一诺は選択肢を与える
一诺は専属使用人用の個人部屋で目覚める度、安堵の息を吐く。
今日もまだここに居る事が出来るという事実は、何物にも代えがたい。何せ隙間風は無いしベッドは上等、部屋は広いし個室が与えられているというのが最高だ。分家に居た時は使用人部屋の隅で座りながら寝ている事が多かったので、ぐっすり眠れるというのはありがたい。
まあベッドの柔らかさに違和感を覚えるせいで微妙に眠りが浅く、本当にぐっすりかと言うと微妙だが。
さておき一诺はシャツに袖を通す。上からベストを着て、スーツを装備すれば完璧だ。首回りは特に何かを装備せずとも良いとされているので、首には何もつけていない。手袋も使用人には不要な物だ。
特に一诺の場合、点心を作る事もある為邪魔になる。
ナージャと飲茶した結果、ナージャは点心を気に入ったようだった。苦手どころかむしろ好ましい味だったらしく、作るのにも精が出る。鹹点心として出す包子なども食べるようになったからか、ナージャもようやく子供らしい顔つきに近付いて来た。
健康な顔色になったのは良い事だ。
……彼女の為にも、俺の為にも。
ナージャが健康である事は良い事であり、それにより本家全体から信頼されるというのは一诺からすればとても良い事だった。何せ色々とやりやすいし、一任されている分自由が利く。飲茶に関してもナージャが喜んでいて、かつしっかりと食べられるならと本家当主と奥方から許可は取った。
幸いな事に一诺はナージャの唯一の専属使用人となれたので、信用を得られた分だけやれる事が増えていく。
……唯一の専属使用人になるまではもう少しかかるかと思っていたが、思っていた以上に早かったな。
細かく指示を出したりはせず、大まかな指示をナージャに対し出しただけ。一诺がしたのはそれだけだ。五歳児だから細かい指示は理解出来ない、などとは思っていない。
……彼女は酷く賢くて、真面目過ぎる。
逆に指示を守ろうとし過ぎてプレッシャーになる可能性があった。臨機応変に動くのが苦手と判断したナージャに細かい指示を出しては、咄嗟のアドリブが出来ないだろう。だから一诺は簡単な指示だけを出し、後はナージャに任せたのだ。
結果は大成功となった。
一诺はナージャのお気に入りと認識され、ナージャの世話を全て一任された。定期報告を義務付けられている為その事を分家当主に報告すれば、相変わらず酷く醜く肥え太っていた豚はご機嫌に笑っていた。思想を刷り込みやすく、後々分家当主の息子がナージャに手を出す時、内通者として場を整えやすいからだろう。
……馬鹿馬鹿しい。
そんな感情を隠して、一诺はいつも通りの笑みを浮かべた。
・
一诺にはナージャの長い髪を乾かす役目がある。
本当は専属である以上他にも沢山の仕事があるのだがナージャ自身がやりたい事はナージャ自身がやっている為、実際に実行している仕事は思っているよりは少ない。一诺には「お嬢様がやりたいと仰いましたので」という大義名分という名の事実だってある。他の仕事を完璧にこなしている以上、職務怠慢とは言わせないとも。
そしてナージャだが、物覚えがとても良かった。
着替えは一度きちんと教えれば完璧に出来るようになる。初めて着る服は手順が違ったら困るからとお願いしに来るが、一度着方を教えればどうにかなった。風呂も同じく、一度手順を教えれば問題無く出来ていた。
……酷く、小さい背中だったな。
いつだってナージャは小さいが、風呂場で見るナージャの背中は服を纏っていない分より一層小さく、細かった。そんな小ささ、幼さで大人も考えないような事を細々と考えているのだから、彼女の精神は一体どれだけ大変なのか。
一诺はそう思った。
