ナージャは贈りたい
先日のパーティを経ての翌日、ナージャは思いっきり寝込んでいた。
「すみません、一诺……」
「謝らないでください、ナージャ様。私が奥方様を止められなかったのが原因なのですから」
濡らしたタオルでナージャの赤く染まった顔に浮かぶ汗を拭いながら、一诺はそう言った。そのタオルを氷の浮いた冷水に浸し、しっかりと絞ってからナージャの額へと優しく置かれる。
ナージャは先日の疲労から、熱が出ていた。
……思いっきり泣いたからでしょうか……。
ナージャにとって、パーティとは酷く苦手な場所。煌びやかで貴族が沢山居て、よくわからない話ばかりしている場所。その上ヴァレーラに絡まれて泣かされまでしたのだ。
具合を悪くするのも無理は無かった。
……彼も悪気は無かったんだと思いますけど……。
口調はあれだが、言葉は一応気遣いのものだった。いじめられて追い出されたのかと心配してもくれていた。ただちょっと口調と圧と態度と行動がアレだっただけで。
そこまで思い出し、ナージャはふと思う。
……そういえば彼、何て名前でしたっけ。
昨日一诺との会話で、忘れてしまおうとなった相手。けれど一晩で忘れられるはずも無い、と思いきや、昨日の時点で既に忘れていた名前は相変わらず忘れていた。とても長い赤いマフラーを首に巻いていた事は覚えているが、それ以外の見た目はまったくもって記憶になかった。
確かマフラーと髪色が同じだったような気がする、くらいである。
「……ですがナージャ様」
「?」
一诺はナージャの顔に掛かっていた前髪を指で軽く横に払いながら、ニヤリと笑う。
「今回の件で、当主様と奥方様はナージャ様をもうパーティに連れてはいかないと約束してくださいましたよ」
「本当!?」
その情報に、ナージャは思わず飛び起きる。
「……あっ」
それと同時に熱による眩暈がして、再びふかふか枕へとダイブした。
「大丈夫ですか、ナージャ様」
「……す、すみません。つい、その、嬉しくて、はしゃいでしまいました」
「いえ、ナージャ様が喜んでくださったなら私も幸いです」
ふ、と一诺は薄く微笑む。
「とはいえ熱がある今は、あまり動かない方が良いとは思いますが」
「……そうですね」
少し恥ずかしくなりながらも、ナージャは微笑みを返した。先程の一诺の微笑みが、素に見えたから。気のせいかもしれないが、素の微笑みだったのではと思うとついつい頬が緩んでしまう。
……もし一诺が素を多く出せるくらいに私と仲良くなってくれていたなら、嬉しいですね。
どうしても上司と部下という関係性がある以上、難しいかもしれないが。そう思いつつ、ナージャは一诺に問いかける。
「それで、パーティに行かなくても良いというのは?」
「先日のパーティで、マショー家の一人息子にナージャ様が泣かされるという事件がありましたからね。当主様と奥方様がそれはもう激怒されまして」
「じ、事件という程じゃないと思います……」
……物凄く嫌な思いはしましたけど、子供ならよくある事ですし……。
ぬいぐるみを取られて泣くというのは、子供ならよくある事だ。そもそも子供というのはすぐに泣くのだし、言い方を考えられる程の人生経験があるわけでも無いから喧嘩になりやすい。前世で幼い妹の面倒を見ていた頃を思い出しつつ、ナージャはそう思った。
「充分に事件です」
「事件ですか……」
ナージャには、自分が赤子時代以来まったく泣かない子であったが故に今回の件が大事件レベル扱いをされている自覚は無かった。
「そうしてノヴィコヴァ家からマショー家に、絶縁宣言がなされました」
「絶縁!?」
「ナージャ様、起き上がってはまた眩暈が起きてしまいますよ」
「うぅ……」
起き上がろうとするも体がだるく、心配そうな表情の一诺の言葉も事実なのでナージャは大人しく横になる。
「でも、絶縁なんて。そんな、私が泣いたくらいで、そんな」
