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わたしの知らない世界 2

作者: 麻希くるみ

鞄から取り出したスマホの画面を確認した私は、眉をひそめた。

出るか出ないか、ちょっと考えたが、出ることに決めてスッと画面に人差し指を滑らせる。


『あ、朱音あかね!やっと出た!どうしたんだよ、全然繋がらないから心配したんだぞ』


「同僚の由香と飲みに行ってたから電源切ってた」


『はあぁ?何で電源切るんだよ!』


「啓介からの電話に出たくなかったから」


グッ、と啓介がスマホの向こうで息を詰めた。


『朱音……まだ怒ってるのか?』


「怒ってないわよ。ただ、来月ドレス代が引き落とされるなぁって思ってるだけ」


『怒ってんじゃないかぁ!けど仕方ないだろ?まさか夏の休暇初日に出張命令が出るなんて思わなかったんだからさ』


「アメリカ出張ね。いいなぁ。お土産はミッキーの人形でいいわ」


『いや、行くのはニューヨークだから』


「使えねぇ……啓介、まだ会社?」


『いや、もう家に帰ってる。帰ったら朱音いないし、電話は繋がらないし』


「はいはい、わかったわよ。私もこれから帰るから」


『今、どこにいるんだよ?』


「B駅。今ホームに上がったとこ」


『はあぁぁ?もう終電出てるぞ。タクシーで帰ってこいよ、朱音』


「ええ?でも、電車きたけど?」


『は?んなわけあるか!この時間はもう電車なんてないぞ!』


「ないって、もうホームに入って来たけど?臨時じゃない?お盆が近いし」


『そんなの知らないぞ。なんか変だし、絶対乗るなよ、朱音』


「え?ドア開いたから、もう乗っちゃったよ」


『え……バカ!何してんだよ!すぐに降りろ!──朱音ぇぇぇぇぇぇ!!』



「啓介?もしもし?あれ?切れちゃった」


スマホ画面を覗いて、ま、いいかと私は持っていたスマホを鞄に突っ込んだ。

なんか降りろとか言ってたみたいだけど、もうドア閉まっちゃったし。


「ああ、なんか疲れたぁ……さすがに飲みすぎたかな」


由香といろいろ喋ってたらキリなくて、四軒くらいハシゴしてしまった。

明日休みでホント良かったぁ。あ、もう今日か。

私は、う〜んと背を伸ばしてから椅子に座った。

さすがにこの時間になると乗客は少ないのか、パッと見では車両に自分以外の客はいない。


眠〜い、と大きく欠伸した私は、ふいに耳に入ってきた声に目を瞬かせた。

声は、お〜い、待ってくれぇぇぇぇ、とか言ってる。なんだ?と首を傾げた瞬間、電車がゆっくり停止した。


え?……何で止まる!?


目の前のドアが開き、三十代後半くらいの男が、ゼェハァ言いながら乗り込んできた。

どうやら、私が乗った車両はまだホームを通り過ぎていなかったようだ。


「おんやまぁ、町田のヨウちゃんじゃないか」


誰もいないと思っていた車内から声がしたので、私はギョッとした。

声が聞こえた方を見ると、七十前後と思える小柄なオバさんが椅子に座っていた。

え?いた?斜め前とはいえ、全然気がつかなかった!


やだ、最初からいたの?もしかして、伸びしたとこや、大欠伸してた所を見られてた?

私、手も当てずにバカみたいに大口開けちゃったよ。恥ずかしい〜〜


「糸川のオバちゃんかぁ。いやぁ、まいったまいった。出ようと思ったら自転車がパンクしててさ。家からずっと走ってきたんだ。間に合ってよかったぁ」


いや、間に合ってなかったよね?

だって、もうドア閉まって走り出してたし。


「あんた、車掌さんに感謝なさいよ。電車止めてくれたんだから」


ええ?普通止めないでしょう?


「感謝するよ。これ逃したら、次の電車、二時間後だもんなぁ」


え、そうなの?ラッキー……って、あれ?ここって何時まで電車走ってんだろ?


