93 天使様も暴走 その2
再びヒューゴの部屋に連れて来られたクインは、そっと寝椅子の上におろされた。ヒューゴは大変満足そうな表情だ。彼は大急ぎでドアまで戻ると何故か部屋に鍵をかけてしまった。
……ガチャンという音が静かな部屋にやけに響いた。
「……え?」
クインが施錠されたドアとヒューゴをぼんやり見ていると、どたどたどたっという足音がして。ドアがノックされた。
勢いよくドアノブを左右に回している音に混ざって、ダニエルの焦った声が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと、ヒューゴさま、何で鍵かけるんですかっ」
「リリアも鍵をかけていただろう?」
まるで悪気のない様子でヒューゴが答えた。先程から間違ったことは言っていないが、何かおかしい。
「はあー?」
ドアの向こう側から怒りで上ずったリリィの声が聞こえてきた。アレンを振り切って、追いかけてきてくれたのだ。……そうやって常に優先してもらえることが嬉しくて、泣きたくなる。
「今から寝かしつけるから、静かにしてほしいのだが」
煩わしくて仕方がないというように顔を顰めて、ヒューゴがそう言い放つと、ノックの音がピタリと止まった……かと思ったら、いきなり激しくなった。手のひらでバンバン叩いている音が加わっている。
「寝かしつけるって、あの人の真似するのはさすがにマズいわよっ。添い寝も抱きかかえて寝るのも膝枕もダメ。あれは十歳以下だったから許されたの。十歳からは接近禁止令出てたから!」
「あ、あれはマズいです。色々ダメです。クインさま設定十二歳です。やったら鮫の餌ですからねっ」
ダニエルの言う、鮫の餌とは何だろう? クインは思わず首を傾げた。
ドンドンバンバンガンガンと、ドアを蹴っている音まで加わった。その音に負けじとヒューゴの声も大きくなってゆく。
「それは『妹』だからだろう? キースが泣いてるときは、トマスが一緒に寝てやってた」
「それも十歳以下! 弟だからって何もかも許される訳じゃないからっ。時間を進めて時間を」
すでにドアを挟んだ怒鳴り合いだ。鮫の餌やら寝かしつけやら、クインには意味がわからない言葉が飛び交っている。
クインは思わず胸に手を当た。胸がどきどきして苦しいのは、大きな音が怖いというばかりではない。……ヒューゴは誰をどうやって寝かしつけるつもりなのだろう。
「じゃあ寝なければいいんだろう?」
不貞腐れたようにヒューゴがそう言って、踵を返して寝椅子まで戻って来る。……寝かしつけるのは諦めてくれるようだ。でも、全く安心できない。気付けば緊張で口の中がカラカラになっている。
「ちがうっ。そういう問題じゃないの。鍵がかかってるってのがダメなのよ! どうしてわかんないのよっ。これ、監禁よ監禁!」
……これは監禁なのだ。と、その時初めてクインは気付いた。でも、どうして自分がヒューゴに監禁されているのかがわからない。
「鍵を開けると、リリアにどこかに連れて行かれてしまう。どうしても開けたいならジョージから鍵束を借りればいい」
隣に腰を下ろしたヒューゴは、どこか苦しそうな……切なそうな顔でじっとクインを見つめている。どう反応していいのかわからずぼーっと青い瞳を見つめていると、そのままそっと腕の中に閉じ込められてしまった。自分のものでない体温に全身が包み込まれる。クインは限界まで大きく目を見開いた。
