ナージャは怯える
朝、瞼越しに感じる光。
「ナージャ様、おはようございます」
「ん……」
そして聞こえるいつもの呼びかけに、ナージャは目を覚ました。起き上がれば一诺がカーテンを開けていて、窓から光が差し込んでいる。
「……おはようございます、一诺」
「はい」
まだ少し寝ぼけている目で一诺に挨拶すると、一诺は相変わらずハイライトが入っていない目を細めて微笑んだ。
「お湯を張っておきましたので、身嗜みが整った頃に食事を持ってまいります」
「ん、む……ありがとうございます」
一诺が部屋を出てから、ナージャは伸びをしてベッドから降りる。
ナージャの部屋にはシャワールームがある。その手前にある洗面所の洗面台に張ってあるお湯を手で掬って顔を洗い、ふぅと一息。数年前にシャワールームと共に備え付けて貰った室内のトイレでお手洗いを済ませ、自室に戻って制服の袖に腕を通す。ロマーシカ魔法学校はブレザーであり、ボタンが二列になっているタイプの上着だ。
女性用の制服の場合、上着の袖がパフスリーブとなっている。
……ロマーシカ魔法学校、貴族向けなのに結構緩いんですよね。
アクセサリーの着用が自由なのだ。
それはナージャのように万が一があった時用の追跡魔法が付与されたチョーカーなど、そういった身を守る為のアイテムを身につけている生徒が多いからなのだろう。そのお陰で学校にもチョーカーを身につけていく事が出来る為、とても助かる。
……チョーカー無し、尚且つ一诺が居ない空間だなんて恐ろし過ぎます。
チョーカーがあるから良いが、もし無かったらと思うとゾッとする。
ナージャが人よりか弱い上に世間知らずだからか、ロマーシカ魔法学校では常に誰かが近くに居る。相手はナージャが困っている時に助けようとしての善意で傍にいるのだが、人見知りをするナージャからすると酷いストレスでしかなかった。
確かに助けられる事は多いが、どうしてもストレスなのだ。
……苦手意識が先行してるのか、まだ誰の名前も覚える事が出来ていませんし……。
まあそれでも普通にやり取りが出来ているので良いのだが。
そう思いつつ、ナージャはスカートを見下ろす。ロマーシカ魔法学校はスカートの長さも変更して構わないとなっているが、ナージャはそのまま膝丈にしていた。前世ではとっくに高校を卒業していた為、ミニスカートにするような度胸は無かった。
そもそも高校ですらスカートの改造はしていなかったし。
……バイトとか色々あるからこそ、先生達からの心象はかなり重要ですからね。
改造をする利点がよくわからなかった、というのもある。ナージャは前世から、オシャレにはいまいち疎い方だ。オシャレよりも長く着れる服を重視していたので仕方が無いと言えるだろう。
とはいえ、今世では一応オシャレもしてみている。
例えば制服のジャケットは髪色と同じく、鮮やかな青色だ。これはロマーシカ魔法学校のジャケットのカラーが好きに選択出来る為、ナージャ基準では少々派手な青色を選んだ。そも髪色が派手だが、この世界はファンタジー故かカラフルな髪が多いのでそんなものなのだろう。
……まあ、他の生徒達も殆どが髪色と同じ色のジャケットでしたが。
なので全体的にとてもカラフル。そう思いつつ着替え終わったナージャは、ドレッサーの前に座った。そうして、武器を持つようにブラシを持つ。
……今日こそは……!
