おまけ 伯爵家の呪いの焼き菓子 後編
「……だ、大丈夫、リリィ」
「大丈夫ですか、お嬢さま」
焦った声が体の両側から聞こえて来る。リリィは自分の身に何が起こったのかわかっていなかった。どうして目の前に床があるのだろう。どうして自分は床に両手をついているのだろう。
のろのろと体を起こして床にペタンと座る。頭が考えることを放棄している。
「……驚かせたんだよね。ごめんね」
目の前に差し出された両手に、深い考えもなく手を乗せる。
優しい声をかけられると涙が出そうになる。どうしてこうなったんだろう。恥ずかしくてもう消えたい。両手で顔を覆って俯いていると、よしよしと頭を撫ぜられた。その手がとても優しかったから、多分この人はアレンが泣いていた時もこうやっていつも慰めていたのだろうなとぼんやりと思った。
「あー泣いちゃいましたね」
「毎回泣かせてる気がするんだけど、何でなんだろう……」
「……泣き顔が可愛いとか思ってるからじゃないですか」
「……君の中で、僕って一体どんな人間なんだろうか」
「今から認識の擦り合わせでも行ってみますか。あんまりお嬢さま方に聞かれたくないような話も出てくるかもしれませんが……」
泣き顔なんて絶対に可愛くない。頭の上でよくわからない会話が行われている。
……でも確かに、リリィは王子様に会う時いつも泣いているような気がした。他の人の前だと必死に強がって可愛げのない態度を取り続けてしまうのに。
「すみませんー。怖いからどこか他所でやって下さいー」
キースが感情がまったく入っていない声で制止をかけた。
「立てるかな? ソファーに座ろうね」
両手を優しく上に持ち上げられるのに合わせてリリィはゆっくり立ち上がる。そのままソファーに座るように促され、素直に従ってしまった。逃げる機会を失ったことに気付いたのは、両手を離された後だ。気付けば元の位置に戻っていた……
逃げようとして勝手に転んで勝手に泣いて、いったい自分は何をやっているのだろうなとどんどん落ち込んでゆく。
「……だって、失敗作だったの」
ぽつりと唇から声が落ちる。失敗の原因を思い出すと、情けなくてさらに泣けてくる。どうしてあそこでリリアを待てなかったのだろう。なぜ『自分はできる』なんて思い込んだ?
唇を噛みしめて涙を堪えていると、すぐ目の前で王子様が床に膝をつくのが見えた。リリィは思わず顔を上げる。
「……そっか、失敗作を見られるのは恥ずかしいね。不用意な言葉だった。ごめん」
優しく微笑んで、アーサーはもう一度リリィの頭を撫ぜた。
そのたった一言で、胸の中のもやもやがすっと晴れて行くような気がした。
そう、恥ずかしいのだ。それに、失敗作を褒められても困るのだ。
もっとちゃんとしたものを贈りたかった。沢山練習して、自分でも納得できるものを自信をもって届けたかった。
「もっと……もっと、上手にできたはずなのに……自分勝手なことをして……失敗したから……リリアも、キースも、手伝って……くれたのに。……わたし、みんなに、てづくりのおかし、くばりたか……ったの……」
素直な気持ちが涙と一緒に溢れ出す。悲しくて情けなくて……申し訳なくて。
「……なのに、のろいの、おかしって……ひどい……」
そう言った瞬間に、喉の奥から熱い塊が押し出されて、ひきつったような声が出た。慌てて両手で顔を覆う。
手作りの贈り物をしようと思いついた時に感じた、不思議な高揚感を覚えている、胸がどきどきして、それはとっても素晴らしい思い付きのように感じた。手に持ったいつもの紅茶のカップさえ特別に輝いて見えるくらいに。
何もかもがうまくいくような気がしていたのだ。
みんなびっくりするかな? 喜んでくれるかな? 何がいいかな、誰にあげようかな、おじいちゃんたちはあんまり甘いものが得意じゃないから、塩気のあるものの方がいいかな。
厨房が忙しい時間だと邪魔になるし、リリアに手伝ってもらわないといけないから、彼女が空いている時間帯だと、午前中よりは午後の方がいいかな……
そんな風に色々計画することが本当に楽しかった、みんなが喜んでいる姿を勝手に色々想像して、思わず頬が緩んだ。締まりのない顔で笑っていたに違いない。本当にとても幸せな気分だった。
失敗したことは辛かったし、みんなに迷惑をかけたことは反省している。
だから……次はちゃんとみんなに喜んでもらえるものを作ろう! レシピ本をよく読んで、その通りに作る。勝手なことはしない。
一度失敗したから、きっと次はうまくいく。
