94 お姫様と墓守 その1
45分の大遅刻……本当にすみません……
ルークが大階段に到着すると、一階の玄関ホールで若い男が尻餅をついているのが見えた。膝をついたジャックが彼がそれ以上倒れないように背中を支えている。
「ルークさま、リリアさま食堂に向かいました!」
はっと目を上げたジャックが、ルークにそう告げた。
「今すぐ捕獲。手段は問わない。絶対に庭に出すな!」
気配を殺して潜んでいた人間が一斉に動く。庭には今様々な罠がしかけられているし、屋敷内にも外からの侵入を想定した仕掛けが色々と施されている。括り罠など踏んだ日には無傷で済まない。今の伯爵家は追いかけっこをするには危険すぎる。部下たちは大階段前にリリアを追い込むはずだ。……後で絶対に泣くがこればかりは仕方がない。睡眠不足でリリアの判断力も鈍っている。早く捕まえないと大きな怪我を負いかねない。
リリアが大階段前駆け戻ってくる。どうやら座っている男性を避けるのではなく飛び越えるつもりのようだ。突進してくる少女を見て来客とジャックが顔を引きつらせる。
「……ええっ? だから、だからなんで女の子がぁ……うわっ、うわぁぁぁぁぁっ――」
「リリアさま、申し訳ございませんっ」
声と共に階段の影から飛び出したブレアが、まさにリリアが踏み切った瞬間にがっちりと背後から拘束してそのまま後ろに倒れる。同時に三方向から網が投げつけられた。
リリアは下敷きになったブレアと共に三枚の網を被り、巻き添えを食らったジャックと来客もついでのように網の中に捕らわれた。
確かに手段は問わないと言ったが、客に対して失礼すぎやしないだろうか……
それに、いくらリリアがすばしっこいからと言っても、網をあんなに投げる必要ないだろうに。……確実に練習台にしている。
「え? え? 大丈夫ですか? ちょっと……」
網の中のジャックが焦った声で、来客の肩を揺すっていた。どうやらショックのあまり失神してしまったようだった。
……こうやって幽霊屋敷の噂はどんどん広がってゆくのだろう。
「幽霊屋敷訪ねて来て、空飛ぶ少女に遭遇し、巻き添え食らって網を被ったと。不幸な人だ」
メイジーと共にやってきたキースが、担架で運ばれていく来客に憐れみを込めた目を向けている。
「いい予行練習にはなりましたねぇ」
一人でさっさと網から抜け出したブレアは非常に満足気な様子だ。彼だけでなく、隊員全員が訓練の手ごたえを感じている事だろう。
網を被った状態でぺたんと床に座っているリリアの前にしゃがみ込むと、ブレアは顔を横に向けてくすくす笑い出した。まさに網にかかった人魚といった感じのリリアは見るからに怒っていた。顔を真っ赤にして頬を膨らませて、『不本意!』と全身で訴えている。
「その姿で怒っても可愛いだけですよ。どこか痛めたりはしていませんか?」
むすっとした顔のままリリアが小さく首を横に振る。ブレアだけでなく、捕獲に関わった全員が安堵のため息をついた。
「今は本当に危ないんです。うっかり仕掛けに触ったりしたら大怪我をしてしまいます」
幼い子供を注意する口調でブレアが言い聞かせる横で、本番に備えて広がった網を丁寧に畳んでいる隊員たちがうんうんと大きく頷いていた。
「……ごめんなさい」
ちいさな声で、それでも素直にリリアは謝罪して、『怒ってないかな?』というように、ちらっと上目遣いでブレアの表情を窺う。ブレアはふっと噴き出すと、とうとう誰はばかることなく笑い出した。
彼はルークが伯爵家にいなかった間も、ずっと陰から伯爵家の子供たちの成長を見守っていた。リリィはつい先日まで彼の存在を認識していなかったが、実はブレアは彼女が生まれた直後から護衛任務についていたのだ。
そして、リリアにとってブレアは、週に一度ルークからの手紙を届けてくれる、優しい郵便屋さんだった。
彼の姿はその頃から全く変わっていないはずだ。
リリアは最近になってようやくそのことに違和感を覚えたらしい。年を取らない人間が身近に何人もいると、その辺りどんどん鈍感になってゆく。