ブラシを持って髪に滑らせると、何故か引っかかった。一旦下ろして絡まっている部分をほぐそうとするも、何故かほぐれない。寧ろ絡まりがより強固になった気すらする。
「……うう、やっぱり私、髪を整えるという行為と相性が悪いんでしょうか……」
そう思っていると、ノックの音と一诺の声が聞こえた。どうぞと答えれば、食事を持った一诺が入ってくる。
一诺はドレッサーの前でしょんぼりしているナージャを見て、納得したように苦笑した。
「…………また駄目でしたか」
「駄目でした」
「まあ、ナージャ様の髪を整えるのは私の役目ですからね。大事な楽しみを奪われても困るので、私としては助かりますが」
「う……」
そう言われると、何も言えない。
……もう少し自分で出来る事を増やしたいのですが……。
しかし一诺がそう言ってくれるなら、このままでも良いのではないだろうか。そんな気持ちになってしまう。
「さて、朝食の時間ですよ。早饭要吃好、午饭要吃饱、晚饭要吃少。朝は大事な時間です」
「朝食は豪華に、昼食はお腹いっぱいに、夕食は少な目に、ですね」
「はい」
前に一诺が教えてくれた説明を口にすると、一诺は目を細めてニッコリと微笑んだ。そうして、ドレッサーの台に食事が並べられていく。
普通なら行儀が悪いとされるかもしれないが、これがナージャ達の通常だ。
ナージャはリップを塗る程度しか化粧はしない。ハンドクリームを塗ったりというスキンケア系は全て一诺が管理しており、引き出しの中へと収納されている。つまり台の上にはリップとブラシくらいしか無いので問題は無い。
……スキンケア、私も自分でやらなきゃとは思ってはいますが……。
ナージャはよくわからないところで不器用な為、ハンドクリームを出そうとして物凄い量を出してしまう事が多々あった。どれだけ気を付けてもハンドクリームの方からぶちゃっと出るのだ。チューブ型では無い方にしたいところだが、ナージャの肌に合うスキンケア用品は殆どがチューブ型の入れ物だったので諦めた。
なのでもう完全に、スキンケアに関しては一诺に任せていた。
ちなみにチューブ型だろうと中身を入れ替えてしまえば良いだけなのだが、ナージャにその発想は無い。一诺の方には勿論そのくらいの発想はあったが、言わなかった。ナージャに触れ、よりナージャを輝かせる為に磨くという行為。それは手放し難かったから。
「油条、豆腐花、豆浆。豆腐花はいつも通り、パクチー抜きにしてあります」
「ありがとうございます」
並べられたのは、揚げパンと湯豆腐と豆乳だった。
揚げパンは朝食の定番である。油がしっかりと切られている上に食べやすいサイズに切られているので、フォークを刺せばパクパクと食べられる。湯豆腐は絹豆腐のように柔く、つるりと入る。
……昔はこの朝食に、ちょっと驚きもしましたね。
朝から揚げパンというのは、中々に驚きだった。今ではもうすっかり慣れて、かつての小食は何だったのかと思うくらいしっかりと食べられるようになっているが。
……でも一诺の食事に慣れ切ってるからか、一诺以外が作った料理だと美味しくても微妙にしっくりこなくなっちゃったんですよね……。
食べている間、一诺はナージャの背後に回ってその髪をブラシで梳く。だからこそのドレッサー前での食事だ。ナージャはその辺り気にしないし、一诺も本人が良いなら別に良いんじゃないか、というタイプなのでこうなった。
お互いに効率を優先し過ぎな性格が一致し過ぎた結果だった。
「……一诺」
「はい、何でしょう」
ナージャの長い髪を慣れたように三つ編みにしながら、一诺は鏡越しに微笑んだ。
「三つ編み、その、手間じゃありませんか?私は一诺にそうやって結んでもらうのも、一诺にやってもらった三つ編みも好きですけど、髪が長いし、毎日やってもらってるから手間じゃないかなって」