綺麗な箱につめて、リボンをかけて……
みんなに、いつもありがとうって伝えたかった。なのに――
「……みんな、ふこうに、なるって」
手作りの贈り物をしようと思い立った時のあの胸の高鳴りも、色々計画してにやにやしていた時間も……何もかもすべて、『呪いの焼き菓子』という言葉が、真っ黒に塗り潰した。
贈り物をしたいと思った気持ちまで否定されたようで、悔しかった。
自分の作ったお菓子は、誰も幸せにできないと言われているようで、悲しかった。
気付けばリリィは、アーサーの肩に額を乗せて涙を堪えていた。前のめりに倒れた体を抱きかかえながら、アーサーはリリィの耳元に唇を寄せる。
「僕は、あの日、久しぶりに流れ星を見たな。ふと夜空を見上げたら長い尾を引いて連続で三つ流れたんだ。誰かに自慢したくなって……そんな子供っぽいことを考えた自分に驚いた。でも悪くない気分だったんだ」
リリィだけに聞こえる小さな声で王子様はそっと囁く。リリィには、どうしてアーサーが急にそんな事を言い出したのかわからない。
「それを今、君に伝えられて良かった。……他の人には内緒だよ?」
甘く優しい声が、悲しみに引きちぎられそうになっていた心を宥めて行く。
王子様はリリィの頬に片手を当てて、涙に濡れる瞳を覗き込んで微笑む。リリィはパチパチと目を瞬いて涙を散らした。
頭の中で星が流れる。白く長く尾を引いて、ひとつ、ふたつ、みっつ。
「……あれ? もう悲しくない」
思わず声に出してぽつりと呟く。
どうしてなんだろう。リリィは軽く首を傾げて、答えを探るように、じいっとエメラルドグリーンの瞳を見つめる。綺麗な色だな……と、もうそれだけしか考えられない。
アーサーはいつも、いとも簡単にリリィの涙を止めてしまう。勿論、彼がそれだけ大人だということなのだろうけれど……それだけではない気もする。
「うん……良くないなぁこの感じ」
何かを誤魔化すように目を伏せて、アーサーは体を離してリリィをソファーに深く座らせた。そのまま立ち上がり、困ったような顔でカラムを見上げた。
「やっぱり泣き顔かわいいとか思ったんですね」
「……笑った顔も可愛いよ」
さらりとそう言って、アーサーは床に落ちていた広告を拾い上げて、テーブルの上に置いた。
……え? と思った時には、リリィは真っ赤になった頬を両手で押さえていた。喜怒哀楽がめくるましく移り変わって、今自分がどういう状態かわからない。
「次は成功したのを届けてくれるかな? ちいさなうさぎさんたちがエプロンして一生懸命厨房でお菓子を作ってる姿を想像しながら食べると、心が和む」
……何だろうその絵本の世界。
「数名命拾いしましたよね。彼らは心の底からお嬢さまに感謝していると思いますよ」
「片手で食べられて手が汚れない食べ物って、本当に助かるなって思ったんだよね。……じゃあ、楽しみにしてるから」
笑顔でそう言ってアーサーは踵を返してしまう。もうそうなると彼は振り返らないとリリィは知っている。
「お嬢さま、棒状ではなく、薄くのばして板状に切れば、音も静かになるし、歯の弱い人にも食べられるだろうってソフィーが言ってましたよ。私も楽しみにしていますね」
……だから、あれは失敗作。
心の中でそう返している間に、さっさと二人は居間から出て行ってしまった。熱の引かない頬を持て余しながら、恐る恐る隣に座るリリアを背後に立つキースの様子を確認する。
優秀な使用人である二人は、来客対応用の笑顔を顔に貼り付けて、どこか遠い場所を見ていた。
「……商品化するなら、別に改めて俺たちが作る必要ないと思うんだけどなー」
表情を固定したままキースがぼそりと呟いた。
「商品化するのは、棒状の焼き菓子ですよね。今依頼されたのは、薄く伸ばして板状に切ったものですよ? 後で、おばあちゃんたちと試作してみます……」
リリアが小さくため息をついた。
「……えー、あのかったいのまた作るの?」
リリィが思わず不満を声に出すと、リリアとキースからじっとりとした目を向けられた。誰のせいでこうなったと思っているんだ。二人の顔にはそうはっきり書いてあった。
リリィは窓の外に視線を逃がす。リリアの大好きな青空を見上げながら、今日はルークは帰って来るのかな、などと他事を考えて誤魔化すが、少し困ったことになっている。
もう『呪いの焼き菓子』のことなど全く気にならない。あまりに話が大きくなりすぎて、あの失敗作のお菓子と結びつかないのだ。
