一诺は憧れを思い出す
作者は中国語をよく知りません。
一诺は氷魔法で出した氷が浮いている冷水にタオルを浸し、しっかりと水気を絞ってからナージャの赤く染まった顔に浮いている汗を拭った。追跡魔法以外を苦手としている為少しの氷しか作れないが、こういう時には丁度良いサイズ。
……読んでおいて良かった。
魔法は全て、本屋で速読する事で身につけたものばかり。それでも才能が無いせいで一口サイズの氷や指先に少し灯す程度の炎しか出せないが、最低限使用出来て良かった、と一诺は思う。少なくとも大き過ぎる氷を出すよりは良い。
「すみません、一诺……」
「謝らないでください、ナージャ様。私が奥方様を止められなかったのが原因なのですから」
一诺は再び氷水に浸したタオルを絞り、ナージャの額へと優しく置いた。
「ですがナージャ様」
「?」
ナージャはきょとんとした赤い顔で一诺を見る。ナージャにこんな熱を出させるとは、と一诺の中でヴァレーラへの怒りがぶわりと膨らんだ。
……だが、お陰で都合の良い方に転がった。
良い仕事をした、とは思わない。ナージャを泣かせ、怯えさせた以上はギルティだ。しかし良い悪役になってくれた部分は評価したい。一诺はそう思い、思わず口角を上げる。
「今回の件で、当主様と奥方様はナージャ様をもうパーティに連れてはいかないと約束してくださいましたよ」
「本当!?」
告げた途端、ナージャは青い瞳をキラキラさせて飛び起きた。
「……あっ」
しかし熱があるのは事実の為感情に体がついてこず、ふらりと倒れて元の体勢へと戻る。
「大丈夫ですか、ナージャ様」
ナージャはあからさまな心配を掛けられると、申し訳ないと言って困ったように笑う。だから一诺は心配を顔に出さないようにしつつ、その顔を覗き込んだ。
枕に頭を預けているナージャは一诺と目が合った瞬間、恥ずかしそうにへにゃりと微笑む。
「……す、すみません。つい、その、嬉しくて、はしゃいでしまいました」
「いえ、ナージャ様が喜んでくださったなら私も幸いです」
……本当に、良かった。
これは「良かれと思って」ではないだろうか。一诺の中にそんな懸念があったのは事実だ。ナージャの理解者を自負しているとはいえ、結局のところは他人。一诺にナージャの全てを察する事など不可能な為、良かれと思っての行動がナージャの首を絞める事に繋がるかもしれない。
それこそ、本家当主や奥方がしているように。
善意による締め付け程拒絶し辛いものは無い。否定しにくいものも。良かれと思って、相手が喜ぶと思っての善意での行動。けれどそれが相手のニーズと合致していない場合、それは相手にとって迷惑かもしれない行為。
故にナージャが飛び起きようとする程喜んでくれたという、一诺の判断が独りよがりでは無かった事実に安堵した。
「とはいえ熱がある今は、あまり動かない方が良いとは思いますが」
「……そうですね」
しかし一応注意だけはしておく。
ナージャは少々どころじゃなく自分をないがしろにし過ぎている為、一诺からすれば心配で仕方が無い。今まで誰よりも自分をないがしろにしながらとにかく明日を生きようとしていた一诺が思う事では無い気もするが、今の一诺はナージャのお陰で救われている。
一诺が自分の意思を大事にすると決めた以上、ナージャにも自分自身をちゃんと大事にして欲しかった。
「それで、パーティに行かなくても良いというのは?」
「先日のパーティで、マショー家の一人息子にナージャ様が泣かされるという事件がありましたからね。当主様と奥方様がそれはもう激怒されまして」
「じ、事件という程じゃないと思います……」
「充分に事件です」
「事件ですか……」
ナージャは腑に落ちないという表情で首を傾げる。しかし一诺からすれば、充分に事件だった。自分の感情を抑え込んで我慢する癖があるナージャがあれ程までに泣くなど、そしてそれ程までに泣かせたという時点で完全にアウト。
両親である本家当主や奥方曰く、ナージャは赤子時代以来泣かない子だったらしい。
正直言って一诺はあの二人の事をあまり信用していない。善意からの行動なのはわかっているが、ナージャを苦しめ過ぎている。しかもナージャ自身を見ず、ナージャという名の自分達の子供しか見ていないから。
自分達の子供だからというフィルター越しにしか見ていないせいで、ナージャという個人の個性を無視している。
だから一诺は本家当主と奥方の言葉をあまり信じていない。赤子時代以来だって、心の中ではきっと泣いていただろう。心の中でしか泣けないような環境にしたのはお前達だろうと思うと、どうしてもマイナスの感情しか抱けなかった。
悪人では無く善人なのはわかるし、豚のような外道でも無い。
……ただ、押しつけがましい善は相手によって酷い締め付けとなる。
ナージャが自分よりも他人を優先するのも、自分を大事に出来ないのも、自分の意思を尊重されなかったからでは無いだろうか。自分の意思を尊重されなかったからこそ、大事に出来ない。ナージャに出会う前は無意識に己を卑下する事が多くなっていた一诺だからこそ、そう思わざるを得なかった。