中身が成熟していようが、沢山の思考をする事は大人にだって大変な事。ましてや器が幼い以上、容量は大人よりも少ない。そんな幼い体で色々な事を抱え込もうとしているナージャだからこそ、一诺はナージャの髪を乾かす時間が好きだった。ナージャ自身では出来ないという、幼さを実感出来る時間が。
もっとも、その感情に自覚は無いが。
……相変わらず長い髪だ。
ナージャの髪色は真っ青で、とても長い。貴族らしくきちんとケアをされている為艶やかで美しいが、それよりも「長い」という印象がまずやってくる。まだ五歳と幼いからこそ、異様な程長い髪が特徴として浮かび上がっているような状態だった。
「お嬢様は、とても髪が長いのですね」
一诺はそんな当然の事を言った。わかりきっている、当然の事。
「……すみません」
けれど、ナージャは申し訳なさそうに謝った。
相変わらずすぐに謝るナージャに、一诺は不思議に思う。謝罪癖があるのはわかっているのでもう驚きもしないが、何故謝るのか。
「何故謝るのですか?」
「……そ、の」
「ゆっくりで構いませんよ。他には誰も居ないのですから」
鏡越しにナージャの青い目を見ながら、一诺は己の黒い狐目を細めた。
そう、誰も居ない。専属使用人は一诺だけになったお陰で、ナージャの事を一任されたから。そして一任された一诺が本家当主と奥方に進言した為、相当な用が無い限りはやっても来ない。やって来ても今までとは違いちゃんとノックをするようにもなった。
もっとも彼らは相当の用と言いつつ頻繁に来るのだが。
ナージャや一诺が思っている相当の用というのは、どうしても避けられない用事など。出席必須だったり、親族が死んだりというもの。けれど本家当主や奥方からすれば、商人が来たからナージャの新しい服を作る、という程度の事が相当の用らしい。
……貴族というのは、どうしてそう衣服に金を使うのか。
今まで居た分家ではボロを着せられていた為、一诺にはその感覚がよくわからない。まだ着れるならそれで良いだろうに。幸いナージャもそう考えるタイプだった為、言いくるめた。
「当主様と奥方様に買っていただいた大事な服だからこそ、大事に大事に着たいそうです。新しい服を買ってくださるのは嬉しいようですが、多いとその大事な服を着る頻度が減ってしまう。だからこそ、新しい服は体が大きくなって服が着れなくなった時に買ってもらいたいと言っていましたよ」
嘘は言っていない。新しい服では無く、今ある服が駄目になるまで着たいというのはナージャの意思だ。本当の事を言っているかと言われたら微妙だが、少なくとも嘘は言っていないから沒問題。
尚髪を乾かす速度だが、実際ゆっくりなので充分に時間はあるのだ。
下手に早く乾かして痛ませてしまうのは、というのも勿論ある。しかし重要なのは髪を乾かす事に時間を掛ける事で、突然本家当主や奥方が来訪しても来訪拒否が出来るという点。なにせナージャは体が弱い為、髪を生乾き状態のまま放置などしたら即座に風邪を引くだろう。
故に、まだ髪を乾かしているからという良い大義名分となる。
「あの、いつも、髪を乾かしてもらっていて……」
「いえ、それを含めて仕事ですので私は構いません。煩わしいとかではなく、ただ単純に何故これ程までに髪を長く伸ばしているのだろうか、と疑問に思ったのです」
「疑問……」
ナージャはよくわからないという表情でほんの少しだけ首を傾げた。髪を乾かしている一诺の負担にならないよう、本当に少しだけ。一体全体彼女は普段からどれだけ細かい気遣いをしているのだろう。
そう思いつつ、一诺は言う。
「お嬢様、髪が長すぎて時々足をもつれさせているでしょう?」
「う」
