ナージャは涙を流す
ナージャは酷く憂鬱な気分だった。
「申し訳ありません、ナージャ様。力及ばず……」
一诺はここ最近、ナージャの事を名前で呼んでくれるようになった。それは良い。食事の時間を家族と一緒に過ごさなくても良くなり、自室で一诺お手製の東洋料理を食べられるようになった。それは良い。
寧ろ東洋の料理は日本とは微妙に差異があれど、馴染みのある味だったのでとても良い。
前世で行った中華料理屋を思い出す味で、とても安堵した。特に一人で食べられる辺りが最高だ。しかし今ナージャが憂鬱なのはそれでは無い。
「今日のパーティにはね、ナージャと同じ年頃の子達も来るのよ!きっと仲良くなれる子がいっぱいいるわ!」
母と共に、パーティへ向かっているこの現状。これこそが酷く憂鬱な気分になる理由だった。
「ナージャは一诺と仲良くなって、それから元気になったでしょう?前よりもずっと子供っぽくなって、私達は嬉しいの。ナージャの幸せが私とあの人の幸せだもの。勿論カーナだってお姉ちゃんであるナージャの幸せを祈っているハズよ」
うふふと微笑み、母はナージャの頭を撫でた。娘が可愛くて愛おしくて仕方が無いというのが隠せない表情で、楽しそうに。
……カーナって、誰でしたっけ?
一诺と案を考えてどうにか許可を貰い、足首まであったナージャの長い髪は背中までの長さとなった。普段はそれを一诺によって三つ編みにされているのだが、今日はパーティに相応しいようにと軽く巻かれている。
ふわふわしていて、酷く落ち着かない。
……ああ、弟の名前がそうだった気がします。
「あらら、いけない、髪型がちょっと崩れちゃった。ええっと……よし!」
ナージャの髪型を気にせず撫でたせいで崩してしまった母は、ちょいちょいと弄ってどうにか誤魔化した。撫でたいから撫でるというのが母だった。さながらペットの犬を撫でる飼い主のように。残念ながらその手は、ナージャからすれば慈しみの無い手にしか思えなかった。
可愛がっていてもそれは母本意のもので、ナージャを思いやってのものでは無い。
実際ナージャを本当に思いやっているのであれば、こうしてパーティなどには連れ出さなかっただろう。それも精神年齢が合わない故にまともに交流するのも疲れて仕方が無い同年代相手と会うような場所。これからあるだろう苦行を思い、ナージャは忘れていた弟の名前をぼんやりと思い出す。
「……それでね、ナージャ。私は思うの。一诺のように仲良く出来る相手が居れば、ナージャはもっと子供らしくあれるだろうって。無理なんてしなくて良いの。私もあの人も、あなたが子供らしく元気にしていればそれで良いのよ。だからこそパーティへ行って、お友達を作りましょう!」
ナイスアイディアと言わんばかりに、母は明るい笑顔を浮かべる。
……弟はとりあえず弟と呼べば通じるから、名前を意識した事はありませんでしたね。
正直言って隣に座る母の名前も、家に居る父の名前だってナージャは覚えていない。何せ当然過ぎて、両親は娘に自分の名を教えていなかったから。それに加えて塞ぎ込みがちなナージャなので、自分の意思をくみ取ってくれる一诺以外の名を覚えていないのは当然だった。
「お友達が出来たら、とっても楽しいわ。外に遊びに行ってお花を摘んだり、走ったり、お話したり。ああでも木登りは駄目よ?危ないもの。怪我をしちゃったら大変だわ」
ナージャは自分の服を見下ろす。普段のエプロンドレスでは無い、綺麗なドレス。重くて動きにくい拘束着のようなソレは、酷く煩わしかった。
「でも、そうね。走ったりして遊べるような素敵なお友達が出来たら、一诺が来てナージャが元気になれたように、きっともっと子供らしく元気になれる。有り余るくらい元気なら、木登りっていうのもありかもしれないわ。だってナージャがそれ程までに元気になってくれる方が、とても嬉しいもの。娘に元気になって欲しい、楽しく遊んで欲しいって思うのは、母として当然の願いよね」
ナージャは前世で妹を我が子同然に育てたが、結局は姉だ。確かに元気であれ楽しく生きろと願いはしたが、実際はどうだっただろうか。家事に学業に妹の世話に自分の世話にと忙し過ぎて、殆どが記憶に残っていない。記憶として記録出来ない程脳みそが酷使されていたのだろう。
