ナージャは誰かを嫌っても良いと知る
ナージャは酷く辟易していた。
「お姉様!一緒にランチしませんか!?」
「ごめ、ごめんなさい……」
特待生であるリーリカがやたらと誘ってくるのだ。
「お姉様、一緒に下校しましょう!」
「わ、私、一诺、その、迎えがあるので……」
断っても断っても。
「素敵なカフェがあるんですけど!」
「や…………」
しつこく誘われ続け、ナージャは酷く憔悴していた。
「あの特待生、中々に見る目がありますね」
「ええ、まあナージャ様に助けられたのですから当然なのですけれど」
ナージャの傍にいつも居るラーザリとアデリナもそんな感じなので頼りにならない。
「お姉様!仲良くなったヴァレーラ先輩がお姉様に謝罪をメインとしたお話をしたいと言って」
「それはアウトですわ!」
「くっ、また貴様らか!退け!俺はあの日の事をナージャ・ノヴィコヴァに謝罪するんだ!」
「ナージャ様のトラウマがいちいち来ないでください!接触しないでいてくれる事が一番ですよ!」
……まあ、あの攻略対象なんでしょう赤マフラーの人が一緒の時は止めてくれますが。
リーリカはいつの間にか赤マフラーことヴァレーラと仲良くなっていた。他にもノヴィコヴァ家の分家である二年生や、他校の一年生とも仲良くしているらしい。
……分家の彼には、申し訳ない事をしてしまいました。
昔、分家である事も気付かずにいじめられている彼を助けてしまった。
助けてしまったという言い方もおかしいのだが、そうとしか言えないのだ。ナージャはただ目の前で行われる行為を見捨てられなかっただけだが、分家は本家と仲が悪い。分家当主は子供から懐柔しようとする危険性もあるからという事で、分家の子まで本家の子であるナージャとの接触が禁止されているのだ。
もっとも接触に関しては校内だった為不可抗力という扱いになったが。
……そもそもいじめられている理由が、分家だから、なんですよね。
分家の三男であり、家の中での立場も弱いらしく結果的にいじめに繋がってしまったらしい。ナージャ自身が出られない為、近くに居る人達に止めてあげて欲しいと頼んでいると、アデリナがそう教えてくれた。
貴族なだけあって、アデリナは情報に聡い。
当然ながら一诺の方が情報に聡いのだが、一诺に相談するのもなんだかなあ、という内容。いじめはよくないものだがナージャがバイト仲間などから聞いたとんでもないいじめの内容を思うと、実害は少ないいじめばかり。
殴られたり蹴られたりは無く、絡まれたり悪口を言われたり水を掛けられたりする程度。
……でも、いじめに程度なんてありません。
軽いいじめでもいじめはいじめ。軽い気持ちでの殺人だろうが重い気持ちでの殺人だろうが、包丁で一突きだろうが灯油をぶっ掛けて焼き殺そうが、殺しは殺し。それと何が違うのか。
結果的に命を奪う事も多々ある行為だと思うと、そこに差異は無いだろう。
だからナージャは止めたいのだが、ナージャが手出しをすると悪化する。だから近くに居る誰かに止めてくれと頼む事しか出来ないのが歯痒かった。分家である事しか知らず、名前も知らない相手。それでも、助けない理由にはならないから。
……全然、助ける事は出来ていないのが心苦しいです。
一時的に助けるだけで、いじめが止むわけでは無い。助けるのも周囲に居る誰かであって、ナージャというわけでは無い。自分では何も出来ず、すればする程逆に作用してしまうとわかるから手出しも出来ない。
活路を見出す事すら出来ないそれが、酷く心苦しかった。
……でも最近は、どうにかなったみたいですね。
どういう何があっていじめが無くなったかは知らないが、最近その現場を目撃する事が無くなった。特待生とよく話をしている姿を目撃するので、恐らく特待生が主人公らしく何かをしたのだろう。
流石は主人公。
広い交友関係を持ち、様々な人と交流を深めている。最近はアデリナやラーザリともよく話しているようで、ナージャは純粋に凄いなあと思った。
何せナージャからすればアデリナとラーザリは勝手に傍に居るだけで、友人でもなんでも無かったから。
学校を卒業すれば終わるだろう期間限定の関係。そもそもナージャが名前を覚えておらず、助けられてはいるものの常に周囲に居るせいで気が抜けない状況。信者のような二人だからこそ、ナージャの溜め息一つに過剰反応を返すその反応。
