315 赤い記憶④
バツンと意識が弾かれる感覚がして、また暗転した。
ドッドッと激しく動く心臓を押さえるようにして後ずさる。
「どうして、あんな……」
幼いアベルさんの体験は想像した以上に壮絶だった。
しばらく冷静になれず、暗闇の中で蹲って感情の嵐をやり過ごす。
……今見たのは、“紅丘陵事件”の全容だろう。
意図せずして見てしまったそれには、不可解なことが沢山あった。
幼かった時のアベルさんは“災い”と思ったようだが、あの襲撃はあくまで人為的なものだと思う。
北方民族が主な侵入者だったが、敵兵の中には帝国の言葉で「いたぞ!」と叫んだ者がいた。
つまり手引きした者がいた訳だ。
それは分かるのだが……。
“泣く女”とは、一体何なのか。
あれが災いの根幹で間違いないとは思う。
なぜ礼拝堂に現れ、タロットを出現させ、アベルさんにタロットを起動させたのか。
何より……人々を花に変えて「もう苦しまない」とは、なんて悪趣味なのか。
そんな謎とは対照的に、ひとつ分かったこともある。
フードの男とその息子だという子供。
あの子供は、見間違いでなければ。
「イレ皇子だ」
癖のある黒髪に緑のタレ目。なにより、タロットを知る者がそう多いはずがない。
幼く無邪気な様子に見えたが、それが本物だったのかどうかは分からない。
そして私には、フードの男……イレ皇子の父親だという男が異常に思えた。
アベルさんは最初、秘密を共有してくれる良い人物に見えていたようだが、私の目には……アベルさんを盲信するような、それでいて利用するような、異様な執着が見えた。
そう考えていると、また意識がブレて引きずり込まれていく。
慌ててアベルさんを探すべく何度も名前を呼ぶが、冷たい闇からは沈黙しか返ってこなかった。
◇
次に目が覚めたのは地下牢の中だった。
ここは見覚えがある。
私も囚われたあの地下牢だ。
縛られ、手の指を木の枷で動かないよう固定されたアベルさんは狂犬のように吠えていた。
「お前が、お前たちが賊の手引きをしたのか!? さっきの言葉はそういうことだろう!!」
吠えるアベルさんに対して肩を竦めてみせたのは、フードの男……イレ皇子の父親だった。
つまりは皇弟である。
「おやめ下さいアベル様。あれはあなたのせいに他ならない」
「……っ」
ハッキリとアベルさんのせいだと言い切った男は、アベルさんの前に恭しく跪いた。
「些事などどうでも良いでしょう。それよりなぜ否定するのですか? あれほどの奇跡を起こしたことを、なぜ誇りに思わないのです?」
そう言って覗き込んでくる男の目は奇妙な高揚に支配されていた。
狂信者の目だ、と思う。
その目を見て、私はこの男が「アベルさんにタロットを使わせるために事件を起こしたのだ」と直感した。
そのくせ、「賊を引き込んだのか」という問いに対しては論点をずらして答えず、アベルさんが家族を殺したと何度も言い含めている。
大人の目線から見れば稚拙で姑息だと思うが、幼く、追い込まれているアベルさんには効果抜群だった。
赤い瞳が歪み、ぼろぼろと大粒の涙が零れる。
皇弟はその涙を拭いもせずに続けた。
「あなたは神に等しい力を持っている。下らないことにこだわるのは止めるのです」
「くだ、ら……?」
「ええ。彼らはどの道死ぬ運命でした。しかしあなたの手によって醜い肉塊となる前に救われ、美しい花になることができたのです。これが救いでなくて何でしょう?」
狂気的な目に覗き込まれ、トラウマを切り刻まれて、アベルさんは怒りと恐怖に震えている。
しかし皇弟はなおも狂気を差し向けた。
「さぁ、分け与えてください。その神の知識を。あなたは他にも知っているはずだ」
「知、らな、い……」
「いいや、知っている。なぜならその髪と目の色が、そして古代文字を知っているという事実が、あなたの血筋が、あなたがタロットの継承者であるということを示している」
