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7 誘惑


 私はルージ・スミス。オーキュラス家の住み込みメイドだ。

 

 今、私は書斎へ続く廊下をカートを押して歩いている。

 愛する旦那様の安眠のために、肌寒い季節には就寝前にブランデー入り紅茶をおいれしているのだ。

 給仕するわずかな時とはいえ、愛する旦那様と二人きりになれる数少ない時間だ。いつも通り身なりを整えた後、ノックして入室許可をいただき書斎に入る。

 

「紅茶をお持ちしました」

 

 旦那様の近くへ寄り、あらかじめ暖めておいたカップに紅茶を注ぐ。仕上げに芳しいブランデーを少し垂らしてお出しした。 

 

「ああ、ありがとう」

 

 旦那様はこちらを向き、使用人風情にもきちんとお礼を言ってくださった。私は小さく頭を下げて答える。こんなところもこの御方の素敵な所だ。

 

 私はこの時間がとても好きだった。

 こうして手ずから旦那様に紅茶を、それも就寝前のプライベートな時間にお出しすることは、とても親密な関係をイメージできたからだ。

 

 まるで夫を気づかう健気な妻のようではないか!

 

 旦那様の透き通った氷をイメージさせる薄い水色の髪。深く蒼い眼差し。

色彩さえも美しいこの方の横で、静かに紅茶をいれる妻……。ああ、なんと美しく焦がれる情景だろう。

 

 私はそんな妄想――いや、まもなく現実にしてみせるが――を胸の奥に仕舞い、いつも通りのやり取りをすることにした。

 

「本日のご様子をお聞きになりますか?」

 

「……ああ、聞こう」

 

 そう、この紅茶を飲む時間に私はいつも、あの忌々しい女の様子を旦那様にご報告しているのだ。もちろん、悪い方向に。

 

紅茶をいれる役目は私が独占できている訳ではないから、毎日ではない。だが、だからこそやりすぎにならず信憑性も増すだろうと考えた。

 

「昼間にお嬢様のお部屋で人払いがあった時、奥様はオイディプス様の所へお出かけされておりました。その後、ご帰宅されてからお嬢様のことをメイドが伝えても放心状態で気にもかけず……メイドが話しかけても虚空を見つめて無言でいらっしゃるような有り様で……」

 

 私はいかにも沈痛な面持ちでそう告げた。

 

「……そうか。エレオノーレはもう……」

 

 旦那様は麗しいお顔を苦しげに歪め、そう呟いた。

 

「旦那様……。それにしても、人払いがあった後、お嬢様のお部屋は立ち入り禁止となり、皆何事かと心配しております。お嬢様になにがあったのでしょうか?」

 

 そう、昼間にあの薄汚い元孤児の部屋で人払いがあった。

 遂に死んだかと胸を弾ませたが、その後部屋は立ち入り禁止とされ、いつもなら部屋にひとりは置いている看病のメイドも外されてなにも様子が窺えない状況なのだ。メイドの代わりにアルフォンスが出入りしているのを見たくらいだろうか。

 

 人払い直後に部屋から出てきた旦那様とアルフォンスは、固い表情をしていたが何も語らなかった。

 その後、珍しく外出していたあの女もいつも以上に不安定な様子で部屋に籠ってしまっていた。

 

 母子を追い詰めるには絶好の機会だというのに情報が足りない。

 

 あの忌々しい子供の容態は悪化したのか?死んだのか?それともまさか回復したのだろうか?

 早急にそれが知りたい。

 

「すまないがそれは言えない。家の者達には心配しすぎないよう言っておいてくれ」


「そうですか……いえ、出過ぎたことをお聞きして申し訳ありません。他の者にもそう伝えますね」

 

 素直に引き下がるが、胸のうちは荒々しかった。

 

 訃報だったらどんなに嬉しいだろうという喜び、回復していたらどうやってとどめを刺しにいこうという暗い淀み、情報が欲しいという焦り。

 

 そういった激しい感情がごちゃ混ぜになって胸を騒がせているが、私はそれをおくびにも出さず控える。

 

 少しの沈黙が流れたところで、旦那様が突然ぽつりと呟いた。

 

「……疲れたな……」

 

 !!