「いいえ」
手の動きを止めないまま、一诺は穏やかな表情で言う。
「ナージャ様の髪に触れる事が出来るこの時間は、私にとってとても重要な時間です。こうしていると心が安らぎ、癒されるのですよ」
「そうなんですか?」
「はい」
一诺の微笑みに、なら良いかとナージャは頷いた。
「しかしナージャ様、もし私が手間だと答えたらどうする気だったのですか?」
「え?ええと、そうですね。一诺と長い髪がお揃いなので髪は切らずにいるでしょうが……上手に結べないから、髪を下ろしたままにしたと思います」
「却下です」
鏡の向こうで、一诺は圧のある笑みを浮かべていた。一诺にしては珍しいニパッとした笑みだが、まったくもって笑っていないという事がありありとわかる。
「ナージャ様が髪を下ろしているのは、殆ど自室に居る時だけでしょう?」
「ええと……うん、そうですね」
……確かに髪を下ろしたまま出たりしませんし。
自室にシャワーやトイレが備え付けられているので、寝起きやお風呂上りを他の人に見られる事も無い。食事は一诺が持って来てくれるし、食べている間に一诺によっていつも通りにセットされる。
つまり、家族ですらもナージャが髪を下ろした姿はここ数年見ていないのだ。
……そもそも、登校下校時くらいしか部屋の外に出ませんし、帰ってきたらすぐに自室にこもるからしばらく顔を合わせてすらいないような気がします。
顔を合わせずとも特に問題は無いし、顔を合わせない方が精神衛生上良いので寧ろこの方がナージャとしてはありがたいが。
「ナージャ様が髪を下ろした姿を見られるのは、私だけの特権ですから。そのくらいは独り占めさせていただきたいですね」
「…………」
既に食べ終わっていたナージャは、鏡を見ずとも赤くなったのがわかる頬を両手で押さえた。
「……照れます」
「それはなにより」
「?」
……どういう意味でしょう。
ナージャが照れた事を、一诺は嬉しそうになによりだと言った。それはナージャに恋心を抱いている一诺からすれば、自分の言葉で照れてくれたという事。だからこその「なにより」だった。
もっとも、ナージャにはそれを理解出来ないが。
ナージャから一诺への感情は、恋愛に限りなく近い親愛である。否、もしかすると恋愛感情なのかもしれない。けれどナージャにそれは理解出来ない。前世では恋を知るよりも早くに親代わりになり、我が子のような妹の為に生きていたから。自分を優先していないナージャは、当然ながら恋などした事が無かった。
だから例え一诺に抱いている感情が恋だとしても、ナージャにはそれを恋だと確信する材料が無いのだった。
・
ロマーシカ魔法学校までの通学で馬車を使用する事は禁じられている。何故なら道が物凄く混んでしまうからだ。その為ナージャは、専属の使用人であり付き人でもある一诺の付き添いの下通学する。
「それではナージャ様、放課後にまた迎えに参ります」
「はい、お願いします」
外出時なので漢服では無く使用人らしい服を身に纏っている一诺にそう返し、ナージャは登校した。校内に足を踏み入れれば、すぐにクラスメイトがやってくる。
「ナージャ様!おはようございます!」
「おはようございます、ナージャ様。鞄などお持ち致しますわ」
「……おはようございます」
ナージャに自覚は無いが、貴族のパーティにも参加しないミステリアスさやその穏和な性格は、生徒達からすると憧れの的だった。結果ナージャは、本人が望んでいないというのに人気者状態になっていた。人見知りをするナージャなので、本当に望んでいなかったのだが。
一诺以外にはどうしても苦手意識が先に出てしまう為、ナージャは少し眉を下げながら当たり障りのない笑みを浮かべる。
「……その、鞄は私の、ですから、自分で持ちます、よ。えと、お気遣い、ありがとうございます」
