一诺は忠誠を誓う
中国文化には詳しくありません。
商人が来てからしばらく後、服が届いた。早速着て見せて欲しいとナージャが珍しくはしゃいだ様子で言った為、一诺は自室で着替えていた。
「……人是衣裳马是鞍」
鏡に映るのは、侠客風の格好をした一诺自身。それを見て、一诺は自嘲気味な笑みを浮かべた。
……身なりを整えれば、随分とそれっぽく見えるものだ。
一诺は立派な人間でありたい。けれど分家での生活を思い返せば、お世辞でも立派な人間であるとは言えない。そんな一诺でも服を着るだけでそれっぽくなる。
かつてはこの服に似合うようになったら、と思っていた。
今はまだ似合うとは思えない。似合う自分にはまだなれていない。多過ぎるナージャへの恩を返して、そこで初めて胸を張れる。ナージャを最後まで守り切らない限り、一诺は自分にこの服が似合っていると胸を張れる日は無いのだろう。
・
けれど、そんな気持ちは吹き飛んだ。
「凄い!」
いつも控えめで一歩引いていて、子供らしくなく大人っぽい。
そんなナージャが、一诺を見て開口一番にそう叫んだ。そう、叫んだのだ。大声を苦手としていて、喋る事にすら慣れていなかったからかヴァレーラに泣かされた時ですら消え入りそうな声だったのに。
そんなナージャが、大きな声を出した。
「凄いです!一诺、物凄く格好良いですよ!似合ってます!」
年相応に、ナージャはそう言う。まるで憧れの英雄に出会った子供のように、頬をピンク色に染めて、瞳をキラキラと輝かせて。
……俺は、そんな瞳を向けられるような存在じゃない。
そんな瞳を向けられるだけの価値など無い。
けれどそれはまるで、侠客風の格好をしている一诺を認めてくれたように思えた。真似事をする子供を嘲笑うのでは無く、本物を見たと喜ぶような。
酷く恥ずかしい気持ちだったが、しかしとても嬉しかった。
「え、あ……あの、恥ずかしいとか、ありますか?」
恥ずかしいという気持ちが顔に出ていたのか、ナージャがおずおずと一诺にそう問い掛けた。恐らく、不快な気持ちにさせてしまったのではと思ったのだろう。ナージャは少々他人の気持ちを気にし過ぎるきらいがあるから。
「いえ」
だから、一诺は答える。
「恥ずかしい、と言いますか……」
一诺は自分が着ている服を見下ろした。
憧れていた服。いつか袖に腕を通そうと思っていたあの服では無いけれど、憧れの形そのままの服。自分では似合わないと思っていたのに、身の丈に合っていないと思ったのに、ナージャが似合うと一言告げてくれただけでその気持ちが吹っ飛んだ。
今は自分の為に作られた、自分にとても似合っている服に思えた。
「嬉しいのと、喜びと、照れ臭さがあると言いますか……正直本当に私に似合っているのだろうかという気持ちがあったので、手放しで似合っていると言っていただけたのが、恐らく、嬉し過ぎたのだと思います」
嬉し泣きしそうで、けれど一诺はそれに気づかない。無自覚で泣きそうになるのを耐えていた。しかし無意識に笑みが零れるのは抑えられなかったのか、くしゃりとした笑みを浮かべていた。
「一诺も喜んでくれたなら、とても良かったです」
一诺を見上げ、ナージャはニパッとした笑みを浮かべる。
「私も一诺のそんな格好良い姿を見れてとっても嬉しい気持ちになれたので、二倍ハッピーですね!」
小さく拳を握って、ナージャはそう言った。
……ぅあ。
一诺が着たいと思っていた服を着る。それは一诺が自己満足を得て終わるもののはずだ。普通なら。けれど一诺がこの服を着ている姿を見ただけで、たったそれだけでナージャは喜んだ。
それも同じくらい嬉しいと言うのでは無く、一緒に嬉しい気持ちになれたからもっと大きい幸福だと。
……ああクソ、俺は今表情を整える事が出来ているのか。否、間違い無く出来ていないだろう、これは。
思わず口がニヤけて変な顔になりそうなのを、表情筋を総動員して抑え込んだ。
本家に来てナージャの専属使用人になってから表情が緩んで仕方が無い。とはいえ分家に報告する際は昔のように作り笑いで固定されるので、支障は無いが。
「……ハッピー、ええ、そうですね」
どうにかあふれ出る感情を飲み込む事が出来た一诺は、静かにそう言う。