尚ナージャのそれは後天的なものでは無く、前世から妹の事を優先していたからこその素であった。
何せ幼い妹を一人で育てる事になった分、不自由をさせたくないと思った。我が子のように大事な妹だからこそ、自分よりも妹を優先する。ナージャの根底に自分を犠牲にしてでも誰かの為にという思考があるのは、前世で親を亡くした当時まだ幼いながらも姉として頑張ろうとした結果だった。
もっとも当然ながら、一诺はそれを知らないのだが。
「そうしてノヴィコヴァ家からマショー家に、絶縁宣言がなされました」
「絶縁!?」
「ナージャ様、起き上がってはまた眩暈が起きてしまいますよ」
事実まだ辛いのか、ナージャは唸りながら横になった。
「でも、絶縁なんて。そんな、私が泣いたくらいで、そんな」
誰かに迷惑を掛ける事を厭うナージャは、困ったという表情で目を軽く伏せる。一诺はそんなナージャの頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「大丈夫ですよ」
一诺はナージャと二人きりの時、よくこうして頭を撫でるようになっていた。最初は不敬極まりないのではと思っていたが、ナージャが一诺に撫でられると嬉しいと言ってくれたから。
だから、一诺は気負わず自然にナージャの頭を優しく撫でる。
「元々ノヴィコヴァ家とマショー家はそこまで大した取り引きをしておらず、他で充分代用出来ます。赤字にもならないとの事でした。マショー家としても一人息子が病弱でか弱い年下の少女からぬいぐるみを取り上げて泣かせたというのが許し難かったらしく、そのくらいが妥当だろう、と」
そう、思ったよりも穏便に事が済んだ。
ナージャがぬいぐるみを奪われて泣いたという、本家当主と奥方が怒り狂っても仕方が無い所業。これがもう少し些細な出来事だったなら過剰過ぎると言われただろうが、過剰に怒り狂っても仕方が無い事件だった。何せ本家当主や奥方が子供達の話をよくする為、ナージャの事は貴族達もそれなりに知っているのだ。
控えめで、病弱で、守るべきか弱い女の子だと。
その結果ナージャの意見よりもナージャへの心配を優先する為、他の貴族達もナージャからすれば理解してくれない他人達、という括りになっているが。ナージャが無意識にそう認識しているのを、一诺は察していた。ナージャが一诺以外を見る時の目に温度が無い為、花壇の花を見ている時以下の興味しかないのは一目瞭然だった。
ナージャからすれば、貴族よりも花壇の花の方がまだ価値ある存在なのだろう。
「……い、良いんでしょうか……」
ナージャは安堵やざまあみろという気持ちよりも心配や申し訳ないという気持ちが強いのか、困ったように口元まで上げた掛布団を握っていた。
「良いんです」
熱がある頭に響かないよう気を付けながら、大丈夫だと伝わるよう一诺はナージャの頭を軽くぽんぽんと叩く。
……奶奶も俺が熱を出した時、こうしてくれていたな。
必要以上にくっつきはしないものの、普通に接してくれた。心配はするが過剰では無く、寂しくならないよう視界の中にずっと居てくれていた。時々こうして触れてもらうと、大丈夫だという気持ちになったのを思い出す。
ナージャにも自分の存在で安心して貰えたらと思いつつ、一诺は目を細めた。
「そして不幸にも今回のパーティでこのような事が起こった為、当主様と奥方様はナージャ様をパーティに連れて行くのはどうしようか、と悩んでました。目元が赤く腫れてしまう程に泣かされたのだから、さぞやパーティにトラウマが出来てしまっただろう、と」
それを好機と見て、ナージャを二度とパーティには誘わないと誓わせた。どうしても参加義務があるパーティならば仕方ないかもしれないが、そういったパーティでも極力行かずに済むように、と。二人して自分なりに曲解する癖がある部分が厄介だが、善人であろうとしているからか約束は絶対に守ろうとする。そこは信用しても良いだろう。
もっとも曲解する部分が問題なわけだが。
しかしそこは一诺、そんな事は出会ってすぐに理解している。だからきちんと書かれた誓約書を用意した。内容の曲解は許されないものの、破ってもそこまで酷いペナルティがあるわけでは無い魔法がかけられた誓約書。
魔法がかけられた誓約書にはレベルがあり、今回使用したのはかなりレベルの低い物だ。
普通の約束に用いられるような物だが、しかし約束は約束。曲解しようが無い内容にサインした以上、勝手な思い込みで連れて行こうとしても無駄に終わるだろう。何せこの誓約書に存在するペナルティは、行きたい場所に絶妙に行けないというものなのだから。
……誓約書によってペナルティの内容は変わるがこれならレベルが低く致命傷にはならず、しかし誓約書の内容を破ったとしてもそれが叶う事は無いという最高の条件……。
パーティに連れて行かないという誓いを破り連れて行こうとすればペナルティとして、その日は家に帰る以外、目的地にたどり着けなくなるというもの。雨が降って行けないとか、馬がストライキを起こすとか、日付が変更になるとか、やたら道が通行止めをされていたりという出来事が発生するのだ。