……迷惑を、掛けてしまいました。
交流があったのであれば、取り引きなどもしていたはずだ。それをナージャが泣いたというだけの理由で捨てるなど。ノヴィコヴァ家の今後や加害者扱いされたマショー家について回るかもしれない陰口などを考えるとナージャの頭の中がぐるぐるとかき回され、熱が上がって目の前がチカチカした。
「大丈夫ですよ」
そんなナージャの頭を、一诺の手が優しく撫でる。働き者な、まだ若いのに男らしさもちゃんとある大きな手。温かいその手に頭を撫でられ、ナージャは少しホッとした。
……やっぱり、お母様の手とは違いますね。
撫でるという行為は同じハズなのに、何故だろう。ナージャが心を許しているかどうかという違いなのかもしれないが、一诺の手は安心する。
何というか、頼っても大丈夫なんだという安心感に包まれるのだ。
「元々ノヴィコヴァ家とマショー家はそこまで大した取り引きをしておらず、他で充分代用出来ます。赤字にもならないとの事でした。マショー家としても一人息子が病弱でか弱い年下の少女からぬいぐるみを取り上げて泣かせたというのが許し難かったらしく、そのくらいが妥当だろう、と」
「……い、良いんでしょうか……」
「良いんです」
ぽんぽん、と頭を軽く叩かれた。熱がある頭に響かないようにと少し触れる程度のそれは、ナージャを気遣っているのだと雄弁に語っている。その気遣いがまた、ナージャの心をぽかぽかと温めた。
……マシュー家?との色々を聞きながら思うのは駄目かもしれませんけど、心配させるのも良くない事ですけど、でも、えへ、こうして心配してくれるの、嬉しくて、幸せですね。
ぽわぽわしながら、ナージャはそう思った。
尚マショー家への被害などは特に問題無いようだと判断した為、ナージャからマショー家への興味は特にない。もっとも問題があろうと無かろうと一诺以外の他人に対して興味も期待もしないナージャなので、どちらにせよ家名を間違えていただろうが。
「そして不幸にも今回のパーティでこのような事が起こった為、当主様と奥方様はナージャ様をパーティに連れて行くのはどうしようか、と悩んでました。目元が赤く腫れてしまう程に泣かされたのだから、さぞやパーティにトラウマが出来てしまっただろう、と」
「……泣かされたというか、私が泣いてしまっただけと言いますか……」
……中身は大人だからこそ、私が耐えればあの子に私が泣かされている図にはならなかったと思うと、少し申し訳ない気もします。
最早ヴァレーラの事は赤いマフラーくらいしか覚えていないナージャだからこそ、他人事のようにそう思った。喉元過ぎれば熱さを忘れる。喉元を過ぎてその熱さを無意識だったり意識的だったりと忘れた結果、昨日のアレコレはナージャからすれば既に結構な過去の事に思えていた。
というより現在進行形で熱に苦しめられているからこそ、今ある問題では無いソレは過去にしか感じられないだけである。
「ちなみにですが、トラウマが出来たのであればもっとパーティに行く頻度を多くしてパーティが楽しいものだと教えればきっとパーティが怖いものでは無いとわかるはず、と奥方様が仰ったので即止めました」
「ありがとうございます一诺愛してます」
恐ろしい案が実現しかねないのを止めてくれたのが嬉しくて、ナージャの口からついぽろりと本音が転び出た。それを止めてくれたという感謝と好意が脳をいまいち介さずに出たような、本音そのままの言葉だった。
「もしそのような事になればナージャ様の心労が募るだけだと……え?あ、いえ、はい、そんな、え」
遅れてナージャの言葉を認識したらしい一诺は一瞬虚をつかれたようにきょとんとし、じわじわと耳や首が赤く染まった。それでも表情はまだ少しきょとんとしたままで、耳と首以外はいつも通りの顔色をしている。
……これもしかしなくても、告白と受け取られて困らせてしまいましたね……!?
