一诺は考える
一诺視点。
鮮やかな髪を持つ他の人達と違い、彼の髪は黒かった。一诺という名だけで姓を持たない彼は、東洋の方の生まれである。
「一诺!」
「はい」
天涯孤独の身の上である一诺は、ノヴィコヴァ家の分家でただひたすら雑用をさせられていた。ノヴィコヴァ家の分家では東洋人が軽視される傾向にあるからだ。使用人以下な雑用係として、一诺は今日も働いていた。
一诺は酷く冷たく当たられていた。
西洋人とは違う顔つき。西洋人とは違う髪色。西洋人とは違う目つき。元々東洋人を好まない分家からすれば、一诺の全てが毛嫌いする理由になっていた。そんな中でも、一诺は働いた。
天涯孤独であるが故に、どこにも行くところなど無いのだから。
……今日もぶくぶく肥えた豚が随分とやかましいな。
一诺は目を細めただけの薄っぺらな笑みを顔に貼り付けながら、分家当主の理が通っていない怒号を聞き流す。こんなものは日常だ。ただ不愉快な理由を作っては罵倒したいだけ。
そんなもので揺らぐ程一诺の心は弱く無かった。
だから内心で見下しつつも、悟られないよう目を細める。狐目である彼は目を細めてしまえば殆ど糸目のような状態になるからだ。もっとも、目を覗き込まれようとどうせ内心を悟られる事など無いのだろうが。
……コレはどうせ、他人に心があるという事を知らないのだろう。
随分と肥えている分家当主を見ながら、一诺はそう思った。他人に心があると理解せず、自分の意思を貫こうとする愚かさ。だから目を覗き込まれたとしても、その奥にある軽蔑には気付かないだろう。
気付かないまま、不愉快だと言うだけだ。
……まったく、みみっちい小物は誰よりも劣っている自覚があるせいか、見下す感情にだけ聡いのが難点だ。
「……ふん、貴様は今日もまた酷く不愉快だ。本来ならばまだまだ貴様には言い足りぬが、今日は本題もある。この程度の説教で済む事を感謝せよ」
「ありがとうございます」
薄っぺらな礼だが、言わなければ機嫌を損ねる。だから一诺は台本をただ読み上げるかのように、心のこもっていない礼を言った。空っぽの言葉で良いのだから楽なものだ。
……中身の無い言葉で満足するとは、最早同情すらしてしまいそうだな。
表面だけで満足する浅はかさ。もしくは薄っぺらな中でしか生きてこなかったという可能性。どうせ目先の欲にとらわれる分家当主の事だから、前者なのだろうが。一诺はそんな分家当主を、見下すように同情した。
可哀想に。
……もっとも本題がありながら中身の無い説教などというものに時間を費やすのはどうかと思うが。
仕事も適当で、理由をでっち上げてまで気に食わない東洋人に説教する事を優先するとは。そうでもしないと保てないのだろうちっぽけなプライドを思うと、失笑を禁じ得ない。勿論本当に失笑などすれば無駄に肥え太った脂肪の塊を利用した手で叩かれる為、表情はずっと固定されたままだが。
……誰かの肉壁になるならばまだしも、弱者を虐げる事にしか使わないとは。
実に無駄な脂肪の塊だ。中にある脳みそも碌に稼働していないようで同情する。何の役にも立たないのなら、いっそその脂肪を絞って取った油で明かりをつけるなりすれば良いだろうに。貼り付けた笑顔のまま、一诺はそう思った。
せめて明かりにでもなる方が、今よりもずっと役立つというものだ。
「本家が娘の専属使用人を募集している」
「専属使用人ですか」
「そうだ。どうやらか弱い娘が随分と心配らしい。そこに貴様をねじ込む」
「私を」
質問は許されない。問い掛けると途端に分家当主は不機嫌になるからだ。恐らく自分の説明で理解出来なかった相手に憤る以上に、自分がその問いに答えられる程の教養を備えていないからだろう。貼り付けた笑みの奥で、一诺はそう思った。
「下っ端も下っ端な貴様にはわからんだろうが、専属使用人とはその娘の全てを世話する存在だ。それこそ日常生活から思想、教育に至るまでな」
「洗脳をしろという事でしょうか」
「ハ!東洋人は随分と過激な発想を持つからいかん。そんな事はせんよ。ただ、貴様がその娘を育てるだけだ。将来儂の息子に何をされても言い返せぬような控えめな娘。もしくは言われるがまま股を開くような娘にな」
「……股を開く」
