317 黒い記憶②
アベルさんが淡々と殺しを続ける。
それを内側から眺め続けていくうちに、分かったことがあった。
殺されるのは決まって貴族か、平民の大工や細工師などの技術者だった。
どうやら派閥に都合の悪い相手や、隠蔽工作などの仕事を手伝わせた平民を消しているようだ。
つまり、アベルさんはヴィランデル家専属の暗殺者になっている。
そしてここまで来れば、今、私が何を見ているのかもわかってくる。
「(ここは、原作と同じ状況だった場合の未来……ってことだろうな)」
アベルさんの周囲には私も夜明け団もいない。
つまり、「金薔薇」と同じ状態の世界だ。
「(まさかこんな未来が待っていたなんて……)」
アストラル界は、未来、現在、過去、全ての世界の記憶と魂を保有しているという。
どんなに荒唐無稽でも、そこにあるのは真実と事実だけだ。
これもまた、アベルさんが辿るはずだった真実なのだろう。
真実を克服してこその王だとでも言うのだろうか。
いらぬ苦しみを与えてくる試練に顔を顰めてしまうが、その間にもシーンは進んでいく。
……暗殺者として信頼されるようになったアベルさんは、いつしかヴィランデル家の屋敷の中を拘束されずに歩けるようになっていた。
見た目は、忠実に仕事をこなす使用人といった感触だ。
その瞳は見たことがないほど黒く淀み、感情を一切窺わせなくなっている。
そんな日々の中で、アベルさんは何度か“ガブリエラ”にも遭遇していた。
このガブリエラもまた「原作通りのガブリエラ」らしく、生真面目そうで、威厳があり、正義感に溢れた印象の少女だ。
何度か家の中ですれ違ったり、母親の書斎へ来たところに遭遇している。
その時、ガブリエラは──アベルさんを気にする素振りを見せたり、話しかけてこようとした。
しかし今見ているのは、「アベル攻略ルートではない未来」なのだろう。
母親とアベルさんの行動を訝しむ表情を見せつつ、深追いはしてこなかった。
「(ということは、原作のガブリエラはいずれ母親と対決することになるのかもしれないな……)」
本来のガブリエラは悪役であって、悪では無い。
それどころか強い正義の心を持った主人公のはずだ。
きっとどこかで親の犯罪に気が付き、決別し、皇子や攻略対象と共に全面対決するというシナリオなのだろう。
そんなことを考えていると、また画面が切り替わった。
「(夜の屋敷だ。また誰かを殺しに行くんだ……)」
殺し。
そのシーンは、何度追体験しても叫び出しそうになる。
失われていく温度、力の抜けた虚ろな表情、恐怖や苦痛に悶える人の声。
「大義」の為に殺しをしているアベルさんは決して相手を痛めつけることはせず、むしろ死ぬことすら悟らせないようにしていたが、それでも生々しい感触は恐ろしいものだった。
そんなことを考えながらシーンの続きを見ようとして……。
私は固まった。
「(ここは、まさか)」
手入れの行き届いた薔薇の中庭。
見慣れた廊下や窓。
そして勝手知ったる間取りの。
──オーキュラス上屋敷。
「(!!)」
衝動的に体を動かそうとするができない。
暴れて叫んで、止めてと叫ぼうとしても体を動かせない。
アベルさんが闇の中を音もなく歩いていく。
その先には──私の両親の寝室があった。
「(アベルさん!! アベルさん、起きて!! 起きて下さい、ねえ!!)」
必死に心の中で叫んでも歩みは止まらない。
部屋の扉が静かに開いていく。
そうして、瞬きの間に風の刃が下された。
「(あ)」
目を背けたくても背けられない。
そう躾られたアベルさんは、獲物から決して目を背けないからだ。
鮮血が散って、私の両親──お父様とお母様が声もなく絶命する。
「(嫌ぁあァ!!)」
絶叫してもその現実は変わらなくて、いよいよ私は気を失いそうになった。
それでも歩みは止まらない。
次は私の番だった。
返り血のひとつも浴びず、誰に目撃されることも無くアベルさんが私の部屋に侵入する。
そして、寝台に横になった私に近づいた。
「……」
アベルさんは私のことを静かに見下ろしている。
そして、両親のように躊躇なく殺すのかと思いきや──立ち止まった。
「この子も……そうなのか」
アベルさんが、小さな声でそう呟いた。
そうして震える手を伸ばした。
その瞬間。
“止めろ!!”