これは対象にちょっぴり不幸をお見舞いするという呪いの闇魔法を応用したものらしい。
しかしこのペナルティであれば、万が一でもナージャがパーティに参加させられる事は無い。無理矢理にでも内容を曲解されようが、これならばナージャを守り切れる。
……二度と、あんな目に遭わせたくはないな。
悲しみ、泣くナージャの姿。もし一诺が分家当主に従い続ければ、きっとあれよりも酷い姿を見る事になっていたのだろう。そんな未来は、絶対にお断りだった。もう二度と見たくはない。今でも念の為分家当主に従う振りをして適当な報告は続けているが、一诺は既に分家当主に従う気は皆無だった。
だって一诺の主は、恩人はナージャしか居ないのだから。
「……泣かされたというか、私が泣いてしまっただけと言いますか……」
うーんとまだ腑に落ちていない様子のナージャに、一诺は言うつもりの無かった部分を告げる。
「ちなみにですが、トラウマが出来たのであればもっとパーティに行く頻度を多くしてパーティが楽しいものだと教えればきっとパーティが怖いものでは無いとわかるはず、と奥方様が仰ったので即止めました」
「ありがとうございます一诺愛してます」
「もしそのような事になればナージャ様の心労が募るだけだと……え?」
早口で告げられた言葉をちゃんと認識したはずなのに、読み込むのに非常に時間が掛かる。
「あ、いえ、はい、そんな、え」
意味の無い声が漏れ、言われた言葉を理解した瞬間、一诺は自分の体温がじわじわと凄い勢いで上がっていくのを実感した。そんな一诺の反応を見て、ナージャはわたわたと手を動かした。
「あ、あの、違うんです。いえ違わなくて、一诺の事は大好きで信頼してて、一緒だと安心して、それであの、お母様、私の話聞いてくれないから、私が話しても多分駄目で、その、だから、一诺が止めてくれたの、嬉しくて、助かって、ありがとうっていう気持ちの大きいやつがついぽろって出ただけで、一诺を困らせる気は無くて」
おろおろと手を彷徨わせながら、ナージャはそう言った。
いや、わかる。一诺だってそれはわかる。ただどうしてもこの感覚がわからない。体温が上がっていて、胸の中が酷くむずむずして、掻き毟りたいような気分になっていた。その感情が何なのかまだハッキリとはわかっていないが、焦りからかナージャの目に涙が浮かぶのを見て、一诺は手を伸ばす。
「大丈夫、わかっていますよ」
ナージャの目に浮かんでいた涙を指で掬うようにして拭い、困ってはいないと伝える為に一诺は目を細めた。
「困るなどあり得ません。ただ少し直接的に好意を伝えられて、そうですね……」
……これはどう表現したら良いのかわからないが、恐らく……。
「……その、殆ど経験が無くて確証が無いのですが、多分私は照れたのだと思います。それでつい思考が停止してしまったのかと」
そう告げると、ナージャはきょとんとした表情になった。
「一诺は、その、今まで照れた事が無かったんですか?」
「なんと言いますか……思い出したくない思い出が多いのであまり話せませんが、前に居た職場がそれはもう酷い場所で。東洋人を迫害している雇用主だったせいで下っ端も下っ端の扱いだったんです」
「え、酷い……!」
「今はこうしてお嬢様の専属として働けるという幸福を得ましたから問題はありませんよ」
そう、問題は無い。あちらを裏切ったとはいえナージャに伝えるわけにはいかない事が多過ぎる為詳しくは語れないが、少なくとも今の一诺は幸せだ。
「あの環境下で生き残る為に色々と学んだのが役立っているわけですし」
……ナージャ様の傍に居る事が出来て、必要とされて。そうあり続ける事さえできれば、それで良いんだ。
良い思い出は大事にするが、不要な思い出を引きずっていてもどうにもならない。無駄に体力を消耗するだけの荷物なら、捨ててしまえば良いだけだ。自分からすれば重い荷物だったとしても、幸い他人からすればそこらの石ころと同じようなもの。不法投棄したとしても、誰も何も言いはしない。
「ただまあ六つの時に唯一の家族だった奶奶が亡くなってしまい、住み込みで働けるところを探して前の職場に」
懐かしい記憶。元々裕福というわけでも無かったから、祖母が亡くなってからの一诺は必然的に貧乏だった。働かなくては食っていけず、子供でも働ける場所を探したものだ。
……もっとも、住み込みという条件に目が眩んでそれまで住んでいた場所からすると遠くにあったあの家に行ったのは、間違いだったかもしれないが。
「……それまで住んでいたところから距離もあったせいで移動費に全部使ってしまい、他に行ける場所もお金も無く、更に迫害があった為に十年程照れるという感情とは無縁でしたね」
子供の足での移動力などたかが知れている。頑張って歩くにしろ、その間の食事が持つかはわからない。異国の地だからと身を守る術を祖母から教わってはいたが、体が出来ていない状態では盗賊を相手にすれば即負けるだろう。
だから一诺は、祖母との思い出が詰まった家を売った。
