無駄のダム
無駄ムダむだ。
言ったことがありますか? 言われたことがありますか?
無駄ムダむだ。
無駄で悩む毎日にさようなら。
そしていらっしゃい。
さあ、今日も無駄のダムに水を溜めていきましょう。
小学生の頃、ある先生が言った言葉を今でもよく覚えている。
「予想はうそよ」
だから授業で答えを聞かれた時に間違ってもいいのだ。
必ず正解を答えなくてはならないということは、決してない、と。
それから大人になるまで、いや、大人になってからもよく覚えてしまう言葉がある。
「無駄だろ?」「無駄やん?」「無駄なことはするな」
無駄ムダむだ。
納得できる無駄はいい。
そういった無駄は確かに省くのがいいだろう。
しかし、中には納得できない無駄もある。
こちらからすれば、相手が無駄なことを言っている。
だが悲しいかな。
無駄と口にする人たちは立場が同じか上、或いは対岸の場合が多い。
こちらは波風を立てたくないのをいいことに、彼らはそれに気付かず、或いは気付きながらも更に無駄な言葉を積み立てる。
無駄ムダむだ。
それに晒されるこちらの時間の無駄もいい所だ。
ここで考える。
無駄と言われても、それを無駄と決めたのは自分ではない他人だ。
一個人の価値観に過ぎない。
こんなことを言えば、「いや君以外の誰がどう見ても無駄」などと誰かは言うかもしれない。
それはいったい何人だ?
国どころか、地域が違えばもう常識が食い違う。
数十億のうちの一割にも満たないような数の「誰がどう見ても」にどれだけの価値があるだろう?
更に言うなら、自分が信を置く相手以外の価値観にどれだけ重みを感じる?
無駄ムダむだ。
誰に言われようと、結局自分が無駄と思わなければそれは無駄じゃない。
今は確かに無駄に思えても、将来役に立つことだってあるかもしれない。
完全に無駄だったと決まるのは、人生の終着点前だ。
そんな時に無駄に想いを馳せて何になる。
どうせなら有意義なものに想いを馳せて往くだろうさ。
無駄ムダむだ。
無駄ムダむだ──。
いいじゃない無駄。
私は好きだよ。
いちいち反論に思考を割くのも煩わしいだろう?
だから受け入れてしまおう。
ああ無駄さ。
無駄な知識と経験さ。
だから今日も、無駄のダムに水を溜めてしまおう。
知ってるかい?
水力発電では、水の勢いが強ければ強いほど、作り出される電気の量が増えるのさ。
だから水の量が多くて、「高いところ」と「低いところ」の落差が大きくなればなるほど、より多くの電気を作ることができる筈さ。
そうして作られた電気は世界を巡り、電気を作った水は川や海へと流れ、蒸発して雲や雨になって、また無駄のダムや川へと戻る。
なんて有意義な無駄エネルギーのサイクルだろう。
いいじゃない無駄。
きっとあなたも好きになるよ。
無駄ムダむだ。
さあ、今日も無駄のダムに水を溜めてしまおう。
人生の半ばで答えを聞かれた時に間違ってもいいじゃない。
必ず正解を答えなくてはならないということは、決してないのだから──
恩師へ、そしてみんなへ返す、これが私の「予想はうそよ」。