ふっと、男の視線と合った。男は、おやぁ……とびっくりした顔になる。


「お〜珍しい。若い女の子が乗ってる」


男は、人の良いニコニコした顔で私を見た。

あまりに優しそうな笑顔だったもので、警戒心は全くわかない。

男は、知り合いらしいオバさんの隣に腰を下ろした。


その時になって初めて、電車の中がおかしいことに私は気づいた。


何?あの棒……


左右のドアの真ん中辺りに、天井から床まで一本のステンレスの棒が立っているのだ。

乗る時は全く気づかなかったのだが。


「あのう……あれ、なんですか?」


私は初めて見るそれが何なのか分からなくて、つい尋ねてしまった。

答えてくれたのは男の方だった。


「何って、棒だろ。呼び方あるのかわかんないが、ずっと棒って呼んでる。混んでて立ってる奴や子供がよく掴んでるな」


「ヘェ〜初めて見ました」


「たまに子供がさぁ、遊びで棒掴んでグルグル回ってる内に、目が回ってひっくり返ったりするんだよな」


ああ、やりそう、と私は笑った。

あれ?と、今度はドアがおかしなことに私は気づいた。

普通、電車のドアって、真ん中から左右に開く筈なのに、何故か片方にしか開かないドアに見えるのだ。

え?乗る時、ドアってどう開いたっけ?左右に開いてなかった?

そして、私はまたも、初めて床が木の床だと気がついた。


アレ?アレレ?

二人が座っている長い横椅子も木で出来てるように見える。

当然だが、自分が座ってる椅子も木だ。木の椅子に布が張っていて、お尻が乗るところだけ少しクッションがあるという感じ。


そういえば、車両内を照らす灯りも何だか薄暗いような。


「お嬢ちゃん、どうかした?」


お嬢ちゃん……そんな呼ばれ方したのって、何十年振り?幼稚園の時以来?

私は、心配そうな顔を向けるオバさんに向けて、いえ、ちょっと……と答えた。


「ちょっと暑いかなぁ、って」


「ああ、それなら窓を開けてみたら。風が入ってきて少しは涼しいよ」


窓を開ける?

私はキョトンとした顔でオバさんの顔を見つめた。電車の窓って開けられたっけ?

後ろを見ると、木枠の窓があった。

これって、どうやって開けるの?


困惑してると、ヨウちゃんと呼ばれていた男が立ち上がって、私の方へ歩いてきた。

そして、窓の木枠の下、左右についているクリップのようなものに指をかけ、そのままグッと上に持ち上げた。

窓が半分開いて、外気が車内に入ってきた。


「え〜、窓ってこうやって開けるんだぁ」


「なんだ、あんた電車の窓を開けたことないのか」


「電車の窓って、開けられないものだって思ってたから」


「へえ?そういや、ひかり号の窓は開けられないって聞いたな」


「ひかり号?」


「夢の超特急ひかり号だ。知らないか?」


夢の超特急……ひかり号?もしかして、新幹線の〝ひかり〟のことを言ってる?


「それって、白い車体でとっても速い──」


「おお、そうそれ!」


男は大口を開け、楽しそうに声を出して笑った。


「格好いいよな。あのだんごっ鼻も良くってさ。まだ、乗ったことないんだが、一度は乗ってみたいもんだ」


「…………」


だんごっ鼻ってなんだ?アヒルの口ってのならわかるけど。

やっぱ、変だよね、おかしすぎるよね。何これ?やっぱ、乗っちゃいけない電車だった?

ヤバイな、と困惑する私を、オバさんがじーっと見ていた。


「お嬢ちゃん、どうやら間違えて乗ったみたいだね」


「そ……うみたいです……」


「なんだ、乗り間違えたのかい。そ〜りゃ大変だ!戻るにしても、電車少ないから時間かかるぞ」


「それでも、このまま乗ってるわけにはいかないでしょうが。お嬢ちゃん、次の駅で降りて、反対のホームで電車を待ってなさい。今なら待っても一時間くらいだし。絶対に駅から出ないようにね」