元々お金に困っていたから大体の物は祖母の生前からちまちまと売っていて、残っている物は殆ど無かった。売らずに残したのは東洋特有の蒸し器など、そのくらい。家を売って得たお金を移動費にしてノヴィコヴァ家の分家に働きに行ったから、あの時の一诺には他に選択肢が無かったのだ。
例え東洋人だからというだけの理由で迫害されようと。
物以類聚。似た性質の者は集まりやすい。分家の使用人達もまた東洋人である一诺を迫害し、見下していた。本家の使用人達が本家当主や奥方に似て過剰な善意を持ち思い込みが激しいように、分家もまた分家当主に似た性質の人間ばかりが集まっていた。
一诺は分家で、耐え抜いた。
他に行くところが無かった。遠くから出て来た為頼れる誰かが居るわけでも無い。移動費でお金が無くなった為、住み込みで働くしか無かった。何せこの国の冬は寒いから、外で眠りなどしたら翌朝には凍死体が一つ転がる事になる。
……こうして思うと、照れるなどという感情を覚えるはずも無いな。
寧ろ通常の感情すらも一旦切り離して避難させる事で守っていたくらいには、よくない扱いを受けていた。酷な雑用を使用人三人分以上押し付けられていたくらいなのだから。もっとも、使用人達もまた東洋人を嫌っていたお陰で外道かつ卑猥な事をされていなかった事を思うと幸いなのだろう。
分家当主が将来ナージャに対し行おうとしている外道的行為を考えれば、そういった感情を抱かれずに済んだ事は幸いだった。
「?」
一诺がそう過去を思い出していると、上体を起こしたナージャが突然一诺の手をぎゅっと握った。大事な宝物であるかのように、家事でそれなりに荒れている一诺の手をナージャの白く小さく柔い手が包み込む。
「い、一诺」
一诺の手を握り締めながら胸に抱いたナージャは、一诺を見つめながらほろほろと涙を流していた。
「幸せになりましょうね、絶対に幸せになりましょうね……!わた、私、一诺が幸せになれるようお手伝いしますから……!」
……ああ、これは嬉しいとか、喜びとか、満たされるという感情か。
ぶわりと胸の中が広がったような、そんな感覚。食べ過ぎて胃袋が膨らんだ時のように、内側に満ちたそれが胸の中を広げたような感覚だった。重みはあるが嫌悪感は無く、ぽかぽかして少しもぞもぞするような、顔がにやけそうになるけれどもどうしたら良いかわからない。
……この感覚がきっと、幸せというものなのだろう。
ナージャに握られた手から温もりが伝わってくる。小さいけれど、一诺の手をしっかりと握り締める手は頼もしい。少し力を籠めればすぐにでも振り払えるだろう小さな手だが、その手から感じる温もりが、振り払わせない。
それは純粋な、愛の重みだった。
「……既に幸せですよ」
一诺はナージャの手を握り返す。簡単に覆えてしまう程にサイズが違う、けれど一诺を包み込む温もりを持った小さな手。
「ナージャ様が私の作る食事を美味しいと言ってくれて、困った事がある時は私に相談してくれて、私にありがとうと言ってくれる。私はこれ以上無いくらいに幸せです」
……そう、俺は今、とても幸せなんだ。
ただ差し伸べられるだけの手が相手だったら、一诺の心はさほど反応もしなかっただろう。どうでも良いと、そう断じただろう。けれどナージャは違う。ナージャは一诺にとっての宝だからこそ、差し出された手に意味が生まれる。
ナージャだからこそ、一诺の心が救われたのだ。
「ハハ、まったく……本当に、照れ臭いという感情は、こういう感覚なのでしょうね」
いつものように笑おうとするが、どうにも口角が上手く上がっている気がしない。にやけそうで、それを止めようとついつい力が入ってしまう。口の端がぐにゃぐにゃして、見るに堪えない顔をしているのではないだろうか。
みっともない顔をしているのではと心配する一诺に気付いていないのか、ナージャはそんな一诺を見て、まるで年上であるかのような笑みを浮かべた。
「……良い事ですよ。私、一诺がそうやって感情を出してるの、嬉しいです」
包容力に満ちた保護者のような、優しい目だった。
「そうですか」
こういう時、どう反応すれば良いのかわからない。むずむずして恥ずかしいような、けれどもっとそうやって接して欲しいような、よくわからない感覚。それは大事にされるという感覚が気恥ずかしいというような、そんな感情。
「でも本当に今まで照れた事が無かったんですか?その、六つまでの間とか。一诺はお婆様のお話をよくされるから、ありそうな気がしていたのですが……」
「あの頃は子供でしたから。褒められた時などには恥ずかしいという感情よりもまず、嬉しいという感情が出ていたのを覚えています」
……俺は褒められるような事がちゃんと出来たんだと、そんな気分だったな。
胸を張って自慢したいという感情を抱いた事は覚えている。しかしそれは、こんなむずむずする恥ずかしさなど無かったはずだ。一诺がそう思っていると、ナージャは納得したように頷く。
「あ、そっか、一诺は十六歳だから、今が思春期なんですね」
……あなたはまだ五歳では?
