一诺は幸福と不安を抱く
一诺は昔より大きくなった体格に合わせて新しくした漢服に身を包み、昔よりも大きく骨ばった手で、昔よりも大きくなったナージャの背後に立つ。そうしてすっかり乾いた長い青髪を、ブラシでゆっくりと梳いていく。
「あの、すみません」
「何がですか?」
鏡に映るのは、五歳児だった昔とはすっかり別人のナージャだ。鏡の向こう側には、かつて栄養不足だったとは思えない程女性らしく育ったナージャが居た。
けれど眉の下がり方、申し訳なさそうな表情、おっとりした垂れ目は昔のままだ。
「……その、毎日髪を梳かせてしまって」
「ナージャ様は不器用ですからね」
「ほ、他は出来ますよ!?本当ですよ……!?」
「わかってますよ」
「もう……」
一诺がクスクス笑えば、からかわれたとわかったナージャは仕方が無いとでも言うように苦笑した。
現在ナージャは十七歳。直に十八になる今や、中身だけでは無く見た目もすっかり大人らしくなっていた。とはいえ髪を乾かしたりブラシをかけたり髪を結んだりという部分に関しては、相変わらず不器用だったが。
……しかし、こうして掛け合いが出来るまで成長出来たのは喜ばしい事だ。
ナージャは今でも、一诺以外と会話する時は酷くどもる。けれど一诺が相手の時は気を抜く事が出来るのか、大分普通に話せるようになった。他は出来ると言い返せるようになったのはかなりの進歩と言えるだろう。
昔だったならきっと、そのまましょんぼりと口を噤んでいただろうから。
……既にあれから、十二、三年の付き合いになるのか。
「そういえば一诺、明日は新入生の入学式なんですよ」
「存じてます」
「えへ、新入生お迎えの飾りつけ、私もちょっぴり手伝ったんです。他の子達に大人しくしててって言われちゃったので、その、あんまり手伝えませんでしたけど」
ナージャはロマーシカ魔法学校で、当然のように人気者だった。
整った美しい見た目だがか弱く病弱。パーティ好きで知られている夫婦の娘でありながらパーティにトラウマがあるという事で十年以上顔を出していないミステリアスさ。そして実際はとても穏やかで優しい性格の為、生徒達に好まれるのだろう。
とはいえ相変わらず人見知りなのか、ナージャを手助けしようと常に二人以上が近くに居るという状態は酷くストレスのようだが。
……帰る度にベッドに直行しているくらいには疲れているようだし。
常に気を張っているのか、ナージャは部屋に戻ると即座に仮眠を取る。仮眠というか、最早倒れ込むようにして眠るのだ。恐らくは常に誰かが近くに居るという事実がプレッシャーになり、その結果擦り切れた精神を休めようとしての事だろう。
ナージャは幾つになっても、他者からの善意によってすり減っていた。
「ナージャ様は病弱でか弱い方、というイメージで定着していますからね」
「む、昔はそうでしたけど、今はそうでも無い……はずです。多分」
確かに昔に比べれば健康的になったものの、一般人に比べるとどうしてもか弱さがある。ナージャもその自覚があるのか、鏡の向こうで一诺から目を逸らした。
「……でも入学式の準備の時、少し困っちゃいました」
「おや、何かトラブルでもありましたか」
「赤いマフラーの人、また来たんです」
「ああ……」
……まだあの男は名前を覚えられすらしていないのか。
一诺は思わず嘲るような笑みを浮かべそうになったので、軽く咳払いをして誤魔化した。別にざまあみろとはちょっとくらいしか思っていない。九割九分九厘くらいしか思っていない。十割思っていないのならちょっとという扱いでも良いはずだ。
しかし笑える。
忘れてしまえば良いとかつて言ったのは一诺だ。その結果、ナージャは元々覚えていなかったヴァレーラの事を完全に忘れた。トレードマークの赤いマフラーすらも忘れるとは相当に興味が無かったらしい。
……パーティに行かない理由としてはパーティで泣かされてトラウマになったから、という事にしてあるが……。