……一诺。
ナージャはぎゅう、と胸の中のぬいぐるみを抱き締める。これはパーティに行きたくないと落ち込むナージャに、一诺がくれたものだ。少なくともこれを抱き締めていれば気は紛れる。
まあ一诺は馬車の後ろに居るのだが。
専属の使用人であり、付き人。それが一诺だ。当然ながら外に行く時だってナージャに付き従う。けれど主と使用人が共に馬車の中に座るなどあり得ない。なので一诺は、馬車の後ろに立つ事でついてきている。
それがまた、ナージャからすれば申し訳ない気分で仕方が無かった。
「ほらナージャ、ついたわよ。今日は色んなお家の人が沢山来ているから、沢山お友達が出来るわ!折角だから全力で楽しみましょう!」
「……はい、お母様」
凄く嫌だが、拒絶出来ない。だって母は善意で、良かれと思って言っているのだ。その善意を無下には出来ない。けれど嫌だという思いは誤魔化しきれず、ナージャは下手くそな笑みを浮かべながらそう返した。
もっとも、母はその下手くそな作り笑いが作り笑いだと気付いていない。
「やっぱり、ナージャだって楽しみにしてたのね」
言葉と笑顔を鵜呑みにして、心の底からそう思っての笑顔を浮かべた。そう、パーティとは楽しいもの。少なくとも彼女にとって、沢山の人と交流できる場であるパーティとはそういう場所で、そういうものだ。だからそれを厭う人が居るという価値観の相違を、母である彼女は知らないままだった。
・
いってらっしゃいと母に送り出されたナージャは、日本人特有の影を薄くする技能でそそくさとその場から逃げた。パーティ会場は使用人も入れるのだが、新しいお友達を作る為だからと一诺は一旦離されてしまった為、ナージャには耐えられる気がしなかった。
「おい」
……年相応にピチピチな子供と一緒に遊ぶとか、ハードルが高過ぎます……。
「お前」
中庭に出る階段の陰に隠れるようにして、ぬいぐるみに顔を埋める事で溜め息を殺す。慣れない場所も、貴族らしい人達だらけな空間も、同年代の子達も、全てが全てナージャには合わない。そもそも魂がそういう世界向きでは無いのだ。
「何をしてるのかと聞いているだろうが!」
「ヒッ!?」
ビクリと肩を跳ねさせて声がした方に視線を向ければ、少し年上の少年が立っていた。赤い髪に、お揃いの色をした長いマフラー。ふんぞり返っている彼は上等な服を着ていて、彼もまた招待された子息とかなのだろう。
「この俺、マショー家の一人息子であるヴァレーラが聞いているというのに何故無視をする!?」
「え、えと、あの」
ナージャは気付いていなかったが、ヴァレーラは最初から中庭に居たのだ。それ故にナージャがこそこそと階段の陰に隠れた事に気付いた。何故中庭に居たかという理由は、単純に周りが見えずよく何かを壊しがちだからという理由で親によって中庭に追い出された。以上である。
ちなみに首の長いマフラーも暴走しがちなヴァレーラを止める為のリード代わりだ。
「何をしていたと!俺は聞いている!」
「あ、あの、あの、な、にも、してな、です」
「なら何故こんなところに居るんだ!」
「ちょ、ちょ、っと、あの、人、中、多くて、それで、あの」
……怖いです……!
ナージャは涙目になりながらぬいぐるみを抱き締めた。不機嫌そうな人を相手にするのは、昔から苦手だった。どうにかしないとと思うが、どうしようも出来ないからだ。おろおろするしか出来ず、恐怖から舌が回らなくなる。
そうしてより機嫌を悪くさせるのではと焦ってしまう悪循環。
「いじめてきたヤツでも居たか!」
「いな、いな、居ないです。そん、そんな人、は。わ、私、話しても、な、な」
「そもそもお前は誰だ!」
「ひ、う、う……」
答えきる前に次々を被せられる質問に、ナージャの目はより一層潤んだ。そう矢継ぎ早に質問を投げかけられてはどの質問に答えれば良いのかがわからなくなり、頭が混乱して仕方が無い。
……わ、悪い人じゃないの、わかりますけど、怖いです、ぅう……!