勢いに任せて、リリィがボウルの中に水を一度に全部入れたせいで、王子様と人気作家とキリアルト家を巻き込んだ大騒動になってしまった。一体このためにどれだけの人間が奔走し、どれくらいのお金が動いたのだろう。想像するのも恐ろしい。
でも、それよりも、今は……
あの日、流れ星を見たのだと。そう耳元で囁いた声が、ずっと消えない。
きっと今夜は眠れない。窓辺に座り込んで流れ星を探し続けてしまう。……そんな気がした。
デイジー・Fの二年振り新作新聞小説が紙面に掲載されると同時に、瓶入りの『呪いの焼き菓子』が発売された。
その日の夕方、何の前触れもなくアーサーの私室に乗り込んできたハロルドは、そんなに必要かというくらいの私兵をぞろぞろ連れて来ていた。
室内には護衛騎士は一人もおらず、カラムとソフィーの姿もない。
アーサーが一人きりで室内にいることに、私兵たちは大変驚いた様子で、周囲を警戒して気配を探り始めた。
ソファーに座って書類を確認していたアーサーは、面倒くさそうに顔を上げた。
派手な緑の軍服を観る度に、自虐的な趣味だなとは思う。
第三王子を直接護衛しているのは、私兵の中でも小柄で見目の良い貴族の青年たちだ。『みどり虫』などと陰で呼ばれていることからもわかるように、場内の評判は良くない。城で働く者たちに対して非常に高圧的な態度を取るからだ。
相手にするなと護衛騎士たちには命じてある。軍人が貴族に怪我を負わせると色々面倒くさい。カラムとルークがこの場にいると、絶対に部屋を汚すのでお使いに出しておいた。部屋を汚すとソフィーが怒る。
「何か用か?」
書類をテーブルの上に置いて、緑の集団に向き合う。緑色の集団の中に埋もれている第三王子は怒りに震えていた。半分に裂いてぐちゃぐちゃにした新聞を両手で握りしめている。湯気が出そうに真っ赤な顔が、服の緑と良い対比になっているなとアーサーは思った。
第三王子は怒りで声も出ないのか、ただこちらを睨みつけてくるばかりだ。時間が勿体ないので、勝手に話を進めることにする。
「今王都はその話題でもちきりだな。新作を待ちわびていた市民の反感を買う覚悟があるなら、好きにすればいい」
新聞社に圧力をかけて小説の掲載をやめさせたいなら、勝手にやればいいのだ。
「これは名誉棄損に当たるぞ」
……この一言を捻り出すのに、随分と時間がかかったものだ。
自分より弱い立場の人間に対してはよく喋るくせに。相手が同格以上だと途端に無口になる。そういえば、いつも第三王子の背後にぴったりと貼りつくように立ち、ずっと耳元で囁いていた年嵩の侍従の姿を数か月前から見かけなくなった。
金策に走り回っているのか、或いは、『意地悪なお姫様』の体調が芳しくなくてそばを離れられないのか……
何にせよ、今まできつく締められていた手綱を緩められた王子様は、侍従の監視が届かない場所で好き勝手し始めている。
まさに、ルークから解放されて、花畑の住人となったアレンと同じ状況だ。
……アレンが王都にいなかった三年間は精神的に楽だったので、早くダージャ領に行ってほしい。
「物語の舞台はダージャ領だ。『呪いの焼き菓子』の元になっているのは『ラーセルテートの死の呪い』だろう。それに、『ルイゼ』という名前は、この国では珍しくもない女性名だし、『緑の目』は、彼女が異国の血を引いていることを暗示しているのかもしれない。何にせよまだ一話目だ。緑色の目をした女が作中にちらっと登場しただけで、特定の人物の名誉を傷つけているというのは、無理がある」
新聞に連載された第一話は、道に迷った紳士が不気味な城に辿り着き、緑の目をした『ルイゼ』という名前の美しい娘に出会ったところで終わっている。まだ何も始まっていない。
「文句があるなら新聞社か作者に言えばいいだろう? 何故私のところに来る?」
ハロルドの顔が憤怒に歪む。
第三王子は、敬愛する母親とその一族の名誉が、再び物語によって傷つけられようとしている気配を察して、怒りの衝動に突き動かされるままここに来ただけなのだ。呆れを通り越して笑えてくる。相手をするのも馬鹿らしい。
「必ずやめさせる」
本人は凄んでいるつもりだろうが、練習不足のアマチュア芝居を見せられているような気分だ。何もかもが中途半端で生ぬるい。
「……だから好きにすればいいと言っている」
興味なさげにそう言って、ソファーに体を沈ませる。