ただでさえ体が弱くふらついているというのに、だ。最近は点心を食べているお陰で顔色は多少良くなったが、具合を悪くしがちなのはどうにもならない。なにせ一诺がどれだけ進言しようとも、本家当主と奥方がパーティやお茶会の招待状を持ってくるから。
どれだけ言っても、すぐに忘れる。
それがナージャの負担になっていると、当然ながらオブラートに包んでいるとはいえ何度もしつこく言っているというのに。それでも本家当主と奥方は、その時気分じゃなかっただけだろう、行けば実際楽しいわ、と聞く耳を持たない。
……俺の手を取るわけだ。
五年間、五歳児らしくない中身でそんな幼稚な発想に付き合って来たとは感服する。一诺は感情を切り離す事でその辺りの面倒事には折り合いをつけたが、ナージャは感情を抑え込む事でどうにかしてきた。しかし切り離して感情を安全圏に逃がすのではなく、無理矢理押し込めるというのは良くない。
それでは感情が壊れてしまう。
そう思えば、こうして専属の使用人になれたのは良い事かもしれない。ナージャが知らない、わからない事である拒絶の仕方などを教えてやれるから。
本来は拒絶しない女に育てる為この本家にやって来た一诺だが、その目的は最早無視していた。
……今は、まだ。
その内考えるさ、と脳内で適当に言い訳する。なにせそれを実行するには誰よりも強い信頼を得る必要があるので。分家当主にはそう報告して誤魔化した。ついでに報告頻度も怪しまれると面倒になるという理由で、回数をかなり減らさせてもらった。
あちらも上手く行っているこの作戦が頓挫するのは困るのか、思ったよりすんなりと要求を呑んでくれた。
「お母様が」
長い沈黙の後、ナージャは視線を膝の上の小さな手に固定しながら話し始める。
「お母様、私、将来したい髪型がある時、髪が長い方が良いから、って。その時髪が長ければ、好きな髪型に出来るから、切らずに、伸ばすように、って……言われた、んです」
……確かに綺麗な髪だが、彼女はそれを望んでいるのか?
一诺は鏡越しのナージャを見る。少し俯いていて、いつも通りに困ったような微笑みを浮かべていた。あれはナージャ自身を誤魔化す時の笑みだ。自分の感情を抑え込んで、相手の要望に応えようとする時の。
「……お嬢様は、それで伸ばしているのですか?」
「あと、えと、はい」
自分の意思とは違う時。自分の選択ではないけれどそうした方が良いだろうから、と相手に合わせて頷く時、ナージャは必ず目を伏せる。目を逸らす事で、仕方が無いのだと自分を諦めさせるように。
今も、また。
「……確かに、将来髪を結びたい時、髪が短かったら、結べません、から」
「本当に?」
一诺がそう言えば、鏡越しのナージャの目がパチリと開いた。髪色と同じ、真っ青な瞳。一诺と目が合った事に気付いたらしいナージャは、ほんのりと表情を緩めた。まるで安堵するように、目尻を緩ませる。
「……私、流石に今、髪、長過ぎて」
「はい」
「よく絡まるし、足が引っかかるし」
「はい」
「洗う時も大変で」
「でしょうね」
慣れたように、一诺はそう返す。分家ではいつもこうだった。意見を求められる事など無かったから、ただただ相槌を打つ存在である事を求められていた。どれだけ愚かな考えであろうと、否定するのは拒絶された。
ナージャは一诺の否定を拒絶しないだろうが、今はその時では無い。
……否定どころか、肯定するしかない言葉ばかりだな。
一诺はそう思った。
「でも、お母様は」
自覚は無いのだろうが、ナージャは辛そうにそう言う。何故彼女はそうまでして誰かの意見に合わせようとするのだろうか。一诺はそう思わざるを得なかった。
……年相応では無く、その自覚があるからか?