いじめられたかを聞いて来た辺り、心配をしてくれたのだろう。ただし不機嫌そうな顔と、大きい声。年上にそんな口調でぐいぐい質問を投げかけられるというのは、酷いプレッシャーとしてナージャに襲い掛かって来た。元々ナージャは大きい声が苦手なので、どんどん心が弱っていく。
なにせ大きい声というのは、小さいながらも必死に伝えようとするナージャの声を塗り潰してしまうから。
「この俺がきちんと先に名乗ったというのに、何故お前は名乗らない!?」
「わ、わた、わた、私、な、ナージャ、ナージャ・ノヴィコヴァ、で」
「ナージャ・ノヴィコヴァ!」
「ぴッ……」
一気に距離を詰めて来たヴァレーラに、ナージャは恐怖で息を一瞬止めた。
「質問に答えるのは礼儀だろうが!相手を見てしっかりと話す!それが礼儀!なのに何故お前は俺を見ずにどもりながら喋る!?」
「そ、そ、んな、事、いわ、言われて、も……」
お前の圧が怖いからだ。ナージャがそう言える性格なら良かったが、そう言えない性格だからこそここまで怯えているのだ。しかも礼儀まで持ち出された。確かに言っている事は合っているだろう。けれどナージャにはどうにも出来なくて、けれど事実だからこそソレは酷くストレスで。
生真面目故に、暗に礼儀知らずと言われた事実が酷く刺さった。
「そもそもそんな物を持っているからそういう事になるんだろうが!ぬいぐるみなどに頼って背中を丸めるから良くない!」
「え、あ、やっ……!」
素早く、強い力でナージャの腕の中にあったぬいぐるみが奪われた。慌ててナージャが取り返そうとするも、ヴァレーラは腕を伸ばす事でそのぬいぐるみを高い位置に移動させる。明らかに、ジャンプをしても届かない高さ。
「取り返したいなら背筋を伸ばせ!しゃんと立って胸を張って返せと言えば良いだろう!何故より一層背を縮こませる!?」
……怖い、怖い、怖い、怖いです……!
「……ひぅ、うっ、ひっ……」
ナージャの青い目から、涙がぼろぼろと零れ落ちる。ただでさえ知らない場所のパーティ会場というだけでメンタルがボロボロだったのに、母の善意を向けられてプレッシャーだったのに、近くに一诺が居なくて怯えていたのに、心のバランスを保つ為に持っていたぬいぐるみまで奪われた。
子供のように、ナージャは泣く。
元々ナージャは泣かない子だったが、前に一诺ととある会話をした時、泣いても良いのだと学んだ。それ以来、涙腺が普通の固さになった。だから泣く。ナージャは泣く。アウェイでしか無い全てから身を、心を守る為に背を丸めて小さくなりながら。
「いっ、ひ……っ、一诺ぉ……!」
「お前か、ナージャ様を泣かせたのは」
「っ!?」
気付けば、ヴァレーラの向こう側に一诺が立っていた。身長の差があるからか、今が夜の時間帯だからなのか、その表情は影になっていて窺えない。
「俺は、お前かと聞いているんだ」
しかしその声は酷く冷たく、けれど怒り狂っているような熱さを内包していた。
「っい、一诺!」
「大丈夫ですよ、ナージャ様」
ヴァレーラの隣を走り抜けて一诺に駆け寄るナージャを、一诺は優しく抱き上げた。荒く浅い呼吸を繰り返しながら必死に息をするナージャの背を撫で、一诺はヴァレーラに向き直る。
「ナージャ様を泣かせたのか、お前は」
「……っ」
温度の無い、ハイライトの入っていない黒い瞳。黒目がちなその狐目に睨まれたヴァレーラは、思わず怯えて後ずさる。
「このくらいで怯む程度の浅はかな考えでナージャ様を泣かせるな。お前の程度が知れる」
ヴァレーラは熱くなりやすいタチだった。使用人が貴族の息子を見下し、敬語も使わない。使用人に怯えてしまったという事実も相まって、それはもうカッとなった。
「こんなもの!」
思わずヴァレーラは、奪ったぬいぐるみを投げ捨てた。落ちる前に一诺が素早くそれをキャッチすれば、その隙にヴァレーラは逃亡した。
「……ナージャ様」
「い、一诺、ごめ、なさ、私、ぬいぐる、み、奪わ」
「奪い返したので問題ありません。汚れてもいませんよ」
一诺から再び渡されたぬいぐるみを抱き締め、一诺の腕の中に居るナージャはホッと安堵の息を吐いた。まだ少しポロポロと零れ落ちている涙は、一诺の指で掬うように拭われる。
「しかしナージャ様、ぬいぐるみを奪われるのが泣く程嫌だったのなら、何故取り返そうとしなかったのですか?いえ、即座に私を呼ぶ事こそが英断なので問題は無いのですが」
一诺の問いに、ナージャは少しの無言を返した。全てが怖かったから。それだけだと言いたいが、冷静になってよくよく思い返せば他にも一応理由があった。
「……あ、の」