「いえ!そんな、お礼を言われる程の事なんてしてませんわ」
ナージャからお礼を言われた事に、貴族の少女は照れたように微笑む。
「具合が悪くなったらいつでも言ってくださいね!」
庶民の出でありながら普通に接してくれたナージャに懐いている少年は、元気にハキハキそう言った。
「……ありがとうございます」
……で、誰でしたっけ。
クラスメイトであり、取り巻きかと思う程、どころか取り巻きとしてほぼ常にナージャの傍に居るのがこの二人。
それはわかるが、ナージャは彼と彼女の名前を覚える事が出来ていなかった。自己紹介の時はただただ初対面の相手に怯えていたし、そもそも仲良くなれるとも思っていなかったので名前を覚える気が無かったのだ。
二人はお互いを名前で呼び合っているので一応その時に名前は把握出来るが、すぐに記憶から滑り落ちる。
……駄目ですね、私。
どうしても名前を覚えられない事に溜め息を吐きそうになり、耐える。
一诺の前であれば「何かありましたか?」くらいで済むが、ナージャの信者とも言える彼と彼女の前での溜め息はご法度だ。両親が過剰反応するように、ナージャの溜め息一つで酷く慌ててしまうから。
好意であれ善意であれ、それはナージャにとって、酷く息苦しいものだった。
「……あれ?」
「どうかされましたの?ナージャ様」
「ああいえ、あの子……新入生の子ですよね」
廊下の向こう、きょろきょろうろうろしている少女が居た。
ピンク色の髪をリボンでツインテールに纏めていて、髪色と同じピンク色の上着を着ている少女。スカートは年頃の女の子らしく、ミニスカートになっていた。
「あら、あの子は」
「特待生の子ですね」
「特待生……」
ナージャが成る程と頷くと、金髪の彼女は赤髪の彼をギッと睨みつけた。
「ちょっとラーザリ、そこはわたくしが説明するところだったでしょう?横入りだなんて、紳士らしくありませんわ」
「アデリナはさっきお礼を言われてたじゃないですか!それに横入りなんて失礼な!アデリナがちょっと遅くて、俺がちょっと早かっただけの違いですよ!」
赤色の上着を着ている男の方がラーザリで、黄色の上着を着ている女の方がアデリナ。
ナージャは一瞬それを認識するも、霧のようにさらりとその情報を忘れていく。たった今聞いたばかりだというのに、どうしても他人の名前を覚える事が出来なかった。
「大体紳士って言われても、俺は庶民の出ですから関係ありません!アデリナに紳士的対応をしようとも思ってませんし!ナージャ様ならともかく!」
「庶民の出だと自分で言うくらいなら貴族であるわたくしやナージャ様にもう少しちゃんとした態度を取りなさいな!」
喧嘩する程仲が良い二人のやり取りはいつもの事なので、ナージャは気にしない。
自分を挟んで行われる言い合いには辟易して神経が磨り減る気がするが、文句を言うという選択肢が無いのでどうにも出来ない。仮に文句など言おうものなら過剰な程反省しそうな二人なので、言えないというのもあるのだが。
しかしそんな日常よりも、ナージャには気になる事があった。
……あの子、どこかで見た事があるような気が……。
廊下にある校内マップを見ながらあっちへ行こうとしては戻り、そっちに行こうとしては戻りを繰り返している少女。見た事があろうと他人の事は大体忘れ去るナージャであり、本人にその自覚もある。
けれど何か、あの少女は何か引っかかるものがあった。
……あ、紡がやってたゲームのパッケージ。
ナージャは前世で、妹が気に入っていたゲームを思い出す。
確か主人公の女の子を操作して、顔が整っている男の子と恋をするゲームだった。ナージャは特に興味が無かったし、妹は携帯ゲーム機でプレイしていた。テレビに繋げていたならともかく携帯ゲーム機でのプレイだったので、どういった内容かはまったく知らない。
