一诺はわからない
一诺はナージャにベッドの上で横になって、誰かが来ても具合が悪い振りをするようにと言った。そうして一诺自身は部屋から出て、本家当主と奥方にナージャは具合が悪くて寝込んでいると伝える。
まあ嘘なのだが。
そうとは知らないし思いもしない善良なる本家当主と奥方は、心配から医者を呼び出そうとした。それは一诺が待ったをかけた。ここでもしナージャが医者を嫌がっているとでも言えば、医者がノヴィコヴァ家の専属を切られてしまう為適当は言えない。
だから簡単に、事実を言った。
「二人きりの時、内緒話をするようにお聞きしたんです。そしたらどうも、大人は背が高いのが恐ろしいそうで。まあ、お嬢様はまだ五歳と幼いですからね」
嘘というのは、ほんの少しのフレーバー。
「それとお喋りがあまり得意では無いから、当主様や奥方様に話しかけられても上手に返せないのがもどかしいようでした。今回具合を悪くしたのも、上手に返そうと考え過ぎてしまっただけのようですよ」
事実を練り込むのではなく、出来るだけ事実で言いくるめる。
「食事に時間が掛かるのも、食事をするのと上手に返そうとするのを同時にしようとした結果のようでした。ですから医者に診せた上で当主様と奥方様が付きっ切りで看病しつつ話し掛けるよりは、一人で寝かせてあげた方が良いでしょう」
でも、と本家当主と奥方が食い下がれば、一诺はニコリと目を細めた。
「私は年も近いですし、同性だから言える事もあるのと同様、異性であるからこそ言える事もありますよ。それに私は無言でそこに居るというのを得意としていますし、少なくとも護衛である以上不審者の侵入は許しません。どうか私を信じ、任せてはくださいませんか」
そう言えば、本家当主と奥方はわかったと頷いた。当然ながらそうするしかないだろう。だって一诺は、そう言わざるを得ない卑怯な言い方をしたのだから。
……信じて任せて欲しいという言葉を否定すれば、信じていないという事になるからな。
善良であり、尚且つ善良であろうとするからこそ突きやすい。いつも通りに張りつけた人のよさそうな笑みを深めながら、一诺はそう思った。
……本家は善良な人間が多いお陰でやりやすくて良い。
そう思いつつ、一诺はシェフに作らせたパン粥を持ってナージャの部屋へ向かった。
「どうぞ」
ナージャの許可を貰ってから部屋へと入り、ベッド脇の椅子へと腰掛ける。
「作戦は大成功、上手く行きましたよ」
「わあ……!」
笑いたくなる程上手く行った為、うっかりニヤリとした笑みが零れる。しかしナージャはソレを気にした様子も無く、嬉しそうに手を叩いた。
とても控えめに。
前に居た分家ではこんな笑みなど見せれば即座に叩かれるなりしていただろうが、こちらではそんな事は無い。もっとも、ナージャの前でしかしていないから、という理由もあるだろうが。
「でも、あの、一诺……さん」
「一诺で良いですよ」
敬称を付けられるなどという初めての経験が、まさか幼い主とは。誰に話しても荒唐無稽な笑い話だと断じられるだろう事実に、一诺は思わず苦笑した。
主が使用人に敬称をつけるなど、あり得ない。
「私は使用人ですから、お嬢様が使用人を敬称付きで呼ぶ方が異常です」
「………………」
ナージャは成る程、とでも言うように頷いていた。それに対し、一诺は細めていた目を薄く開ける。前から思っていたが、この幼い主はどうにも貴族らしくない。
……年相応では無い頭の良さ以上のものがあるな。
貴族に合っていないというより、貴族としての振る舞い方を知らないかのようだ。まるで、貴族が使用人に敬称をつけない事をたった今知ったかのような。そう思い、一诺はナージャの普段の行動を記憶から引き出して考えてみる。
……もしやこの娘、誰の事も見ていないのか。
常に周囲を見て観察し情報を得ている一诺とは真逆で、ナージャは全てを拒絶するように塞ぎ込んでいた。全てはナージャの意思よりも自分達の判断を優先する本家当主と奥方、そしてナージャの意思よりも本家当主と奥方の意思を尊重する使用人達によって育まれてしまったものだろう。