正直言って本家当主や奥方よりも、黙って耐えて受け入れて相手を思いやれるナージャの方が精神年齢が上のように思える。だからこそ、耐えるのだろうか。ナージャの方が受け入れる度量のある大人らしい中身だから。
普通じゃないとわかっているから。
……それは、なんというか。
普通じゃないからこそ、他の人達に合わせる事で普通であろうとする。一诺からすると、それは空藏美玉に思えた。優れている、この環境の中優れさせたのだろう部分を自ら殺すなど何と勿体ない事だろう。
優れる事で今のまともな暮らしを手に入れた一诺からすれば、理解出来ない。
「お嬢様」
ナージャの髪を腕に掛けつつ、一诺は言う。
「この青く長く、美しい布のような髪は誰の髪ですか?」
「私の髪です」
不思議そうに、ナージャはそう答えた。そう、当然の事だ。当然過ぎる故に即答だった。事実空に広がる濃い青を模したかのような、美しい反物に引けを取らないこの長い髪。この長い髪の持ち主は、ナージャである。
その事実こそが真実であり、揺らぎはしない。
……そう、これは奥方の髪では無いのだから。
そう告げれば、ナージャはくりくりした目をパッチリと開いていた。普段は垂れ目なその目が、パッチリと。髪色と同じく真っ青なその目は、きょとんとしていた。
「お嬢様。あなたはどうしたい」
「どう、したい……」
「髪を切りたいと思いますか。このままが良いと思いますか」
「……わかりません。邪魔だとは思いますけれど、切りたいとも思いますけれど、お母様の言葉を否定する程の理由も無いですから」
……母親の髪を勝手に切るようであれば問題だが、本人が酷い有様になるような切り方をしない限りはある程度自由にさせれば良いだろうに。
困ったように言うナージャを見て、一诺はそう思った。奥方としては善意なのだろうが、その善意がナージャを酷く縛り付けている。他の道もあるよと提示しない限り、ナージャに他の道は存在しない。それ程に生真面目なのがナージャなのだ。
……それに気づいていないのか。
必要以上に、過剰に、ナージャが疲弊する程に密着していようと奥方達はその事に気付いていない。気付いていないから選択肢を選ばせてあげたりをしない。選択肢を教える事すらも無い。
……このまま、なら。
このままならきっと全てが楽に進む。言われるがまま生きるナージャになれば、分家当主の思惑通りに事が進むだろう。それはもう、ピエロの手の平の上という滑稽極まりないショーのように。まあピエロ以前にアレは豚だが。
けれどそれは、何となく癪だった。
別に明確な理由は無い。理由らしい理由が言語的に浮かんだりもしない。ただただ子供の癇癪のように、もやもやしたものが湧き出ていて嫌な気分になっているだけ。それだけだったが、一诺はその感情に従う事にした。
……あの豚に仕えていても未来は無い可能性が高いな。
まだ見限りはしないが、見限る可能性を視野に入れる。だってそうだろう。損しか無く、使い捨てられるのを待つばかりの身なのだから。対するは幼い主。最近ようやく子供らしい顔つきになり、一诺に対してはよく話してくれるようになった子供。
手作りの点心を美味しそうに食べてくれた子。
東洋を嫌っていた分家では、点心など作ればきっとゴミとして捨てられただろう。それがわかっていたから作らなかった。けれどナージャは作られたソレを、とても美味しそうに食べてくれた。
とても嬉しそうに。
「……こういうのが食事であれば、良いんですけどね」
へにゃりと微笑みながら、ナージャはそう言っていた。
恐らくナージャは味覚が東洋寄りなのだろう。そして食事の時間を苦手としているという部分も加味し、今は本家当主と奥方に交渉中だ。交渉内容は、ナージャの食事も一任してくれというもの。
事実点心は美味しそうに食べている事から、交渉を通すにはもう一息といったところ。
