26 宿敵⑥
ユーアは口から大量の血を吐いた。
今、自分がどうなっているのか、よくわからない。
意識が真っ黒な何かに浸食されている。
何も考えられない。
嵐のようなドス黒い何かに身体を委ねると、急に楽になった。
ユーアの意識の統制から離れた彼女の身体は、目を禍々しい赤色に光らせながら、口から流れる血をそのままに、鉄槌を大きく振りかぶり、身を低く構えてリブラへ向けて再び地面を蹴る。
「“魔女に与える鉄槌”」
その時だった。
「“煤振り落とせ。花蘇芳”」
目の前に、ピンクの花弁が1枚舞う。
ユーアの身体は、突然視界に入ったそれに、反射的に目を奪われた。
その一瞬の隙に、花弁は気づけば数を増し、ユーアの視界の端々を覆いつくしていた。
甘い香りが鼻腔を突く。
ユーアの動きが止まる。
そして――
「ごふっ…」
急に力が抜けたユーア。もう一度吐血し、鉄槌を手から離した。
鉄槌は鈍い音を立てて落ち、地面を抉る。
落ちた鉄槌に続くように前のめりに倒れるユーアを、抱きとめる金髪に猫目の女性。
「ユーア……なんて無茶を……」
アーデルは、気を失ったユーアを抱きしめ、まるで自分自身の身体が痛むかのように苦悶の表情を浮かべて見つめる。そして顔をあげた。
目の前で、持ち主の手から離れた鉄槌が、黒い灰になってさらさらと消えていく。
その先には、血を流すリブラ。
そしてユーアとアーデルを守るように、ソラがアーデルの目の前に降り立った。
血で染まった脇腹を片手で抑えつつ、ちらりとユーアの方を見ては、険しい顔で唇を噛む。
「……遅かったか……」
そしてソラは瓦礫の中で血を流している桃色髪のエルフを睨んだ。
ソラとアーデルの視線の先で、リブラはガラガラと音を立てながら、瓦礫の中から立ち上がった。
「…面倒ですね…追いかけて来ましたか…」
リブラはいら立ちを隠さずに言う。
「民間人はいいんですか?ソラ殿。Sランクのあなたには緊急時に街を守る責任もあるのでは?」
リブラは頭から顔に流れている血を、邪魔くさそうにぬぐいながら悪態をつく。
「そんなたった一人の少女に構う暇はないでしょう。早く引き渡してくださいませんか?――ああ、貴族令息の愛妾だとでも言うなら別かもしれませんが」
「黙れ」
「だってそうでしょう。その子はもともと、メリールゥ所属の冒険者です。あなた方とは本来関係ないではありませんか。なのに、辺境伯家ぐるみでそんなに肩入れして…」
「誰が関係ないだって?」
ソラがあざけるように笑った。
「こいつは、俺の妹だぞ?」
「…………は?」
リブラが、普段の彼女にそぐわぬ間抜けな声をあげた。
「なあ、父上?」
ソラが突然、リブラのさらに後方にある、大きな瓦礫の山に向かって語り掛けた。
その目線の先には――
白いのっぺらぼうの仮面で顔を隠し、瓦礫の山のてっぺんで、リブラを見下ろすように座る一人の男。
片足は胡坐をかくように膝を曲げて横に倒し、もう片足は膝を立てて、立てた膝にだらりと腕をかけ、だらしなく座っている。
この状況にそぐわないほど、尊大な態度が伺えた。
「……『研究都市』メリールゥギルド所属Sランク冒険者、“謀の天秤”」
白い仮面の男は、低い声で呼びかけた。
ただの呼びかけであるはずのその声は、静かであるが荘厳で、気迫に満ち、その場の全員を硬直させるほどの重々しさがあった。
「余の名を申してみよ。」
リブラはその声の迫力にびくっと身体を震わせ、自身を見下ろす白い仮面の男の方向へ片膝をつき、片手を胸に当て、頭を垂れた。
「は……ナグモ・デルゼン・ウォッタリラ辺境伯閣下。」
「余は憤懣遣る方ない。」
リブラが言い終わるか否かというタイミングで、白い仮面の音が低い声で続ける。
いつの間にか、周囲はウォッタリラギルドの冒険者や都市政府の憲兵に取り囲まれていた。
形勢が逆転している。
リブラの想定では、ウォッタリラの戦力は当面、街の混乱の収拾に充てられるはずだった。ここで更なる戦闘は予定していない。
――恐らくソラの仕業だ。
リブラは歯噛みする。彼の感知能力でリブラの位置はすぐに特定できたはずだ。そして彼の立場ならウォッタリラの人員を動かせる。
さらに、リブラが用意した兵器を『ユーレンフェミリア』が捨て身で対処したために、ウォッタリラ側に戦力の余裕が生まれてしまった。その戦力がこちらに回されているのだろう。
「他領地の下民風情が、余のウォッタリラ領を土足で踏み荒らし、さらには余の息子と娘に狼藉を働いた。この始末、どうつけてくれようか」
こうなってはさすがに、リブラに分が悪い。
「……申し訳、ございませ……」
言いながら、リブラは自分の耳を疑った。
――娘?