どこかから血を吐くような声がして、意識がぐらりと揺らめいた。
景色がゆらゆらと薄らぎ、今の風景から切り替わっていく。
「(今のはアベルさんの声!?)」
キョロキョロしようとするができない。
私の視界は、また──雪の降る街に戻っていた。
しばし呆然と白い町を見ていると、階段を降りてくるアベルさんの母親を視界に認めた。
「アベル! もう、また抜け出していたのね!」
「ごめんなさーい、母上!」
「もう、駄目でしょう」
──確信する。
「(アベルさんは悪夢を繰り返し見ている……!!)」
そう思った瞬間、視界一面が色とりどりの花になり、血飛沫になり、殺した人々の顔になった。
どこかから狂わんばかりの慟哭の気配がする。
このままではアベルさんが本当に戻れなくなる。
咄嗟にそう思った私は、ほとんど無意識に動いた。
心の中で、ある呪文を唱えたのだ。
「………“幸いなるかな。夏の雪、……冬の短夜”」
呪文というより、歌だ。
唇から零れ落ちたのは、アベルさんに教えてもらった子守唄だった。
「秋、萌え出ずる……春、黄金の稲穂」
有り得ないこと、面白いことがこの世には存在する、それを楽しもうというという歌だ。
明日を楽しみにして、今日はもうおやすみと歌う歌。
「今、過ちを全て運びさらん、明日をことほぎ願おう」
絶望していても、家族に負い目があっても、アベルさんはこの歌をずっと心の中に持ち続けていた。
そして優しい顔で……私を心配して、この歌を教えてくれたのだ。
「輝きは満ち溢れる、雨と土の匂い、風に抱かれて。今日はもう眠りなさい」
そこまで歌いきった時。
──景色が真っ白な世界に戻り、遠くの方にアベルさんの姿が浮かび上がった。
地面に崩れ落ちて俯いている。
咄嗟に駆け寄ろうとする。
すると「来るな」という細く掠れた声が飛んできて、私は躊躇した。
アベルさんは打ちひしがれている。
全てを拒絶するように顔を伏せてしまっている。
しかし私は──その声を振り切って走った。
そうして、アベルさんに飛びつくようにして近づき、頭から思い切り抱き締めた。
万が一にも離されないようぎゅうぎゅうにしがみつくが、アベルさんは動きはしない。
むしろ……力なく、酷く震えている。
突き飛ばされないことを確認して、恐る恐る腕をゆるめる。
アベルさんの頬に両手を差し入れて顔を上げさせる。
「……っ」
アベルさんの泣き濡れた赤い瞳は、苦しみに喘いでいた。
いつも大人っぽく振る舞う、少し皮肉屋で、でも愛情深い青年はどこにもいない。
今のアベルさんは助けを乞う子供であり、人生に絶望した大人だった。
この人の苦しみはあの日のままで止まったままなのだと悟る。
無理もない。
瀕死だった人々もそうだが、恐らくは、まだ賊の手にかかっていなかった一般人も“災い”に巻き込まれたのだ。
人々が傷つけられたのは皇弟家族の謀略で、それにより呼び覚まされた“泣く女”が凶悪な魔術を行使したのだとしても、確かにアベルさんはそこに魔力を注いでしまった張本人だった。
そして、追体験した未来の光景。
人を殺す体験だけでも抱えきれない衝撃だが、きっとそれ以上に……。
「私は……私は、あんな事ができる、人間、だったのか」
「アベルさん」
違う、と言いたい。
だけど見てしまった光景は覆せない。
洗脳されたとはいえ、罪を正当化するために暗殺者となった自分の姿を見て、真面目なアベルさんが自分自身に絶望しないわけがなかった。
「アベルさん」
涙で冷えきった頬を温めたくて、目を見て話したくて。