 

 私はとっさに旦那様の目を見ようとしてしまったが慌てて目を逸した。

 こう言った愚痴のような言葉を聞くのは初めてだ。

 

 旦那様はぐったりとしたご様子で片手で目を覆い、椅子の背もたれに寄りかかっている。

 

「だ、旦那様……?」

 

 何となくだがいつもとご様子が違う。普通の独り言と言うよりは私に話しかけているような感じだ。

 

 私は予感に胸をときめかせた。

 

「……はぁ、娘はああなってしまったし、妻ももう限界だ。私も、疲れてしまったよ、……ルージ」

 

 

 !

 

 

 いま、名前を……?

 旦那様が私の名前を呼んだ……?


 自分の顔が真っ赤になっていくのを感じる。旦那様の美しく低い声が、今私の名前を紡いだのか……?!

 

旦那様は使用人の名前をきちんと把握していらっしゃる方だが、当然滅多なことでは呼ぶ機会などない。呼びかけは「君」で済ませてしまう。

 旦那様の薄い唇から発せられた甘美な響きに私はうち震えた。

 

「あ、その……た、大変でいらっしゃいますよね。奥様もお嬢様も酷い病に臥せっていらっしゃって……心中お察し致します」

 

 ああもう、もっと気の利いたことが言えないものか!

 

 私は突然のプライベートな会話に動揺していた。

 

「ああ。妻の兄からも離縁を求められているし、もう潮時なのかもしれないな……私もそろそろ、全てを投げ出して楽になりたいよ、ここだけの話」

 

「あ、そんな……旦那様……!」

 

 ずっと渇望していた展開がいきなり訪れた。ごくりと唾を飲み込む。


 しかし、更なる衝撃が私を襲った。

 

 旦那様はそのテノールの魅惑的な声で、まるで囁くように私に向けて言った。

   

「……思えばいつも、こうして疲れた私に君はお茶をいれてくれていたね。いつもありがたいと思っていたよ」

 

「ぁ、そんな。当然のお仕事ですから……」

 

 旦那様はふふ、と笑って続けた。

 

「いいや、丁寧にいれてくれるお茶でいつも癒されているよ。流石は元々、貴族の血が流れているだけあるね。味が違う」

 

 恐れ入ります、と返す。もう喜びが飽和状態でうまく頭が働かない。

 私に貴族の血が流れていることなどもう知っているものはほとんどいないが、旦那様は認めてくださっているのだ!

 

「いつも、君は私に尽くしてくれたね……実は、この就寝前の時間が最近待ち遠しかったのだよ」

 

 これは、これはまさか。

 

 いつの間にか旦那様はテーブルに肘を着き、私の顔を覗き込むような姿勢になっている。そして美しい唇を動かした。

 

「もっとその時間が欲しいものだ……なぁ、ルージ」

 

「っ……旦那様……?」

 

 歓喜のあまり崩れ落ちそうになる体を抱き締めて、私は旦那様の言葉の続きを待った。

 ああ、今、旦那様はどんな瞳で私を見詰めているのかしら?それを見つめ返すことが出来ないのが悔やまれる。

 

「君さえよければ、私の息抜きに付き合ってくれないか?……この後、私の寝室で」

 

 私はやに上がる口元を両手で隠して恥じらうふりをする。

 

「あ、そんな……そんな……」

 

 旦那様はそんな私をじっと見つめた後、ゆっくりと蠱惑的な声で囁いた。

 

 

「君の、すべてを見せておくれ」

 

 

 ああ、今日はなんという日だろう。

  

 私は、はい、と小さく返事をした。

 

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