一诺はそう判断した。
誰にも理解してもらえないから、ナージャ自身で理解するのを放棄した。作戦を伝える時に一诺の名やプロフィールなどを聞いて来たのも、今までは認識する事すらしていなかったからだと思われる。
だって、理解してくれない存在を理解しても無駄だから。
……そうして誰も見ていないから、ここまで自力で伸びたのか。
一诺はナージャの年相応では無い内面が、この環境下で後天的に伸びたものだろうと判断した。誰も頼れないから、自力でやれるようになるしかないのだと。実際ナージャは前世の記憶を有しているが故に大人びているのであってその発想は間違いなのだが、理解しようとしない部分に関してはナージャになってからの後天的なもの。
厳密に言えば、間違いでも無かった。
そうして誰も見ていないからこそ、親や今まで接した貴族達による使用人への振る舞いを見てこなかったのだろう。一诺はそう判断した。だから使用人に対する接し方すらも知らないままなのだろう、と。
……恐らくこの娘、使用人を同じ人間と認識しているのだろうな。
貴族よりも下であり、貴族に仕える存在。それが使用人であり常識だ。普通はそんな常識を、親を見て覚えていくのが貴族の子。しかしナージャは親を見ようとしなかった為、そんな常識を知らない。知らないが故に使用人を同じ人間だと、正確に理解している。
一诺はそう思った。
弱者として生きて来た一诺からすれば、世の中は弱者と強者に分かれている。使用人は弱者だ。貴族は強者だ。一诺自身は最下層の弱者である。
けれど、同じ人間だとは知っていた。
一诺には、弱者イコール人に非ずなどという思考は無い。強者も弱者も等しく人で、人の中でのランク付けだ。だから、弱者が人だと知らない強者を嫌っていた。しかしこの娘は、ナージャは違う。
拒絶して無垢を維持したが故に、弱者が人だと知っている強者だった。
……信頼を程々に得つつこのままを維持すれば、分家当主の言っていた都合の良い人格に育つだろう。
全てを諦めている人間程、抵抗しない存在は居ない。
「……あは、凄い」
けれど、何となくそれは嫌だと思った。
具体的な理由などは無い。ただ一诺が実行した、嘘は吐いていないが本当を言っているわけでも無い内容に、ナージャが笑った。観察していても今まで見なかった、初めてと思われる笑顔。
それをまた消すのは、何となく勿体ないような気がした。
……そういえば、観察する癖がある部分についても彼女は何も言わなかったな。
一诺はよく誰かの動きを観察している。それはじろじろ見ているのと同義の為、あまり好まれる事は無い。大体はイヤそうな顔をされるものだ。分家ではそれを酷く毛嫌いされたが、観察しない事には上手くやる方法も掴めないので仕方が無い。
幸いなのは、少し目を細めれば誤魔化せる狐目だった事だろう。
「嘘じゃない事ばっかりです」
本当の事など言っていない。それは広義的には嘘だろう。けれどナージャにとっては新鮮な発想だったのか、とても楽しそうにクスクスと笑っていた。
「一诺」
ソレは年相応では無い疲れた笑みではなく、年相応な愛らしい笑みで。
「ありがとうございます」
お礼を言われた事を理解出来ず、一诺は一瞬停止した。なにせ分家では叱られる事は日常であれど、褒められた事など無かったから。そして使用人の行いとは、基本的に当然の事であり礼を言われるような事では無い。
パチリと瞬き、その動きで一诺は我に返った。
「……いえ、私はお嬢様の専属使用人ですから。お嬢様の意思を尊重するのは当然の事ですよ」
目を細め、こういった場面で違和感のない言葉を口にする。そうすれば全ては誤魔化せる。一诺が虚をつかれた事だって誤魔化せるし、お礼を言われた時の対応がわからない事だって誤魔化せる。