ただ、テーブルに置かれていたパッケージの表紙は覚えていた。
……あの子、主人公っぽい子、ですよね、多分。
ピンク色で大きいリボンでツインテールと、中々に派手なビジュアルだったので覚えている。青い髪のナージャが言えた事では無いので、この世界ではこれが標準なのだろうが。
そう、この世界。
……成る程、この世界はゲームで、だから魔法がある世界なんですね。
ナージャは納得した。よくわからないが、とにかくあの子がこの世界の主人公なのだろうと理解した。そしてこの学校とかに居るのだろう攻略対象とやらと恋愛をするのだろうという事も。
……一诺は大丈夫でしょうか。
もし一诺が攻略対象だったらと思うと、少しもやっとする。けれどパッケージに一诺らしき姿は無かったので、多分大丈夫だろう。
……少なくとも私は無関係のはずですから、下手に主人公であるあの子と関わるのはよくありませんよね。
ナージャはゲームをプレイしていなかったので、自分がこの世界のキーキャラクターである事をまったくもって察していなかった。
……ええと、この世界があの子を主人公として恋愛ゲームであるなら、あの子の恋路の邪魔をしてはいけない……という感じでしょうか、多分。
とりあえず接触しないようにして、距離を保とう。
下手に関わって迷惑を掛けるわけにもいかないし、物語の主人公とは総じて大変な目に遭うもの。主人公の周囲の人間も巻き込まれがちなので、ナージャとしてはそれも避けたい。
正直言って面倒事はごめんだし必要以上に目立ちたくはない、というのがナージャの本音だった。
……あれ、そういえばあのパッケージ、赤いマフラーの人も居たような……。
やたら接触してこようとする大声の赤マフラーもまた、パッケージに描かれていた事を思い出した。一年中巻いてるのか、暑い時はどうしているのか、と不思議に思った事を覚えているので間違いないだろう。
ナージャの中で、ヴァレーラとは絶対に接触しないでおこうという決意が発生した。
……恋路の邪魔は駄目ですもんね!
特にライバルになる気も無いので、好きに好きな相手と恋愛をすれば良い。ナージャはそう思い、再び主人公へと視線を戻す。
……でもあの子、迷子っぽいんですよね……。
「そもそも俺が敬意を払ってるのはナージャ様に対してだけなんですってば!庶民の出である俺相手にも優しく接してくれたナージャ様だからこそ役に立ちたいって思うんですよ!」
「それには同意しますけれど、もう少し態度を改めなさいな!わたくしへの態度を!貴族であるわたくしにそんな態度だなんて、わたくしに良識が無ければあなたは大変な事に」
「……あ、の」
「「はい!」」
言い争いはどうしたと言わんばかりの勢いで、ナージャの小さい声に反応して二人は仲良く声を合わせた。喧嘩する程仲が良いという事なのだろう。実際ナージャの傍に居るのは基本的にこの二人なので、必然的に顔を合わせて会話する頻度が高いのである。最優先がナージャというのも、馬が合わないようで馬が合っている二人の特徴だった。
もっとも取り巻きの心ナージャ知らずな為、ナージャは思った以上の勢いでの返事に驚いて肩を跳ねさせていたが。
「あの、特待生の子、なんですけれど」
「あの子がどうかしましたか?」
「もしやナージャ様に不快な思いを抱かせたりをしたのでは……」
「ち、違います。初対面です。でも、あの、あの子、さっきからずっとマップを見てて……」
「そういえば、そうですわね」
とんでもない勘違いで主人公に敵意を向けようとしていたアデリナだったが、ナージャの言葉にすとんと納得した。そもアデリナもラーザリもナージャの信者のようなものなので、ナージャの言葉であれば大体納得するのだ。