胸に手を当てれば、ぽかぽかした。それが手の温もりなのか胸の温もりなのかはわからない。けれどとにかく、胸の中が春の陽だまりを詰め込まれたような心地だった。
「私はとても嬉しくて、それでナージャ様も喜んでくれていると思うと、もっと嬉しい気分になります。喜びを共有出来ているんだ、と」
素直な気持ちをそう伝えると、ナージャの顔がぶわわっと赤く染まった。そのままへにゃりと愛らしい笑みを浮かべ、頬に手を当てる。最近ようやく子供らしいシルエットになったまろい頬。出会った頃に比べ、ナージャは子供らしくなっていた。
勿論、良い意味で。
「…………えへ、えへへ、こうやって言い合うの、ちょっと照れちゃいますね」
「本当に」
言って、一诺は顔を逸らした。へにゃりと愛らしく微笑むナージャを見ていると、同じように緩んだ顔になりそうだったから。幼いナージャなら可愛らしいから良いが、一诺の緩んだ顔など見れた物では無い。
そう思ったから、顔を逸らした。
「あ!そうだ、ちょっと待っててください!」
「はい?」
突然ナージャはそう言って、机の引き出しを開ける。そこから取り出したのは東洋風にデザインされた小物入れ。一诺が採寸されたり好みの色などを聞かれている間、ナージャは東洋の商品を見ていた事を思い出す。
どうやら、その時に購入していたらしい。
……俺には聞かされていなかったが。
何となく、一诺の胸にもやっとした塊が生まれた気がした。先程までの幸せは確かにあるが、少しチクチクする黒い塊が胸の中を転がっている気がする。
……いや、別に購入するしないはナージャ様の自由だし、ナージャ様が自分の金で買った以上俺が口出しをする権利も何も無い。
しかしもやもやする。この感情は何だろう。一诺は、それが嫉妬や独占欲と呼ばれる感情とは気付いていなかった。もっとも、他にも色々な感情がせめぎ合っていて、まったく別の感情なのかもしれないが。
そう思っていると、ナージャがその小物入れを一诺へと差し出した。
「一诺、良かったら受け取ってくれませんか?」
「え」
パチリ、と己の目が見開かれたのが一诺にもわかった。
「私に、ですか」
「はい」
「ナージャ様のでは無く?」
「一诺に、です。勿論好みじゃなかったら返品しても売り払ってくれても構いませんよ」
ナージャはクスクスと笑いながらそう言った。
……売る?売り払ったりなどするものか。
一诺は、先程まで胸の中を転がっていた小石のような不快感の塊が消え去っている事に気が付いた。今は何だか、胸の奥がぎゅうっと締め付けられているようだ。心地良いかと言うとそうでも無いが、悪い気分では無かった。
「売り払いなどは絶対にしませんが……本当に、私が受け取っても良い物なのですか?」
小物入れからして明らかに高級品。あの時並べられていた商品をざっと見たが、全てかなりの高級品だった。今の一诺も結構な高給取りではあるものの、数か月分の給料でも少々厳しい値段だった事を覚えている。
「……私は、一诺に受け取ってもらいたいって思いました」
緊張しているのか、ナージャの体は少しだけ強張っていた。もし両手で小物入れを持っていなかったら、エプロンドレスの裾を掴んでいただろう。
「受け取ってというか、身につけて、と言いますか……一诺に似合うだろうなって」
……ああ、眩しい。
はにかんだナージャが眩しく思えた一诺は、少しだけ目を細めた。
「では、ありがたく頂戴致します」
小物入れを受け取れば、しっかりとした重みがあった。
「中を拝見しても?」
「勿論です。その、喜んでもらえるかはわからないのですが」
「ナージャ様が私の為にと用意してくれただけで既に充分な程喜んでいますよ」
それはもう、あまりのわくわくにうっかり本音が滑り落ちるくらいには。尚、一诺は祖母以外からの贈り物が初めてだった為、そのわくわくに夢中でうっかり本音が漏れた事には気付いていなかった。
「では失礼して」
開ければ、ブレスレットとチョーカーが入っていた。どちらもシンプルだが、確かに東洋らしいデザインが施されている物。
「あ」
そして、気付く。入っていたチョーカーはあの時じっと見ていた物だと。
「一诺、広げられている装飾品の中でそれをじっと見てましたよね?じっと見ていたから、欲しいのかな、と」
ナージャは照れ臭そうに頬を掻いた。
