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10 「がんばって会いにおいで」 その6

 居間にやってきたリリアを見た瞬間に、これは相当機嫌が悪いぞとトマスとキースは顔を見合わせた。社交界用の感情をすべて隠した穏やかな微笑みを浮かべている。目の前にいるのは、ガルトダット伯爵家の完璧な長女を演じている時のリリアだ。

 あ……やっぱりこっちもめんどくさいことになってる。と、兄二人は思った。


「カップを片付けるのを手伝っていただけませんか?」


 顔は笑顔だが、声が平坦すぎる。


「かしこまりました、お嬢さま」


 使用人として答えながら、キースはちらっとトマスを見る。仕方がなさそうにトマスは立ち上がった。厨房を手伝っていたジャックを呼んできて、四人で二階に向かう。

 トマスは片づけを手伝う訳ではない。片付けている時に万が一ヒューゴが起きて来た場合に対応する人間が必要なのだ。

 ジャックが、カップの中身をバケツにあけて、空のカップをバスケットの中へそっと入れる。キースが扉の鍵を開けて、リリアがドアの開閉を確認する。二階に置かれていた分をすべて片付けて、一旦厨房に寄ってカップをコナーに返す。伯爵令嬢と当主が当たり前のような顔をして厨房に立ち入っているが、日常茶飯事なので誰も気にしない。


 園丁が届けたのであろう新鮮な野菜を前にして、今日もシェフのポールはご機嫌だった。オーブンから、パイの焼ける香ばしい匂いがしている。引退したコックは同世代のキッチンメイドと孫の話をしながら、のんびりと芋の皮を剥いていた。こっちは平和だなとキースは思った。


「もうすぐリリアさまのお好きなパイが焼けますよ」


 コックの一言でリリアが目を輝かせる。ルークが頼んでおいたに違いない。妹は彼の手のひらの上でころころ転がされている。


「お客サマ、どうスルー?」


 異国から来たシェフはのびやかに歌うような話し方をする。お客とはヒューゴの事だろう。ヒューゴとそのお付き二名は、本日伯爵家で夕食を食べてゆくことになるのだろうか。……できればさっさと起こして追い返したい。ちらりとトマスを見ると、残念そうな顔で首を横に振った。


「一度寝たら、しばらく起きないと思うよ」


「念のため、三人分増やせます?」


「マカせてー」


 シェフは白い歯を見せて笑うと、おどけてくるっとまわってからリリアに向かって片目を瞑った。リリアが声をあげて笑う。多分ポールはいつもと様子の違うリリアを気遣ったのだろう。


 少し機嫌が直ったリリアを連れて、大階段をのぼる。


「え……?」


 屋敷の三階に着いた途端に、リリアが戸惑ったような声を出した。


「どうしました?」


 鍵の束を持っているキースが訝し気に尋ねる。リリアは大階段の隣の部屋のドアを見つめていた。カップが倒れて水が廊下に零れている。


「……私じゃない」


 それを聞いた瞬間に、キースとトマスがリリアを背中に庇った。


「トマスさま、そこのドア開けてみません?」


 ドアを見つめたままキースがトマスに提案する。


「別にいいけどさ……幽霊じゃない?」


 トマスが意地悪な顔をして余計な事を言った。キースはぞっとする。夜眠れなくなるからそういうことは言わないでほしかった。


「そっちも怖い……。でも人間だった方が怖い。やっぱりルークさんたちが戻ってくるの待ちましょう」


「大丈夫だって。誰もいないよ」


 トマスは何の躊躇いもなく、すたすたと歩いて行くと、キースが止める間もなくカップをどかしてドアを開けた。


「……開きましたね」


 リリアが冷静な声で言った。ドアが開いたということは、中から誰かが開けたということだ。


「ほら、誰もいない」


 トマスが手招きするので、三人で部屋の前まで行くと室内を覗き込む。がらんとした部屋の中には古い椅子とテーブルがばかりが集められていた。人が隠れられそうな場所はない。


「だからきっと幽霊だって」


 そう言ってキースの肩を叩いたトマスは、安心させたいのだろうか。それとも怖がらせたいのだろうか。


「あっちは私がいた部屋です。カップを倒したのは私です」


 奥の部屋を指差して、普通に歩いて行こうとするリリアをキースが腕を掴んで止める。


「カップどけないとドア開かないから、こっちも誰もいないと思うよ。……家族と使用人守るのも当主のお仕事です。君たちは後ろね」


 トマスを先頭にして四人で扉の前に歩いて行く。ジャックがドアの前で転がっていたカップを拾い上げて、キースが濡れた床を雑巾で拭く。その後トマスがゆっくりと扉を開いた。