一诺は常に周囲を窺っている。だからこそ、使用人達が一诺の存在を気にもせず話している本家の事についても、多少は知識があった。本家当主の娘の名がナージャである事、体が弱く具合を悪くしがちである事、まだ幼い五歳児である事。
そんな幼子に随分な思想を刷り込めと命じる分家当主に、反吐が出る。
……将来息子に襲わせ子を作り、本家を乗っ取ろうというのか。
本家にはまだ幼い長男も居ると聞く。だがおそらく、そちらは邪魔になるからと始末するつもりなのだろう。保身に走る豚は他人を蹴落とす事にかけては長けている。酷く浅ましい程に。薄っぺらでありながら、短絡的故に人の命を確実に奪うような方法で。
……弱者にしか命じられない分、弱者に命じるのが愚かなりに出来るのが面倒だ。
捨て駒を雇って本家の長男を仕留めるくらいはするのだろう。そうして三人居る息子達の誰かに娘を襲わせ、乗っ取ろうとは。権力と金を求めたが故の他者を一切思いやらないその発想に、一诺は酷い嫌悪感を覚えた。
否、一诺はいつだって分家当主に嫌悪感を抱いているが。
「当然他にも専属使用人になれるような人材を送ってはいるが、無駄に勘が良いのかことごとく送り返されてくるからな。しかし貴様は東洋の出。本家の者達も、東洋人が我が分家と関わりがあるとは思うまい」
「そうでしょうね」
なにせ分家当主は筋金入りの東洋人嫌いなのだから。一诺は己がただ虐げるのに丁度良いから雑用を任されているのだと知っている。だから追い出されてはいないのだという事を。それをまるで自分の自慢のように思っているとは実に滑稽だ、と内心鼻で笑った。
……心の狭さが知られている事を自慢げに言うとは、救いの無い思考回路だ。
恥ずべき事を自慢げに語る分家当主は、一诺からすれば酷く滑稽な道化師だった。そのまま全て失敗し、笑いものになれば良いのに。それこそ道化師のように、と一诺は思う。
「東洋の出でありながら、貴様は無駄に知恵があるからな。今日から貴様には図書室の利用を許可してやろう。本来貴様のような者に読ませるような低俗な本は無いが、今回必要とされるのは貴族に関係する知識なのだから仕方あるまい」
……低俗な本とは、笑える話だ。
一诺は内心で失笑する。分家当主は学ぶのを嫌がり、自ら文字を遠ざけた過去がある。それ故彼からすれば本とは敬遠するものであり、しかし同時に頭が良い存在が沢山有するというイメージを持つ。
本が多いから頭が良いという発想自体、頭が良くない事が露呈しているが。
その上元々本嫌いであるが故か、分家の図書室には碌な本がありはしない。庶民用の本屋の方が充実しているくらいだという事を、一诺は知っていた。それこそ内容も、数も、全てが庶民用の本屋の方が充実している。
……だが分家とはいえ、ある程度役立つ資料程度ならばあるだろう。
一诺は他人をよく観察している為、他の人が実行する作法はしっかりと覚えている。時々本屋に立ち寄って速読と立ち読みを駆使して知識も多数仕入れている。文字を学ばせようともしないくせに文字が読めないとこの程度も出来ないのかと分家当主が叱る為、独学で覚えたのだ。
当然、本屋での立ち読みで。
けれど立ち読みは当然の事ながら嫌がられる行為。だから一诺は、一度見るだけで脳内に記録し、読み込めるようにと速読を身につけた。本屋で数分間沢山の本をパラパラすれば学べるように。使用人や客人が読む本をチラリと一瞬視界に入れただけで覚えられるように。分家当主が机に広げている書類を一瞥しただけで把握出来るように。
情報は武器となり得る大事なものなのだから。
「その間は働かずとも良い事にしてやろう」
「ありがとうございます」
「ただし」
薄っぺらな笑みを浮かべて薄っぺらな礼を言う一诺に、分家当主は言う。
「もしそこまでして専属使用人になれなかった時、役立たずな貴様の命は無いものと思え」
「肝に銘じます」
……肉になれる豚以下のお前より役立たずな者はそうも居ないだろうに、よく鳴く獣だ。
薄っぺらな笑みの向こう側で、一诺はそう思った。失礼しますと言ってから部屋を出た一诺は、すぐさま図書室へと移動する。あるだけの知識を蓄える為に。
立派な使用人になってやろう。