全てが、息苦しい昔を思い出させるのだ。
……卒業したら、どうしたら良いのでしょう。
お見合いでもして、適当な貴族に嫁いで子を産む事になるのだろうか。妹を我が子のように愛して育てる事に忙しかった前世では、恋に現を抜かす暇など無かった。既に子育てを経験したようなナージャ、否、当時の筑流からすると、子供が欲しいとも思えなかった。
だってもう子育てをやり遂げていたから。
好きな相手が居ればまた違ったかもしれないが、そんな余裕は無かったのが前世だ。故に好きでも無い貴族の子を作る事は出来るかもしれないが、愛を持って育てられる気がいまいちしない。そも少しでも乱暴にされれば、その辺りに耐性の無いナージャの心は容易く壊れもするだろう。早くに両親を亡くしながらも注げるだけの愛を妹に注いで育てていたからこそ、愛は既に完売済みで空っぽなのだ。
今世では両親から愛を注がれたが、それはナージャの求める愛では無かった。
植物にミネラルたっぷりの方が良いよねという善意で海水を与えて枯らすような、そんな愛。合わない愛。合う愛は一诺の受け入れるような愛だけで、だからナージャは一诺にだけ好意的に対応する事が出来る。
他の人からの愛は、全てナージャを苦しめるものだから。
「お姉様!」
しかし目下の問題は、ヒマワリのような笑顔でナージャの下へとやってくるリーリカだった。
「お姉様は今日も美しいですね!特にその長い髪なんて、海の色のよう!」
「……ど、どうも……」
……うぅ、相変わらずこの子は声が大きくて苦手です……。
ぐいぐい距離を詰めて来るのも理解出来ない。
ナージャは身を守るかのように胸の前で腕をひっそりとクロスさせていた。無意識での動きだが、完全に不安を抱いている。逃げたいと思うあまりへっぴり腰にもなっていたが、リーリカはそれに気づかない。
「それにお姉様の髪ってとても長いし……アタシも伸ばそうかな。そしてお揃いの髪型に!どうでしょうお姉様!」
「………………!」
……こう、何というか、別に髪型は自由ですし、駄目と言う理由はありませんし、こう思うのは凄く嫌ですし駄目なんですけれど、でも、でも、凄く嫌です……!
静かに一瞬目を見開いて、ナージャはそう思った。
ナージャが髪の長さをお揃いにと思っているのは、一诺に対してだけ。好きでも無い相手にお揃いにされたくはない。別に相手が勝手に言っているだけだし、意図せず髪型が被る事など多々あるだろう。
それでも、一诺とのお揃いに割り込まれたくないと思った。
「……そのまま、の、髪型で、その、良いと思います、よ……」
「本当ですか!?じゃあずっとこの髪型にします!」
……そこまでは言ってません……。
リーリカは嬉しそうな顔で喜んでいて、ナージャにはそれが理解出来ない。
案内をするようにとアデリナ達に言ったのは確かにナージャだ。それがキッカケなのだろうが、それにしたって懐くのが早過ぎる。他にも色んな人と交流しているのだから、そっちに行けば良いのに。主人公だからこそ、全ての人と仲良くなろうとでもしているのだろうか。
……駄目ですね、苦手過ぎるあまりマイナスのイメージしか……。
人を悪く思いたくはない。
それでも苦手意識が先行してしまい、リーリカに対しネガティブな感情しか抱けない。けれどネガティブな感情を相手に抱くのは申し訳ないという、ナージャの中で自分を責める感情もある。リーリカがナージャに声を掛けて来る度、ナージャは苦手意識と共に自身の事を責めていた。
好き嫌いでそう判断して拒絶してしまうのは、相手に対して失礼だろう。
ナージャの場合はリーリカのそのぐいぐい来る感じが生理的に苦手なのでそう思うのは当然なのだが、申し訳なさはどうしても常にある。その為、最近のナージャは最早リーリカを見るだけで泣きそうになっていた。
新しいトラウマが出来そうなくらいだ。
「でも本当にお姉様の髪って綺麗ですよね……あの、これって自分で」
「あ」
さっ、とナージャはあからさまな程にリーリカの手を避けた。