しかし一诺がこれを見ていた理由は、ナージャに似合うだろうと思っての事だった。ぬいぐるみに追跡魔法を掛けている為、外出時のナージャは常にぬいぐるみを抱いている。けれど常に持つには嵩張るし、落としてしまったが最後追跡が不可能になってしまう。
だから、チョーカーのように身につける何かがあればと思った。
身につけていて違和感が無い物であれば途中でそれを外され捨てられる可能性が低くなる為、追跡がしやすい。このチョーカーは色合いもデザインもナージャによく似合いそうで、そしてナージャの好む傾向から恐らく気に入るだろう物だった。残念ながら手出し出来ない値段なので諦めたが。
それをプレゼントされたのが何だかおかしくて、一诺は思わず吹き出した。
「いえ、ええ、確かにこれをじっと見ていましたし、欲しいとも思いましたが……私が身につけたいと思ったわけでは無いのですよ」
「あ、そうだったんですか?」
「はい」
けれど、嬉しい。自分がじっと何を見ていたかを見ていてくれた。自分が欲しがる物は何かを気にしてくれた。そして確かに、一诺が見ていた物をくれたのだ。
喜びに、膨らんだりぎゅうと締め付けられたりというような感覚が胸の中を襲った。
「追跡魔法を付与して、そのチョーカーを私にくださるんですか?」
ナージャの言葉に、ドキリと一诺の胸が強く脈打った。一诺に自覚こそ無かったが、無意識にナージャの首を見てしまっていた。しかしそれは駄目だろう。
……そも、主に首輪をつけるような事は。
「あ、え、すみませ、違いますよね、私凄く恥ずかしい勘違いを」
「違います違いますその通りです」
顔を真っ赤にして涙目になったナージャに、一诺は勢いのまま否定して肯定した。それは勘違いでは無いのだと、先程の言葉が正にその通りだと。
言うつもりは無かったが、ナージャの涙に動揺してあっさりと口にしてしまった。
……ナージャ様を前にすると口が軽くなってどうにもいけない。
それは心を許している証拠だったが、一诺はそれを心が緩んでいると判断した。ナージャを守るのであればもう少し気を引き締めなければ、と一诺は思った。
もっとも実際は心を許しているから本音が言えるという事なので、その覚悟はあまり意味を為さないのだが。
「その、事実これはナージャ様に似合うだろうと思っていて、追跡魔法を付与するには身につける装飾品の方が良いだろう、というのも事実でして。実際ぬいぐるみでは、落としてしまう可能性がありますから。そうするとぬいぐるみの位置情報では追えなくなってしまいます」
「成る程」
「ですのでナージャ様が身につけていて違和感の無い装飾品があればと思っていて、このチョーカーはとても似合うだろうな、と思って見ていて……ただ、その、貴族御用達なだけはある値段でしたので、私の給料ではまだ足りないな、と……」
ナージャに恥をかかせない為とはいえ、一诺の本音が大安売り。
……ああまったく、どれだけ不甲斐無いんだ俺は。
ナージャは貴族の娘で、それ故に使用人よりもずっとお金があるのは至極当然。
けれど買うのが躊躇われる値段だったからと正直に告げるのは、自分が甲斐性無しだと告げているような気分になった。そしてナージャに似合いそうだと思った物をナージャに贈られたというのが、どうにも扱いに困ってしまう。
「ですので手に入れる事が出来た今、これに追跡魔法を付与してナージャ様に身につけていただければと思うのですが、しかしこれはナージャ様が購入した物ですので……」
「ええと……追跡魔法を付与するには本人が購入した物ではいけないというルールがあるとかでしょうか?」
「いえ。私にと贈られた物を、理由があるとはいえこれを購入してくださった方に渡すというのは……」
「何か問題なのですか?」
ナージャはきょとんとした表情で首を傾げる。
……年不相応な中身だとは思っていたが、その分常識が足りていない部分も多々あるのも事実。
「……嫌ではありませんか?」
「何がでしょう」
「これはナージャ様が買った物です」
だから一诺はそう告げた。ナージャが買った物を一诺がナージャにプレゼントするのはおかしいだろう、と。一诺がナージャにその代金を支払うならばまだともかくという気持ちが無くもないが、それはそれでおかしくなる。あとそこまでの金が一诺には無い。