ブレアは黒髪でもないし、エメラルドグリーンの瞳を持っている訳でもない。ただ、ごく稀に、先祖返りでそういう人間が生まれてくることがあるのだ。
特に太りやすいと感じたことはないし、『色』も認識できている。そう本人は言っていた。……ほんの少しだけ心苦しそうに。
「ブレアさんは怪我をしていませんか?」
「そんなヘマはしませんよ」
彼は安心させるように微笑みながらも、「首の角度が深すぎますよ? もう少し浅い方が可愛らしですね」と、お手本のように人差し指を自らの唇に当てて首を傾げてみせた。その仕草は女性そのものだ。他の隊員たちがげんなりした顔になる。
リリィは、妹にあざとい仕草を教え込んだのは自分だと思い込んでいるが、実際に『あざとい少女』遭遇したことのない引きこもりの少女が、本から得た知識だけで『庇護欲に訴えかける、大人しい少女』を作り出すことなどできる訳がない。……そう、指導した者は別にいる。
ブレアは潜入の際には小柄な体型を生かして性別を偽る。『庇護欲を刺激する大人しい少女』を演じて、標的を手玉に取るなどお手の物だ。優しい郵便屋さんは、世間話のついでにリリアに余計な事を教え込んだ。
ロバートは、『〇〇ができたら船に乗せてやる』と騙し続け、
短気な王子様が面白がって護身術を教え込み、
レナードは「キリアルト家の嫁になるために、海賊を倒せ」と吹き込んだ。
……本当に、自分が離れている間に、随分好き放題やってくれたものだ。
「今日はもう大人しくしていて下さいね!」
ブレアは立ち上がりながら、しっかりとリリアに釘を刺す。
「……むぅ」
リリアが不機嫌そうな顔つきなると、ブレアは子供を叱る母親のように両手を腰に当てた。上体を倒すようにしてリリアに顔を近付け、意味ありげに笑う。
「しーっかり怒られてきてください……私は持ち場に戻ります」
そう言い置いてから背筋を伸ばし、正面玄関から外に出て行く。交代するようにリリアの前に進んだルークは、ひょいっと網ごとリリアを抱き上げた。さすがに気まずいのか、目を合わせようとしない。
「とりあえず、静かで邪魔の入らない地下に行きましょうか。お話があります」
さあーっとリリアの顔から血の気が引いた。
「げ、地下……地下は……こわい……」
キースが顔を強張らせて呟いた途端、今まで大人しかったリリアがじたばたじたばたと暴れはじめる。しかし、網にくるまれているため思うように動けない。
「はい、危ないから暴れない。では、キース君後お任せしますね。メイジーも舞踏会の準備の方よろしくお願いします」
二人は引きつった笑みを浮かべて黙って頷くと、助けを求めるリリアの視線を振り切るようにしてその場から立ち去った。
「ドレス、ドレスを縫うのです。夕方までに完成させないといけないのです」
じたばたじたばた。網を何とか外そうともがいている少女の横顔を黙ってじーっと見つめていると、だんだん動きが小さくなり、やがて大人しくなった。ちらちらと目だけ向けてこちらの様子を窺っている。
「ドレスは地下でも縫えますよね?」
にっこり笑ってそう告げると、リリアの眉間に皺が寄った。
「ルークさまは意地悪ですっ」
「そうですね。行きましょう」
適当に聞き流してルークが歩き出そうとした時だ。
「ルークさまなんて、ルークさまなんて、ヒューゴお兄さまとっ」
自棄になったリリアが大きな声でそこまで叫んだ瞬間、隊員たちが手に持ったものを放り投げ、まるで蜘蛛の子を散らすように走り去った。少し遅れてジャックも逃げた。無人となった玄関ホールは静まり返っていた。中途半端に畳まれた網が床に放置されている。
「……結婚すれば……いいのです……」
勢いで声に出したが、途中で我に返ったらしく、徐々に声が小さくなり最後は聞き取れないくらいの独り言になっていた。自分の言葉に自分で傷付いたような表情になったリリアは、網が邪魔でしがみつくこともできないと気付いて愕然としている。
「そんなことにはなりません」
似たような台詞が組み合わせを変えて繰り返されている気がする。もうため息しか出ない。このお姫様はさっさと地下に閉じ込めよう。そう決めて足早に廊下を進む。