一诺が結んでくれた三つ編みに触れられそうになったのが嫌で、考えるよりも先に体が避ける動きを取っていた。元々他人に接触されるのを嫌がるナージャなので、髪に触れられるのだって当然ながら苦手なのだ。
心を許している一诺であれば別だが。
しかし一诺以外はいけない。他人の手が触れそうになると、ゾワリとした寒気が走る。駄目なのだ。とにかく、これといった明確な理由は無いが、生理的に拒絶感しか抱けない。
ナージャは一诺以外に触れられたくなかった。
当然それは皆何となく察していた。察していたというよりも、正確に言うならば高嶺の花であるナージャ様に触れるなどおこがましい、という感じで触れようとしなかっただけ。それでも充分ナージャの心へのダメージは軽減されていた。
しかし、こうして触れられそうになってはもう駄目だった。
例え髪であろうと、触れられる事を嫌うナージャ。そして苦手なタイプであるリーリカ。そんなリーリカに触れられそうになれば、避けてしまうのは必然だった。
普段ならさり気なく避けるだろうナージャが、あからさまな動きで避けてしまうくらいには。
「……ご、ごめ、なさ、その、私、髪、触られるの、駄目、そう、駄目で……」
「そうだったんですね!」
拒絶されたはずなのに、リーリカは何故か晴れやかな笑みでガッツポーズしていた。
「勝手に触ろうとしちゃてすみませんでした!」
「…………いえ……」
「でもお姉様、本当に髪が綺麗です!どんな髪型でも似合っちゃいそう!」
「…………」
どう反応すれば良いのかわからず、ナージャは困った顔で無言を返すしかない。困った顔と言っても、日本人らしくついつい微笑みを浮かべてしまうのだが。
その為、本気の拒絶である事が伝わらない。
「あの、ところで今日こそ一緒に下校を」
「リーリカ」
ぐい、とリーリカはいつの間にか後ろに居たカーナに肩を掴まれ引き寄せられた。そのままカーナの胸にポスンとリーリカの頭が置かれる。
「今日は俺と下校するんじゃないの?」
「いつもしてるじゃない。それにお姉様と下校よ!?お姉様と!お姉様をお姉さまの家まで送りながらお話とか、んへへ……!」
にやけた笑みを浮かべるリーリカを見下ろしながら、カーナはいつもと同じ表情で言う。
「普段は俺がリーリカを教会まで送って行ってるけど、それやると俺が往復する事にならない?別に良いけど」
「……カーナ、いつも言ってるけど別にアタシ、教会に一人で帰るくらいは出来るわよ。確かに魔法は使えないけど、だからってそう心配されるような危険は」
「迷うよね、リーリカ」
「うぐ」
カーナの言葉に、リーリカは顔を顰めて言葉を詰まらせた。
「とにかく、姉さんは使用人が迎えに来るから。リーリカは俺と帰るよ」
「でもでもでも!」
「それ以前にもうチャイム鳴りそうだから、本当に早くクラスに戻りたい。ここ俺達のクラスから結構距離あるし、この後の授業の先生遅刻にうるさいし」
「……そういえばそうだったわね」
ぐぬぬ、とリーリカは唸る。
「また!また来ますねお姉様!次こそ一緒に帰りましょう!」
「はいはい、リーリカは俺と帰ろうね」
叫びながらナージャの手を取ろうとしたリーリカの動きを見越していたのか、その手がナージャの手に触れる前にカーナはリーリカをひょいっと担ぎ上げた。恋愛ゲームの主人公に対してやって良いのかわからない俵担ぎだが、ナージャからすればリーリカから解放された事の方が重要だった。
ようやく訪れた静けさに、ナージャはホッと密かに溜め息を吐いた。
・
自室に戻って来たナージャは、上着を一诺に預けてからぐったりとベッドに倒れ込む。
「今日はまた、随分とお疲れですね。学校で何かありましたか?」
「……色々と……」
下校の時、迎えに来た一诺と会話をする余裕すらも無かった。一诺もまたそれ程にナージャが憔悴している事を察し、こうしてナージャが気を抜いてから声を掛けていた。
「…………懐いてくれるのは、嬉しいんです。そう、嬉しい。嫌われたくはありませんし、好かれる事は良い事ですから」
「本当にそう思いますか?」
ナージャが無言で顔だけを動かし一诺に視線を向けると、漢服を着るようになってからは外出用になっている使用人服を着ている一诺が微笑んでいた。いつも通りにハイライトが入っていない狐目を細めた笑みだ。
……やっぱり、一诺は誤魔化せませんね。