そもそも大金を一気にポンと払うような度胸が、一诺には無かった。
……どうしても一定金額は貯めておかないととなってしまう辺り、俺の不甲斐なさが如実に出るな。
一诺はナージャに見えぬよう、自嘲気味の笑みを浮かべた。
「それはもう一诺の物ですよ」
けれどナージャは、当然のようにそう言った。疑問など感じていないのだろう自然な声で。
「ナージャ様が買った物を私が贈るというのは、おかしいのではないでしょうか」
「私は一诺がくれるならとても嬉しいです」
「買ったのはナージャ様です」
「買ってくれるのが重要なのではありません。一诺がそれを私に似合うと思ってくれて、手に入れる経緯が何であれ、それを私に贈ってくれるというのが嬉しいんです」
……買うのが重要では、無い。
そうだ、家宝である侠客の服を売る時、祖母だって言っていた。大事なのは物では無いと。大事なのはその物に込められた想いなのだと。あの服が無くとも、侠客への憧れは一诺の中でずっと灯っている。
それと同じという事なのだろう。
……五歳児であるナージャ様に諭されるとはな。
しかも言っている内容は祖母がかつて言っていた事とほぼ同じ。
重要なのはそこに込められた想いであり、思い遣り。相手に押し付けるような物は例えどんな高級品だろうと心に響かず、相手を想って本当に好むだろう物であれば、それの価値がどうであろうとも心に響く。
少なくとも、その相手には。
「…………ただ、その」
「?」
思考に陥っていた一诺がナージャを見ると、ナージャは可哀想な程に顔を真っ赤にしていた。先程涙目になっていた時のような、まるで熱が出ているのではと思う程の赤さ。
「まるで私が一诺からプレゼントされたいが為に自作自演的に用意したような感は否めませんが」
……あ~……!
確かに客観的に見るとその感は否めない。五歳児が到達する発想では無い気がするが、ナージャならあり得る。大人よりも大人な思考をするからこそ、そんなしょっぱい発想に行き着いてしまったのだろう。
「いえそんな、その、ナージャ様は私がこれを欲しがっているだろうと思ってこれをくださったのであって、ナージャ様に似合うだろうと思って見ていた事は知らなかったのですから、ええと、あ~……」
否定出来ない自分の不甲斐なさが嫌になる。
一诺はそう思いつつも、とにかくそのプレゼントが嬉しいのだという事を伝えたかった。それをプレゼントしてくれたのが嬉しいし、そのチョーカーがナージャに似合うと思って見ていた事を伝えたら嬉しそうにした事も、また嬉しかった。一诺の喜びをナージャが嬉しがるように、一诺だってナージャの喜びが嬉しいのだ。
だからとにかく、そんな事は関係無くて、一诺の望みを叶えようとしてくれたのが嬉しいんだと伝えたい。
「……ナージャ様、今からこのチョーカーに追跡魔法を付与し、あなたに贈っても良いでしょうか」
けれど一诺に、そんな駆け引きは無理だった。
分家では基本的に肯定以外の返事を許可されていなかった為、わからない。嘘も本当も言わずに誤魔化す会話法ならわかるが、正直な気持ちをわかりやすく纏めて相手に伝えるという事は専門外なのだ。
「はい」
そんな不器用極まりない一诺の言葉に、ナージャはさらりと頷いた。まだ頬を少し赤く染めながら、しかし確かに嬉しそうに。
「……追跡魔法を付与してナージャ様がこれを身につければ、ナージャ様の居場所は常に私に把握される事になります」
そう、身につけている間、本当に常に一诺に把握される事になる。
「これを外しさえすれば把握出来ないようになるとはいえ、本当に良いのですか」
一人になりたくて隠れていようと、一诺には把握される事になる。正に首輪。使用人、それも異性によって見えない束縛をされるというのは、厭うものではないだろうか。
「寧ろ、離れていても把握していて貰える分、安心出来ます」
ナージャはそう言った。
気にしていないどころか、そうして把握していてもらえた方が安心だと。普通幼い子は居場所が発覚する事を嫌がり、大人が知らない場所へ隠れたりする習性がある。その為貴族の子が居なくなると大変な騒ぎだ。何せ大人でもいかない場所に平然と行くし、最悪隠れているのでは無くて誘拐されているという可能性もあるのだから。