「はい」
「ぬいぐるみ、奪われて、凄く、嫌で。あの人、嫌いです。そんな、人、触れるとか、近付くとか、するの、凄く、嫌です」
「ぶふっ」
しゃくりながらのナージャの言葉に、一诺は思わずといったように吹き出した。
「っふ、くく、そうですか。嫌でしたか。成る程」
口元を手で押さえて愉快そうにくくくとあくどく笑い、一诺はいつもと同じように、けれどいつもとは違って楽しそうに目を細める。
「私も今触れていますが、大丈夫ですか?」
「?」
……どういう意味でしょうか。
その問い掛けの意味が、ナージャにはよくわからなかった。
「一诺は好きです。触れてる方が安心して、嬉しいですよ」
ナージャがそう言って涙で目の周りを赤くしながら微笑めば、一诺は口の端をニィ、と持ち上げた。
「それは良かった」
その耳と首はほんのりと赤くなっていたが、周囲が暗い故の見間違いだろう。ナージャはそう思い、気付いていない振りをした。
「……そういえば、どうして一诺、わかったんですか?」
「わかった、とは?」
「私がぬいぐるみを奪われて、泣いて、一诺を呼んだ事です」
「ああ、ぬいぐるみに追跡魔法を掛けていましたから」
ナージャは目をパチクリとした。
……そういえばこの世界、魔法があったんでした。
見る機会が無い為ナージャはすっかり忘れかけていたが、この世界は魔法という概念が存在する世界だった。一诺が行っている追跡魔法とは、要するにGPSのようなものだろう。
「ナージャ様がこのように人の多い場所で、誰かから貰ったという前提であるぬいぐるみを手放すという事はあり得ないでしょう。忘れたり、誰かに持って行かれる可能性がありますから。そんなナージャ様がぬいぐるみを手放した場合は、何らかの異常があったという事」
……成る程、一诺やっぱり頭が良いです……!
そしてナージャの性格をそこまで察した上でナージャの無事を色々と考えてくれていたのがわかり、とても嬉しい。ナージャは思わず感嘆の息を吐いた。
「ですので手放すと同時に、私に異常を知らせるという……」
「?」
話している途中で、一诺はピタリと止まる。
「……すみません」
「え?」
そして何故か、申し訳なさそうにそう言った。申し訳なさそうというか、居心地が悪そうな表情だ。暗闇で見えにくいが、顔色が悪くなっているように思う。
「…………一诺、もしかして、具合悪いです、か?」
「あ、いえ、具合は特に」
「でも顔色が……」
「んー…………その、ですね」
目を細め、いつも通りに微笑みながら一诺は言う。いつもと違うのは眉が下がっている事だろう。
「追跡魔法を掛けていたなど、ナージャ様本人に言う事では無かったな、と。さぞ不快に感じたでしょう」
「いえ」
……前世にGPSがあったから、あまり不快ではありませんね。
勿論それでストーキングをされれば酷く不快であり恐怖でしかないが、身を守る為であれば大事なものだ。それがあるから妹の帰りが遅くても、必要以上に心配する事は無かったのだし。一诺の場合はナージャを守るのが仕事だからこそ、目に見えない場所に行くなら追跡魔法が必要となるのは自明の理。
だから、ナージャは笑顔でお礼を言う。
「お陰でとても助けられちゃいました。ありがとうございます、一诺」
その言葉に、一诺はきょとんとした顔になった。ナージャが一诺に抱き上げられている為、その顔が至近距離でよく見える。
「……いえ、問題が無いのであれば、良かったです」
いつも通りの笑顔では無く、きょとんとした顔のまま一诺はそう言った。
「あの、あの、ところで」
「はい」
「これ、あの、この子、このぬいぐるみ、なんですけど」
ぬいぐるみを抱き締めて顔の下半分をぬいぐるみに押し付けながら、ナージャは言う。
「これから外に行く時、持ってたら。そしたら一诺、私に何かあった時、絶対に来てくれるんですか?」
きょとんとしていた一诺は一拍置き、その言葉にフ、と笑った。
「はい、勿論です。そもそも今回が特例であって、次から離れたりはしませんよ。私を離した事でナージャ様が泣かされたと聞けば、奥方様も私とナージャ様を一旦引き剥がそうとはしないでしょう」
「わあ……嬉しいです!」
えへ、とナージャは思わず笑った。酷い目にこそ遭ったが、確かにその通りだ。母とて意地悪で引き剥がしたわけでは無く、同年代の友人が出来たらという善意だった。その結果ナージャが泣かされたとなれば、二度とこういった事が無いようにするだろう。
なにせナージャに被害が出る事には過剰な程の反応をする両親だ。