そもそも一诺を誤魔化そうと思っていたわけでは無く、自分を無理矢理納得させる為の言葉だった。
それを見抜かれた事に、ナージャは安堵する。皆が想像してフィルター越しに見ている優しいナージャ像では無く、ちゃんとした感情があるナージャだと理解してくれている事に。
「……正直、懐かれて困ってます」
「でしょうね」
一诺はクローゼットからナージャの寝間着を取り出して椅子に掛けた。
「私、あの特待生が苦手です。ぐいぐい来るし、声が大きいし、全然引いてくれませんし……」
そう、苦手なのだ。
気配を混ぜ返すような押しの強さや、氷を溶かすお湯のような温度。氷を溶かすような熱さと言えば心の氷を溶かすイメージもあるので聞こえは良い。聞こえは良いが、氷側であるナージャからすれば堪ったものでは無かった。
氷がお湯によってじゅうじゅう溶けていくように、無理矢理心の扉を壊されているような感覚。
それは心を開いていないナージャからすれば、カギを掛けている扉を無理矢理壊して中に押し入ろうとするような行為。ホラー映画の殺人鬼がやるような、酷く恐ろしい心地にさせるもの。
「……多分、私が心を開きたいって思ってて、仲良くしたいって思っていたら、大丈夫な相手なんです」
……そう、きっと、自分から心を開きたいと思っている人なら嬉しい対応なんでしょうね。
外に出たいのに出られない心。
そんな心を持っている人であれば、助かったと思うだろう。足踏みしてしまって前に歩き出せない人からすれば、無理矢理外に連れ出そうとしてくれるリーリカのような人間はヒーローのように素敵な人物に見えるのだろう。
だが。
「でも私、心を開こうとか、仲良くしようとか、思ってないです」
心を開く気が無いナージャからすれば、ただの恐怖だ。
ホラー映画の殺人鬼でしかない。バリケードを壊して侵入し、息を潜めていようとこっちに来て武器を振りかぶるような。そのくらい、恐ろしい。
そう思い、ナージャはぎゅっと眉を顰めた。
「怖いし、大変だし、そういう事に使うような体力も気力も無いですし」
「他人と関わる事が苦行でしかないナージャ様からすれば、強制的に他人と関わる事になる学校は苦行の場でしかないでしょうからね。そんな中でもっと頑張れというのは、実質死ねと言うのと同じ事」
一诺はナージャを抱き締めるようにして抱き上げ、ベッドに倒れ込んでいる体勢から座らせる体勢へと変えさせた。
……一诺は、大丈夫です。
触れられても嫌じゃない。
無理矢理扉を壊すような、氷を溶かそうとするお湯のような熱さも無い。気配を混ぜ返して境界線を無くそうとする勢いも無い。お互いがお互いである事を尊重しつつゆっくりと触れてくれるその動きが、憔悴しきっているナージャの心を優しく包み込んでいく。
ナージャは目の前にある一诺の肩に頬を乗せ、ホ、と小さく安堵の息を吐いた。
……ようやく呼吸が出来た気がします。
一诺と一緒なら、安心して気を抜く事が出来る。
こうして二人きりになれば気負わなくても気を張らなくても良い。他の誰かの前では呼吸が出来ていないような息苦しさを覚えるナージャからすれば、一诺と一緒の時間しか呼吸が出来ていないも同然なのだ。
だからどんどん、一诺以外が苦手になっていく。
ちなみにこれは一诺がそういう毒を盛ったとか刷り込みをしたとかいうわけでも無く、ただただナージャが心を許しているか否かによる対応の差である。対応の差が大きく出るくらい、ナージャの心の壁は分厚かった。
まあ一诺以外がナージャの苦手な距離の縮め方をする人間ばかりだったというのも理由だが。
「……だから、無理をしなくても良いのですよ」
ナージャを抱き締め、一诺はナージャの背を軽くぽんぽんと叩く。ナージャはベッドに座っていて一诺は床に膝をついているので、体勢としては抱き締めにくいだろうに。
それでも、一诺はナージャを抱き締めてくれた。
「……本当に、嫌なんです」
その温もりに泣きそうになりながら、ナージャは言う。
「特待生は良い子で、それはわかってます。わかってますけど、駄目なんです。とにかく苦手で、苦手で、嫌なんです。仲良くなれないし、仲良くもしたくありません」