一诺には行くところが無い為、分家当主に従うしかない。適当な笑みを貼り付けてある程度仕事をしつつ説教を受け流せば良いだけというのは楽だから。けれどいつかは自立しようとも思っている。
その為に知識を蓄えているのだ。
……専属使用人になれれば本家に住み込みとなる分、生活が改善するな。
残飯や野菜の使わなかった部分などを食べている一诺は、そう思った。
風が吹かない部屋。まともな食事。穴の開いていない衣服。それらが手に入る可能性。当然面接の時は分家当主により身嗜みを整えさせられるだろうが、専属使用人になれば数年から十数年はその生活が確定となる。
……気合を入れるか。
一诺は絶対的弱者であり、その他全てはただの強者。思想や性格が違っていたとしても、そこに差は無い。だから一诺は分家当主を裏切ろうとは特に思っていなかった。ただ自分がまともに生きれるようになれればそれで良いと思っていた。弱者から見て強者は強者でしかなく、優劣以前の問題なのだから。
幼い娘であろうと、貴族である以上は弱者を虐げる強者なのだろうと思って。
・
一诺は本家の長女、ナージャの専属使用人の一人として選ばれた。東洋の出であるが故に分家とは関わりが無いだろう事と、しっかり備わっていた教養などが決め手となった。全て一诺自身のものであるが故に、一诺は少しだけ嬉しかった。
……出自は俺のものであり、教養は俺自身で得たものだ。
「……ナージャ、です」
初めてナージャと顔を合わせた時、一诺は少し興味を持った。ナージャは困ったように眉を下げ、不安そうに視線をうろうろさせていたからだ。体が弱い子だとは知っていたが、使用人にまでおどおどした態度。
体だけではなく、心も弱いようだった。
服の裾を握るという、不安を強く抱いている時特有の行動。顔合わせの時から、ナージャはエプロンドレスのエプロンを握り締めていた。ナージャが一言気に食わないと言えばどうにかなるだろう関係性なのに。弱者の使用人を即座にクビに出来るだけの力が備わった強者なのに、ナージャはそんな弱者に怯えていた。
……体の弱さは心因性のものかもしれない。
観察して理解しようとする癖が、一诺にはあった。四人の専属使用人の中で唯一の男である一诺は、基本的に控えている事が多かった。何かあった時の護衛役というのが主な役割とされていた。
だから、じっくりと観察出来た。
食事の時間が近づくと共に顔に憂いが出始める事。食事がまったく楽しそうでは無い事。本家当主と奥方が話しかけても困ったように笑っているだけという事。すぐにごめんなさいと言う事。感謝よりも謝罪をする事。誰かに何かをってもらう度、申し訳なさそうにする事。外に行くのを嫌がっている事。
自分で何かをやろうとしたがっている事。
……一人で食事をしたい、一人で着替えたい、一人で風呂に入りたい、か。
得た情報を組み合わせ、一诺は考える。信用はされているが信頼まではされていない使用人達の中で、特別になる為に。幼い少女に取り入る為に、考える。初対面の時からナージャは不思議と一诺に対しては少しだけ体の力が抜けていた。
だからあと一押しあれば、信頼が得られるだろうと考えた。
一押しというのは簡単なもので良い。一诺であるならば尚更だ。ナージャは他三人に対して最近諦めた目で微笑むようになったが、一诺に対してはまだ期待がある。その期待が何なのか、一诺は知っている。
だってずっと見ていたから。
子持ちである彼女は親の目線で接して失敗した。一诺と同い年くらいの若い彼女は子供に対するよう接して失敗した。本家当主に従順な彼女は契約しか見ていなかった。けれど一诺はナージャを見ていた。ずっと見ていた。
見ていたから、わかる。
……恐らくこの娘は、年相応では無いのだろうな。
「お嬢様」
一诺はいつも通りの笑みを浮かべ、二人きりになったタイミングを見計らって声を掛けた。
「……なんですか?」
五歳児には似つかわしくない、疲れた笑みだった。一诺以外であれば笑顔として認識しただろうが、人の表情をずっと窺って来た一诺にはわかる。疲れているのを隠そうとした時の、無理に浮かべた笑顔だった。
……普通ならこの笑みは、病を隠す為だろうに。