しかしナージャは、把握していてもらえた方が安心出来ると言った。
貴族の子の殆どはどれだけ危険を説明したとしても、実際にそういった経験でもしない限りはそれを嫌がる。だがナージャは、安全を選んだ。あれ程までに親による善意の束縛を嫌って、自由になりたがっていたというのに。
……ああもうまったく、ナージャ様は俺を自惚れさせる天才だな。
まるで自分相手なら良いとでも言うような。
「わかりました」
思わずニヤけて口角が異様な上がり方をしそうだったので、頷きで隠す。その隙に心を落ち着かせた一诺は、チョーカーの花飾りに追跡魔法を掛けた。それにより、花飾りの中心部が宝石のように変化する。
これでチョーカー周辺の情報が常に得られる事となった。
……それは同時に、万が一があってもナージャ様が連れて行かれたルートがわかるという事。
周辺の情報がわかるという事は、ナージャの周囲に壁があるか開けているかがわかる。そうして移動する動きを追えば、道がマッピングされていく。一诺は追跡魔法に長けているお陰で周辺を視覚的にも多少は認識出来る為、これを付けてさえいてくれれば万が一があろうとも場所の特定は容易だろう。
「これでこのチョーカーを身につけている限り、常にナージャ様の行動が私に把握されるようになります。……身につけますか?」
「はい」
即答だった。微笑みながら頷いたナージャの表情に、躊躇いは無い。
「……ええと、ただ、どうやってつけたら良いのかだけ教えてもらっても良いですか?」
すぐに困った時の表情にはなったが。
……つけ方、か。
一诺は少しだけ考える。
ナージャにつけ方を教えれば、自分でつけるようになるだろう。ナージャは物覚えがとても良いから。そして自分の身の安全に繋がる物でもあるから、きちんと身につけるに違いない。
……ハ、元々刺客として来ておきながら安全とは。
内心、一诺は自嘲した。
刺客(仮)状態を維持する事でナージャに他の刺客が来ないようにしつつ、ナージャを守る。そう決めたとはいえ、元々ナージャを害そうと思っていた事は確かなのだ。一诺自身がナージャを害するという目的では無かったとはいえ、ナージャが害される地盤を整えようとしていた事は事実。
それはどうしても、一诺の中に確かなしこりとして残っていた。
「……いえ」
首を振り、ナージャの言葉を一诺は拒絶する。
「これは私の手でナージャ様につけたいです」
「追跡魔法にはそういうルールが」
「ありません」
そう、無い。そこまで細かいルールなど無い。相当に高度な追跡魔法ならあったかもしれないが、既に追跡魔法を付与している以上、一诺自らナージャに装備させる必要性などは無い。
けれど。
「ただ、私が手ずからナージャ様につけたいだけなのですよ」
そうして、許してくれるのかを知りたかった。
「ではお願いしますね。あ、でもつけるところを見ていたいので鏡の前に行っても良いですか?」
「勿論です」
ナージャはあっさりと許可を出した。ドレッサーの、鏡の前の椅子にナージャは座る。一诺は一旦ドレッサーの上にブレスレットが入ったままの小物入れを置き、ナージャの背後へと回った。
……細い首だな。
許されるのだろうか。
一诺は思う。ナージャを守ると誓ったとはいえ、元々は刺客。そんな自分が人体の急所である首に触れる。それも紐状の物を巻きつけるのだ。警戒心が五歳児らしくないくらいには高いナージャが、心を許していない相手にそれを許すのか。
一诺はそれが知りたかった。
……俺がナージャ様の首に触れるのが無理だったなら、きっと体が強張る。
無意識に万が一を恐れ、体が強張るだろう。一诺はそれが知りたかった。自分にどれ程ナージャの心が許されているかを知りたかった。知ってどうするという事も無く、強張られればきっとショックを受けるだろう。
それでも、知りたいと思ったのだ。
ナージャの首に手を回し、一诺はチョーカーを巻く。首の後ろで留めれば、花飾りはナージャの首元でしゃらんという音を立てた。触れた喉は、首は、強張らなかった。
「わあ……これ、とっても可愛いです!」
鏡の中を覗き込んで、ナージャは首にあるチョーカーを確認するように指先で触れた。花飾りがしゃらんと音を立てる度、ナージャの笑みはより一層明るくなった。