皇弟が微笑んだ。
すると、皇弟の後ろに控えていた仮面の男達がアベルさんを取り囲む。
その中にはひときわ小さな姿があって……仮面をつけているが、それは明らかにイレ皇子だった。
それに気づいたアベルさんが目を見開くと、イレ皇子がふりふりと親しげに手を振ってくる。
その姿を見て、アベルさんの中に「裏切られた」という強い感情が迸った。
幽閉され、どうすればいいかも分からず誰にもすがれなかった時、安心をくれた。
辛い時にそばに居て、無邪気に笑ってくれた。
そのことを感謝していたのに、弟のように思い始めていたのに。
実際は目的があって近づいてきた、得体の知れない組織の関係者だった。
二人の確執の始まりに息を飲んでいると、皇弟が「来なさい」と言ってイレ皇子を呼んだ。
そして「丁寧にやるんだよ」と言ってアベルさんの右手の小指を一本持ち上げ、イレ皇子に持たせる。
その手の感触に、追体験している私もドッと冷や汗が吹き出た。
アベルさんは危機を感じて逃げようと藻掻くが、指の一本一本を指枷で固定されているから逃げられない。
アベルさんと感覚を同じくしている私も戦慄した。
皇弟がことさら優しく微笑む。
「大丈夫です。この世に治癒の魔術はありませんが、タロットならきっと瞬きの間に治すことができますから。タロットの魔法陣さえご教授いただければ、すぐに治して差し上げますからね」
続けて、幼いイレ皇子も楽しげな声音で言った。
「えへへ。うまくできなかったら、ごめんなさい!」
──そうして拷問が始まった。
◇
ひゅー、ひゅー、というか細い息が聞こえる。
それが自分の息遣いだと気づいたところで身体中に激痛が走り、一気に意識が覚醒した。
拷問が始まってから数日経っているようで、指は既にほぼ折られている。
爪も剥がれており、身体中が酷い打撲だらけだ。
無事なのは人差し指一本だけ。
その指が残されているのは温情などではなく、秘密を教える時にスムーズに示せるようにという、ただそれだけの為なのは明白だった。
「ねーねーアベル様、僕、飽きてしまいました」
「……」
意識を取り戻したアベルさんの前にいるのは、椅子に座ってぬいぐるみを抱えているイレ皇子だ。
その両脇には仮面の男が二人ほど控えている。
「お人形あそび、退屈であんまり好きじゃないんです」
そう言ってイレ皇子がぬいぐるみの腕を持って捻りあげる。
すると、控えていた男がすっと動いてアベルさんの後ろに回った。
そして声を出す間もなく、ぬいぐるみと同じように腕を後ろへひねり上げる。
外れた肩をさらに弄られてアベルさんは絶叫した。
「ぎっ、あ、ぁあぁあ!!」
「はやく教えてください。そうしないと、ちちうえにまた怒られちゃいます」
そう言って足をぶらぶらさせるイレ皇子は、表の顔もある多忙な皇弟に代わってアベルさんを痛めつける役割を担っているようだった。
それはどうやら訓練を兼ねているらしい。指示が甘かったり効果的でないと見ると、両脇の男たちが小声で指示をしたりアドバイスをしていた。
なぜ大人が拷問を指揮しないのかと思ったのだが、その疑問は本人の言葉により解決した。
「とうといおんみ、だっけ。僕やちちうえ以外がやっちゃいけないなんて、めんどうだよね」
「……?」
「だれが指示しても、おんなじだとおもうけどなぁ」
はーあ、と妙に大人っぽいため息をついたイレ皇子がぬいぐるみの手をぐいぐいと捻りあげる。
アベルさんは声も出せずに脂汗を流した。
「どうしてアベル様のいちぞくは、それをおしえてくれないんでしょう?」
「……?」
「れいぞくのまほうも、ごうもんも効かないなんて……どうして?」
尋問の言葉とは少し毛色が違う呟きに顔を上げると、イレ皇子が首を傾げた。
「ひいひいおじいさんも同じだったって、ちちうえ言ってました。ムダボネだったって」
その言葉にアベルさんが戦慄する。