こちらの目的はすでに達成されている。広告戦略がうまくいったこともあり、デイジー・Fの新作は熱狂を持って迎え入れられた。『呪いの焼き菓子』の噂は、新聞社が仕掛けた話題作りだったと世間一般に認識され、連載小説の初回の評判も上々。焼き菓子の売れ行きも好調だとの報告をすでに受けている。
ハロルドはイライラと足を踏み鳴らし始めた。国王も怒ると足を踏み鳴らす癖がある。本人はいたって真面目なのだが、傍から見ると、踊っているようにしか見えない……
「ただで済むと……」
「それはこちらの台詞だな」
相手が最後まで言い終わらない内に言葉を被せて、ソファーから立ち上がる。
その時、大勢の人間が一斉に動いたような衣擦れの音がした。動揺したハロルドの顔色が変わる。私兵たちが慌てて第三王子を取り囲み、周囲を警戒しながらドアに向かって後退しはじめた。
まさか、彼らはこの部屋にアーサー以外誰もいないと本気で思っていたのだろうか。息を殺して潜む場所などいくらでもあるのに。
アーサーが片手を軽く上げると、何かが一斉に蠢くような不穏な音が、再び室内の空気を震わせた。実戦慣れしていない私兵たちの顔には焦りと怯えが浮かぶ。見えない敵というのは恐ろしい。恐怖ですでに腰が引けてしまっている者もいる。
「……次はない。二度と私の大切なちいさなお姫様に手を出すな」
お手本のように低く脅しつけてやる。すると、何の前触れもなくベランダへと続く窓が大きく開いた。ひゅうっと風が鳴り、カーテンが大きく捲れ上がる。テーブルの上に揃えて置かれていた書類が、宙に舞い上がり室内を飛び回り始めた。
吹き荒れる風に押し出されるように、第三王子と緑の虫たちが廊下に出て行った直後、バタンという大きな音を立てて、ドアがひとりでに閉まる。廊下からひいっという情けない悲鳴が聞こえてきたが……これは単純にドアが風に煽られただけだ。
第三王子と入れ替わるように、隣室から駆け込んできたソフィーが大慌てで窓を閉めて、床に散らばった書類を拾い上げ始めた。
「全部で八枚あったけど、何枚かは窓の外に飛んで行ったな。誰かに見られて困るようなものでもないけどね。……素敵な演出をありがとう」
窓は勝手に開いた訳ではない。ベランダに潜んでいたソフィーが、アーサーが第三王子たちの意識を自分に向けさせたタイミングに合わせて開け放っただけのことだ。外に飛んでいった書類も、すでに誰かが取りに走っているだろう。
「丁度強い風が吹いておりましたからね。おかげで髪がボサボサですよ」
ソフィーは拾い集めた書類をアーサーに差し出しながら、反対側の手で乱れた髪を押さえている。
「仕返しなど彼女は望んでいないだろうから、こんなのは単なる自己満足なんだけどね……」
自嘲気味に笑ってからアーサーは書類を受け取り、再びソファーに腰を下ろす。
テーブルに上に皺だらけの新聞が置かれた、第三王子の忘れ物だ。ソフィーが両手を滑らせるようにして丁寧に皺を伸ばし始める
「……でも、せっかくだから、この物語もいつかお芝居にして、『ルイザ』を緑の瞳の女性に演じてもらおう」
歪んだ活字を見つめながら、思いついた事をそのまま口に出す。
最初は、蚊に刺された程度の不快感を相手に与えられればそれでいいと思っていた。あまりやりすぎても面倒なことになるから。
しかし、リリィは、アーサーが想像していたよりずっと傷付いていたのだ。だから、彼女が感じた以上の痛みを相手方に与えてやりたい。
「ちいさな王女さまの舞台でも、『意地悪なお姫様』は緑色の瞳の役者が演じると決まっていることだしね」
言い訳のように続けられた言葉を最後まで黙って聞いていたソフィーは、一度手を止めて、ふふっと楽し気に笑った。
「アーサーさま、リリィさまのことになると、怒りの沸点が一気に下がりますねぇ」
なんだか、変な空気になってきている気がする。この年にもなると、さすがに居心地が悪い。アーサーはため息ひとつつくと、ソファーに凭れかかって、特に理由もなくぼんやりと天井を見上げた。
「……笑っていてほしいんだよね……いつも泣かせてばかりだから」
そう言って目を閉じた。記憶の中に残っているのが、泣き顔ばかりというのは……良くない。そう自分に言い訳している自覚はある。
「そのうち天罰が下ることでしょう!」
ソフィーが高らかにそう予言した。
中途半端な終わり方になってしまいました。申し訳ございません。
あまりに長くなりすぎたので一旦ここで切ります。
リリィはちゃんとお菓子を作って届けると思います……
クインも作らされると思います……
その辺りはいずれまた。