そうして一诺は、それよりも、と話題を転換した。
「…………見てた、んですか?いえ、見てたにしても、そこまで意識して?」
しかし間違えた。虚をつかれていたせいだろうか。気が抜けて、ナージャを観察していた事を己の口から暴露してしまった。観察する趣味があるとは伝えていた。だって本当の事だから。嘘は言わず、けれど確信の部分は言わないでおく事で上手く回すのが一诺のやり方だ。
けれど、これは想定外だった。
……これは、終わったな。
ナージャは人からの干渉を酷く嫌っているようだった。こうして普通に話せているのは、距離を保っていた一诺だからだろう。けれどその一诺はナージャをずっと見ていたと言ってしまった。暴露してしまった。
普通人は、観察されるのを好まない。
ずっと見られているのは気味が悪いと思うだろう。味の好みなど、シェフでも無いのに気にするとは。まだ専属の使用人として雇われてそう時間が経っていないのに、味の好みまで把握している。これは致命的なミスだった。このままでは、距離を取られてしまう可能性が高い。
けれど趣味が観察だと言ってしまっている以上、誤魔化す方が悪印象を抱かせてしまう。
「……不愉快だったでしょうか」
乱れそうになる呼吸を落ち着かせつつ、そう問い掛けた。不愉快以外にあるものかと内心で思いつつ。
「いいえ、嬉しいです」
「え」
思ってもみなかった言葉に、一诺は思わず目を見開いた。うっかり零れた声は間違い無く己の声で、けれどそれを意識する事も出来ない程に驚いていた。
……嬉しい、だと……?
一体観察される事の何を嬉しいと思うのか。そう思ってナージャを見れば、ナージャはふわりと微笑んでいた。年相応に。
「誰も私の気持ちに気付いてくれないし、言ってもわかってもらえませんでしたから。好き嫌いは無くした方が良い、と言われてしまって。だから、気付いてもらえたのがとても嬉しいんです」
そんな事で喜ぶのか。気味が悪い程観察されていたと言われたも同然なのに、彼女にとってはそれが嬉しい事なのか。一诺はそう思った。それ程までに壁があったのか、とも思った。
……成る程、五歳だというのに他人への興味の無さや期待の無さはそのせいか。
わかってはいた事だが、思っていた以上に重症だ。観察により把握された味の好みであろうと、自分の好みに合わせてくれたという事になる。彼女はそれ程までに誰かの理解を得られなかったし、それ故に観察を気味悪く思うという常識すらも無い。
「……えへ、あまり喋ったりするの、慣れてないから。こうやってお喋りするの、楽しいですけど、ちょっと照れちゃいますね」
「楽しいのであれば良かったです」
そう返すしか無かった。自分との会話が楽しいと言われたのは初めてだったから。自分を否定されなかった事は初めてだったから。否、自分を否定されなかった事など沢山ある。今回の作戦だって否定されず上手く行った。
けれどそれは、上手く行くよう誘導したからだ。
今回一诺は誘導していない。ただうっかり暴露するという致命的なポカをやらかしただけ。なのにナージャは一つも否定せず、拒絶もせず、嬉しそうにしていた。
……それ程までに、欠けているのか。
自分という存在と話すだけで満足出来る程、彼女は満たされていない。一诺はナージャの事をそう判断した。そう判断する以外、脳内に選択肢は浮かばなかった。
耳や首がほんのりと熱い事に一诺の自覚は無い。
「さて、では冷めない内にパン粥をどうぞ」
「あ、えと、待ってください。今ベッドから」
「ベッドで食べて構いませんよ。具合が悪い時はそうするのでしょう?」
「で、でも」
本当に具合が悪いわけでは無い為、ナージャはおろおろとしていた。
「お嬢様。今のお嬢様は具合が悪いという事になっているんです。だからベッドの上で食べて良いんです。食べないよりもずっと良い」
「でも、あの、零しちゃったら」
五歳児がそんな事を気にするものか。