その原因であるヴァレーラをすっかり忘れているとは。接触禁止を言い渡されていようと学校内ならば不可抗力だろうという事でヴァレーラはナージャに接触を図り謝罪しようとしているのだが、ナージャはヴァレーラの事をまったくもって覚えていない。
他の生徒達は、ナージャのトラウマの原因であると知っているのに。
……知っているというかそう思わされているだけなのだが、こちらとしては都合が良いからそのままで良いだろう。
そう、都合が良い。
善意に満ちた生徒達は、記憶から抹消する程のトラウマを受け付けた男とヴァレーラを認識した。善意に満ちているが故に、彼ら彼女らはヴァレーラからナージャを守ろうとしてくれている。下手にそこで和解されるとナージャが再びパーティに出る事が出来るようになるのでは、と思われてしまいかねない。
それでは困るのだ。
……もう、熱を出して苦しむ姿は見たくない。
あれから十三年近く経ったとはいえ、ナージャはまだ他人を苦手としている。両親は一応ナージャをパーティに誘っているが、ナージャは全てを断っている。そうして断った後、両親が去ってからとても深い安堵の溜め息を吐いているのだ。
なのにヴァレーラと和解などしてしまえば、パーティに強制参加させられる理由が出来てしまう。
万が一生徒達がヴァレーラの味方をして、これこれこういう理由があって悪気は無かったんだと善意の善人面でナージャに許すよう頼んだら、きっとナージャは許してしまう。それでは駄目だ。無関係の第三者が関わりに来るなと言いたいが、押しつけがましい善人はそれをする。
だから、今のままを維持した方がずっと良い。
……ナージャ様のトラウマが大きいと思われているままであれば、ナージャ様とあのガキを合わせないようにという善意の行動に移るだろう。
どうせ同じ善意であるなら、ナージャの心に負担が無い方が良いのは自明の理だ。
「あの赤いマフラーの人、声がちょっと大きくて怖いから困ります。それに準備中で忙しいのにこっちへ来ようとしますし」
むぅ、とナージャは唇を尖らせる。どうやら相当に不満を抱いているらしい。もっともそれは苦手なタイプであり、尚且つ与えられた仕事をサボッてナージャのところへ来ようとしたからなのだろうが。
……留年してまでナージャ様に接触をしようとした事には殺意を覚えたが、この調子なら問題も無さそうだ。
ヴァレーラ・マショーはナージャに接触禁止令を出されている。それは殆どの生徒が知っている。当然ながら教師も知っている為、クラスは一番遠い位置。必然的に合同授業も被らないので比較的安心だが、あの男の行動力は厄介だ。
直球熱血タイプは前しか見ないから面倒臭い。
「ですが来年には卒業して、二度と会う事はありませんよ」
「ん……それもそうですね。私、パーティとかに参加する気ありませんし」
それ以前に接触禁止令が出されているからこそ顔を合わせる事は無いのだが。学校という空間内でなら不可抗力扱いで仕方が無いが、学校という空間を出ればそれまで。ヴァレーラにはそのまま加害者という、良い人柱になっていて貰いたい。
「あ」
思い出したように声を上げ、ナージャは胸の前でポンと両手を合わせる。
「そういえば今年の新入生、特待生が居るそうです。何でも予知が出来るとか」
「はい、存じています。もっとも予知以外はからっきしのようですが」
「あれ、そうなんですか?」
「そのようですよ。しかしどんな魔法でも予知は出来ない。だからどういった感覚なのかを調査する為、という名目でもあるのでしょうね」
「成る程」
髪を梳かされながら、ナージャはふむふむと頷いた。
「ああ、新入生といえば今年はカーナ様が入学ですね」
「カーナ?」
ナージャはきょとんとした顔で首を傾げた。鏡に映るその目にわざとらしい気配はまったく無く、素でわかっていないようだった。
……相変わらず、他人への興味が無いというか……。
他人への興味が無さ過ぎるが故に、一诺はナージャにとって唯一と言っても良いレベルで認識されている。
ナージャが名前を呼ぶのは一诺だけという事実。それはとっても、胸の中が満たされる心地だった。
まあそれは優越感という感情なのだろうが。