「一人だけ違う食事をとるというのは、か弱いお嬢様のストレスになりかねません。けれど点心……東洋の食事だと食の進みが良いのも事実です。会話と食事の両方をこなす事が出来ずどちらにも集中出来なくて具合を悪くするよりも、自室で専用の食事をゆっくりとるというのがお嬢様の為なのではないでしょうか」
そう告げても食事の時間を共有出来ないという部分がネックになるようで交渉が滞っているが、しかしその時間が無くなればナージャの心の負担はかなり軽くなる。自室で、一人で、東洋の食事。子供に我慢をさせ続けていたのだから、大人であるお前達が引けと言えたらどんなに良いか。
まあ使用人でしかない一诺は言える立場では無いのだが。
……彼女にはまだ話していないが、上手くいけばきっと喜ぶだろう。
また褒めてくれるだろうか、という考えは一诺が自覚する前にふわりと消えた。さながら人肌に触れた雪のように、一瞬で。
さておき食事の時間について。
一人で東洋の料理を食べられるようにという案はもしナージャの気持ちを読み違えていたのならそれまでだし、読み通りならより強い信用を得られる。幼く細いナージャだからこそ、しっかりと食育する必要があるのだ。点心だけでは心もとない。けれど毎日飲茶をするようになり、どちらの点心が良いか、その中でもどの点心が良いかと聞くお陰でナージャは多少自分での判断が出来るようになってきている。
それを豚の為にここで台無しにするのは、イヤだった。
……何故居ない豚に気を使って俺が自制する必要がある?
今までは確かに全てを踏みにじられるが故、自分の考えは捨てて来た。その方が自分を守れたから。けれど今、豚の目が届かない場所に居る。ならば豚の思い通りに動かなくとも、別に良いんじゃないだろうか。
一诺は、そう思った。
「では、質問形式にしましょうか?」
目を細め、一诺はそう問い掛ける。どの点心が良いか聞く時によく使う形式だ。生真面目に対しただ問い掛けるだけだと、相手は考え込み過ぎて答えを出せない。けれど簡単な、選択肢がある程度決まっているような質問にすればスムーズに進む。
ここ最近のやり取りで、一诺はそれをしっかりと学んでいた。
……彼女の表情を見るに髪の長さをどうにかしたいというのも、好きな髪型がわからないというのも事実だろう。
かといって一诺が適当な髪型を提示するだけでは、「じゃあそれで」と言いかねない。というかナージャならきっとそう言うだろう。だから、質問形式にする事でナージャ自身に選ばせる。
ナージャ自身の事である以上、ナージャが選ばなくては意味が無いから。
「お願いします」
ここ最近次の飲茶の点心は何が良いかと聞く度にやっている事だからか、ナージャは慣れたようにそう言って頭を軽く下げた。使用人相手に頭を下げる必要は無いと毎回言っていたのだが、最早それはナージャの癖になっているらしいから諦めた。一诺はどう言っても無駄な場合は即わかるし、無駄ならさっさと諦めるという癖がついている。
全ては分家当主のせいだが、一诺は特に気にしていない。
……あの豚にわざわざ思考を割く程の価値も無い分、考えるだけ脳の無駄遣いだな。
祖母だって「全てにおいて使い道を間違えるヤツが愚か者だ。金しかり言葉しかり、思考しかり。その無駄な分をより有効な部分へ使った方がずっと良い結果へと繋がる。そこを間違う愚か者にだけはなるな」と言っていたのを、一诺はよく覚えている。
祖母の教えは役立つものばっかりだ。
「……そう、ですね。いっそそのくらい、バッサリと」
ナージャとの質疑応答を終え、そこから出したベストだろう位置を押さえて告げれば、鏡に映ったナージャはまるで憧れの人を前にしたかのような表情でそう言った。気恥ずかしそうな、けれどそれ以上に憧れと喜びが溢れたような、そんな表情。
たかが髪を切るだけの事でそこまで嬉しそうに出来るとは、と一诺は思う。
……彼女の世界は、どれ程空っぽなのだろうか。