分家当主の息子は五歳より幼い息子も居るし、五歳より上の息子も居る。しかしそのどれもがそんな気遣いをした事は無かった。寝ながら粗相をする事も多々あるし、ベッドに隠れてチョコレートを食べた結果溶けたチョコレートがべっとり染みついて悲惨な事になったりもしていたくらいだ。
けれどナージャは、申し訳なさそうにする。
洗うのはナージャでは無く使用人だというのに。ナージャはただシーツなどが取り替えられるのを待って、綺麗になったベッドで横になれば良いだけなのに。
そう思い、一诺は何となく祖母の言葉を思い出した。
秘密を共有した方が良い関係を築ける、と祖母は言っていた。一诺が覚えている家族は祖母だけなので、その記憶は色濃い。両親はとっくに事故死していたし、祖父は病で。一诺に物心がつくよりも前にこちらの国に移住したらしい祖母と共に、本来の故郷である東洋の言葉や文化を学んだものだ。
もっとも、六つになる頃に祖母が亡くなってから生活が苦しくなり、住み込みだからとノヴィコヴァ家の分家へ行ってそれなりに苦労する事になったのだが。
……もう少し他の道もあっただろうが、まあ良いか。
今現在寒さに震えず飢えに苦しまずいられるならそれで良い。一诺はそう判断していた。
「良いんですよ、具合が悪い時は」
その時だけという期間限定の特権なのだからと言っていた祖母を思い出し、一诺はナージャの頭を祖母がかつてしてくれたように優しく撫でた。
「……あ」
……俺とした事が、気を抜き過ぎた……!
「…………すみません、お嬢様相手に。使用人が頭を撫でるなど」
慌てて手を放し、謝罪をする。主相手に許可も取らず頭を撫でるなどクビで済めば良いくらいの蛮行だろう。その上ナージャは誰かとの接触を嫌う傾向にある事を一诺は知っていた。
つまりこの行為が、致命的だと判断せざるを得なかった。
「い、いえ!嬉しかったです!」
けれどナージャは、肯定した。拒絶もせず、否定もせずに。
「あの、私、頭撫でられるの、本当は苦手で。お父様もお母様も、その、ぐりぐりって撫でる、ので。そういう、ただ撫でるっていう動作じゃなくて、一诺の手、温かくて。ちゃんと私を想って、優しく撫でてくれたの、わかります。だから、あの、凄く、嬉しいって思いました……!」
……ああ、知っている。
ずっと観察していたから知っている。いつだって困ったような笑顔で、本当に笑った顔など今日初めて見たくらいだった。両親である本家当主と奥方と一緒に居る時だって、ソレは変わらない。寧ろあの二人がナージャに構っている時の方がより強く困っているのはわかっていた。
顔に出さないようにはしていたが、強張りは隠せていなかったから。
「……そうですか」
こういう時、どう返せば良いのかわからない。知っていると返すわけにもいかないから酷く困る。叱られたりするのであれば慣れているから、どうとでも返せるのに。だってアレは謝罪すれば良いだけの、簡単なもの。
いつも面倒を押し付けられ続けていたから、一诺は純粋な喜びを向けられる事に慣れていなかった。
「一诺ってば、悪い人ですね」
ベッドの上で食べる事を渋るナージャに祖母の言葉を伝えれば、ナージャは笑ってパン粥を消費し始めた。悪い人と言われたのに、不思議とイヤでは無かった。よくわからない、未知の感情。
……まあ、悪印象を抱かれていないのならば良いか。
そう思い、平均よりも細くて軽いナージャがゆっくりとだが確かにパン粥を消費していくのを見て、一诺は知らず知らず安堵していた。本人にも、それに自覚は無かったが。
「一诺」
「何でしょう」
「一诺、あの」
「はい、ここに居ますよ」
ナージャが話す速度が遅いというのもあるが、ナージャの両親は最後まで話を聞かずに結論を出してしまう事が多々ある。
……恐らく、どう伝えれば良いのかと思いながら言う言葉を脳内で選別しているのだろうが。
