92 天使様も暴走 その1
「ヒューゴお兄さまって、一人っ子なのね。だから一番身近な『弟』ってキースなのよねー」
リリィが前のめりだった体を戻してソファーに凭れかかる。それに合わせて全員が姿勢を戻した。確かに少し腰が痛くなってきていた。
「キースって、子供の頃、お人形さんみたいに可愛かったの。だから、まあ……その……そういう趣味のあるちょっと厄介な大人から言い寄られたり、つき纏われたり、誘拐されかけたこともあったのよ。だからね、トマスお兄さまはキースを守るために片時もそばから離れなかったの。そういう姿をずっと見てきているし、私とリリアも『兄』にずっと守られてきてるし……」
一旦言葉を切って、重々しい声でリリィは言った。
「ヒューゴお兄さまは、クインを常時そばに置いておこうとすると思うのよ。『兄弟』って、そういうものだと思い込んでる気がする。でも、恐らくリリアはそれを許さないわねー……エミリーさん、リリアにクインの事頼まれたのよね?」
「はい。クインさまを困らせような行動を取るようなら、止めて下さいと頼まれました。……ヒューゴさまは私に負い目があるので……割と素直に言う事を聞いて下さるんですよね」
エミリーが不敵に笑ってみせる。どうしてだろう。絶対にヒューゴには負けてなるものかという気概を感じる……
「ヒューゴお兄さま、睡眠不足が続いてちょーっとおかしくなってる時があって、その時にエミリーさんを『異民族』呼ばわりしちゃったのよ、で、『私から見ればあなたの方が異民族です』って言い返された……らしい。私その時寝てたから、直接は見てないんだけどね」
不思議そうな顔をしているクインに気付いたリリィが、紅茶を一口飲んでから、簡単に説明を加えてくれた。
「もう謝罪して頂いておりますし、私は全く気にしていないんですけどね」
どうしてそんな言い争いになったのかはわからないが、先程大声を出したヒューゴはとても怖かった。言い返したというエミリーをクインは心から尊敬する。
「……でも、あれがあって、私、『言い返す』って、自分の身を守るためにも大切なことだって気付いたんですよね。何を言われても我慢してニコニコしていたりすると、何というのか、思いやりのない人ばっかり寄って来るようになるんですよ……これが不思議と」
「そういうものなの?」
リリィが興味を惹かれた様子で尋ねると、エミリーは頬に右手を当てて、ため息をつきながら窓の外に視線を投げた。
「そういうものなんです。一見とても優しくて物腰も柔らかいのに、親しくなると、さりげなくこちらを貶めるような言葉を会話に混ぜてくるような人っているんです。それを我慢して受け入れ続けてしまうと、後で面倒なことになったりするんですよね」
だんだんエミリーの顔が険しくなってゆく。リリィがおずおずと「……何かあった?」と尋ねると、彼女は深い深いため息をついた。ジェシカとエラが気まずそうな顔で紅茶に手を伸ばす。
「……色々あったんですよ私も。思い出したくもないですが。着飾らされてパーティー会場に放り込まれて、そこで笑顔を振りまく人形みたいなことをさせられておりまして。もうあれが本当に嫌で嫌で」
「……ボクもありました。ヒラヒラした、メイド服、着せられました」
気付いたら唇から言葉が零れ落ちていた。それはクインにとっても思い出したくない記憶だ。
ばっとエミリーが振り返り突然クインの両肩を掴んだ。
「今すぐ忘れましょう! クインさまメレンゲ菓子はお好きですか?」
「……は、はい。すき、です」
その勢いに押されるようにクインは何度も頷く。エミリーはクインの肩から手を離すと、お菓子の乗った器を持ち上げてクインの前にグイっと差し出した。
「とても美味しいので、よかったら!」
有無を言わさぬ口調になっているのは、クインが嫌な事を思い出さないようにと、一生懸命気を使ってくれているからだ。……その心遣いを今は素直に受け入れられる。
「これ、今キリアですごく人気のお店のお菓子なんですよー」
「可愛いし、すっごく美味しいんですよー。バラの花の形で可愛いですよね。おひとつどうぞ」
エラとジェシカにも勧められて、クインはおずおずと一口大のお菓子をひとつつまむ。エミリーはテーブルに器を戻すと、じーっと様子を窺うようにクインを見つめた。何故か他の三人も期待に満ちた目をクインに向けている。
みんなに見守られながらお菓子を口に入れる。メレンゲと甘酸っぱいジャムは一瞬で溶けて、バラの香りが口いぱいに広がった。ぱあっと顔を輝かせるクインを見て、エミリーたちは非常に満足げな表情になる。
「ね? ね? 美味しいでしょう? 沢山あるからいっぱい食べて下さいね。早く食べないとサクサクっとした感じがなくなっちゃうの。だから遠慮してはダメですよ!」
