91 天使様の決意 その3
また大遅刻です。すみません……
クインが連れて来られたのは、可愛らしい雰囲気の明るい部屋だった。天蓋付きのベッドには淡いピンクのカーテンがかけられており、白を基調とした小さめの家具が並んでいる。絵本に描かれているお姫様の部屋みたいだと、クインは心の中で思わず歓声をあげた。
トマスはソファーの真ん中にクインを座らせると、「じゃ、様子見に戻るよ」と言って、ヒューゴの元に戻っていった。
クインが座っているは三人掛けのソファーだ。テーブルを挟んだ向かい側には、同じ色の二人掛けのソファーが置かれている。
エラがお茶の支度をしている……ようなのだが、落ち着きなくポットを持ち上げてやっぱり置いてというのを繰り返していた。そして、窓際に置かれた椅子に座ってリリィが一心不乱に重たそうな厚い本を読んでいる……のだが、本は逆さまで、いかにも慌てて座りましたというようにスカートの裾がぐちゃぐちゃだった。二人とも少し息が弾んでいる。
「はい、クインさまどうぞー」
どこか楽しげな顔をしたエラが、クインの前に小さなカップを置いた。重くないように紅茶の量は半分以下だ。
五人分の紅茶をテーブルの上に並べ、赤いジャムを挟んだメレンゲ菓子をテーブルの中心に置くと、エラとジェシカはごく自然に二人掛けのソファーに並んで座った。身分を重んじる貴族社会では考えられないことだが、ここでは当たり前のことなのだ。できる人ができることをする。だから伯爵が朝食を運んだり食器を並べたりもする。この和気あいあいとした伯爵家の雰囲気がクインにはとても居心地よい。
「あの、あの、……ありがとう、ございました。紅茶、こぼさないで、すみました」
思い切ってクインが感謝の言葉を述べると、エミリーは少し驚いたような顔をして、そして、申し訳なさそうにそっと目を伏せた。
「この間は、意地悪をしてごめ……」
「いじわる、されて、ないです」
クインは謝罪の言葉を慌てて遮る。どうしてエミリーが意地悪をしたと思うのかがどうしてもわからない。困惑しているクインを見て、エラがはっと何かに気付いたような顔になった。
「クインさま、今までどんな意地悪をされてきたか聞いてもよろしいですか?」
優しくそう尋ねられて、クインは少し考え込む。
「……えっと、食事に、虫を入れられたり……とか、掃除中に水の入ったバケツを蹴られたり、とか、洗ったばかりのシーツを窓から捨てられたり、とか」
その言葉に、室内の空気が凍り付いた。質問したエラだけでなく、エミリーもジェシカも顔を引きつらせている。食事に虫を入れられるのは本当に嫌だった。それしか食べるものがないから、取り出して食べたけれど。でも今思えばあの虫は、お嬢さま自ら捕まえたものだったのだろうか……
どれも幼稚な嫌がらせではあったのだ。だから、罰として食事を抜かれたり、鞭で叩かれたりする方が辛かった。
「………あ、顔を、踏まれたのが一番辛かった、です」
意地悪に入るのかはわからないが……これが一番辛かった。心が砕かれそうになった。
「か、顔、踏まれたのですかっ」
「……え? 顔、踏まれたって、何よそれ」
エミリーが血相を変えてクインに詰め寄り、リリィが、ばっと本から顔を上げた。「あ……横顔、です」慌ててクインは訂正する。焦った顔でエミリーがクイン頬に両手を当てて、傷が残っていないか確認し始めた。リリィは本を置いて駆け寄って来ると、空いていたクインの右隣に座り、不安そうな目でエミリーの様子を眺めている。
エラとジェシカは真正面からどんなちいさな傷も見逃すものかという目をしてじいっとクインの顔を見つめていた。
「……えっと、傷は残ってない、です。 でも、ぐりぐりとされたので、痛かった、です」
そうちいさな声で付け加え、何でもない、というように笑おうとして……上手くいかなかった。思い出すと目の奥が熱くなり息が詰まる。唇を震わせているクインの顔を茫然と見つめるエミリーの目に、次の瞬間はっきりとした怒りが浮かんだ。彼女は頬から手を離して膝の上に戻すと、肩を上げるようにして強く拳を握りしめた。
「私もそこまではされてない……こんなちいさな子になんてことを……」
「嫌な事を思い出させてしまいましたね。申し訳ございません」
エラに謝罪されて、クインは慌てて首を横に振った。エラは握りしめた右手を強く胸に押し当てて震えている。顔が真っ青だ。「……エラ、大丈夫?」ジェシカにそう声をかけられた彼女は一度目を閉じて何かを振り切ろうとするように横に振る。そうしてから「うん、ありがとう。もう大丈夫」しっかりとそう答えて顔を上げた。