それに時間が掛かっているのだろうと察しつつ、一诺は焦らなくても良いと言外に伝える。やはり年不相応にそれらを察する事に長けているらしいナージャは、それを正確に察して安堵したように息を吐いた。
「あの、私、一诺にお願いがあるんです」
「私に出来る事かはわかりませんが、聞きましょう」
「……ふ、服」
ナージャは言い辛そうに、布団を握り締めて赤くなった顔を俯かせながら、酷く小さな声で言う。
「服、の、着方を……教えて、ください」
「服の着方、ですか」
……彼女の場合は、恐らく。
そう思い誰かに迷惑を掛けたくないからかと問えば、ナージャはコクリと頷いた。
「わた、私、自分で出来るように、なりたい、んです」
今まで言えなかった事だからか酷くつっかえながらも、けれど必死にナージャはその気持ちを一诺へと伝えようとする。聞く耳を持つのが、一诺しかいないから。
「着替えも仕事なの、わかってます。わかってますけど、自分で出来るようになりたい、です。着せてもらうの、申し訳なくて。それに、着せてもらうの、恥ずかしいですし……」
……俺は分家からの間者で、お前を好きに出来る女に洗脳しろと言われてここに来ている敵だというのに。
あまりにも都合が良すぎる。自分だけを信用するように誘導するまでもなく、お膳立てが整い過ぎていた。
「わかりました」
一诺は頷いた。間者として頷いたのか、ただの専属使用人として頷いたのか、一诺にもわからない。彼だってまだ弱い十六の若輩者なので、そんな難しい事がわからないのは無理も無かった。
無理もないから、今は保留にして、とりあえず信用を得る事を優先する事にした。
「ありがとうございます……!」
一诺が頷いた事に、ナージャはうっすらと涙を浮かべながら感謝した。
……ああ、生きている。
無意識に、一诺はそう思った。ナージャの事はただひたすらに笑みを浮かべて相手に合わせるだけの幼い人形のように見えていたが、実際はこうして生きている。殆ど同じように笑みを貼り付けて命令に従い続けていた一诺だって生きているのだから、それは当然なのだが。
けれど一诺は、ナージャがまだ幼い子供なのだと実感した。
……俺が五歳の頃は、確か……。
まだ祖母が生きていて、今のような我慢はしていなかった。ワガママを言う子では無かったと自負しているが痛い時には泣いたし、甜点心が食べたいと騒いだ記憶もある。けれどナージャは、それが無い。
一诺が六つを超えた頃に覚えた我慢を、ナージャは生まれてからずっとしている。
一诺はそれを察した。察したから、せめてもう少し子供らしくあれるようにと考える。子供らしさを押し付けるのではなく、子供らしさを出せるように。
……やはり飲茶が良いだろうか。
「どうせならついでに、一緒に飲茶をしたりという悪さもしてしまいましょうか」
「飲茶?」
「間食ですよ。普段の食事が合わないのなら、そっちでお腹を満たしてしまうというのもありかと思いまして」
今はとにかく、何かを食べさせた方が良い。ナージャはそれ程に細いのだと、じっと見てきた一诺はよく知っている。そして食べれる物を調べて、好む味を特定していく。それはそう難しい事では無い。
「……あ、の」
「はい」
飲茶と点心についてを説明すれば、ナージャはおずおずと希望を口にする。
「甘い方の点心、良いですか?」
「甘い方が良いですか?」
「……東洋の甘いの、気になって」
普段お菓子はそこまで食べないナージャだが、甘い物が嫌いというわけでは無いらしい。もっとも甘くない点心がどういう「甘くない」なのかがわからないから、確定で甘い事がわかっている甜点心を選んだのかもしれないが。
まあどちらでも良いのだ、そんな事。
……少しでもこの子が自分で選べるようになれば、良い。
ナージャは基本的に選ばない。どちらかを問われれば、どちらが良いかと問い返す。使用人達はそれに答え、ナージャは使用人が選んだ方を選ぶ。そういう子だ。親である本家当主と奥方はナージャに選ばせず、こっちの方が良いあっちの方が良いと独断で選んだものを与えていた。