「やっぱり誰もいない」


 壁際にずらりと古い家具が並べられている。こちらも人が隠れている様子はない。


「誰かいたとしても、もう逃げた後だって。さっさと片付けてしまおう」


 命令に従って、ジャックがカップを片付け、キースが鍵を開けゆく。トマスがすべてのドアを開けて室内を確認した。そして四人は最初にドアを開けた部屋の前に戻って来る。最後のカップをジャックが拾い上げて、キースが床を丁寧に拭いた。


「使用人の方が休憩されていたとかではありませんか?」


 ジャックが躊躇いがちに尋ねる。


「ないと思うよ。中にいたのがうちの使用人なら、カップ片付けて掃除までするよ」


 トマスの言葉に、キースとリリアも同意する。それに伯爵家の使用人はお年寄りが多い。わざわざ休憩のために三階まで上がって来るとは考えにくい。


「夜はルークやアレンがいるし、昼間は護衛騎士が外を巡回してくれているから、侵入者ではないと思うんだよね」


 トマスは暗に、内部の人間仕業だと言っているのだ。


「……だからもう、幽霊ってことで良いんじゃない? めんどくさいからそうしよう」


 トマスが強引にそう結論付けた。当主が幽霊だと言うのなら、それに従わねばならない。


「かしこまりました」


 キースはため息をついた。ジャックはもうすべてを諦めた目をしていた。


「……この部屋には、何か高価なものが置いてあったのですか?」


 納得がいかないというように、リリアがトマスの目をまっすぐに見つめる。

 トマスは困ったような顔をして、ドアを開けて室内に入ると、椅子の間に置かれていた引き出し付きの机に歩み寄った。


「実はここに……リリアとルークの結婚許可書の偽物が隠してありました」


 そう言って引き出しを開ける。


 ――引き出しの中は空っぽだった。






 夕方、ソフィーが焼き菓子を持って伯爵家を訪れた。お見舞いとして第二王子が用意してくれたものだ。ソフィーと一緒にアレンも戻って来た。ルークとダニエルは仕事が残っているため遅くなるそうだ。


「結婚詐欺師、という言葉が一番しっくりくるかもしれませんね」


 ソフィーと向かい合って、リリィとトマスが二人掛けのソファーに座っていた。

 壁際に並べられたソファーにリリアとイザベラが座り、アレンが窓の側に立っている。

 ジャックとキースは夕食の支度を手伝っているためここにはいない。伯爵家の使用人は何でもできなければならないのだ。


「実在する子爵家の一人娘ということにしていたようです。このままだと爵位のために年の離れた従兄と結婚させられるから一緒に逃げてほしいと」


 この国では基本的に爵位は長男しか継げない。女性に継承権はないため、その家に男子が一人もいない場合、爵位は近親者の男性が継ぐことになる。この場合は従兄が爵位相続者なのだろう。それで、娘を従兄弟と結婚させようという話になる。


「え……意味わかんない。従兄弟と結婚しないと子供爵位継げないよね。一緒に逃げた相手との間に男子が生まれれば可能性は……条件によってはあるにはあるのか? でもどうしてそれで男が引っかかるんだろう……」


 トマスは難しい顔をして考え込んでいる。


「それでも一緒に逃げようという男性なら、絶対に裏切らないということでしょう」


「お兄さま、爵位継承できるかどうかは関係ないの。これが愛の逃避行というものよ……多分」


「その後の生活大変だよね……」


「愛さえあればどんなことでも乗り越えられる……とかいうやつなのよ。それか先のことなんて何にも考えてないかのどっちか」


 全く意味がわからないと結論付けた兄と、自信なさそうに持論を述べた妹は顔を見合わせ、首を傾げる。そして、「ああ!」という感じで、二人揃ってアレンを見た。

 無表情で窓の外を警戒していたアレンは二人から視線に気付いてたじろぐ。幸いにも、こちらの話を全く聞いていなかった様子だ。


(なるほど、頭の中がお花畑の人間が必要だったわけか)


 リリィとトマスは納得して頷き合った。


「アレンお兄さま、気にしないで。……警戒続けてね。邪魔をしてごめんなさい」


 リリィがにっこり笑いかけると、アレンは不思議そうな顔をしながらも頷いた。


「グレイスが求めていたのは、盲目的に自分に従う駒だったんでしょうね」


「恋に狂った男が必要だった訳だね」


「……そうか。確かに、そんな感じだった」


 ガタガタと震えながらも手を差し出したひょろっとした男性と、まっすぐ前しか見ていなかった騎士の扮装をした体格の良い男。似ても似つかぬ風貌の二人だが、今思えば彼らの目には狂気に近い妄執が浮かんでいなかったか。