愛想笑いを貼り付け続けなくてはいけないのを友人とは言わないと、ナージャは思っていた。そしてリーリカのような性格の子が相手の場合、愛想笑いを貼り付け続ける必要があるのだろうともわかっている。
要するに、友人になれないタイプとしか思えないという事。
「もし私が仲良くしたいという気持ちを秘めてたら、きっと丁度良かったんです。でも駄目なんです。私、私が隠してるのも、事実です。でも、誰も、一诺みたいにわかってくれないんです。私、嫌なのに。一人にしてって言っても、誰も聞いてくれません。確かにあんまりそういう、嫌な気持ちとか、出さないようにしてますけど、でも」
「大丈夫ですよ」
一诺の大きく温かい手が優しくナージャの頭が撫でた。
「苦手な物は仕方がありません。無理な物は無理で良いんですよ」
「……良いんでしょうか」
「アレルギーがある物を無理に食べても苦しいだけでしょう?それと同じ事です。無理をして苦しむより、無理をしないようにして心を安らかに保つ方が良いと私は思いますよ。もっともナージャ様がアレルギーがあろうとその食べ物が好きと言うなら他に手を考えますが」
「全然好きじゃないです!もう、もう姿を見るのも声を聞くのもしたくないくらいには嫌なんです!」
叫び、やってしまったとナージャは青褪める。
本音を言ってしまった。本音を言う事自体は悪くないが、他人を悪く言ってはいけない。前世で妹を育てる時、口を酸っぱくして言った言葉。だからナージャも言わないようにしていた。
思う事すら、してはいけないと思って。
けれど言ってしまった。本音で、嫌いだと。本人を前にして言うのも良くないし、本人を前にせずに言うのも良くない。悪口も陰口もいけない事だ。ナージャはそう思っている。そう思っているのに、言ってしまった。
言ってはいけない事を、一诺の前で言ってしまったとナージャは青褪める。
「なら無理という事で良いと思います。私は」
一诺はさらりとそう言った。
……あ。
ナージャは一诺がそれをさらりと受け入れてくれた事に安堵した。
ホッとして、体から力が抜ける。誰かを嫌う事は良くない事だという考えが、ナージャの中にはあったから。下手に誰かを嫌い過ぎるような性格では嫌がられてしまうのではないだろうか。
ナージャには、そんな懸念がずっとあった。
恩には恩が、仇には仇が返される。ナージャはずっとそう思っている。だから誰かを嫌えばそれは悪意となって、悪意として返ってくるのだろうと。嫌うという感情は良くないものだから、悪意に等しいものなのだろうと思っていた。その分、例え苦手な相手だろうと、好かれるのは良い事なのだと思っていた。思い込んでいた。
でも、一诺はそれで良いと言ってくれた。
実際アレルギーというのは、どうしても無理なもの。無理をすれば最悪の場合命に係わる事もある。無理をして食べて最悪死ぬよりも、遠ざけて無事を得た方がずっと良い。人間だって苦手なタイプと付き合い続ければすり減って行くもの。
噛み合わせが悪いと歯がすり減って行くように、心だって擦り切れる。
「イヤならイヤで良いんですよ。断る理由が無くて断れないなら、「使用人の一诺があまり他人と関わるなと言っていた」とでも言えば良いのです」
「……でも、それだと」
……それだと、まるで一诺が私の交友関係を縛り付けているように取られてしまいますよね?
「悪者が居た方がわかりやすいのですよ。他人がそう言っていたからというのは理由として丁度良い。事実、ナージャ様の心に負担を掛けるような方とは無理に交流してほしくはありません」
「……一诺は、そう思ってくれますか?」
「はい」
顔を上げたナージャと目を合わせ、一诺は薄く目を細めて優しく微笑んだ。
「誰かと仲良くしている方が幸せだろう、とは思いません。それは誰かと仲良くする事が幸せな者の価値観です。ナージャ様はナージャ様しか居ないのですから、ナージャ様が幸せだと思える選択をすれば良いのですよ」
「…………でも、私、幸せな選択肢、わからないです」
「そういう時は逆转主意」
「?」
どういう意味かと首を傾げるナージャを見ながら、ニッ、と一诺は笑う。
「イヤだと思う選択肢を拒絶していけば良いんです」
「……成る程……!」
……目から鱗が落ちるというのはこの事ですね……!