一诺はどう反応したものか、と少し困った。確かに思春期の適性年齢なのはわかる。実際思春期だからこそ恥ずかしいという感覚になるのだろう事も。指摘されて自覚したので少々気恥ずかしさがあるが、それ以上に五歳であるナージャがそう言ったというのがどうにもミスマッチだった。
……まあ、五歳児らしからぬ中身だからこそのナージャ様だからそういう事を言ってもおかしくはないか。
そう納得する一诺だが、ナージャはそうでは無いらしい。あわあわおろおろし始めたナージャは、慌てたように叫ぶ。
「え、ええと……あ、あの!欲しい物とかはありますか!?」
突然の発言に、一诺は少々虚をつかれた。
「……欲しい物、ですか?」
「あの、その、前からいつも、あの、お世話になってて、ぬいぐるみを貰ったりもしたから、その、一诺にお礼をしたいと思ってて、でも一诺が何を欲しいか、わからなくて」
「そんな……」
……確かにぬいぐるみを購入しプレゼントはしたが、あれは追跡魔法を仕込む為の物だったというのに。
今もあのぬいぐるみはナージャの部屋に飾られている。こんなにも大事にされるのなら、追跡魔法関係無いぬいぐるみも用意すれば良かった。少々いたたまれない気持ちになりつつ、一诺はそう思う。
「あのぬいぐるみは追跡魔法の為でもありましたからそんな気遣いは」
「万が一お父様やお母様に相談したら、その瞬間商人に頼んで大量に商品を持って来てもらってさあこの中から好きなのを選んでどうぞ、みたいな事になりかねないですし」
「流石ナージャ様、英断です」
……めちゃくちゃあり得るのが嫌だ……!
一诺は真顔で頷いた。あの二人は本当に程々という言葉を知らなすぎる。手を抜くよりは良いかもしれないが、いつだって全力投球状態では周囲が困るのだ。しかも普段彼らを頼らないナージャがそんな相談をすれば、最悪一诺に対し土地の一つ二つ与えられる可能性すらある。
普通ならあり得ないが、あの二人ならあり得る。
使用人を使用人として、貴族より下の存在として認識している本家当主と奥方。しかし共に生活しているのだから使用人は家族だ、と言う彼らだ。家族は家族でもその関係性は飼い主とペットに近いが、彼らはそれに自覚が無い。ナージャとは違い、そうしっかりと刷り込まれているものだから。
そんな風に、使用人を使用人として認識している癖に家族扱いをしようとするからこそ、歪んだ対応になってしまう。
……細かい事を考えないせいで厄介なのが困る……。
普通主と使用人は結婚しない。誰だってペットと結婚などしないから。彼らだってそうだろう。そして普通はペットに飼い主の有する財産、例えば土地などを与えはしない。ペットからしても取り扱いに困るだけの代物だから。しかし使用人を共に生活するからと家族扱いする彼らは、ペットに土地を与えるタイプだろう。
使用人だと認識しながら、大事な家族だからとそう言って。
……善意によるものだからまた面倒だ。
ナージャのように、本当に対等かつ同じ人間だという感覚は無い。貴族は貴族で使用人は使用人という、別の生き物。それでも家族扱いをしようとするから、彼らの言い分や態度はペットをおままごとに突き合わせる子供のように馬鹿馬鹿しい。
けれど誰もそうは言わない。
本家当主も奥方もそれがおままごと染みているという自覚は無いし、使用人達は他の屋敷よりも話が通じるからと好意的だ。しかし使用人との仲が良いとはいえ所詮は貴族と使用人であり、別物。善意から仲の良い家族であろうとおままごとをしているだけの、貴族と使用人でしかない。
……本当に、万が一ナージャ様が相談していたらと思うと頭痛しか無いな。
良かれと思っての善意なのがまた厄介だ。他の使用人達は「少し困るけどそれだけ使用人も大事にしてくれてるって思うと嬉しいよね」と話していたが、一诺からすれば普通に困る。自分のコップから大量に零れる程の酒を注がれたら誰しもが困るように、一诺の想像出来る範囲を超えて突飛な対応をされると困ってしまう。
そう思えば、自分の判断で良いと思う物を渡そうとするのではなく、一诺自身が欲しいと思う物を渡そうと考えてくれるナージャの思考はありがたかった。
……不要な物を与えられて困り続けていたナージャ様だからこそ、そう気遣えるのだろう。