「強盗役は男爵家の次男とその使用人。馬車を乗っ取ったのは、木版画職人でした。騎士の姿をしていた運河に落ちた男は、騎士ではなくて曲芸師で、彼が着ていた軍服は当然偽物でした」


 ソフィーが淡々と説明をする。


「全員知人の紹介でグレイスという女性と知り合ったようですね。幾度となく手紙のやり取りはしていたようですが、素顔を見たことはないそうです。彼女は馬車から降りて来ることはなく、ベールで顔も隠していた。ミステリアスな雰囲気の女性で、声がとても美しかったと。まるで幻惑されるかのように彼女の魅力にはまっていったと彼らは言っています」


「……魔性の女ってやつね。成程」


 トマスは嘲るように笑った。


「問題は彼女の使っていた馬車で……これが形も色のこちらの馬車とそっくりなんですよね……」


「うちの馬車って結構古いよね。はっきり言ってしまえば時代遅れだよね。今はあまり街中走ってないんじゃない? もっと乗り心地がいいのが出て来てるから」


「わざと似せたんでしょうね……」


「用意周到なことで」


 トマスの声が低くなった。最初から狙いは伯爵家の馬車だったということだ。


「男爵家の次男は、ロバート店で宝石類を奪って一緒に逃げようと言われていました。店に押し入ってめぼしいものを袋に詰めて、グレイスの到着を待つつもりでした」


「宝石持って逃げるっていうのもね……いちいち癪に障る」


 トマスのその言葉でリリィも気付いた。伯爵家を崩壊させた自称女優は、大量の宝石を持って出入りの商人と逃げたことになっている。わざとそれを踏襲しているのだろうか。男を誑かす魔性の女との駆け落ち騒動。伯爵家の人間の心に残る傷跡を悪戯に撫ぜようようとするかのように。


「木版画職人と曲芸師には、ロバートの店の前で馬車に乗って待っているから馬車を奪うように命じていますね。御者は年寄りだから……その、簡単だと。お怪我がなくて本当に良かったです」


 ソフィーが言葉を濁した。グレイスという女は、御者を突き落として馬車を奪えとでも言ったのだ。リリィの中で、女に対する怒りが大きくなってゆく。


「二人の内どちらかが保険だったということなのかな。舟の件はどうなんだろう?」


「運河を使って逃げられるように舟を用意して欲しいと言ったようです。木版画職人と曲芸師が舟を貸りたという商人も、グレイスからの紹介でした。別々の日に同じ舟を二人に見せていますね。二人が証言した場所には、もう店はありませんでした」


「……あんな小さな舟では絶対に運河は渡れないと思います」


 リリィが硬い声で告げる。ソフィーとトマスが気遣わし気な目を向けてくるが、今は恐怖より怒りの感情が勝っている。それに、アーサーの所でしっかり泣いたから、比較的落ち着いて話すことができていた。体が震えることもない。


「リリィさまのおっしゃる通り、転覆させるつもりだったのでしょう。……しかも、向こうは、今日殿下が運河に来ていることも承知でやっています」


 ソフィーは目を伏せて、ため息と共にそう言った。


「命まで奪うつもりはなかったか、或いは殿下に見せつけるつもりだったか……」


「どうでしょうね。今回怪我人が出なかったのは、たまたま運がこちらに味方したからです。……久しぶりに見ましたね、あそこまで怒っているアーサーさま」


「いつもと変わらないご様子でしたよ」


 きょとんとしてリリィがソフィーの顔を見る。アーサーは落ち着いた様子で相変わらず優しかったし、しっかりリリィで遊んでいた。


「大人ですからね。……アレンさま、表情がないですよ?」


「……ああ、すみません」


 ソフィーに指摘されて、ぎこちなくアレンが微笑む。彼は戻って来てからずっと様子がおかしい。声をかけるのもためらわれるような張り詰めた空気を纏っている。アレンはリリィと目が合うと、辛そうに俯いた。


「油断がありました。申し訳ございません」


「リリィを狙ってくるとは思っていなかったんだから、仕方がないよ」


 トマスは落ち着いた声でアレンにそう告げてから、居間の入り口を振り返った。


「……だからエミリーさん、君が責任を感じる必要は全くない」

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