幼い主からの告白に対し、専属使用人からのベストアンサーは何か。
そう考えて一诺は困っているのだとナージャは判断した。例え幼い主相手であれど、使用人の立場から主に対して適当な対応は出来ないだろう。何せ使用人から断るなど、不敬に当たりかねない行動だから。
「あ、あの、違うんです。いえ違わなくて、一诺の事は大好きで信頼してて、一緒だと安心して、それであの、お母様、私の話聞いてくれないから、私が話しても多分駄目で、その、だから、一诺が止めてくれたの、嬉しくて、助かって、ありがとうっていう気持ちの大きいやつがついぽろって出ただけで、一诺を困らせる気は無くて」
おろおろと思わず涙目になりながら、ナージャは必死でそう伝えた。そんなナージャの瞳に浮かぶ涙を、流れるような動きで一诺の指が掬っていった。
「大丈夫、わかっていますよ」
一诺はいつも通りに、目を細めて笑っている。耳と首はまだ赤いままだが、その表情はいつも通りの笑顔だった。
「困るなどあり得ません。ただ少し直接的に好意を伝えられて、そうですね……」
ふむ、と一诺は顎に手を当てて考える。
「……その、殆ど経験が無くて確証が無いのですが、多分私は照れたのだと思います。それでつい思考が停止してしまったのかと」
……どういう事でしょう。
その言い方だと、まるで一诺は照れるという感情を今まで感じた事が無いみたいだ。
「一诺は、その、今まで照れた事が無かったんですか?」
「なんと言いますか……」
ス、と一诺の目が遠くを見るように細められる。
「思い出したくない思い出が多いのであまり話せませんが、前に居た職場がそれはもう酷い場所で。東洋人を迫害している雇用主だったせいで下っ端も下っ端の扱いだったんです」
「え、酷い……!」
ナージャの前世は日本人であり、東洋人だ。そして一诺が東洋人であったお陰もあって食べ物などの問題が解決したというのに、その東洋人を迫害するだなんて。
そもそも迫害という感覚が理解出来ないナージャには、迫害するという発想自体が未知であり、恐ろしいものだった。
「今はこうしてお嬢様の専属として働けるという幸福を得ましたから問題はありませんよ。あの環境下で生き残る為に色々と学んだのが役立っているわけですし」
ハハ、と一诺は年相応に笑う。
「ただまあ六つの時に唯一の家族だった奶奶が亡くなってしまい、住み込みで働けるところを探して前の職場に。……それまで住んでいたところから距離もあったせいで移動費に全部使ってしまい、他に行ける場所もお金も無く、更に迫害があった為に十年程照れるという感情とは無縁でしたね」
何でも無い事のように笑っているのに、語られる過去が酷く重い。ナージャは思わず涙を零しながら起き上がり、一诺の手をぎゅっと握った。
「い、一诺、幸せになりましょうね、絶対に幸せになりましょうね……!わた、私、一诺が幸せになれるようお手伝いしますから……!」
……一诺はいつも私の為に頑張ってくれてて、凄く良い人で、こういう人こそ幸せになるべき人なんですから……!
一诺の幸せがナージャから離れる事だったら潔く今の生活を諦めて自由にしてあげよう。そう本気で思うくらいには、ナージャにとって一诺は大事な存在だった。家族よりもずっとずっと大事な、秘密の共有者。
そんな一诺の幸せを願う事は、ナージャにとってとても自然な事だった。
「……既に幸せですよ」
優しく、ナージャの手が握り返される。
「ナージャ様が私の作る食事を美味しいと言ってくれて、困った事がある時は私に相談してくれて、私にありがとうと言ってくれる。私はこれ以上無いくらいに幸せです」
じわり、と一诺の耳と首が真っ赤に染まった。
「ハハ、まったく……本当に、照れ臭いという感情は、こういう感覚なのでしょうね」
恥ずかしそうに、一诺はふにゃりと笑っていた。
「……良い事ですよ。私、一诺がそうやって感情を出してるの、嬉しいです」
「そうですか」
「でも本当に今まで照れた事が無かったんですか?その、六つまでの間とか。一诺はお婆様のお話をよくされるから、ありそうな気がしていたのですが……」
「あの頃は子供でしたから。褒められた時などには恥ずかしいという感情よりもまず、嬉しいという感情が出ていたのを覚えています」
「あ、そっか、一诺は十六歳だから、今が思春期なんですね」
一诺は恥ずかしそうな表情で耳と首を赤くしながら、何とも言えない表情をしていた。事実言ってからナージャは今の自分が五歳児である事を思い出し、五歳児が言う事でも無かったなと自覚した。
……すみませんって謝りたいですけど、この空気の中で謝る方がもっと微妙な空気になるような……。
「え、ええと……あ、あの!欲しい物とかはありますか!?」
突然の言葉に、一诺はきょとんとした表情になった。
「……欲しい物、ですか?」
「あの、その、前からいつも、あの、お世話になってて、ぬいぐるみを貰ったりもしたから、その、一诺にお礼をしたいと思ってて、でも一诺が何を欲しいか、わからなくて」
「そんな、あのぬいぐるみは追跡魔法の為でもありましたからそんな気遣いは」
