1 「アレンより厄介だよ?」
サブタイトルは38話で第二王子が言った台詞です。
内容は、42話のルークのお姫様。に関するものです。本当はラストに入れようかとも思ったのですが結局お蔵入りとなりました。42話が大丈夫だった方のみどうぞ。ネタバレしかないので、本編未読の方にはお勧めいたしません。
ルークが初めてリリアに会ったのは、彼女がまだマーガレットと呼ばれていた頃だ。
使用人たちが縫ったメイド服を着て、ちいさな箒を持って、一生懸命使用人階段を掃いていた。一段ずつ一段ずつ丁寧に。
ライリーと共にルークが姿を現すと、幼い彼女はとても驚いた顔をして……
「おきゃくさまですか?」
そう尋ねたのだ。そして、箒をその場に置いて、細い階段の上でお辞儀をしようとしたのである。
慌ててルークが階段を駆け上って抱き留めたから、彼女は階段から転がり落ちずにすんだけれど……本当にあの時は息が止まるかと思った。
しかし、マーガレットは階段から落ちそうになったことよりも、きちんと挨拶ができなかったことが気に入らなくて、その場でやり直すと言い出した。
「下に降りてからにしようね」
ルークがそう言うと、彼女はしぶしぶ頷いてくれたから、手を繋いで一緒に階段を下りた。小さな手を握った時、妹の事を思い出して……深いかなしみにとらわれそうになった。しかし、すぐにそんな気分は吹き飛んだ。
覚えたてのお辞儀をしようとしたマーガレットがバランスを崩してその場で転んでしまい、泣き出してしまったのだ。痛かったからではなくて、上手にできなかったことが悔しくて。
「泣かないで。大丈夫だよ。すぐできるようになるよ」
しゃがみ込んで目の高さを合わせて、涙にくれる小さな女の子を慰める。
「いやなの。いまちゃんとできるようにしたいの。マーガレットはおきゃくさまにちゃんとごあいさつするの」
泣きながらマーガレットはそう言って、目を擦ってしまう。このままでは目が腫れてしまうだろう。
「じゃあ、手を持っていてあげる。もう一度やってごらん」
そう言って両手を差し出す。少女はきょとんとして、それでも涙にぬれた小さな手でルークの手を取った。片足を引いて、膝を曲げて。少しバランスを崩しかけたから支えてあげる。
「うん。上手にできた」
ルークが褒めると彼女はぱあっと笑顔になって。
「ありがとう、おうじさま!」
王子様? と思ったけれど、きらきらした目で自分を見つめる小さな少女はやっぱり妹に重なって……ルークは胸の痛みを隠して微笑んだ。
「可愛いお嬢さん。私にも挨拶してくれるかい?」
二人の様子を黙って見守っていたリルド侯爵がマーガレットに優しく声をかける。
「はい」
マーガレットがもう一度お辞儀をしようとするから、ルークは両手を差し出して。ちいさな彼女はとても嬉しそうにその手を取った。
ルークの大切なお姫様は、一途で、我が儘で……とても無邪気に残酷なことをする少女だ。
アレンのやったことなんて、リリアが自分に対して行ってきたことに比べたら大したことないだろうとさえ思う。
自分から抱き着いてくるくせに、捕まえようとすると怯えてしまう。だから、いつもそっと逃がしてあげていた。無理矢理その手を掴むことは簡単だったけれど、彼女から手を伸ばしてくるのを待っていた。
ぎりぎりまで追い詰めて……逃げ場を塞いで。一番残酷な方法を使って捕まえた。
でも、彼女はもっとずっと強かで。願い事は二つと言ったのに、たった一つ呪いのような言葉を楔のように打ち込んだ。
――手の届かない遠くへ行かないで。
結局ルークはリリアに捕まったままだ。今もこの伯爵家に閉じ込められている。
計算高い女だというなら対処のしようもあるけれど、そうでもないから振り回され続けている。さすが魔性の女とまで呼ばれた女優の娘といったところだろうか。
キースはあの人と顔が似ているけれど、リリアは別の部分を受け継いだ。
伯爵家の執事として忙しなく屋敷内を移動していると、あちこちから使用人たちの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。彼らは口を揃えて「懐かしい」と言うのだ。
ルークの左手にはいつもリリアの右手が握られている。ルークの手が塞がっている時は、リリアは袖を掴んでいる。昔、ルークとアレンがこの屋敷に滞在していた頃と同じだ。リリアは手を離すと不安そうな顔になる。時には泣いてしまう。……それもあの頃と同じ。
「ルークさま、手の届かない場所に行かないで」
本当に残酷な人だ。一度だってルークの手を離した事などないくせに。こちらが少しでも目を離すと逃げようとしたのに。
リリィの侍女になると言ったり……
別の男と結婚しようとしたり……
別の男と海の向こうに逃げようとしたり……
もういっそ、そうさせてやればいいんじゃないかと何度も思った。実際にその願いを叶えてやろうとしたけれど……
どの選択肢が現実になっていたとしても、結局ルークはリリアと一緒にいたのだろう。……本当に呆れるくらい我が儘なお姫様だ。
だから、あれくらいの意趣返しは許されるのではないだろうか?