それがまた、ナージャが言葉に気を使う事になって気を滅入らせる理由なのだが。
「……もしかしたら迷子、かも、その、しれない、ので、案内、えと、してあげて、もらえませんか?」
「ですが、それだとナージャ様が一人でクラスまで行く事になってしまいます」
「そうですわ!いつあの喧しい騒音赤マフラーがやってくるかわかりませんのに!」
……それは確かに怖いんですよね……。
アデリナの言葉に少々揺らぎながらも、ナージャは酷く言葉を詰まらせながらどうにか告げる。
「でも、私はクラスまでの道、覚えてます。あの子、多分、その、覚えて無くて、困ってます。私は大丈夫です、から、んと、あの、あの子を助け、て、あげて、くれます、か?」
「「はい!」」
ナージャは一緒に行かないのかなどと言わず、信者二人はタイミングを合わせたかのようにピッタリ同じタイミングでそう頷いた。もっとも特に意図してタイミングを合わせたりなどはしていない為、睨み合う。
「頼まれたのはわたくしですのよ。あなたばかり良い格好をするおつもりですの?」
「特待生は俺と同じ庶民の出ですから。いきなり貴族のアデリナが上から目線で声を掛けたら驚いて逃げちゃうかもしれませんよ?」
「良い度胸ですわねあなたはいつもいつも……!」
「それはこっちのセリフですよアデリナ……!」
お互いの肩を押し付け合いながら、二人は主人公の方へと向かった。
そうしてやっと一人になれた事にホッとして、ナージャはクラスへと歩いていく。自分から主人公に関わるなどもっての外なので、早々に立ち去るのが賢明だろう。
まあ残念ながらクラスに行くまでに他の生徒がまたナージャの傍にやって来た為、安堵の時間はあっという間に終了したが。
・
ナージャは一诺が持たせてくれるお弁当で昼食を済ませている。
この学園には食堂があるが、人が多い食堂で食べるというのはどうにも落ち着かないのだ。その為ナージャは、人が少なくなる教室内で食べる事にしていた。
とはいえ、誰も人が居ないわけでは無いのだが。
アデリナとラーザリが一緒に食べようとするのはどうにか必死で却下して静かな時間を勝ち取ったが、それでも教室内で食べる人は他にも居る。もういっそ空き教室を探してそこで食べようかと思うものの、廊下に出ると他のクラスの生徒がやたら絡んでくるから無理だろう。
尚他のクラスの生徒は絡んでいるのではなく懐いているのだが、ナージャからすると絡まれているも同然の感覚だった。
「あの、ナージャ様」
「はい?」
「呼ばれてますわ」
食堂に行こうとしていたラーザリに声を掛けられて視線を向けると、アデリナがそう言った。どういう事かと扉を見ると、そこには主人公が居た。それと付き添いのように、紺色の髪と上着を着た男も。
……あれ、男の人の方も何か見覚えがあるような気が……。
既に攻略対象と仲良くなったのだろうかと思いつつ、このままでは落ち着いて食べる事が出来ないからと立ち上がる。
「……あの、食堂、行ってきて、大丈夫、ですよ」
「ですが……」
「食堂、混む、んですよ、ね?なら、行ってきてください」
「……ありがとうございますナージャ様!行ってきます!」
「待ちなさいなラーザリ!片方が席を取って片方が注文役ですのよ!?一人で行くんじゃありませんわ!あ、あの、ナージャ様、わたくしからもありがとうございます!」
別の扉から慌ただしく去った二人を見送ってから、ナージャは主人公達の方へと向かう。
「ええと……呼ばれている、と聞きましたけれど……」
「うん、俺が呼んだから」
落ち着いた静かな声と口調で、男の方がそう頷く。
「同じ家に住んでるけど、こうして顔を合わせるのは久々かな。元気だった?姉さん」
「……はい、えと、元気です、よ」
……そういえば弟ってこんな顔だった気がします……!