「万が一お父様やお母様に相談したら、その瞬間商人に頼んで大量に商品を持って来てもらってさあこの中から好きなのを選んでどうぞ、みたいな事になりかねないですし」
「流石ナージャ様、英断です」
一诺は真顔で頷きながらそう言った。お互い、あの二人ならやりかねないどころか本当にやる可能性が高いとわかっているのだ。
「しかし本当に、私は今までの生活もあってかそこまで物欲がありません。強いて言うならナージャ様が元気になってくれれば、と思いますが……」
そこまで言って、一诺はナージャの額に手を当てる。額に置いていたタオルは先程起き上がった時に掛け布団の上へと落ちていた。
「……熱がかなり引いていますね。望むまでも無く、元気になってきているようです」
……多分、もうパーティに行かなくて良いという事になったから、気が楽になったんでしょうね。
結局どうやってパーティに行かなくて良いように交渉したのかはあやふやなままだが、あの両親は約束事はちゃんと守る。場合によっては独自に曲解している事もあるのが玉に瑕だが、一诺ならそこはしっかりとやっているだろう。つまり、本当にもうパーティに誘われる事は無い。
その事実がナージャの心を軽くし、心因性だった体調不良が治り始めているのだと思われる。
「あの、一诺」
「はい」
「私の心配をしてくれるの、嬉しいです。元気になって欲しいって言ってくれたのも、嬉しいです。でも、あの、私、お礼、したいです。お礼をしたいって無理強いはしたくないですけれど、でももし、希望があるのなら……」
「ふむ……」
ううん、と一诺は首を傾げた。
「私の中にも一応希望はあると思いますが、正直に言って隙間風の無い部屋で、しかも寝床で寝られるだけありがたいのですよ。服だってこうして上等なものを用意されていますし、替えもありますし」
そう言ってから、ふ、と一诺は一瞬睫毛を震わせた。
「……そうですね、やっぱり、特に希望は」
「ありますよね?」
「え」
パチリと見開かれたその目を、枕に頭を預けながらナージャは見上げる。
「今、一瞬遠くを見てました。何か心当たり、ありました?」
微笑みながらそう言えば、一诺は目を細めて苦笑した。
「まったく、ナージャ様はよく見てますね。私なんかを見ても何も得など無いでしょうに……見抜かれたのは初めてですよ」
「ふふ、得なんて。一诺が大好きだからよく見てるだけです」
ナージャの言葉に一诺の耳と首が一瞬で赤く染まり、その顔にじわりじわりと汗が浮かぶ。
「……多分、今、私、照れています」
手で顔を覆って小さく唸りながら、一诺はへにゃりと眉を下げて笑った。
「…………一応、希望というか、欲しい物が」
「何ですか?」
何が欲しいんだろう、とナージャは少しわくわくした。結局は親に頼む事になるのだろうが、手に入れられる物ならば用意する事が出来る。いつもお世話になっている一诺に恩返しが出来るのではないかと、わくわくしていた。
「……服、ですね」
「服?」
「東洋の、漢服という……要するに民族衣装です」
「民族衣装……東洋の、ですか。ええと、それはどういうデザインなんですか?」
日本人魂なナージャからすると、中国辺りの民族衣装はチャイナ服とかチャイナドレスとか、ああいう系統しか想像出来ない。けれど中国語でわからないとはいえ、そういう系統では無い事は何となく察した。
「えと、……あ、そこの紙に描いたりって、出来ます?」
「……そうですね、一応絵も嗜んでいますから」
一诺は目を細めて微笑み、机の上に置いてあった白紙にさらさらとペンを滑らせた。紙を手渡されたナージャは、のそのそと大きな枕を背もたれにして上体を起こす。
「こういったデザインの物です」
「わあ……」
手渡された紙には、着物に似た中国風の衣装が書かれていた。
……そういえば中国の歴史系ドラマみたいなのでは、着物っぽい衣装の方が沢山居ましたもんね……!
日本風に言うなら先程までナージャが想像していたチャイナドレス系は大正時代の格好で、一诺が望んでいるのは昔ながらの着物、という感じだった。とはいえドラマで見るような、貴族が着ているような正に着物!というデザインでは無い。
もう少し動きやすそうな、中国風の忍者のようなデザインだった。
「格好良い服なんですね」
「そうなんです!」
グッ、と一诺は拳を握る。目には相変わらずハイライトが入っていないが、十代らしい笑みを浮かべていた。
「奶奶が昔教えてくれた侠客は、こういった服を着ているイメージが強くて」
目を細め、一诺は大事な宝物についてを語るように静かに言う。
「格好良くて、憧れなのですよ」
「成る程……」
……見た目が格好良いのはちゃんと伝わりますけど、シアなんとかって何でしょう。
「あの、シア、クウ?というのは?」
「ああ、侠客とは……強きを挫いて弱きを救う存在であり、仁義を重んじ、困っている人を助ける為に体を張る人達の事です。情を施されれば命をかけて恩義を返す。義理を果たすという精神を重んじていて、とても格好良いんですよ」
「わあ……!本当に格好良いです!」
「でしょう!」
思わずといったように、一诺は口角を上げてニッと笑った。
……成る程、シア何とかというのは義賊の事なんですね……!