「弟君ですよ」
「ああ、そういえば……弟の名前、そんな名前、でしたっけ。どうも覚えられないんですよね……」
「ちなみにご両親の名前は」
「さあ……当主様とかご主人様とか、お母様に関しては奥方様って呼ばれてばかり、なので。名前を呼ばれる姿を見ていないから、まだ一度も名前を聞いた事が無いんです」
「……そうですか」
「んと、やっぱり、これって問題でしょうか?」
ナージャは首を傾げるが、その顔はよくわからないと語っていた。認識しなくとも問題は無いのに、わざわざ認識する必要があるのか、と。
「……いえ、現状問題が無いのでしたら問題は無いかと。少なくともお嬢様は十七年間……あとひと月もすれば十八年間、ご両親の名を知らずに生きて来たのですから。今更対して問題も無いでしょう」
「ですよね……!」
安堵したように、ナージャは微笑む。一诺は一瞬本当にこれで良いのかと思ったが、ナージャの笑みが晴れ晴れとしていたので良いという事にした。
ちなみにナージャが両親の名を知らないままなのは、前世の影響である。
幼い時に親を亡くしたナージャは、親を恋しがるよりもまず妹を愛した。愛して大事にして、妹を実の子を相手にするように育てた。その為か妹も両親には殆ど執着していなかった。
要するに、両親への期待値がそもそも低いのだ。
だからナージャとして生を受けて両親の善意に押し殺されても、諦める事が出来た。絵本や他の人の話で、色々なタイプが居ると知っていたから。色んなタイプの中で、この両親は当たりに近いハズレだと判断した。そもそも両親が名乗らない以上、ナージャが両親の名を知らないのは当然の事である。
もっとも、ナージャに前世があると知らない一诺はその事を理解出来ていないのだが。
「あの、ところで、その、一诺」
「はい?」
ナージャの髪を梳き終えた一诺は、ブラシを置きながら首を傾げた。
「えと……」
ナージャはもじもじしながら顔を俯かせる。その動きで、出会った時並みに長くなったナージャの髪がさらりと揺れた。どうもナージャは一诺に結んで貰った三つ編みが見えるのが好きらしく、髪を伸ばせばその分見やすいから、と再び伸ばし始めたのだ。
かつて嫌々ながらも伸ばしていた時とは違い、ナージャの意思で伸ばされた髪。
「今日、寝る前、ココアを飲みたいなー……って」
……そしてこうして自分の気持ちを口に出せるようになったのは、素晴らしい事だ。
上目遣いで、控えめではあれど自分の気持ちを言えるようになった。十三年程前のナージャはそれすらも言えない、言っても聞き入れてもらえないからと言う事すらも諦めた子供だった。それを思うと、こうしてワガママを言えるようになったのは良い事だろう。
それも、こんなに可愛らしいワガママを。
……断る理由が無いな。
一诺は薄く目を細めた。
「では温かいココアを用意しましょう」
「あと、あと、明日もまた、髪を結ってもらいたい、です」
「勿論」
微笑みながら、一诺はナージャの髪に触れる。青空を髪の中に閉じ込めたような、綺麗な青色。
「ナージャ様の髪を編むのは、私だけの特権です」
「……えへ」
さらりと滑り落ちるナージャの髪に触れながらそう言うと、ナージャは嬉しそうに微笑んだ。それはもう、年相応な少女らしい微笑みで。
「仕事じゃなくて、特権って言ってくれるの、嬉しいです」
「事実ですから」
大事な存在の髪に触れる事が出来るのは自分だけ。男である以上、その事実に満たされてしまうのは仕方あるまい。
「それでは少々お待ちください。今からココアを」
「あ、あの」
ぎゅ、とナージャの指が一诺の服の裾を摘まんでいた。女性らしい白さと細さがある指だ。けれど少し一诺が身じろげばあっという間に離れるだろうくらいにしか込められていない力。
……こうして行動に移せるようになっただけ、かなりの進歩だな。
「どうかされましたか?」
そう思いつつ一诺がナージャに問いかけると、ナージャは控えめに腕を広げた。
「……その、ココアの前に、ぎゅってして欲しいです……!」
「…………」