一方のエミリーは、体を固くしたまま目を閉じて、心を落ち着けるように深い呼吸を繰り返している。
その様子を見て、クインは確信した。
エミリーたちは、あの気位の高い女王様のようだった女のことを知っているのだ。そして、クインと同じように彼女に怯えている。
一度とんっと拳で膝を軽く叩いてから、エミリーが菫色の瞳を開く。そこには強い決意が宿っていた。
「彼女が本当に踏みつけたかったのは、私の顔だったはずなの。だから、クインさまに向けられた悪意は本来は私が引き受けるべきものだったの」
クインの青い瞳をまっすぐに覗き込みながら、エミリーはゆっくりと力強い声でそう告げる。それは自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「だから……彼女の悪意は、全部私が引き受ける。クインさまはもう、何も心配しなくて大丈夫」
最後まで強気な態度で言い切ったエミリーを、ぼんやりとクインは見上げた。
標的が自分ではなくなった。それだけでこんなに気持ちは楽になるのか。ただ別の人間に移っただけのことで、根本的には何も解決していないのに。
それでいいの? 自分さえよければそれでいいの? 心の中で囁く声がする。それは正しいのかと問い質す声が。
『グレイス』の心は疲れ果てて擦り切れていたから、耳を塞いで心を閉ざして聞こえないフリをしていた。でも今は? 沢山の優しい人たちがクインを守ってくれている。この穏やかで優しい世界の中でも、まだ自分は逃げ続けるの……?
あの印象的な声が耳の中に蘇るだけで、指先が冷たくなる。怒りを爆発させた次の瞬間には、別人の顔になって甘えるように微笑むような女性だった。他人の心を恐怖で染め上げることに愉悦を感じている様子だった。
大丈夫だと言いながらも、エミリーの体は震えている。彼女だって本当はクインと同じように怖いのだ。それに気付かないふりをすることだってできる。今までみたいに黙っていればいいだけのこと。
……絶対にダメだ。
心が何かに抗うように強く叫んだ。そんな事をしたら、クインもまた『グレイス』のように自分を嫌いになってしまう。今クインは安全な場所にいる。ここには怖い人は誰も入って来られないと知っている。
――だから、必死に心を奮い立たせる。
「引き受けないでほしい、です。一緒に逃げるほうがいい、です。……だって、あのひとは、すごく、怖かった。すごくすごく怖かったから」
つっかえつっかえそう言った声はみっともない程震えていた。でも……耳に届く自分の声を聞いて、自分の信じる『正しさ』を貫けた自分自身に安堵する。多分こういう小さな積み重ねが、『クイン』を『グレイス』とは違うものにしてゆくのかもしれないと思う。少ずつ少しずつ、変わってゆく。誰一人味方がいなかった時にはできなかったことが今はできるから。
一生懸命言い募るクインを見て、エミリーの顔から表情が抜け落ちた。
「…………うん……私も怖かった。すごくすごく怖かった。だから本当はもう、二度と会いたくない。跡形もなく消えて欲しいって思ってる」
慌てたように天井を仰いで何度も瞬きを繰り返す。
「私は、何もかも全部彼女に奪い取られてしまった。これ以上誰にも何も奪われたくなかったから、クインさまが羨ましくて妬ましくて、どんどんそれが大きくなって苦しかった。……でもね、さっき、クインさまが顔を踏まれたって聞いて、ものすごく腹が立ったの。そんな自分にほっとしたの。私は、そっちの自分の方が、いい」
菫色の瞳が再びゆっくりとクインに向けられる。目が合っても、もう逸らされることはない。
「目の前に彼女が現れたら、私は足が竦んで動かなくなるかもしれない。そうなったら、クインさまは私を引っ張って一緒に逃げてくれる?」
クインが真剣な顔で深く頷くと、エミリーは「ありがとう」と言って気が抜けたように笑った。頬を流れる涙を拭いながら「ジェシカとエラも一緒に逃げてくれる?」と二人の侍女に尋ねる。
「勿論私たちもご一緒しますよ」
「私も……走るの遅いですけど」
暗くなった雰囲気を変えようとするかのように、ジェシカとエラが明るい声でそう答えた。
「じゃあ、みんなで逃げましょう。それでもうこの話はお終い! あの人の事なんて正直思い出したくもないのよね。忘れましょう。忘れるっ!」
パンっと手を叩いて、エミリーが明るい声でそう宣言する。それで室内の空気が一気に変わった。クインの心に圧し掛かっていた重苦しいものもふっと消え失せる。