家が合わなさ過ぎる為、ナージャは家では殆ど自室に引きこもっている。食事も部屋だしトイレもシャワーも部屋で片付く。その上誰かとの接触を苦手とし、学校が終わった後は倒れるように眠っているのだ。必然的に家族とすらも顔を合わせる機会が少なくなっていた。
とはいえ弟の顔すらも忘れていたのは、ナージャの家族に対する感情が薄すぎるせいだが。
前世で妹を我が子のように大事に大事に育てて来たナージャは、今世ではその辺りがすっきりさっぱり無くなっていた。とっくに売り切れとでも言うように、家族に対する感情は苦手意識の方が強かった。妹ならばともかく、弟であったが故に対応の仕方がわからなかったというのも大きいのだろう。
だが流石に弟の顔を忘れてましたと言うわけにはいかないので、ナージャは当たり障りのない返答を返した。
「…………あの、何か、用事、ですか?」
「一応ね。とはいえ俺じゃなくて、この子の用事だけど」
「きゃ」
ナージャは名前をすっかり忘れているが、カーナという名である弟は彼に隠れるようにしていた主人公を抱き寄せるようにして、前に押し出す。
「この子は特待生で、クラスメイトのリーリカ。知ってる?」
「……特待生、という事なら……知ってます、よ」
「へぇ。俺の入学に対しては祝いの言葉も無かったのに?」
「…………要ります?」
ナージャはカーナと姉弟の関係にあるが、関わりは殆ど皆無と言っても差し支えない。そんな相手から接触されても面倒だろうし、お祝いのメッセージカードを贈られても困るだけだろうと判断したのだ。何故ならナージャはそうだから。
入学祝いとして知らない貴族達からの贈り物が積まれた時など、喜びどころか恐怖しか抱けなかったナージャなのだ。
恐怖のあまり気絶したからこそ、しなかった。自分がされたらイヤな事は誰かにしない方が良い。そう思っていたが、カーナは祝ってもらいたかったのだろうか。関わりの無い姉相手でも。
ナージャの顔からそう思っているのを読み取ったのか、カーナは深くも無い溜め息を吐く。
「……ま、そういう事だろうと思ってたけどさ」
騒がしい両親とは違い、既に落ち着きのある声でカーナは言う。
「良いよ、別に気にしてない。姉さんそういう、お祝いとか苦手なタイプだしね。そもそも本題俺じゃないし」
「そちらの……特待生、ですよね」
「うん」
尚も緊張しているリーリカの背を、カーナがポンと叩く。
「リーリカ、姉さんに言いたい事があるから俺に一緒に行って欲しいって言ったの誰だったっけ」
「う、その……」
不安げな表情から覚悟を決めたような表情になったリーリカはナージャに向き直り、勢いよく頭を下げながら叫ぶ。
「ありがとうございました!」
「み…………」
突然の近距離からの大声、それも初対面の相手。
一方的にリーリカを主人公だと理解しているナージャではあるが、初対面である事に間違いは無い以上、人見知りが発動する。例え初対面で無かったとしても、ナージャはそもそも大声を苦手としているので怯えるのは当然だった。
怯えのあまり、よくわからない悲鳴がナージャの喉の奥からちょっぴり漏れた。
「あの、さっきの人達!アタシ道に迷っちゃって、凄く困ってて、そしたら助けてくれて!だから、その、お姉様にもお礼をしたいって思ったんです!」
「え、えと、え……?」
……ちょ、ちょっとよくわかりません……。
案内をしてあげて欲しいとナージャが言ったのは事実だ。あの二人がそれを伝えた可能性も大いにある。けれどお姉様とはどういう事なのか。
「……あの、私、確かに姉ではありますが、その、あなたの姉というわけでは……」
「ちが、違うんです!そういう事じゃなくて、ナージャ様が本当に麗しくて素敵で憧れで、それでお姉様って勝手に呼ばせてもらってたというか!」
「う、ううん……」
勢いが強いし大きい声だしでとても怖い。ナージャは困ったように微笑むしか無かった。事実困っているのでどうしようもない。
……別に、お姉様と呼ばれて何か問題があるという事はありませんが……。
何となくイヤだった。