普通の貴族なら自分達が上だからこそ、自分達が選んだ物を使用人が喜ばないかもしれないという思考を持たない。自分達が選んだのだから喜ぶ以外に無いだろう、という思考を有する。けれどナージャは、望まぬパーティに連れて行かれたりをし続けていたからこそ理解している。
相手が本当に望む物を与えなくては意味が無いのだと。
……だが、与えられて困る物ならば無限にあるが、欲しい物となるとそう簡単には浮かばないな……。
「私の中にも一応希望はあると思いますが、正直に言って隙間風の無い部屋で、しかも寝床で寝られるだけありがたいのですよ」
ナージャの傍に居られるだけで幸いで、その上必要な物は全て与えられている。
「服だってこうして上等なものを用意されていますし、替えもありますし」
……ああ、そういえば、俺はあの服をいつか着たいと――……。
「……そうですね、やっぱり、特に希望は」
「ありますよね?」
「え」
ナージャを見れば、ナージャはにっこりと微笑んでいた。
「今、一瞬遠くを見てました。何か心当たり、ありました?」
……そんな、俺はほんの一瞬思い出しただけで、思い出しただけだからすぐに先程の感情も何もかも消えたのに。
ぼんやりと思い出した、昔の夢。それを見抜いたナージャの察しの良さに、そして自分すらも無意識の内に放置した願いを見抜いてくれた事に、一诺は笑う。自惚れそうだと思いながら、情けない笑みを浮かべた。
「まったく、ナージャ様はよく見てますね。私なんかを見ても何も得など無いでしょうに……見抜かれたのは初めてですよ」
「ふふ、得なんて。一诺が大好きだからよく見てるだけです」
……ぅあ。
ぶわりと全身の体温が上がったのが一诺にはわかった。その熱を逃がそうと、じわりじわりと汗が浮かび始める。情けない顔をしているに間違い無い、泣きそうな程に溢れる感情。大事な存在が、自分を大好きだと言ってくれた喜び。自分が誰かを細かく見る事はあっても、かつて存命だった祖母以外に自分を好意的な意味でじっと見て、理解してくれる存在が居たという歓喜。
一诺は思わず、恥ずかしさと喜びで涙目のままにやけているのだろう自分の顔を手で覆い隠した。
「……多分、今、私、照れています」
手で覆って、どうにか飲み込む。幸せというのはどうにも量が多く、感情と共に溢れてしまいそうになる。けれどそれを深呼吸と共にゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。胸の奥にまたむずむずするけれど心地良い重みが足される。これである程度はもう取り繕えるだろうと判断した一诺は顔から手を下ろし、いつも通りに目を細めた。
もっとも、一诺が自分で思っている程取り繕えてはいなかったが。
「…………一応、希望というか、欲しい物が」
「何ですか?」
分家では、望む事自体出来なかった。どうせ踏みにじられて終わるのがわかっていたから。けれど何を望むのだろうかとキラキラしているナージャの瞳を見ると、望んでも良いんじゃないかという気分になった。望んで、求めても許されるのではないか、と。
「……服、ですね」
「服?」
「東洋の、漢服という……要するに民族衣装です」
かつての記憶。かつての憧れ。かつての夢。ナージャにどういった物かを伝える為、一诺は記憶にある侠客の服を紙に描く。
……そう、確か、昔俺が憧れたのは、この服だった。
一诺が祖母と暮らした家には、侠客の服があった。祖母曰く、昔々に助けてくれた侠客の服らしい。多少古めかしいそれは、かつて助けてくれたその人を忘れない為にと飾られていた。少しの恩を返す為にその身を犠牲にしてでも戦ってくれた、とても格好良い存在。
けれど家宝であるそれは、生活苦から手放す事となった。
……俺は生まれた時からその服を見ていた。
祖母がいつも侠客の話をしてくれた。
……俺もいつかそんな格好良い人間になって、その服の袖に腕を通したいと思っていた。
受けた恩を誠心誠意返せるような、そんな人間になりたい。それが幼い頃の、いや、今に至るまでずっと一诺が抱き続けていた夢だった。
けれど、祖母は家宝を守るよりも生きる事を優先した。
「優先順位だけは間違えてはいけない。いつか袖を通すかもしれない服を大事にして、未来を失うという事はあってはならない。いつかを夢見て明日を手放せば、そのいつかは絶対に現れない。例え家宝を手放す事になろうと、明日食わなければ家宝と共に朽ちるだけだ」