今にもすり抜けてどこかへ消えていってしまいそうな心を繋ぎ止めたくて、必死に話しかけようとする。
それなのに。
結局何も言えなくて、私はアベルさんをただ強く抱き締めた。
「アベルさん……」
どうすればこの人に寄り添えるのだろう。
何を言えば、救えるのだろう。
漫画のヒーローみたいに、人を勇気づける才能が自分にあれば良かったのに。
美しいヒロインみたいに、存在しているだけで人を癒せる人間ならよかったのに。
そう思ったけど、私にできることは結局ひとつだった。
「過去は変えられません。でも未来はまだ来ていません。だから実証しましょう」
「……?」
アベルさんが微かに反応した。
どうか届いて欲しいと思いながら、私は必死に続ける。
腕をゆるめて、もう一度顔をしっかりと見た。
「あんな未来は永遠に来ません。それを、ずっと傍で、私が見ています」
──アベルさんの瞳が見開かれる。
私にはこれしか言えなかった。
導けるとも、助けるとも言えない。
それを言うには、アベルさんの抱えているものは大きすぎた。
ならば私にできるのは、寄り添うことだけだ。
かつて、私も他者からそうしてもらったように。
分け与えられた温もりを、また誰かに伝えるために。
力不足かもしれないとか、そんなことは関係がないのだ。
ただ、そうあろうとする姿勢が誰かの太陽になるかもしれないと知ったから。
「私はアベルさんを信じています。きっと最後の時には“大丈夫でしたよ”って太鼓判します」
頬を濡らす涙を拭い、何度も拭い、その頬を少し温めてから手を差し出す。
「だから、行きましょう!」
そう言うと、アベルさんが瞬きをした。
「……君は」
「はい」
「君は」
自分の涙をグイと拭って、それから息を吐いて、震える喉を落ち着けたアベルさんは。
眉を下げて、なんだか泣き笑いみたいな、苦笑のような、表現しにくい顔をした。
「本当に……理解し難い」
「えっ、そ、それはどういう」
呆れているともとれる言葉に狼狽える。
かなり大きなことを言った自覚はあるのでほんのりと赤くなってしまうが、アベルさんは。
アベルさんは、今度こそ微笑んだ。
微かにだけども、苦くだけども、微笑んだ。
「そうだ、そうだった。……あやうく忘れるところだった」
「あ、アベルさん?」
アベルさんがゆっくりと立ち上がる。
そして服の裾を払い、私に向き直った。
いつものように背筋を伸ばして立ったアベルさんに、ぽんと頭を撫でられる。
「……!」
赤い瞳が……弱々しくも、光を取り戻している。
「君は、他者に対して軽率にそういうことを言う、とんでもない人たらしだったな」
「ひっ、人たらし!?」
あまりの言い草に抗議の声をあげる。
しかしアベルさんは──今度こそ、温かみのあるほほ笑みを浮かべた。
まだ苦しみの影は消えない。
空元気もあるだろう。
だけど、それは確かに温かで。
「君から目を逸らしている場合ではなかった。……少なくとも生きているうちは、忙しくて悩む暇も無さそうだ」
「え、ええ……?」
思てたんと違う。
そんな突っ込みが脳裏に浮かぶ。
いや、元気を取り戻してくれたのは嬉しいんだけど……。こういう方向ではない予定だったというか、なんというか。
見守るつもりが、何故か見守る宣言をされている。
どうしてこうなったとはてなマークを飛ばしまくっていると、アベルさんが「行こう」と言った。
それと同時に──白い世界に、キイ、キイ、という、船を漕ぐ音が響いてきた。