この程度で喜ぶ程に娯楽が無いのか。髪を切る程度でそれだけ喜べるくらいに。それとも、髪を切れない事がそれ程までのストレスだったのか。
観察して察するだけであり心が読めるわけでは無い一诺には、わからなかった。
「そのくらいバッサリと、切る事が出来たらなあ」
この程度の事で躊躇い憂う気持ちも、わからない。
しかし髪を切る事についてはどう言いくるめれば良いのか。ナージャの強い願いだとアピールすれば、善人である奥方は許可を出すだろう。押しつけがましい善人ではあれど、曲りなりにも善人である以上本人の願いを拒絶は出来まい。
もっとも今までナージャの願いに聞く耳を持たなかった辺り、少々時間が掛かりそうだが。
「一诺は、いつも私の事を考えて、助けてくれます。そんな一诺に、迷惑は駄目です。えと、今も迷惑はかけてますけど、その、冤罪、みたいなのは」
そんな事を考えていれば、本気で理解し切れない言葉がナージャの口から放たれていた。十年前に天涯孤独となり、東洋人を迫害するノヴィコヴァ家の分家に行ってしまったばっかりに、一诺とは縁遠くなった言葉。
……そんな心配するような言葉など、一体……。
いつ振りになるのだろう。きっと祖母が最後だった気がする。ぼんやりと一诺はそう思った。主からの心配だとか、久々に心配されただとか、そういった色々な感情が容量オーバーを起こしているのだ。
「例え話ですから気にしなくて大丈夫ですよ」
なのでとりあえず、目を細めて誤魔化した。いつだってこうすれば誤魔化せる。そうやって一诺はこれまでの十年間をあの分家で過ごして来たから、知っている。
「……一诺」
少々放心していたせいか、要らぬ心情まで語った気がする。そう思いつつも、一诺は動揺など皆無ないつも通りの顔で答える。
「はい」
「わた、私、頑張ってみます」
不安で仕方が無いと言わんばかりに寝間着の裾を握りながら、ナージャはそう言った。
「お母様に、髪を切る許可、貰います。私、私の、髪ですから。私、こんなに長いの、イヤです。邪魔で、イヤです。でも私、三つ編み、憧れてて」
話すのに慣れないながらも、ナージャは必死に言葉を紡ぐ。
「一诺、綺麗って言ってくれました。私の髪。だから私、えと、髪、あの、頑張ります。頑張りたいです。話して、私、切りたいって言って。主張して。そしたら、あの、そしたら、髪、切ったら」
ゆっくりとナージャの頭が一诺の方へと振り返り、鏡越しでは無く目が合った。
「……その、髪、結んで、くれませんか……?」
その瞳には、言葉で表せない程の不安がにじみ出ていた。不安げに揺れて、今にも目を逸らしたいと言わんばかりで、けれどここで逸らすわけにはいかないと頑張っている目。それを無視など出来はしない。
「勿論です」
三つ編みを望むならそうしよう。あまりに凝った髪型は少々の練習時間を貰いたいが、三つ編みくらいならば問題は無い。望むのであれば三つ編みでも四つ編みでも五つ編みでも沒問題。
「ではそれを実現させる為には、どう言えば聞いてもらえるか……一緒に考えましょうか?」
発案に関して協力しようと思った事に、そう大した理由は無い。本当はナージャの面倒を減らす為、そして一诺に向けられる信頼やらの為に発案などは全て自力で行うつもりだった。
けれど、祖母の言葉を思い出した。
どうせ考えるならば、一緒に考えた方が良いだろう。良い案が出る出ないだの無駄に時間が掛かるかもしれないだのは一旦置いて、同じ秘密を共有する事を優先する。その方がきっと、ずっと良い。
「はい!」
祖母の言葉が正解だったのか、まだ齢十六でしかない一诺にはわからない。それなりにハードな十年間を送っては来たものの、人生経験が豊富かと言えばそうでも無いのだ。何せ偏見に満ちた分家での迫害生活が主だったもので。
けれどとりあえず、ナージャの笑顔からすれば正解だったんだろうと判断した。