しかし体ではなく、心が病んでいるのかもしれない。まだ幼い娘なのに。最初は甘やかされた子供なのだろうとナージャを軽んじていた一诺だったが、観察し続けた今は違う。ナージャは聡い子で、それ故に自分を抑え込んでいるのだと気付いたから。
「お嬢様はもしかして、ご家族との食事の時間を疎ましく思ってはいませんか?」
下手をすれば主に対する暴言と取られるだろう言葉だが、一诺は躊躇わなかった。ここで間違い終わるならそれまでの事だから。
「!」
ナージャは頷いた。
一诺の言葉に目を見開いて、胸元を強く掴んで、口をはくはくと動かして。けれど今までそういった事を言われた事が無かったからか、肯定をしてこなかったのか、ナージャの声は出なかった。けれどどうにか肯定しようとして、ナージャは必死で頷いたのだ。
泣きそうな顔で、迷子が頼れる誰かに出会った時のように。
「ああ、やっぱりそうなんですね。食事をしている際、酷く憂鬱そうでしたから。それに他の使用人から、一人で食べたいと言っていた、という証言もあります。元々もしやとは思っていましたが……思った通りでした」
笑みを浮かべながら、やはりと一诺は内心頷く。彼女はきっと、この家のやり方が合っていない。ナージャをずっとじっと観察していた一诺には、それがわかった。だって自分もノヴィコヴァ家の分家が合わなかったから、わかる。
もっともノヴィコヴァ家の分家は、そもそも居るべき場所では無いからだろうが。
「お嬢様」
一诺は椅子に座っているナージャに視線を合わせるようにして跪き、手を差し伸べる。ナージャのように色が白いわけでも無い手。作業の邪魔にならないようにと短く切りそろえられた爪。分家では家事の中でも手を酷使する洗い物や雑巾がけなどをさせられていた為、ところどころ荒れていた。
……我ながら、醜い手だ。
間違えた、と一诺は思う。もう少し綺麗な手であった方が様になっただろうが、既に差し伸べた手を引っ込める方が無作法というもの。そう思い、一诺は手を差し伸べたまま告げる。
「お嬢様がもし一人での食事を望むのであれば、私がその通りになるよう手配しましょう。勿論それにはお嬢様の協力が必要となりますが、まあ些細な事ですよ」
内緒話をするように、差し伸べていない方の手の人差し指を口の前でピンと立てた。これはいけない話だと、誰にも言ってはいけないと暗に示すかのように。実際誰かにバラされでもしたらお嬢様に悪影響だとしてクビになるだろうから、内緒話で間違い無いのだが。
……悪影響、か。
一诺が考えているのは、ほんの些細なイタズラ程度。ナージャの救いになり、本家の当主と奥方を丸め込めるだろう案。そう大ごとにする気は無く、けれどナージャの望みを叶える事が出来る方法。
……些細なイタズラで彼女の心が救われた方がずっと良い。
このままでいる方が、ナージャには悪影響でしかないのだから。一诺はそう思った。もっともそれは無意識であり、一诺は強者に抱きはしないだろうその感情をまったく自覚していなかったが。
「理解してくれないご両親相手に、ちょっぴり悪い事をしてしまいませんか?」
いつもの貼り付けた笑みでは無く、思わず零れた本当の笑み。
ちょっぴり悪い事というのは、素直で真面目だろうナージャに嘘を吐かせる必要がある事について。けれどそれで望みが叶うのなら安いものだろう。そんな気持ちがうっかり零れた、あくどい笑みを浮かべてしまった。
……まずい、今の笑みで警戒されたかも……。
「はい……!」
一诺の内心など知らないナージャは、涙目で一诺の手を掴んだ。怪我などした事が無いんじゃないかと思う程白く柔らかく、年相応に小さな手。その手が、綺麗とは言えない一诺の手を強く握った。
まるで溺れそうな人間が、必死に何かを掴むように。
……この年で、そこまで追い詰められているのか。
一诺はナージャの精神年齢が高い事を見抜いていた。
だからこそ、合わない生活でその精神が擦り切れている事にも気付いた。けれど思った以上に、ナージャの心は限界が近かった。ナージャにとっては強い力なのだろうが、一诺からすればそこまで力がこもっていない手。
小さく震えているその手の力が、如実にナージャの全てを語っていた。
大体こんな感じ(視点変更)で進みます。