善人なのだが少々思い込みが激しいのとやり過ぎなところがある為、モンスターペアレント状態になる事が多々ある。今回もきっとそうなるだろう。
「……えへ、えへへ。一诺が一緒なら、迷子になっても安心ですね。追跡出来るなら、道も全部わかっちゃいますから」
「よくわかりましたね、ナージャ様。追跡魔法は……当然発動する魔法にもよりますが、追跡対象の周囲の情報も受け取る事が出来ます。ですので実際、迷子になるという事はあり得ませんよ」
「じゃあ、じゃあ、一诺と一緒なら、遠くに行っても安心ですね……!」
「……ええ、当然です」
髪型が崩れない程度に、優しく頭を撫でられる。一诺の目は、とても優しく細められていた。
「ところでナージャ様の目元が少々腫れてしまっているので先程あった事は誤魔化せそうにありませんが……いっそハッキリと先程の事を報告してしまいましょうか」
「え、あ、でも、それだと、さっきの」
ナージャからすれば良いところなど皆無ないじめっ子。言動からすれば悪い子では無いのだろうが、とにかく苦手なタイプだった。しかしだからといって全部を話せば母は怒り、最低でも相手に苦情を言うくらいはするだろう。それはいまいち気乗りしない。
自分のせいで誰かに迷惑を掛けるのは、という思考がナージャの中には根付いていた。
「パーティにナージャ様を連れて行く事自体、報告が上手くいけば止めて貰えるかもしれません」
「……!」
ナージャの中の天秤が揺れた。ぐらぐらと揺れた。パーティに行く度に具合を悪くしているというのに、尚も両親はパーティに連れて行こうとする。けれど先程の、ナージャはもう名前を忘れた少年についてを報告すればもう行かなくて良いようになるかもしれない。
「ナージャ様」
一诺はナージャの顔に掛かっている髪をハラリと指でよけて、問い掛ける。
「ナージャ様はどう思いますか」
「どう、とは」
「先程の少年について」
「……名前、もう、忘れました」
一诺の肩に顔を押し付け、ナージャは言う。すっかり一诺に心を許したナージャは、一诺に対してなら甘えられるようになっていた。
「覚えてたくも無いです、あの人。凄く嫌でした。折角一诺がくれたぬいぐるみ、奪いましたし。怖いですし。声大きいですし。いっそ怒られちゃえって思います」
先程のイヤだった事を思い出し、ナージャの口からつらつらと不満が垂れ流される。
「そうですか」
「でも」
「でも?」
「でも……」
ぎゅ、とナージャはぬいぐるみを抱き締める腕に力を籠める。
「そういう事を思うのは、よくない事です。ざまあみろって思うの、思っちゃうのは仕方が無くても、思っちゃ駄目な事ですから。あんまり、思いたくないです」
「そうですね」
とん、とん、とゆっくりナージャの背が一定のリズムで優しく叩かれる。
「ですが感情のある人間である以上、そう思わざるを得ないでしょう。それは感情があるという事であり、決して悪い事ではありません」
「……でも」
「それでも思いたくないのであればこのまま眠って、あの少年の事を完全に忘れてしまえば良いんです」
「忘れる、ですか?」
「既に名前も忘れているのでしょう?」
「はい」
それには素直に頷いた。なにやら濁点がついていたような気がするが、声が大きくて赤色で凄く怖くて嫌だった事しかもう覚えていない。マフラーを装備していた以外服装について覚えていないし、圧の強い口調だった事は覚えていてもどんな声だったかすら覚えていない。
そのくらい、ナージャは興味が無かった。
嫌悪を抱く事はナージャ自身の心を蝕むからしたくない。そして相手にわざわざ嫌悪を抱くというのも、正直言って面倒なのだ。わざわざそこまで認識したいとも思わない。関わり合いにならず、存在を忘れて、すれ違う事すらなくお互いに一生を終えれば良いのに。
そのくらいに、ナージャはヴァレーラに対して無関心だった。
「名前も忘れたなら、記憶するにも足らない不要な存在。そのまま忘れてしまえば、その名を聞いても知らない人の名前になります。その人がどうしていると聞いたって、知らない人の話でしかありません。何かがあったとしてもざまあみろと思うのでは無く、ただそういう情報だと認識するだけ」
「…………一诺、いつも思いますけど、凄く頭、良いですね」
「ナージャ様の専属ですから」
「……ふふ」
当然のように返されたその言葉にナージャは微笑み、そのまま一诺に身を任せて目を瞑る。幼児には厳しい夜に、ナージャにとって苦行でしかないパーティ会場。更にあんな事があれば、疲弊した体が睡眠を欲するのは当然の事だろう。
落ち着いた一诺の心音や揺れを感じながら、ナージャは安堵のまま眠りについた。