だから、ナージャは自分で選ぼうとしない。
それは分家当主の思惑からすればそのままにしておいた方が都合の良いものだが、子供は自分で自分の求めるものを示せるハズだ。本来は。子供だからこその素直さで自分の求めるものを示す。けれどそれは、誰かが教えなければ選べない。
誰かがずっと選び続けていれば、その子自身で選べるようにはならない。
例えば飲食店のメニュー。子供にメニューを見せず親が勝手に選べば、子供からすればやってきた料理しか無い店だと記憶される。けれどメニューを選ばせれば、沢山あるのだと知る事が出来る。迷っているなら両方を選べと祖母が言っていたのは、そうやって分け合う事で知っているものの幅を増やせという事なのだろう。
親が食べているものと分け合って食べれば、その子は親が食べている料理の味も知れるから。
そうして子供は自分の好きな味を知っていき、自分の好きな料理を覚えていく。好きな物から、好きな方を選べるようになる。だからナージャが二種類ある点心から甘い方を選べたのは大きな前進だ、と一诺は思った。
……しかし、ならばどの点心を作るか。
彼女は豪華なものよりも素朴なものを好むので、小豆のあんで作る豆沙包子が良いだろうか。それとも食べやすい芝麻球の方が良いか。薩其馬などもあるが、まずは定番で行くのが良いだろう。
「お嬢様、ゴマにアレルギーなどは?」
「ゴマ、は、そもそも食事に出ないので……」
「成る程」
確かにこちらでゴマは中々見ない。買い物に行った時、店には一応置いてあったので作るのに問題は無いだろう。黒ゴマは無かったが、白ゴマでも芝麻球は作れる。寧ろそっちの方が定番の味なので沒問題。
ナージャが何故食事に出ないゴマについてを知っているのかは、特に疑問しなかった。
年不相応の中身であるならば、どこかで知ったのだろう。それを問い詰めて一诺に何か利益があるわけでも無いし、寧ろ問い詰めれば警戒されるというデメリットが発生しかねない。だから一诺は、それを気にしない事にした。
「では小さくして両方作るとしましょうか」
「い、良いん、ですか?その、手間とか、私、量が」
貴族がそんな事を気にするか。そう思う一诺だが、彼女の場合は気にするのかと考えを改める。少なくとも、ナージャは普通の貴族では無いのだから。使用人の手間や量が食べれず残してしまう料理についてを気にするのは貴族として見れば異常でも、ナージャからすれば当然の事。
それは貴族というよりも庶民らしい感覚に思えたが、別に良いかと一诺は思った。
それで悪い事があるわけでは無いし、貴族がそういった感性を有している方がずっと良いのだから。別に庶民らしい暮らしをしろと言う気は無いが、相手を人間と認識するくらいの気遣いは欲しい。一诺はとっくに諦めていたその気持ちを思い出し、ナージャを見る。
……秘密を共有すれば共有する程、切っても切れない縁になる。
当然それは悪い方に転がる事も多々あるが、一線さえ越えなければ良いもの。一诺にはその一線がもうよくわからないが、今はとりあえず、ナージャにちょっとした悪い事を教えようと決めた。貴族らしくなくて良いのだと、彼女が悪と思っている部分を肯定する。
……罪を犯すのは良くないが、食べたい物を適量食べ、行きたくない場所には行きたくないと主張する事は罪では無いハズだ。
一诺は、分家当主から受けた命令に蓋をした。受けた命令は、罪に値する程の事だとわかっているから。わかっているから、今は知らない振りをする事にした。
「貪欲にいきましょう」
「……はい!」
祖母の言葉を引用しつつ、二つの点心を共に食べようという誘い。使用人が主と共に食べるなど本来あり得ない事だが、ナージャにそんな常識は無い。その確認と、貴族と使用人が一緒に食事をするという「悪い事」をする為に言った言葉だが、ナージャはとても嬉しそうに頷いた。
ただの五歳児のように、一诺の作る点心が楽しみだと言わんばかりに。