注目されていたり……するから多分……舞踏会では……その……好奇の目に晒されるのではないかと……思われ……」
勢いは最初だけで、徐々に言葉はつっかえがちになり、声の張りが失われどんどん小さくなってゆき……最後の方は口の中で何やらもごもご言っているだけになった。
リリィは茫然とした顔で立ち尽くしていたが、すぐに立ち直り、状況を理解しようと必死に頭を働かせる。
ヒューゴの話を聞いて、ようやくわかった。あの夕食会で緑の目の令嬢がどうしてリリィにあんなに敵意を込めた目を向けていたのか。
『没落した家の娘が、あの方に並び立とうなどと。放蕩伯爵の娘は相応しくないと烙印を押されたくせに。側室にもなれないのに妃の座を狙おうなどと厚かましいにも程があるのではなくて?』
つまり……彼女はガルトダット家の長女に嫉妬していたのだ。
そうなると、ユラルバルト伯爵家でのアーサーの台詞と行動にも納得がいく。アーサーは、婚約者であるアレンの前でリリィを『私の大切なお姫様』と……
(……え? 私、今夜何しに行くの?)
リリィの王子様は……今夜のお城の舞踏会で、リリィを使って何をするつもりなのだろう。
「ねぇ……そんな大事なこと、何で今まで誰も私に教えてくれなかったのかしら?」
にっこり笑ったつもりなのに、ちらりとリリィの表情を盗み見たヒューゴは幽霊を見たような顔になっていた。
「…………うん。ヒューゴお兄さまのせいね、全部」
腹の底で怒りがぐつぐつと煮えたぎっていた。この人が来てから、伯爵家全員精神的な余裕を失った。面倒事はとりあえず誰かに押し付けて逃げるようになった。
「わかったわ、ヒューゴお兄さま。私、リリアを見習って、何を言われてもしおらしく大人しく俯いていることにするわ。そうね、知らない人とは口をきかない! 売られた喧嘩は勝わない! 絶対に絶対に言い返さない! それでいいかしら?」
ヒューゴはリリィと目を合わせようとせずに何度も何度も頷く。そして、飾り棚の上の本を大事そうに両手で抱え持つと、少しずつ後退るようにして部屋の中に戻っていった。
「……クインと一緒に、ここで無事を祈っている」
それが、これからお城の舞踏会に行く従妹にかける言葉か! と文句を言ってやろうかとも思ったが、クインが寝ているので声には出さなかった。
何もかもすべてが今更だ。もうどうすることもできない。
――どんな罠が仕掛けられているとしても、行くしかないのだ。