……俺はやはり、物凄くやってはいけない事をしてしまったのかもしれない。
それは昔、ナージャを抱き上げた時の事。
抱き上げられたナージャは一诺の腕の中に安心を感じたらしい。結果、自分の気持ちを主張するようになってから、時々ハグを所望するようになったのだ。もうすぐ十八になるうら若き乙女が、もうじき二十九になる三十路に片足を突っ込みかけている男相手に。
しかし、断るという選択肢などありはしない。
「はい」
一诺はパチクリさせていた目を優しく細め、椅子に座っていたナージャを抱き上げる。お姫様抱っこをしたままベッドに移動し、腰掛けた。その膝の上にナージャを優しく座らせて、痛くない程度に抱き締める。
……本来これは、使用人がして良い行為を逸脱している。
それでも、拒否出来ない。
ナージャの頼みだからではない。ナージャの主張を断れば昔に戻るかもしれないから、でもない。
ただただ一诺に、そういう感情があるからだ。
大事な宝は気付けば愛おしい相手になっていた。どうせ叶わぬ想いなのはわかっているけれど、ナージャが求める限りはこうして触れ合う許可が出ているのと同じだから。一诺はそう自分に言い訳をして、ナージャの細く柔い体を抱き締める。
「えへへ……」
一诺の肩に頭を預け、ナージャは嬉しそうに頬を緩ませた。
その顔は心の底から幸せだと言っているようで、一诺の心も幸せに満ちて行く。まるでナージャも同じ気持ちを抱いてくれているのでは、と思えるから。
……ナージャ様が俺に抱いている気持ちは、唯一気を許せる相手だからこその安堵なのだろうが。
それでも良い。
どうせ言うつもりは無いのだ。こうして許される限り、ナージャに触れる。抱き締め、体温や香りを感じて、今は自分だけのナージャなのだと満たされる。
恋人でも無いのに自分の物扱いなど、不敬を通り越して滑稽だと指を差されて笑われそうな考えだ。
「……一诺」
「はい」
「一诺は、私が髪を伸ばしてる理由、知ってます?」
「いえ」
一诺は素直にそう答えた。ナージャには出来るだけ、本当の自分で答えたいから。憧れの侠客に恥じぬよう、そしてこの服と手镯を裏切らぬような生き方でありたい。
この服の袖に腕を通す度、一诺はその気持ちを新たにしていた。
「三つ編みが気に入っているからかと思っていましたが」
「ふふふ、それもありますけど、他にも理由があるんですよ」
ナージャは子供のように微笑み、内緒話をするように小さな声で一诺に言う。
「一诺の真似で、伸ばしてるんです」
「模仿」
思ってもみない言葉に、一诺は思わず目をパチリと見開いた。
「私の模仿……ではなく、真似とは?」
「一诺も髪、伸ばしてますよね?」
「はい」
伸ばしているのは襟足だけだが、気付けば腰より下まで伸びていた。とはいえ若い少女であるナージャの方が伸びるスピードが速いのか、そもそもナージャの方が長かったからか、ナージャの髪の方が長いのだが。
「その、髪を伸ばすだけの事を言うとは思いませんけど、でも、一緒に伸ばせばお揃いだなって、思ったんです」
照れたようにはにかむナージャの言葉に、一诺の胸がぎゅうと締め付けられる。
……俺が伸ばしている理由など、ただの願掛けなのに。
ナージャを守り切るという願掛け。
否、元は違う。分家では東洋らしい黒髪を嫌がられていたが、ナージャは一诺の黒髪を夜空のようで綺麗だと言ってくれた。小さな輝きをとても美しく魅せる事が出来る色だと。それが嬉しくて伸ばし始めて、どうせだからと願掛けをしただけなのだ。
「あはは……勝手にお揃いって、嫌ですよね。すみません」
「いいえ」
一诺はナージャを抱き締める腕の力をほんの少しだけ強める。ナージャが痛みを感じない程度に、けれど力が強くなったとわかるくらいに。
「ナージャ様とお揃いなのは、とても嬉しいですよ。本当に」
「……えへ、良かったです」
「いっそ私も三つ編みにしましょうか」
「え、あ、それは駄目です!私、一诺が振り返った時に髪の毛がさらさらってなるの、好きですから!」
……ああ、もう、これだからナージャ様は!