ナージャはこの国の言葉であれば日本語同様問題無くわかるが、他国となるとそうもいかない。しかもナージャは元々外国語が苦手なので、雑に納得した。要するに石川五右衛門のような存在という事なのだろう。
「それで、この服がその人達の着てそうなイメージの服なんですね」
「はい。憧れというのもそうですが、私はナージャ様に救われました。だからこそその義理を果たす為、身を引き締めるのに良いと思いまして」
「え、わ、私は何もしてない、ですよ?」
「だからこそですよ」
困惑するナージャに、一诺は目を細める。
「意識しない程当然に、ナージャ様は私に与えてくれました。私はその恩に報いたい」
「あぅ……」
そう真っ直ぐに言われると、とても照れる。ナージャは熱が戻って来たような気がした。
……んん、でもコレ、多分中国の普段着では無いような……。
前世でのナージャは、生きるのに忙しかった。遺産は残されているものの、妹にまで苦労をさせたくは無かったから。だから得意分野である料理や掃除などのバイトを行っていた。なので正直、外国にも歴史にもそこまで詳しくはない。
しかし、バイト仲間に歴史好きや外国好きが居たのでそれなりに知識はある。
ナージャが日本に生きていた頃の中国は日本人と同じように普通の洋服などを着ているイメージが強い。日本人から見た着物のように、普段着はあまりしないイメージだ。着るのに手間もかかるだろう事を考えると、そのままプレゼントして良いのかわからない。だが、一诺が望んでいるのはこの服だ。
恩があるのも、恩に報いたいと思うのはナージャも同じ。
「……じゃあ、ご贔屓の商人さんに、東洋の服を取り扱ってないか聞きましょう。取り扱ってない時はいっそ職人さんに頼んで作ってもらっちゃいましょうか」
「へ」
一诺は本日何度目かになる、きょとんとした顔になっていた。
「…………?……あ、もしかしてこの服が欲しいのは冗談のつもりだったとか?」
「いえ!冗談のつもりは無く、その……異国の民族衣装なので、無理だと言われる可能性が高いのでは、と……」
「確かに、手に入るかはわかりませんね」
なにせ異国の民族衣装だ。
「でも、一诺がこの格好良い服を着てる姿、私も見てみたいって思いましたから。無いなら無いで一诺に似合うよう、専門の人に作ってもらっちゃえば良いんです!」
医者を少しの溜め息で呼び出すのは、他の患者に申し訳ない。万が一があるからこそ酷く申し訳ない気分になる。けれど服関係の専門であれば万が一で死人が出たりはしないだろう。
「……ナージャ様」
「えっ、あ、だ、大丈夫ですか?」
ベッドのすぐ横にある椅子に座っていた一诺が、へなへなと力が抜けたように上半身をベッドに預けた。常に気を張っている一诺にしては随分と珍しい。普段ならどれだけ疲れていようとナージャのベッドに腰掛けようとすらしないのに、今の一诺は完全に上半身を預けていた。
珍しく手の届く位置にある、その襟足の長い黒髪。
……ちょっと、ちょっとだけですから……!
ナージャはそう言い訳をしつつ、普段なら触れないだろうその艶のある黒髪に触れ、一诺の頭を撫でた。無意識なのだろうか、耳と首を赤く染めた頭がナージャの小さい手にほんの少しだけ押し付けられた。
……んん、可愛いです……!
「…………ナージャ様」
「はい」
拒絶されていないからと自分に言い訳をしつつ撫で続けるナージャに、一诺は顔をベッドに埋めたまま言う。
「俺はこの恩に、絶対報います。あなたを害する奴らには渡さない」
撫でていたナージャの手を優しく握って、一诺は顔を上げた。
「絶対に、守ります」
「はい、頼りにしてます」
そんな危機など早々無いだろう、と茶化しはしない。真面目な顔の一诺の言葉に、ナージャもまた真面目に答えた。
……私が頼れる存在は、一诺しか居ませんよ。
ソレを言うのは流石に重いし少々気恥ずかしいので、言わないが。