美味しいものは幸せをくれるというキースの言葉をまたもや実感する。嫌な事などもう頭の中に跡形も残っていない。
右回りで順番にお菓子に手を伸ばして、皆で口の中に広がる甘い幸せに浸りきっていた時だ。
「う……うわあぁぁぁぁぁ。なんで、なんで女の子が空飛んでっ」
情けない声が館内に響き渡った。全員の視線が開け放たれたドアに向けられる。
「……なんか、聞いたことがある声だったわよね?」
「知ってる声でしたね」
「ですね」
エミリーとジェシカとエラが顔を見合わせていると、大きな足音を立てながらトマスが廊下を走り去っていくのがちらっと見えた。
「……トマスお兄さま……逃げたわね」
リリィがそう言ってティーカップを持ち上げて紅茶を一口飲む。全員がドアからさりげなく目を離した。
「……あの声、恐らく、私の幼馴染ですね」
「じゃあ、エミリーさんを訪ねてきたってこと?」
「さあ……?」
エミリーは澄まし顔でそう言うと、目を閉じて優雅に紅茶を一口飲んだ。……関わりたくないとその顔にはっきり書いてあったため、リリィはジェシカとエラに説明を求める目を向けた。二人は顔を見合わせて、何かを押し付け合っていたが、やがて諦めたようにジェシカが口を開く。
「何というのか、自分の外見にとってもとっても自信を持っていらっしゃる方で、話していると疲れるんですよ……うーんでも、リリィさまの基準だと普通以下でしょうね」
「そうですね、記憶にも残らない程度だと思います……はい」
「ここに来て、目が肥えたわよね……私たち」
ジェシカがどこか切なさを感じさせる声でそう言って、エラが深く深く頷いた時――
「……ええっ? だから、だからなんで女の子がぁ……うわっ、うわぁぁぁぁぁっ」
再び何とも情けない声が聞こえてきた。「間違いないですねー」と、目を開けたエミリーが頷いた。非常にやる気のない声だ。絶対に関わり合いたくないという思いが透けて見える。
「私はこの赤い実のジャムを挟んだのが好きなんですけど、レモンやオレンジ、チョコレートを挟んだものもあるんです」
そして、エミリーは何事もなかったかのように話を元に戻した。ジェシカとエラもそれに従った。
「これは、バラの花を思わせる形に絞ってあるんですけど、チョコレートはハート型なんですよ! レモンは雫型に絞ってあるので、二つ合わさると、ミニチュアのレモンみたいでとっても可愛いんですよねー」
「でもオレンジは何故か、ただの棒なんですよぉ。クインさまも食べて下さいね! これ、実はなっかなか手に入らないんです」
エラに勧められるまま、もうひとつお菓子を口に運ぶ。その瞬間、悲鳴をあげていた来客のことなど、すっかりクインの頭の中から消え失せてしまった。
「またみんなでお菓子買いに行きたいわねー。今度はクインも一緒に!」
リリィに明るい笑顔でそう言われた瞬間、ぶわっと喜びが体中に溢れる。ぎゅっと胸の前で胸を組んで何度も頷く。体が浮き上がっていしまいそうな程嬉しくて、少し苦しい。
美味しいお菓子をみんなで食べながらお喋りを楽しんでいる。夢みたいだ、と思う。
「お芝居も観に行きたいわよね…………って、なんかどんどん話がズレていってない?」
「女同士のおしゃべりなんてこんなもんですよー?」
「そうですよー。おいしいお菓子食べながら、だらだら思いついたことを喋るんです。クインさま、疲れていませんか?」
「あの、すごく、すごく、たのしい、です」
頬を染めながら興奮気味にクインが答えると、リリィがにっこりわらって「うん、私も楽しい!」と同意した。
「私も楽しいです! 私が求めていたのはこういうものだったんだわ。……どうしよう。クインさまをヒューゴさまに返したくないです」
歌うような声でそう言ったエミリーもとても楽しそうで安心する。初対面の時にはあれほどギクシャクしたのに不思議……と思った時にようやく気付いた。
……クインとエミリーが上手くいくように、リリアが導いてくれたのだと。
「返さなきゃいいわよ。でも絶っ対に迎えに来るわよー」
リリィが思わせぶりにニヤっと笑ってそう言った時だ。
「……ああ、よくわかったな、迎えに来た」
という声がして、再び全員がドアの方に視線を向けた。不思議そうな顔をしたヒューゴの背後で、大変気まずそうな顔をしたダニエルが目を泳がせている。
「入室を許可してもらえるだろうか?」
これはエミリーに向けられた言葉だ。困惑気味のエミリーに、リリィが「ちょっと様子を見ましょう」と小声で伝えた。
「どうぞ……お入りください」
落ち着いた声でエミリーがヒューゴに告げる。
「ありがとう」
穏やかな表情で入室してきたヒューゴは、ドアとソファーの中間地点辺りで足を止めた。ヒューゴとは対照的にとても疲れた顔をしたダニエルがすぐ後ろに控えている。