「……ではこのままにしておきましょうか」
「はい!」
嬉しそうに微笑む顔に胸が弾む。一诺の髪が好きだという言葉に、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。ナージャの体温に、胸の中までぽかぽかしてくる。
一诺は確かに、幸せだった。
・
ココアを飲んで少し話せば、ナージャはすやすやと眠りに落ちた。そんなナージャに布団をしっかりと被せてから、乱れている前髪を軽く直す。
「……本当に、あなたは俺を信じてくれている」
……それが酷く心地良くて、いけない。
毎日の食事や点心は一诺の手によるものだ。先程のココアだってそう。ナージャは一诺が薬を盛る事を警戒していない。既に十三年近く経過しているのだからそれも当然の事ではあるのだろうが、それでも。
……嬉しくて、けれど時々、魔が差しそうだ。
もし薬を盛っても、ナージャは同じような対応をしてくれるのだろうか、と。
勿論盛るにしても睡眠薬程度。寝る前のココアに盛る程度だろう。今回のココアには入れていないが、もし入れて、それで眠って。それでもナージャが一诺に疑いを欠片でも抱かなければ、きっと一诺は道を踏み外す。
薬で眠らせるなり病気にするなりして、ナージャを自分の好きにしようとするだろう。
……それは、俺の憧れる姿じゃない。
だから魔が差したとしても、その魔を拒絶する。
本当に愛しているからこそ、そんな手段に手を出したくはない。それでナージャの心を失う事の方が他の何よりもずっとずっと恐ろしい。大事なのはそこにある、目には見えない心なのだから。
体だけを手に入れて、そこに何が残るというのか。
……俺が求めているのはナージャ様であって、ナージャ様の姿をした人形じゃないんだ。
求めたって手に入らないのはわかっている。手が届く位置にいても、実際は手が届くはずのない相手。声が届く事だって奇跡に近い程距離がある相手。
……それでも、せめて。
一诺はナージャの前髪に、静かに口付けを落とす。位置としては額だが、前髪越しなら。そう思って、一诺は身勝手な口付けをして身を離した。
「……ナージャ様」
次に一诺は、ナージャの腕を取った。細い手首を包み込むように握り、寝間着越しに手首へと口付ける。
「愛しています」
どうせ朽ちてゆく想いだけれど。
それでも、口に出さずにはいられなかった。
「あなたにどうか、あなたが思う素晴らしき幸せが与えられますよう」
……俺が願う独りよがりな幸せの押し付けじゃない、ナージャ様自身が喜べる幸せを得て欲しい。
そう、願わざるを得ない。
……一刻も早く、どうにか、あの豚をどうにかしなくては。
ナージャが魅力的に育つ度、その体が大人へと近付く度、分家当主が喧しい。そろそろ手籠めにしてしまおうとほざくのだ。遊ぶしか能の無い息子にナージャの股を開かせろと、ナージャを愛する一诺へと命じて来る。
……時間を稼げるのは、今年が限界だろう。
今は学校に通っているからこそ、露見しやすい。特にナージャは人望が厚く、常に誰かがそばに居る。万が一があればすぐに見抜かれてしまうだろう。卒業してからの方がリスクが低い。
思ってもない事を言って、どうにか時間を稼いだ。
言う度に舌を噛み千切りたくなる言葉。酷い嘔吐感や眩暈に襲われた。かつてそれを当然のように実行しようとしていた自分に酷い嫌悪感が湧いた。それでも耐える事が出来ているのは、ナージャから貰った手镯があったから。
目を付けられぬようにと袖の中に隠したそれがあったから、耐えられた。
……あの豚とそのガキ共を殺してでも、守り切ってみせる。
一诺は泣きそうな顔で俯き、ナージャの華奢な手を握りながらそう思った。
今年に入ってから、どうも嫌な予感がする。全てが壊れてしまうような、そんな予感。酷い不安が襲い掛かる。だから一诺は、願うのだ。
愛する宝が傷つかぬように。
……神など大して信じてもいないが。
「もし居るのなら、どうか……どうかナージャ様に、ナージャ様の望む幸福を与えてやってくれ」
……もう充分に、彼女は苦労したのだから。
明かりが消えたナージャの部屋で、一诺は信じてもいない神にそう祈った。祈らないと耐えられない。そんな、得も言われぬ不安がじりじりと一诺の背に近付いていた。何かによって、全てを壊されてしまいそうな。
キリキリカチャカチャ。
ナージャの部屋にある時計。その歯車の動く音が、やけに大きく響いて聞こえた。