「え?はい、そうします」


ハァ、と私は溜息をついた。


「やっぱり啓介の言う通り、電車に乗らなきゃ良かった……」


「お?啓介って、あんたの彼氏か」


男は私の隣に腰掛けてきて、面白そうに聞いてきた。


「去年結婚した夫です」


「新婚さんか。そうかぁ。俺んとこは、来月子供ができるんだ」


「そうなんですか。おめでとうございます」


「結婚して五年、やっと出来た子供なんだよねぇ、ヨウちゃん」


「そうそう。もう諦めて養子貰おうかと思ってたら、ひょっこり出来たんだから神様には感謝だ」


ここ二年、ずっと子宝を願って神社に通っていたのだと男は言った。


「子供の頃はやんちゃばっかりで、学校もまともに通わなかったヨウちゃんが、今じゃ嫁さんを大事にして真面目に働いてるんだものね。人って変わるもんだよ」


「惚れた女房だ。当然よ!──で、あんたの旦那は大事にしてくれるか?」


「大事……」


私はムッと口を尖らせた。


「聞いてくださいよ!啓介ったら、仕事を理由に約束を破ったんですよ」


「約束を?そいつぁだめだな」


「でしょう!半年も前に予約して楽しみにしてたんですよ!豪華客船で日本の港を巡る人気のツァー!なのに出張だからって、私に相談もなく勝手にキャンセルして──ディナーの時に着ようと奮発してドレスを買ったのに〜〜!」


「え?出張って、会社の?だったら仕方ないんじゃないか」


「ええっ!どうして?」


「え、だって、やっぱり仕事が優先になるだろう?」


「なんで!?ドレス、すっごく高かったんですよ!頑張って貯めてた貯金が半分吹っ飛ぶくらい!それが無駄になったんですよ!」


「お、おお……それは気の毒に。でもなぁ、男はまず仕事なんだよ。家族養わなきゃならないしなぁ。会社クビになったら、どうしようもない……」


突然、オバさんがケラケラと笑い出した。

びっくりして見ると、オバさんは腹を抱えて笑っていた。


「ヨウちゃんの口からそんな言葉を聞くとは思わなかったねぇ」


オバさんの言葉に、ヨウちゃんは赤くなって頭をかいた。

へへ、と照れて笑う顔が、何故か啓介と被って見えて、私も笑ってしまった。


停車駅に着いたのか、電車はゆっくりと停止した。


「降りたら、反対のホームで待ってなさい。必ず来た電車で、最初に乗った駅まで戻りなさいね」


「はい。どうもありがとうございます」


私がペコリと頭を下げると、ヨウちゃんと呼ばれた男と、オバさんは、ニコニコ笑って手を振った。


「旦那のこと、あんまり怒るなよ。きっと旦那は、あんたのことをちゃんと考えてるから」


ありがとう、と私も二人に向けて手を振った。ドアが閉まり、電車はゆっくりと発車した。



電車が見えなくなるまで見送った私は、オバさんに言われた通り反対のホームに向かった。

驚いたことに、ホームは一つしかない。もしかして、ここ、単線?ヘェ〜、まだあるんだ。

何時頃に電車が来るのか、時刻表で確かめようとしたが、上の方が暗くてよく見えなかった。

仕方なく、鞄からスマホを出したら、いきなり着信の音が鳴った。


び、びっくりした……ああ、啓介から?