「……いやだ。大切だから、誰にも渡したくない」
拗ねた子供のようにそう言って、背中から回した手でクインの耳の辺りを軽く押す。頬にベストのボタンが押し付けられ、頭がくらくらしてきた。
「もー、何子供っぽい事やってるのよーっ。とにかく鍵あけろーっ」
とうとう癇癪を起こしたように、リリィが声の限りに叫んだ。
「……大きな音や大きな声は、怖いな」
囁くような声が頭の上に降って来くると同時に、大きな手が耳を塞ぎ、もう片方の耳は胸に強く押し当てられた。目を閉じると鼓動が聞こえる。クインは、自分のものかヒューゴのものかわからない心臓の音をぼんやりと数えはじめる。
大切に大切に扱われているのはわかる。クインに触れる手はとても優しいから。……でも、何がどうしてヒューゴがこうなってしまったのか、全くわからない。
昨日は鍵のかかった部屋の外にいて、今日は部屋の中にいる。
大切に隠しておきたい宝物のような扱いを受けている。
……これは全部、都合のいい夢なのかもしれない。なんだか今はとても眠い。もう、寝よう。きっと全部ゆめ。
心臓の音を聞きながら、このまま成り行きに身を任せてしまおうと思った時だ。「クイン!」と鋭い声でリリィに名前を呼ばれて、はっとクインは目を開けた。
「クイン、流されちゃダメだからねっ。まともな事言ってるようで、その人のやってること全部おかしいから」
「リリィ、声が大きいし、ノックもうるさい。せっかくクインが寝かかったのに起きてしまった」
うんざりしたような声でヒューゴがドアを振り返る。
「それ失神しかけてたのよっ。クイン気を確かに持って! すぐに助けるから」
「あの二人だって、いつも一緒にいるじゃないかっ」
リリィの『すぐに助ける』という言葉にヒューゴが猛反発した。あの二人とは誰だろう。トマスとキースの事だろうか。
「さすがに添い寝はしてないし、ドアも全開っ。結婚が決まってるあっちと一緒にするなー!」
どうも、トマスとキースの話ではないような気がする。では誰の事だろう……と、クインは内心首を傾げた。
「なら結婚すればいいんだろう?」
「弟とは結婚できないわよっ。設定ブレブレじゃないっ」
……一体誰と誰が結婚するのだろうか。やっぱりトマスとキースなのだろうか。すべての言葉が右から左に抜けてゆく。普段使っている言語なのに、全く意味がわからない。
「……難しいな。ずっと一緒にいるにはどうしたらいいんだろう」
ヒューゴが少し体を離して、まじまじとクインを見てそんな事を言った。
一連の会話の内容に自分が関わっているとは思っていなかったクインは、半分寝かかっているような目でヒューゴを見つめ返すことしかできない。
「リリアみたいな事言ってないでさっさと開けなさいっ」
「いやだ。リリアには渡したくない。二度と会わせてもらえない」
そして、再びヒューゴにぎゅーっと強く抱きしめられた時……ふと思ったのだ。まるでお気に入りのぬいぐるみを取られるのを嫌がる子供のようだな……と。
そうか、ぬいぐるみなのか! と、クインは納得して口元に笑みを浮かべた。そう思えばすべての行動が納得できる。『グレイス』も小さい頃、クマのクインといつも一緒だった。ご飯を食べさせてあげたし、寝る時も勿論一緒だった。
そう、クマのぬいぐるみ! いつの間にかクインは本当にクマのぬいぐるみになってしまったのだ。そうだそうに違いない!