消去法で選べば良い。他人が望んでいる方だからと言って、無理に苦手な方を選ばなくても良い。その発想は、ナージャの心を軽くさせた。
「…………ふふ、何だか、ちょっと元気が出てきました」
クスクスと笑ったナージャは一诺にもたれ掛かっていた体を起こし、ニコリと微笑む。
「ありがとうございます、一诺」
「いえ。私はナージャ様のその笑顔が見たいだけですので」
「あは、口説き文句みたいですね」
ナージャは口元を手で覆って子供のような笑みを浮かべた。対する一诺は、ニッコリとした笑みを浮かべたままだった。
「……ん、あ、でも、気が抜けたらまたちょっと、眠くなってきました」
「寝間着は出してありますから、お休みください。ナージャ様は気を張り過ぎていますから。無理に起きていてもその状態では頭も動かないでしょうし、少し仮眠を取ってからの方が予習復習の為にも良いと思いますよ」
「そうします……」
うとうとしながら、ナージャはまず髪を解こうとする。しかし眠気の為か、髪留めを上手くほどけない。
「……失礼します」
「すみません……」
見かねたのか、一诺がさっとナージャの髪を解いた。そのまましゅるしゅると三つ編みが解け、元通りの長いストレートへと戻って行く。
それを見て、ナージャはふとリーリカの言葉を思い出した。
「……そういえば今日、髪に触れられそうになりました。特待生に」
「へえ」
……あれ、何か今物凄く低い声だったような。
目を細めたニッコリとした笑みなのにやたら圧があるし、声はやたらとドスの利いた声だった。鋭い刃物のようであり、鈍器のような。
けれどそれはナージャに向けられてのものでは無いのか恐怖などは感じなかったので、ナージャは特に気にする事も無くスルーした。
「その、つい、避けちゃいました。あまり触られるの好きじゃないですし」
「私が今触れているのは?」
「?一诺は好きです。だから触れられても嫌じゃないですし、寧ろ一诺が相手だと、一诺が居るって思えて安心出来ますよ」
「それは良かった」
ナージャが本心のままに告げれば、一诺はニパッとした笑みを浮かべる。よくわからないが背後に花が浮かんでいるように見えるご機嫌な笑みだったので、まあ良いかとナージャは思った。一诺が嬉しいならナージャも嬉しい。
喜ぶ理由がわからなくとも、確かに喜んでいるのならそれだけで嬉しいのだ。
「それで、その時、どんな髪型でも似合いそうだって言われたんです」
……お揃いに関しては……防いだから報告しなくても良いですよね。
三つ編みにしていた為多少癖がついてしまっている髪を一诺によってブラシで梳かれてうとうとしながら、ナージャはそう思った。
「違う髪型をご所望ですか?」
「いえ」
……三つ編みは、私が絶対に出来ない髪型だからお気に入りですし……。
髪の毛と相性が悪いナージャからすれば、三つ編みはもう凄まじくハードルの高い髪型だ。
他にも色々と凝った髪型があるのは知っているが、あれはもう芸術か何かだろう。すぐに崩れそうだし、崩れたらもうアウト。一诺が居れば直してくれるかもしれないが、不要な手間を掛けさせるのは申し訳ない。
そもそもナージャ自身に自分を飾りたいという意思がいまいち無い為、凝った髪型に対する憧れは無かった。
……三つ編み自体が憧れでしたしね。
「ただ、一诺が好きな髪型が良いなって、思ったんです」
疲労からの眠気でうとうとしながら、ナージャはそう言う。
「だから一诺はどんな髪型が好みなのかが、気になって」
「……どのような髪型でも、ナージャ様はナージャ様ですから」
優しい声。その顔を見たいと思うが、ナージャの目はもう閉じかけていた。
「どんな髪型にしていようとナージャ様がナージャ様である限り、私の愛するナージャ様です」
「……えへ」
……愛するって言われるの、嬉しいです。
ねむねむと意識がぼんやりしていく中でも確かに聞こえた嬉しい言葉。ナージャはそれに、嬉しくて仕方が無い少女のようにふにゃりとした笑みを浮かべた。
「ただ、出来れば髪を下ろした姿は私だけに見せるようにしていただければ、と。折角ならその姿を独り占めして、私達だけの秘密として共有したい」
……一诺の顔、見たいけど、もう、目が開きません……。
けれど、とても嬉しい。独り占めしたいと思ってくれる事が嬉しかった。どうしてそれを嬉しいと思うのかはナージャにはわからないが、それでも確かに嬉しかったのだ。
まるで一诺が大事に大事に、ナージャを抱き締めて仕舞い込んでくれているように思えたから。
「……じゃあ、髪を下ろした姿は、ずっと一诺だけが知る秘密の姿、ですね」
ぽわぽわと頬を赤くさせて、ナージャはぽすりとベッドに横になった。言うだけ言って、ナージャは完全に眠りに落ちる。
残された一诺はほんのりと赤くなった顔を隠すように片手で覆い、感情を落ち着ける為に深い息を吐いていた。