「啓介、急に電話かけてこないでよ。心臓が飛び出すかと思ったじゃない!」


『つ、繋がった!朱音!無事なのか!?』


「ああ、ごめん。大丈夫。やっぱり電車乗ったのは間違いだったわ。次の停車駅で降りて、今、B駅に戻るために電車待ってる所」


『え?どこの駅にいるって?』


「え〜と……駅名がよくわかんない。何これって旧漢字かなぁ。薄くて読めないわ」


『ま……まさか、きさらぎ駅じゃないだろうな!』


「きさらぎ?う〜ん、漢字わからないけど、そんな駅名じゃないと思う」


『きさらぎ駅っていうのは、ネットで騒がれた都市伝説みたいなもんでさ。現実には存在しない駅で』


「それってホラー?やだぁ、怖い話やめてよ」


『朱音。駅の周りの景色どんなだ?』


「どんなって、真っ暗でわかんない。遠くに家の明かりがポツポツ見えるけど。ちょっと下りて改札の方見てみる」


『え?おい、朱音!下手に動き回るなよ!なんかいたら、どうすんだよ!』


「なんかって?」


『ば、化け物とか』


「あ、いた」


『うえっ!な、何が!?』


「階段下りたとこの壁に映画のポスター貼ってあるの。〝妖怪百物語〟だってぇ〜化け物というか妖怪が一杯いるぅ。下駄履いた傘がいるよ、啓介。おもしろ〜い」


『それって、カラ傘小僧だろう。妖怪の定番。朱音、改札は?』


「それが、見当たらないの。あ、外出られそう。……あっ!タクシーが止まってる!」


『ホントか!じゃあ、そのタクシーに乗って帰ってこいよ、朱音!』


「そうしたいんだけど、オバさんが」


『オバさんって?』


「一緒に電車に乗ってた人。乗り間違えたって言ったら、次の駅で降りて戻れって言ってくれたの」


『そのオバさんって、生きてる人間だったか?』


啓介に聞かれて、私は首を傾げた。


「わかんないわ。生きてる人っぽかったけど」


『ま、話は後で聞くから、すぐにタクシーに乗れよ、朱音』


私は、じぃっと、五十メートルほど先の出口を見つめた。

外は暗いが、タクシーが停車してるのは見える。白っぽいタクシーだからか。

車体に漢字2文字が書かれてるが、よく読めない。でもなんだか、近くまで行きたくはなかった。

だいたい、なんで改札がないのだ?


「ホームに戻る」


『はあっ?なんでだ!?タクシーに乗れば早いし安全だろ!だいたい電車が来るかどうかわかんないのに』


「オバさんが、駅から出ないで、必ず電車で戻りなさいって言ってたのよ」


『お前、そんな得体の知れない人間の言うことを信じていいのか!?』


「信じるよ。もう電話切るね、啓介。充電がヤバいの。心配ならB駅で待ってて」


『ハ?ちょ……朱音ぇぇぇぇぇ……っ!』


啓介の絶叫をプチッと切って、スマホを鞄に入れると、私は階段を上っていった。

ホームに戻ると、目を見張るほど大きな満月が空に浮かんでいた。




電車がB駅のホームに入った時、呆然とした顔で立っている啓介が目に入った。


うわ〜間抜け面してる〜


電車が止まり、ドアが開くと、私は外に出て、固まっている啓介の方へ歩いていった。

電車から視線を外せないでいる啓介は、まだ私に気付いていない。


「け・い・す・け」


ハッとしたようにこちらを向いた啓介は、私に気がつき泣きそうな顔で駆け寄ってきた。


「朱音〜〜無事で良かった!」


ハイハイ、と私は抱きついてきた啓介の背中をポンポンと叩いた。


電車がゆっくり走り出すと、啓介の目がそちらに向く。


「まさか、ホントに電車が来るとは思わなかった……なんだよ、まるで骨董品みたいなあの電車は」


「骨董──ま、そうね。床も椅子も窓も木だったし」


「……マジかよ。昭和初期かぁ?」


「電車の窓、開けられるのよ。ビックリした。それに、棒が立ってるし」


棒?と首を傾げる啓介と一緒に、私は遠く走り去っていく電車を見送った。

電車はいきなり消えるようなこともなく走り、そして、カーブを曲がって見えなくなった。


「行っちゃったな……」


「うん……」


「帰るか」


うん、と頷き、私は啓介と並んで階段を降りていった。


「そういや、ここまでどうやって来たの?」


「タクシー使ったに決まってんだろ。駅出たら、スマホでタクシー呼ぶから」


「タクシーかぁ。ねえ、啓介。あの駅にいたタクシーに乗ってたら、ここに帰って来れたと思う?」


ええ〜、と啓介は嫌そうに眉をひそめた。


「怖いこと言うなよ。それより、もうわけわからん電車には乗るなよな」


「いやいや、だって、普通電車来たら乗るでしょ?」


「終電の後に来る電車なんて、胡散臭いに決まってんだろが」


う〜ん?そっか、と私は答えて空を見上げた。見えたのは満月ではなく、三日月だった。


「なあ、朱音……ネットで見たらさぁ、秋に横浜と神戸往復の豪華客船のクルーズあったんだけど。9月の連休に参加しないか?」


「行く!勿論ディナーはドレスだよね?」


「ああ──俺も新しい服買おうかな」


いいんじゃない、と私はニッコリ笑った。




────きっと旦那は、あんたのことをちゃんと考えてるから。





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