……さすがに、無理矢理こじつけている自覚はある。でも、他に理由が思いつかない。
途切れることなく鳴り続けていた、ドンドンバンバンガンガンドカドカという音が突然ピタリと止む。おやっとクインはヒューゴから体を少し離してドアを振り返った。
「もーうるさいなぁ。お客さん来てるみたいだから静かにしようねー」
ドアの向こうからはトマスの声が聞こえてきた。逃亡中の当主は騒ぎを聞きつけて戻って来てくれたようだ。
「ヒューゴ、言っとくけど、今やってることって、君が昔リリアを引きずった時と全く同じだからね。そこにクインの意思はあるの? その自分本位な性格何とかしろって、さっきキースにも言われたよね?」
何の感情も込められていない声は、氷のように冷たい。びくっとヒューゴは体を震わせると、不安に揺れる目でクインを見つめた。深く傷付いたような表情を目の当たりにしてクインの胸は鋭く痛んだ。
「……嫌いじゃない、です。でも、ドアは開けて欲しい、です。みんな心配、してます」
「……わかった」
神妙な顔でヒューゴがしっかり頷いてくれたことに安堵する。
体を包んでいた体温が消えて、すうっと腕が寒くなった気がした。突然の行動に驚いたが、嫌悪感は全くなかったのだと改めて気づかされる。そのままもう目を閉じて眠ってしまってもいいとさえ思ってしまった……
「……い、嫌じゃ、なかった、です」
ヒューゴは自分に都合の良い言葉を、嘘と取ってしまう人なのだとリリアは言っていた。だから、誤解されないために、思っていることをきちんと伝え続けなければならない。
「……でも、いきなりぎゅってされるのは、は……はずかしい、です」
青い目をまっすぐに見つめながらやっとの思いで言い切ったが、さすがにもう相手の顔を見ていられなくて視線を落とす。じわじわと顔が赤くなる。……思い出したように心臓がどきどきし始めた。慌てて両手で胸を押さえる。そうしないと心臓が外に飛び出してきてしまいそうなのだ。
これは弟が兄に抱く感情とは違う。先程食べた、バラの花のメレンゲ菓子に似た……甘くて儚いものだ。
でも、ヒューゴにとってはクインは『弟』で、クマのぬいぐるみで、だから躊躇わずに食事の介助をしたり、抱きしめたりすることができる。結局、恥ずかしがっているのは自分だけで……
「あ……」
驚いたような、焦ったような声がして、ふと目を上げると、ヒューゴの顔がみるみるうちに真っ赤になった。そのままお互い目をそらすことができずに固まってしまう。クインが恥ずかしいと口にしたせいで、何だかおかしな空気になってしまった……。
「あ……の、そ、その……」
ヒューゴが上ずった声で何か言いかけ時だ。
「あのさー、もう何でもいいから早くここあけてー」
ドアの向こう側からトマスがヒューゴをせっついた。勢いよく立ち上がってヒューゴはドアへと駆けて行く。助かった……と、クインははじけ飛びそうな心臓を押さえながら固く目を閉じた。
「……クイン大丈夫―?」
のんびりとした声が、気持ちを落ち着かせてくれる。クインは熱の引かない頬を両手で隠すようにしながら振り返った。開け放たれたドアの向こう側にいるトマスはもう笑うしかないといった表情だ。その背後には疲れ果てた顔をしたリリィとダニエルが立っている、少し三人から離れた場所にアレンの姿もあった。
「お兄さま助けに来たから、もう大丈夫だからねー」
その言葉を耳にした途端、緊張感から一気に解放される。そのままばたんと寝椅子に倒れ込みそうになり、クインは慌てて肘掛けにしがみついて体を支えた。
今はっきりとわかった。ヒューゴはクインの『兄』にはなれない。一緒にいると、どきどきして苦しくなってしまうから。……でも、ヒューゴが受け入れてくれたのは『弟』であるクインなのだ。
針で指先を刺したような痛みを覚えてクインは顔を顰めた。急速にふわふわとした気持ちが萎んでゆく。
「君の言う通り、リリアで見慣れてるから、僕らは別にいいんだけどさぁ。ちょーっと、今までの自分の言動思い返してみようか。いっくら『弟』だって言っても、距離近すぎない?」
にこにこ、にこにこ、とトマスは笑顔を振りまいているが、背後に闇が見える気がする。
「離れると誰かに取られる。トマスだってキースとずっと一緒だったじゃないか」
不機嫌そうな顔で言い返したヒューゴを見て、これは何を言っても無駄だと思ったのかトマスは、口角をさらに上げた。闇が一層深くなった。
「……うんもういいや。でも、明日からはちゃんと仕事行ってね。お金稼がないと家族を養えないからね。お仕事行くならここに置いてあげるけど、仕事行かないなら帰ってね。アレンも仕事行ってね」
「……え?」
この流れで唐突に名前を呼ばれたアレンは、困惑した顔をして、救いを求めるような目をリリィに向けた。
「……「えっ?」て何よ、「えっ?」て。いい加減仕事行きなさいよ」
リリィが頭痛を堪えるような顔をして呻いた。
「二人とも仕事に行かないなら当主権限で追い出す! 王宮に帰れ!」
トマスは一息でそう言い切った。パチパチパチパチとダニエルが真顔で拍手をしていた。