「そうですね、お菓子が不味くなります。忘れましょう」
「紅茶も冷めます。もっと楽しい話をしましょう」
賛成とばかりにエラとジェシカがそう言った時だ。
「…………私、走る練習しようかな。何とかして振り切りたい」
今まで黙っていたリリィが唐突にぽつりと呟いた。しばしの沈黙の後、エミリーたちは途端に焦った顔になった。
「えっと、練習しても残念ながらアレンさまは振り切れないと思います」
「練習中も多分ずっとそばにいらっしゃいますよ……」
「転んだりしたら……アレンさまが心配して余計に大変なことになるのではないかと」
リリィの眉間にはいつしか深い皺が寄っていた。エミリーと侍女二人は、様子を窺うように開け放たれたドアの方に目を向けてから、テーブルの方に身を乗り出す。……そういえば、部屋の外には何か思い詰めた表情をしたアレンが立っていた。
「これは確かに、ずっと見張られているようで落ち着かないですね……」
エミリーが同情を込めた目をリリィに向けると、
「ずっとこんな感じだったんですか?」
「護衛というより……監視ですね……」
エラとジェシカも大変気の毒そうにそう続けた。
「これが毎日よ毎日。もう本当に勘弁してほしい……」
リリィはうんざりした顔になって深い深いため息をつく。
そしてふと何かに気付いたように顔を上げて、一人行儀よくソファーに座っているクインを手招いた。エミリーとエラとジェシカも目で頷く。おずおずとクインが身を乗り出すと、またこそこそと小声での会話が再開された。
「エミリーさん、もう一回アレンお兄さまとやり直してみる気ない?」
「思い出は綺麗なままで取っておきたいので、ご遠慮します」
とても素敵な笑顔でエミリーが答えた瞬間、「え……即答?」と、リリィが顔を強張らせた。
「あ、うちのお嬢さま、ちょっと前までアレンさまとお付き合いされていたんですよ」
「色々あって別れちゃいましたけどね」
話についていけないクインのために、エラとジェシカが補足説明をしてくれるが、クインの頭の中は大混乱に陥っていた。
……リリィは昔、アレンのことが好きだったのだと昨日言っていた。そして、エミリーはアレンの恋人だったと今聞いた。……少し頭の中を整理する時間が欲しいのだが、会話はどんどん進んでゆく。
「美男美女でお似合いだったんだけどねー」
リリィが非常に残念そうにため息をつくと、ちらっとエミリーの表情を上目遣いで窺った。
「本当に…………もう未練も何もないの?」
ぎりぎり聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で告げられた言葉に少し驚いたような顔をしてから、エミリーはふふっといたずらっぽく笑い、やはり集中しないと聞き取れない程のとても小さな声で答えたのだ。
「さすがにあれ見ちゃうともう無理ですよ。私、絶対耐えられません」
「そっかぁ……押し付けるの無理かぁ」
エミリーの言葉が本心からのものかどうかはわからない。でも、リリィはわざとらしく残念そうな顔を作って、がっくりと肩を落とした。
「……外から見てる分には、お嬢さまとアレンさま、仲のいいお友達って雰囲気ですもんね」
「お互い努力して作り上げられたのだと思いますけど、良い距離感ではありますよね」
「……え? 私とアレンさまって今、お友達、なの?」
意外そうな声でエミリーは首を傾げた。どうもその言葉がしっくりこないと言いたげだ。
「……え、友達ですらなくなったんですか?」
ジェシカが焦ったような声でそう言った途端、示し合わせたように全員がふっと噴き出した。みんなにつられるように笑いながら、クインは自分の心が温かいもので満たされているのを感じる。こうやって近い距離で内緒話をするのが、すごく……すごく楽しくて。
もうずっと『物』である自分に話しかけてくれるような人は誰もいなかった。仕事の合間にお喋りを楽しむ他の使用人たちを遠くから眺めているだけだった。……憧れていたのだ。あの楽しそうな輪の中に入ってみたいと。
「でも、クインだって明日は我が身だと思うわ」
いきなり話を振られて、クインは驚いて目を瞬いた。
「ヒューゴお兄さま、ああなったらもう絶対にクインを離さないと思うのよ。自力で幸せにすると言ったら、その努力は惜しまないと思うわー」
とても心配そうな心配そうな目を全員から向けられたが、クインには意味がよく分からなかった。
「ただ、方向性を間違えるような気がするのよね」