幼い一诺は、それに納得した。事実、死ねばそこで終わるから。
「恩に報いてくれた侠客だって、自分の衣服を大事にして滅ぶ事を望みはすまい。そもそも、重要なのは服に非ず。大事なのはこの服を置いて行った御仁が、素晴らしい方だったと覚えている事。結局服は服であり、重要なのはその服に抱いていた尊敬や憧れの念をこの胸に持ち続ける事だ」
……そう、胸に抱き続けている限り、その家宝は常にある。
家宝は服では無く、恩に報いてくれた侠客に対する感謝の念。それを忘れず、彼に憧れて立派に生きようとする精神こそが家宝なのだと祖母は言った。そうしていつかを夢見ていたその服を手放し、一诺と祖母は生き延びる事が出来たのだ。
「あの服のお陰で、こうして今日を、そして明日を生き延びる事が出来る。かつて恩に報いようと助けてくれて、今もまた我々の命を助けてくれた。その身朽ちようと恩を返し続けてくれる。だからこそ、侠客は皆の憧れとされる存在であり続ける」
一诺もそう思った。服があるだけで、守ってくれているような気分に包まれていた。この服が似合う立派な人間になりたいと思った。例え服を手放したとしても、その気持ちが変わりはしない。その服が無くとも、その精神に憧れて立派であろうとすればきっとなれると。
もっとも、分家での生活で壊されないようにとその感情を切り離していた為、憧れとは程遠い状態になっていたが。
「格好良い服なんですね」
「そうなんです!」
好印象な反応を見せたナージャに、一诺はぐっと拳を握る。
「奶奶が昔教えてくれた侠客は、こういった服を着ているイメージが強くて」
そして、
「格好良くて、憧れなのですよ」
一诺がまだ幼い時から、ずっと憧れの対象だ。
「成る程……」
ナージャは一诺の言葉に頷いてから、少しだけ困ったように眉を下げる。
「あの、シア、クウ?というのは?」
「ああ、侠客とは……強きを挫いて弱きを救う存在であり、仁義を重んじ、困っている人を助ける為に体を張る人達の事です。情を施されれば命をかけて恩義を返す」
祖母曰く、故郷である東洋には侠客崩れのチンピラも結構居るとの事だった。しかし実際助けてくれたという話からすれば、あの服をくれた侠客は本物だったのだろう。
……今ならきっと、俺も……。
「義理を果たすという精神を重んじていて、とても格好良いんですよ」
そうあれる自分でありたいと、一诺は思った。
「わあ……!本当に格好良いです!」
「でしょう!」
キラキラした目で一诺を見上げるナージャに、一诺も思わず笑顔で答えた。自分の憧れの格好良さを理解して貰えるというのは、とても嬉しい。
「それで、この服がその人達の着てそうなイメージの服なんですね」
「はい。憧れというのもそうですが、私はナージャ様に救われました。だからこそその義理を果たす為、身を引き締めるのに良いと思いまして」
「え、わ、私は何もしてない、ですよ?」
「だからこそですよ」
……そう、だからこそ俺はナージャ様が好きなんだ。
「意識しない程当然に、ナージャ様は私に与えてくれました。私はその恩に報いたい」
「あぅ……」
照れているのか、ナージャの顔が赤くなった。引いていた熱がぶり返したようで心配になるが、自分の言葉で照れてくれたのかと思うとむずむずする。これは嬉しいとか満たされるとか、そういう感覚なのだろう。一诺はそう思った。
対する顔を真っ赤にさせていたナージャは手をパタパタさせて顔の熱を冷まし、紙に描かれた服を見て目を細める。
「……じゃあ、ご贔屓の商人さんに、東洋の服を取り扱ってないか聞きましょう。取り扱ってない時はいっそ職人さんに頼んで作ってもらっちゃいましょうか」
「へ」
「…………?」
虚をつかれたような一诺の反応に、ナージャは首を傾げた。
「……あ、もしかしてこの服が欲しいのは冗談のつもりだったとか?」
「いえ!冗談のつもりは無く、その……異国の民族衣装なので、無理だと言われる可能性が高いのでは、と……」
「確かに、手に入るかはわかりませんね」
それはそうだろう。何せ異国の民族衣装。それも古めかしいタイプの民族衣装なのだから、難しいも難しい。
「でも」
ナージャは服が描かれた紙を大事そうに胸に抱いて、その目に慈しみの色を灯しながら楽しそうに微笑んだ。
