コンサートが始まります
「よし、到着」
トイレ近くの柱に背中を預け、気配を消して待つ。
人通りも少ないし、これなら見逃しようがない。
さーて、そろそろ来る頃合いだが。ワクワクしながら待つことしばし――
「……やば、俺までトイレ行きたくなってきたかも」
トイレの前に立っていたからか俺まで便意を催してきた。
くそー、来るのが遅すぎるぞ。ヤバい漏れそう。
「大丈夫ですかいロイド様。我慢するのはお身体に良くありませんぜ」
「えぇ、見張りは私どもがしていますのでどうぞ行ってきて下さいませ」
「それもそうだな」
そそくさとトイレに駆け込むと、丁度一つ個室が空いていた。
ラッキー。入ろうと取っ手を掴む俺と同時に、もう一つの手が重なる。
「あ」
俺とほぼ同時に声を上げたのは何の変哲もない普通の青年だった。
背は高すぎず低すぎず、体型も中肉中背と一言で言えば普通。
黒い髪は普通に切り揃えられ、白を基調としたその衣服も高価そうでもなくかといって安っぽくもなく、やはり普通。
顔立ちも特筆すべきところはなく、まさに全身普通を絵に書いたような青年であった。
青年は普通に笑いながら口を開く。
「やあ少年、本当に済まないけれど、どうかここは譲って貰えないだろうか? さっき急に催しちゃってさ、我慢しながら走ってきたけどもう限界ってわけ。ねぇ頼むよ。このとーり!」
手を合わせ頼み込んでくるが、俺も早く終わらせないと聖王の護衛を見逃すかもしれないのだ。
彼に順番を譲るわけにはいかない。
「断る。俺の方が先に手を掛けてただろ」
「いやいや、それを見た人はいないよねぇ? 僕だってこっちが先と主張させて貰うとも。となればお互い水掛け論なわけ。わかる?」
なんだこいつ、やたら粘るな。言い争っている暇はないんだけど。
「悪いがこっちも急いでるんだ。譲るつもりはないよ」
「むむ……あまりやりたくない手だが……わかったよ。これをあげるからさ」
青年が渡してきたのは一枚の銅貨だ。
飲み物でも買ってこいということなのだろうか。
「懐柔ってやつさ。これが妥協できるラインだ。頼むよ少年」
「子供の小遣いじゃあるまいし、当然断らせてもらう」
こちとら第七とは言え王子だぞ。子供の駄賃で懐柔されるはずがない。
「おいおい君、どう見ても子供だろ? 子供の小遣いで懐柔されておくれよ。っていうか、じゃないとそろそろ漏れちゃうんだけどなぁ」
なんてやり取りをしている間に俺も本格的にトイレに行きたくなってきたぞ。
というかこんな会話時間の無駄だ。さっさと終わらせよう。
「わかった。ここはジャンケンで決めようか。勝った方が先に入ると言うことで――」
「いや、それはダメさ」
青年はそう言って俺の言葉を遮る。
「争いは平和主義者である僕の最も忌むべきものでね。争うくらいなら死んだ方がマシだとさえ思っている。当然これは単なるポリシーだから人に強いるつもりはないけど、ジャンケン《争い》を受けることはできないんだよね。そうは言っても生きることは戦いさ。故に平和主義者である僕は誰をも刺激しないよう普通の格好をしているってわけ。あぁもちろんだからといって負けるのは御免だよ? 負けた側が碌なことにならないのは、人類の歴史が証明しているもの。だから僕は争わずに要求を通す。これが平和主義者である僕の生き方ってわけ。わかったかい少年、わかってくれたなら平和的に話し合おうじゃないか。なぁに安心したまえ。平和主義者である僕は争わない事に死をも賭している。その為なら多少漏らす程度は覚悟の上だともッ!」
「あ、そう」
なんかベラベラと捲し立ててくる青年の前で、俺はバタンとトイレの扉を閉める。
……ふぅ、何とか間に合った。
「あーーーっ! 酷いぜ少年、まだ人が話している最中だったろ!? 君はアレか、人でなしなのか!?」
「ごめんごめん、でも隣も今空いたぞ」
俺たちが言い争ってる間に隣の人が個室から出ていた音が聞こえる。
喋るのに夢中になりすぎである。バタバタと慌ただしくトイレに駆け込む音が聞こえてくる。
「おいおいなんて奴だよ君は。よく人の心がないとか言われてないかい? ぼくが平和主義者じゃなかったらきっとひどい目に合ってたぜ。これから気を付けた方がいいよ。いやホント」
まだ何か言っているぞ。よく喋る奴だなぁ。
平和主義者とか言ってたが、下手な相手にあんなベラベラ喋っていたら問答無用で殴り飛ばされそうなものだが……まぁでも不思議と話を聞いてしまったな。なんというか、妙な雰囲気がある男である。
「ん?」
握り込んだ手の中に違和感を覚える。
手を開くと、そこにはさっき青年が渡そうとした銅貨が握られていた。
バカな。拒否したはずなのに、いつの間に……?
「……ま、どうでもいっか」
空間転移にて銅貨を隣の青年のポケットに返しておく。
「おっと、そんなことより早く出ないと」
目的を忘れる所だったぞ。
俺はさっさと手を洗い、トイレから駆け出るのだった。
「ロイド様、こちらにいらっしゃいましたか」
「げ……」
結局護衛がトイレに来ることはなく、俺を探しに来たシルファに捕まってしまった。
手を引かれながら控室に戻っている。
「よくよく考えると一番近いトイレがここだと分からなかった可能性もありやすぜ」
「彼らにとっては見慣れぬ場所ですし、きっと他のトイレに行ってしまったのでしょう」
グリモとジリエルの言う通り、一番近いここへ来ると思い込んでいたがそうとも限らないか。
むぅ、我ながら迂闊だった。
「仕方ない。演奏が終われば会えるという話だし、それまで我慢するとしよう」
あわよくば、くらいの気持ちだったからな。
今すぐ会えなくても別に問題はない。
「ロイド様、そろそろ時間がありません。お身体失礼してもよろしいでしょうか?」
「頼むシルファ」
頷くとシルファは俺を抱えて速度を上げる。
道行く人を壁走りで避けながら、あっという間に控室に戻ってきた。
「ったくロイドったら、ちょっと目を離すとすぐいなくなっちゃうんだから。トイレならトイレって言いなさいな」
「あはは……まぁ私たちが集中していたのも悪かったですけどね。お恥ずかしながら全然気づきませんでしたし……」
「二人共、ごめんなさい」
「まぁいいわ。それよりもうすぐ開演よ。急いで舞台に行かないと」
「練習の成果を全て出し切りましょう! 大丈夫、ロイド君なら出来ますよ!」
……って言われても俺は全く練習はしてないんだけどな。
多少の罪悪感を感じつつ、俺はステージへ向かうのだった。