息子はわかる。
「娘、とは…?」
リブラは思わず顔をあげた。
白い仮面の男は低い声で続ける。
「余の家門の家系図に、今日新たに娘が加わった。それこそが、其の方が狼藉を働いたそこの銀髪の娘である。」
「そんな……まさか……」
リブラは目を見開く。
数日前に、部下を通して貴族名簿は確認済みだ。辺境伯家に彼女らしき名前はなかった。
そんなすぐに、貴族家門の戸籍を都合よく動かせるものか。
「そんなの……でまかせに決まって……」
「余に口答えするか。よほどの命知らずと見える。この場で首を切り落とされるが其の方の望みか?」
リブラは慌ててまた頭を垂れた。
「い、いえ、めっそうも……」
ソラ含む養子たちは名ばかりの貴族と言われているが、辺境伯本人はれっきとした高位貴族だ。
この帝国において、高位貴族は数がかなり少ない分、有する権限は別格である。
高位貴族が是といえば是、非といえば非。
逆らえば首が飛ぶ。
それに加えて彼は、帝国随一の経済力を持つウォッタリラ領の独立統治権を有しているのだ。
統治の実務面は都市政府にほぼ委譲しているとはいえ、帝国議会での影響力は推して知るべし。
階級上は辺境伯より上の爵位である公爵や侯爵も、領地への経済制裁を恐れて、ウォッタリラ辺境伯との表立った対立は避けるという。
――しかし高位貴族は基本的に、大陸各地に有する自らの領地に滞在はせず、自身は帝都に邸宅を構えて過ごしていることが多い。
そのため、帝都以外で暮らしていれば、庶民が高位貴族にお目にかかる機会は人生でほぼ皆無。別世界の住人だ。
ここで辺境伯本人が出てくることは完全にリブラの想定外だった。
「“裁きの矛よ、調停の茨よ。”」
突然、空気の温度が急激に下がった。
辺境伯が、気だるげな手でリブラを指さし、呪文を唱えている。
「“天を砕き、地を穿て。”」
気づけば晴れていた空に暗雲が立ち込め、雷鳴が轟いていた。
「“インドラの雷”」
刹那――
天地が割れたかと紛うほどの轟音が響き、天上から太い雷が落ちてリブラに直撃した。
「――――!!」
リブラは雷の中で、白目を剥いて何か叫ぶが、轟音に掻き消えた。
憲兵たちだけでなく、ソラやアーデルでさえ、その威力と轟音に呼吸を止め目を見張る。
雷が止み、空の暗雲が晴れるとそこには、無残に焼け焦げたリブラの姿があった。
その場の全員が息をのみ、しんと静まり返る。
「加減した。息はある。――連れていけ。」
辺境伯は、近くに構えていた憲兵に顎で指示を出した。
そして自身は、興味が失せたようにふいと目をそらし、立ち上がって姿を消した。