「一诺がこの格好良い服を着てる姿、私も見てみたいって思いましたから。無いなら無いで一诺に似合うよう、専門の人に作ってもらっちゃえば良いんです!」
……あ、これは、無理だな。
「……ナージャ様」
「えっ、あ、だ、大丈夫ですか?」
一诺はベッド横にある椅子に腰掛けたまま、ナージャのベッドに倒れ込んだ。酷く顔が熱い。だって、ナージャだ。誰かに頼る事を苦手とするナージャで、必要な物は大体用意されているしそこまで物欲も無いからと自分から買い物をしようともしないナージャなのだ。
そんなナージャが、一诺の為だけにわざわざ手に入れようとしてくれている。
ナージャ自身が着るドレスには興味が無く、寧ろ苦手としているというのに。なのにナージャ自身では無く、一诺の服にはこんなにも嬉しそうな顔をする。一诺が着たいと言った服を着ている姿を見たいと言ってくれて、その夢が実現するようにしてくれる。
普段貴族としての権力を使用する事を厭いがちなナージャだからこそ、そこまでしてくれるという事実がまるで特別扱いのようで。
……ああもう、クソ、自惚れる……。
躊躇いがちな、けれど優しく小さな手が一诺の頭を撫でていた。一诺が着たいと言った服の為に色々してくれようとしていて、頭を撫でてくれて。六つで祖母が亡くなり、分家に来てから縁の無かった愛ある対応。
六つだった当時の自分よりも幼いのに、ナージャは今までずっと自分を抑え込んでいたのか。
そう思わないわけではない。けれどそれよりも、撫でられている喜びが勝った。自分はナージャに必要とされ、愛されているのだと思える。勿論一诺だって、それが五歳児に向けるには重過ぎる感情だとわかっていた。
けれど、ナージャなら。
一诺はそう思う。元々刺客として来て、将来酷い扱いをされる可能性があると聞かされた時点では何とも思っていなかった相手。下手をすれば自分が奈落に突き落とす事になっていたかもしれない相手。
なのにナージャは、そんな一诺を必要としてくれた。
使用人を必要としない為の願いではあったが、それでもナージャの中で一诺が特別扱いになった。一诺の中でも、ナージャが特別扱いになった。
一诺にとって、ナージャは大事な宝だった。
「…………ナージャ様」
「はい」
「俺はこの恩に、絶対報います」
憧れの侠客のように。
「あなたを害する奴らには渡さない」
外道に彼女は穢させない。
「絶対に、守ります」
一诺は今もまだ分家に報告を続けている。分家を裏切ると決めた為適当な報告だが、一诺自身が他の誰にも裏切りを告げていない以上、裏切っていないとも言えるのだ。だから一诺は、表面上だけ分家に従う事にした。
当然ながら物凄く嫌だが。
豚の顔を見るだけで不愉快で、こうしろああしろと命じられるのも不愉快極まりない。ナージャを都合の良い傀儡にと発言される度にあの豚の目玉を抉り出したくなるくらいには憎悪が湧く。
しかし、裏切りを悟られてはいけない。
分家に裏切りが悟られれば、分家は一诺が分家から送られた刺客だとバラすだろう。本家に処理をさせようとして。一诺はナージャからの信頼を失いたくは無かった。告げないままで居る方がリスクが高く、発覚した際に全ての積み重ねが崩れるだろう。しかしどうしても、ナージャが自分を見る時の目に恐怖を抱かれたくはない。
距離を取られたく、無い。
……そして、もう一つ。
もし刺客として送った一诺による懐柔が上手く行っていないとなれば、分家は他の策を考えるだろう。分家を裏切り、大事に想うナージャを守ると決めた一诺として、それは避けたい。少なくとも一诺を潜入させ懐柔させるという作戦が上手く行っているとなれば、その作戦が台無しになりかねないような別の作戦は使用しないだろう。
豚はあれでも中々に小賢しい。
だから、一诺は報告をし続ける。適当かつありきたりで、嘘は言っていないが本当も言っていないという得意の話し方で。作戦に従っていると思わせ続けた方が、ナージャを守れるはずだから。
「はい、頼りにしてます」
一诺の考えも分家の思惑も知らない為、ナージャは一诺の突然の言葉の意味などまったくわかっていないだろう。けれどナージャは、一诺を頼ると宣言した。微笑んで、頷いて。
……ああ、絶対に守り抜くとも。
その信頼を向けて貰えるだけで、一诺の心は満たされた。