「クインさま、大変申し訳ないのですが、ちょっとこちらまで来てもらえますか?」
何だろうと思って、クインはソファーから立ち上がって、ヒューゴの近くまで歩み寄った。女性陣が警戒しきった目をヒューゴとダニエルに向けている。
「すみません。ちょっと持ち上げますね。よろしいですか?」
一歩前に出たダニエルから非常に申し訳なさそうな目を向けられ、クインは困惑した。小さく頷くとそのまま軽々と持ち上げられて、腕の上に座る形で抱き上げられる。
「こんな感じで……、腕の上に座ってもらうと安定するので、ぐらつくようなら肩にしがみついてもらうといいですね」
……なんだか、嫌な予感がする。
微かな声で「すみませんっ。私では止められませんっ」とダニエルが謝罪するのが聞こえ、そのまま地面に足がついた……と思ったのは一瞬で、またすぐに爪先は宙に浮いた。
「……へ?」
体がぐらっと揺れて後ろに倒れそうになり、慌ててクインは近くにあったものにしがみつく。
「怖かったな。すまない」
背中に回った手がしっかりとクインが後ろに倒れないように支える。顔を上げるとすぐ真正面に心配そうな青い瞳があった。心臓がどくんっと大きく鳴った。
「……大丈夫そうですか?」
ダニエルが中途半端に手を伸ばしてうろうろと歩きながら、不安そうな顔でヒューゴに尋ねている。
「部屋まで運ぶくらいならできそうな気がする」
とても近い距離で、ヒューゴが嬉しそうに笑っている。首から手を離そうと思うのだが、どうしても怖くて離せない。比べては申し訳ないが、ウォルターやトマスに抱えられた時より安定が悪くて、しがみついていないとどうにも心許ないのだ。
「しっかり捕まっていて?」
ヒューゴはそう言って甘く微笑んだ。口調まで変わっている。誰だこれ、とばかりに女性陣が顔を強張らせ、クインは再び思考停止状態に陥った。
「満足しました? では、クインさまを下ろして、一旦お部屋に戻りましょう。まだお茶の途中のようですし」
遠慮がちにかけられたダニエルの言葉は、ヒューゴには届いていなかった。
「疲れたろう? 寝椅子で少しお昼寝しよう?」
背中に回されていた手が離れて、ゆっくりとクインの頭を撫ぜる。クインはヒューゴの首にしがみついたまま、涙目で固まった。脳が言葉を理解するのを拒否している。……とにかくまず、下ろして欲しい。
「髪が光に透けて、とてもきれいだ。今の髪型もかわいいが、早く伸びるといいな」
髪をひと房持ち上げられる。何を言われたのかよくわからないが、顔が一気に熱くなった。
全員が呆気に取られた顔をして、クインを抱き上げているヒューゴの奇行を眺めている。誰も止めてくれない。……誰か止めて欲しい。
「では、部屋に戻ろう」
背中に手を戻されて、ごく自然な感じでヒューゴが歩き出す。「……え?」とダニエルが虚を突かれた顔になった。「リリィさまっ」とすぐさま焦った声でリリィに救いを求める。ここでヒューゴを止められるのは、伯爵令嬢であるリリィだけだ。名前を呼ばれたことにより、はっと我に返った彼女は、
「ヒューゴお兄さま、ちょっと待って!」
浮ついた様子のヒューゴに強い口調で制止の声をかけた。
「クインがお昼寝する部屋ってどこの部屋よ?」
全員を代表し、厳しい顔つきでリリィが質問を投げかけている間も、ヒューゴはクインを抱えたままどんどん歩いていってしまう。そして廊下に出てから立ち止まって振り返った。
「……え? 私の部屋だが? リリィたちは舞踏会の準備があるだろう? 仕事しながら、ちゃんと様子は見る」
何か問題が? とばかりに軽く首を傾げる。そのあまりに堂々とした態度は、室内に残された人間たちにさらなる混乱を与えたようだった。
「……え? ええ? ここで止める私の方がおかしいの?」
リリィが周囲に同意を求めるが、誰も答えを返せなかった。室内に残された人間が必死で言葉を探している隙に、ヒューゴは自分の部屋に向かって歩き出してしまう。
クインは自分の身に何が起こっているのかよくわからない。それに、人を抱えて運ぶことにヒューゴが不慣れなせいで、どうにも不安定なのだ。だから首に回した手をほどけない。
――結果、クインは大人しく運ばれている。
「……リリィさま」
重々しい声で名前を呼びながら、入れ替わりでアレンが部屋に入ってゆくのが見えた。クインは現実逃避気味にその姿を目で追う。
「……リリィさまを幸せにするために、今、私にできることって何ですか?」
背後でそう尋ねている声は、真剣そのものだった。
……何で今なんだろう。と、頭が働いていないクインですらそう思った。
これでもう、あの部屋にいた人たちは誰も助けてくれない。それどころではなくなってしまったから。
結局、ヒューゴを止められるのはリリアだけなのだと、クインは思い知らされた。