別にお姉様呼びが嫌というわけでは無いのだが、初対面なのに距離の縮め方がえげつない。一応敬語を使っているだけまだ良いが、これで敬語も無かったらナージャは恐怖のあまり涙目になっていただろう。急激に距離を縮めて来るタイプはそのくらい恐ろしいのだ。
……こ、断りたいですけど、波風立てないように断るのはどうしたら……。
お姉さま呼びを認めてしまうと、まるで仲が良いみたいに思われる。別に仲良くは無いし、仲良くする気もナージャには無い。無駄に距離を縮める気だって皆無なのだ。
かといって断り方を知らないナージャはどう言えば良いのかわからず、言葉を詰まらせた。
「あ、と、その……」
「あ!気にしないでください!アタシが勝手にお姉様って呼びたいっていうか、ほら、大親友であるカーナのお姉様ですし!」
「俺、リーリカの大親友なの?」
「酷くない!?隣の席だしカーナとアタシは大親友でしょ?」
「まだ隣の席になってから一週間も経過してないと思うけど……まあ良いか、別に」
……うわあ……。
あっさりと大親友になった二人を前にして、ナージャはちょっと引いた。
凄いなあという感心とかを通り越して引いた。人見知りからすれば、会って数日で大親友にさらっとなれる人間など未知の宇宙人もいいとこだ。
「その、アタシとしてはとにかくお礼を言いたかったっていうか……あ!そうだお姉様!良かったら一緒に食堂行きませんか!?」
「ご、ごめ、ん、なさい。わた、私、その、一诺……し、しよ、使用人に作ってもらった、お弁当、があるから……」
「……使用人」
リーリカは一瞬、その目に剣呑な色を灯した。
「でもお弁当でも食堂で一緒に食べる事は出来ますよね!」
しかしそれはすぐに消え、ニッコリとした悪意無き笑顔でリーリカはそう言う。ナージャからすれば死刑宣告のようなその言葉を。
「……あの、あの、ごめ、ごめんなさい。私、人、人が多いところ、駄目、なんです。苦手で」
「あ、じゃあこの教室にお邪魔して一緒に食べても良いですか?」
……帰ってください……!
内心で泣きべそを掻きながら、ナージャはそう思った。
苦手なタイプを煮詰めたような主人公と一緒の食事など、一体何の拷問なのか。しかも顔も名前も碌に覚えていなかった弟まで一緒と考えると、酷く息が詰まる。魔法で冷めないようになっていて常に出来立ての美味しさがあるお弁当なのに、味がわからなくては意味が無い。
それも、一诺が折角作ってくれた料理なのに。
「リーリカ、新入生が三年生の教室で食べてたら変じゃない?」
ナージャが泣きそうになっていると、カーナが呆れたような表情でそう言った。
「それに家族は一緒に食べるっていう家の方針が合わなくて、姉さんは普段から一人で食事してるし。お礼を言いに来て困らせちゃ駄ー目」
「う…………ごめんなさい」
「…………いえ」
大丈夫ですよとは流石に言えなくて、ナージャは困り顔で微笑んで誤魔化した。
「で、でもあの!もし大丈夫そうだったら是非一緒に」
「リーリカ行くよ。そろそろ行かないと本当に食堂の食べ物が売り切ればっかりになって、食べたいのが食べられなくなっちゃうから」
「やだここってそんなに早いの!?お姉様!また!また絶対会いに来ますから!」
「うん、良いから行こうか」
カーナに引きずられるようにして、リーリカは去って行った。
……お、弟のお陰で助かりました……!
安堵のあまり腰が抜けそうになるのをどうにか耐えて、席に戻る。椅子に腰掛けた瞬間、どっと疲れが出た。これは今日、帰ったらいつも以上に寝てしまいそうだとナージャは思う。
思いつつ、感情のリセットの為にもお弁当箱の蓋を開けた。
……あ、湯気。
状態を維持させる魔法が付与されているお陰で、中身はいつでも出来立て状態だ。お肉や野菜がバランス良く入っているその中身に、ナージャはホッと安堵して表情を緩ませた。
……いつもの、一诺が作る料理の香りです。
慣れない人との会話に疲れきったナージャの心に、その温かさが染み渡った。
姉とか妹とかはまあ、そういう事です。