「はい、思っていた通りよくお似合いですよ」
「ありがとうございます!」
振り返ったナージャの笑みに、一诺は目を細めた。
……チョーカーだけでは無く、ナージャ様が身につけるからこそよく映えている。
「私に似合う物を見つけてくれて、ありがとうございます、一诺」
「……いえ。そう言っていただけると幸いです」
むずむずする。こういう時、一诺はどういたしましてと言う癖が無い。分家ではそもそも感謝をされなかったから。そもそも使用人は仕えるのが仕事なのだから、感謝以前に仕事を全うするのは当然の事。その為、感謝される機会が少ない。
だから一诺は、当たり障りのない返答を選んだ。
……駄目だな、顔がニヤけてしまう。
ニヤけた顔を真正面からナージャに見せるのは、と一诺は思った。何せ思春期真っ盛りなので、普通に恥ずかしい。慌てて一诺がナージャから顔を逸らせば、ドレッサーの上に置いた小物入れが目に入った。
そして、その中にあるブレスレットも。
「あ、と、ところであちらのブレスレットは?」
広げられていた商品を見た時に見かけたが、一诺は特に気にもしなかったブレスレット。
「あのブレスレットは私が見てはいなかったハズですが」
「……えっと」
ナージャは一诺から顔を背ける。
「それは、私が自分で選んだ物なんです。一诺に似合いそうだな、と思って、つい……」
「ナージャ様が」
「はい、私が選びました……」
何故かナージャは、懺悔するかのようにそう言った。全ては誰かへのサプライズプレゼントをした事が無い為の緊張なのだが、一诺には察せなかった。
……しかし、俺に似合いそう……か。
「……ナージャ様が、私に選んでくださったのですね」
一诺はナージャに似合うだろう、追跡魔法を掛けていても違和感を抱かれにくくバレにくいだろう装飾品を見るのに夢中だった。値段が相当する高級品であるが故に、一诺自身で身につけるなどという発想にも至らなかった。
自分がこんな高級品を身につけるというイメージすら、今に至っても浮かばない。
「一诺の好みに一致するかがわからないので、不要であれば売却なりを」
「いえ」
苦笑するナージャの言葉を即座に却下し、一诺はブレスレットを左手首へ通した。これは一诺が賜った、一诺の物。ナージャがくれた大事な物。売却などと、誰の手に渡るかわからないような愚行をする気は皆無だった。
……これはまた。
見下ろせば、服とよく合うデザインだった。
色合いも違和感が無い。東洋の民族衣装は流石に目立つので一诺は外に出る時は普段の仕事着に着替えるつもりだったが、ブレスレットのデザインがシンプルであるが故に仕事着に合わせても違和感は無いだろう。
つまりこれは、ずっと身につけていられる贈り物。
「ナージャ様」
ブレスレットを身につけた一诺を見つめていたナージャに、一诺は向き直る。一诺はいつも通りに目を細めて笑みを浮かべた。
「とても嬉しい、喜ばしい贈り物です」
一诺は跪く。
今まではただ、幼い主に視線を合わせる為だけに跪いていた。けれど今、一诺はナージャを絶対の主と認識した。この方こそが自分の主なのだと。ただ相手に合わせてしゃがむのと変わらない動作では無く、一诺の意思で、一诺はナージャに跪いて頭を垂れた。
その体勢のまま右手で作った拳を、左手で覆う。
……東洋が故郷とはいえ、物心ついた時には奶奶とこちらの国に住んでいた為奶奶に教わったくらいしかあちらの文化は知らないが……。
それでも、一诺が出来る限りの誠意を込めた行動だった。伝わるとも思えないし本当に合っているかもわからない。何せ六つになる前に教わった物だから。けれど大事なのは心だと教わったのは確かなので、一诺は心で伝われば良いと頭を垂れる。
「この服と手镯に恥じぬよう、私はナージャ様を守ります」
一诺の左手首で、ブレスレットがカチャリと金属の音を立てた。
「はい。お願いしますね」
ナージャが微笑みながらそう返して頷けば、チョーカーの花飾りがしゃらんと音を鳴らす。
……この幸福を、壊させはしない。
一诺は侠客らしい格好に恥じぬよう、ナージャを守り切ろうと決めた。心を救い、許し、認め、肯定し、与えてくれた。義理を果たす為、必ずやその恩に報いよう。
決意を新たにし、一诺は頭を垂れたまま目を鋭く細めていた。
一诺の分岐点。