「……やです。地下は怖いのです」
庇護欲に訴えかける目でじーっと見つめられるが、隙あらば逃走しようと機会を狙っているのは気配でわかるのだ。
……やはり安全のために、今日一日地下に閉じ込めよう。自己過信した挙句に罠にかかって再び頭から網を被る少女の姿が容易に想像できる。
地下に続く物置部屋のドアを開けた途端、「やですーっ」と泣きながらリリアは必死にルークによじ登り始めた。仕方がないので荷物のように肩に担ぎ直してから背後のドアを閉める。視界は完全に闇に閉ざされた。その途端に怖がりな少女はぴたりと大人しくなる。明かり取りの窓がないため、ドアを閉めてしまえば完全な闇だ。さすがに目が慣れるまではルークも動けない。
「はい、本当に危ないから大人しくしていて下さいね」
「……やなの。お部屋にかえるの」
先程までの勢いはどこへやら、涙声でそう言って体を固くしている。少し目が慣れてきたところで、足元を確認してからリリアを床におろす。ドアを開けようにも彼女にはノブが見えない。……あまりこういうやり方は好きではないが。今回ばかりは仕方がない。
リリアとヒューゴは今は一緒にいない方がいい。
襲撃に備えながら二人の面倒をみるのはさすがに無理だ。
「網を取るので、暴れないで下さい」
そう告げてから、リリアが頭から被っている網を外して、適当に束ねて近くにあった棚の上に乗せた。ようやく自由になったのに、リリアは泣きべそをかいている。そっと抱き寄せるとしがみついてきた。
「暗いのはこわいのです……」
それは重々承知しているが、地上に置いておくと、このお姫様は何をしでかすかわからない。
再び抱き上げて、狭い物置の奥の小さな扉を開ける。
ひんやりとした空気が肌に触れ、地下へと続く石の階段が目の前に現れた。壁に掘られた穴に置かれた小さな蝋燭が、弱々しい光を周囲に放っている。その光を頼りに一段ずつ階段をおりて行く。地下水路を流れる水の音が微かに耳に届く。リリアは震えながら固く目を瞑っているが、こちらは一時避難用に作られた隠し部屋のようなものだ。おどろおどろしい話もなければ幽霊も出ない。
ここより古い時代に造られた地下牢の方は……色々出る。歴史ある古い屋敷だ。掘り返してはいけないものが沢山眠っている。
「こちらは何も出ませんよ」
とはいえ……この隠し部屋と地下牢は水路で繋がっているから、リリアとキースが怖がるのも無理はない。
最後の一段をおりると正面は突き当りで、燭台を置くための穴が開けられている。左側には水路に降りるための階段、右側は長方形に切り取られた部屋の入り口だ。
地下は夏でもひんやりと涼しい。室内にはベッド、テーブル、鏡台など、生活に最低限必要なものすべてが揃っている。
きちんと整えられたベッドの上にリリアを下ろす。本棚から適当な本を取って戻ってきたルークはリリアの隣に腰を下ろして、表紙を開いた。
「もう少し寝て下さい。……そばにいますから」
「こわいからむり」
涙目でリリアが首を横に振る。
「では、先に怒ってもいいですか?」
「……寝ます」
髪を止めているピンをさっさと外して、リリアは当たり前のようにルークの太ももを枕にしてころんと横になった。もう鮫の餌は確定しているし、まぁいいかと思いながら本を開く。
「寝にくくありませんか?」
ごそごそと頭を動かして位置を調整してる少女に尋ねる。小さい頃の彼女は、毎日ルークを寝具扱いしていた。その頃は普通に膝枕もしていたが、今ほどの体格差ではなかったはずだ。……首が痛いのではなかろうか。
リリアが寝たらおろそう。そんな事を考えながら活字を目で追う。
「こうすると安心してよく眠れるって……」
目を閉じたリリアがぼんやりとした声でそう言って、小さく欠伸をした。
「…………誰が言ったんでしょうね?」
ルークは本から目を離してリリアを見下ろす。
ゆっくりと目を瞬いて、リリアは少し考え込むような表情をして……どうでも良くなったらしく、そのまますうっと眠りに引き込まれていった。