……リリアは寂しかったのかもしれない。そう気付いたのは最近のことだ。
子供の頃はいつも一緒にいたのに、ルークが一足先に大人になってからは、離れている時間の方が長くなった。
頻繁に手紙は出していたし、半年に一度は必ず伯爵家を訪れていたけれど、彼女はずっと寂しくて……拗ねていたのかもしれない。
「あと一年だけですよ」
涙で濡れている栗色の瞳を覗き込んで言い聞かせる。ちゃんと言っておかないと、また彼女は逃げようとするから。
「あと一年だけは、あなたの望む優しい王子様でいますから、そろそろちゃんとして下さいね」
もういい加減仕事に復帰しなければならない。いつまでも、ここに閉じ込められていてあげる訳にはいかないのだ。外が色々騒がしくなってきたから。
早死にするから休憩しろ休憩しろと言っていた面々は、まだ休んでおけと言うけれど。
……ほら、彼女はまた泣く。ルークが泣かれると困ると言ったから。
本当にこの可愛らしいお姫様をどうしてくれようか。
アーサーが結婚許可書を届けに来た日、たまたま偶然伯爵家にいたエミリーの求婚者たちは、アーサーの護衛騎士たちによって全員捕縛された。事情を聞きたいからとアーサーに言われ、イザベラとトマス、エミリーとエミリーの両親は近衛師団本部へ向かった。
部屋の片付けも終わり、キースは一息ついているし、リリィはアレンと一緒にリルド侯爵家の街屋敷にロバートを訪ねて行った。
ここのところ第一王子も大人しかったから、久しぶりの実戦だった。
相手は全員見掛け倒しだったけれど……まぁ、運動にはなったなとルークは思う。
テールコートが汚れたので、ラウンジスーツに着替えた。
白バラのアーチがあまりに乱れてきているので、手が空いたら蕾以外の花を全部切ってくれないかと園丁から頼まれていたから、今その作業をしている。リリアは落ちた花の中で咲き初めのものを選んで拾って束ねている。
「虫がいますよ」
「そうですね。バラは虫がつきやすいですね。あ、ここにもいる」
葉についていた尺取虫をぽいっと摘まんで捨てる。リリィなら泣いてしまうだろうが、リリアは全く平気だ。
「棘に気を付けて下さいね」
「慣れてるから大丈夫ですよ」
素手で棘を折りながら、楽しそうに白いバラの花束を作っている。
「どなたに渡すおつもりですか?」
そう言ってからかうと、
「……いじわるです」
拗ねてふいっと顔を背けてしまった。その様子が可愛くて、ルークの口元に笑みが浮かぶ。
しばらくパチンパチンと、鋏が枝を切る音だけがしている。
視線を感じて、リリアを見る。彼女は白いバラの花束を持って、まっすぐにルークを見つめている。目が合うと、彼女は緊張した様子で切り出した。
「……私はお兄さまのことを、ずっと長い間お慕い申し上げておりました。私はもうすぐ遠くに嫁ぎます。せめてこの気持ちだけでも受け取って下さい」
思わず手を止めた。
「……意趣返しですか?」
自分の声がかたく冷たくなるのがわかる。
本当に、このお姫様は……さらってどこかに閉じ込めてしまおうか。
「わたくしは、いずれリルド侯爵となる方に嫁ぎます」
決意を込めた目をして、リリアはルークにそう告げた。その言葉の意味するところに気付いて、ルークは目を瞠る。
「でも、おじいさまのことはだいすきなので、まだまだずっと先であってほしいなと思っているんです」
そう続けて、リリアはふふっといたずらが成功した子供のように笑った。
「ちゃんと準備して待っています。……ルークさまが迎えに来て下さるのを」
頬を染めて、恥ずかしそうにリリアは俯いた。
「……バラの花束を私に下さるのでは?」
「ダメです。一生懸命集めたから、これは私の部屋に飾るの」
はぐらかされたと思ったのか、頬を膨らませて踵を返そうとするから、鋏を置いて捕まえる。逃げられないように華奢な両肩に手を置いて向かい合う。ああ、手が汚れているのが残念だなと思う。リリアはバラの花で顔を隠してしまうから。
「こっこれで願い事はふたつです。ちゃんと迎えに来てくださいね」
焦ったような声。
「バラの花どけて下さい。邪魔です」
「ダ……ダメですっ。後一年は、私の望む王子様でいてくれるって言いましたっ」
狼狽えながらバラの向こうでそんな事を言っている。ああ、何をしようとしているのか理解はしている訳だ。
「手が汚れているんですよね……花の中に蜂がいますよ」
「え?」
リリアが慌ててバラの花を下ろして、花の中をひとつひとつ確認している。そしてむすっとした顔を上げた。
「いじわる。うそつき。蜂なんていな……」
言葉が途中で途切れる。リリアは怯えて目を瞑ってしまうから、そのまま肩を引き寄せて軽く触れるだけのキスをする。これくらいならきっと許される。
――童話の中でも、王子様はお姫様にいきなりキスをしているのだから。