つまり先々代……アベルさんと似たような境遇だった人も捕らえられたのだ。
しかし、恐らくは秘密を漏らさなかった。
そして帰ってこなかったのだ。
それを聞いて、アベルさんが密かに強く決意したのを感じた。
きっとそれは、家族が守り抜いてきた秘密を──自分がとどめを刺してしまった家族が守ってきた秘密を──せめてそれだけは守り通そうという決意だ。
「(イレ皇子にはそれが分からないんだな……)」
幼すぎるからなのか、あるいは、人を害することに慣れてしまっているからなのか。
「(いずれにせよ、アベルさんはここでは喋らない)」
緊迫した空気にひりつきつつ、私はこの過去の出来事についてひとつだけ分かることがあると思った。
この幼いアベルさんが何処まで察しているかは分からないが……“災い”には二種類の意味があったんだ。
ひとつは、あの“泣く女”が現れる魔力災害のようなもの。
そしてもうひとつは──皇室に目をつけられるという意味だ。
髪を黒く染めるというのも、アルヘオ文字を公にしないことも、皇室に目をつけられないための行動だったということ。
アベルさんの父親がそれを知っていたのかはわからないが、知っていたとしたら、幽閉にはアベルさんを隠す意味もあったのかもしれない。
悪手を打ってアベルさんの意志を固めたことに気づかず、イレ皇子が続ける。
「ねえ、いっこだけでいいから教えてください。ね、今日はいっこだけ」
「黙れ……!!」
アベルさんが声を振り絞ってそう言うと、イレ皇子が「はーぁ」とため息をついた。
そして──雰囲気が変わる。
それはまるで、弱ったネズミを見る猫のような目だった。
「どうして、へいきなんですか?」
「……?」
「アベル様のせいでみーんな死んじゃったのに、どうして、タロットを、じぶんだけ持っていようって、思えるんですか?」
「……!!」
突然飛んできた言葉の刃に、アベルさんの体が震える。
「いちばん持ってちゃいけないのって、アベル様ですよね? 僕たちにあずけるのが、一番のつぐないだって、なんでわからないんですか?」
「……っ」
言葉巧みに誘導してくる。
「しってますか? ひとごろしは、じぶんのことを、じぶんで決めちゃダメなんですよ」
「五月蝿い……」
「アベル様は、とうといひとらしいですけど、ひとごろしです」
「五月蝿い!!」
「ダメですよ、目をそらしちゃ。殺したおとうさんとおかあさんが、かなしみますよ」
「……っ!」
「ひとごろしのアベルさま。さあ、知っていることをおしえてください!」
傷つけられるだけ傷つける。
それでもアベルさんは喋らなかった。
否──喋れなかったのだ。
突如として地下牢に熱風が吹き荒れる。
目を丸くしたイレ皇子をサポート役の男達が抱えて後ずさった。
それと同時に、アベルさんが酷く脅えた様子で絶叫した。
「あ……ぁあ……、いやだ、来るな、来るな来るな来るなぁ!! 嫌だっ!!」
──追い詰められたアベルさんの耳に、またあの女の泣き声が聞こえてきたのだ。
そして……すすり泣いていた女がふと顔を上げるような気配までした。
このままでは惨劇が繰り返される。
恐慌するアベルさんの様子と暴走し始めた魔力にサポート役の男達が慌てふためく。
しかし対処法を教えられていたようで、イレ皇子はすかさずアベルさんに電撃を浴びせて気絶させた。
それと同時に私の意識もバチンと弾かれる。
また暗闇に引きずり込まれるかと思いきや、今度は白い世界に出た。
◇
悪夢のような拷問を追体験していた私はがくりと崩れ落ちてしまい、しばらくうまく呼吸ができなかった。
感情を処理しきれず、生理的な涙がぼたぼたと零れる。
「アベルさん……っ、あ、ああ……あんな……」
どうすれば救える。
あの少年を、あの地獄から、どうしたら助け出せる?
そう思うのにできない。
あれらは、もう起こってしまった出来事なのだ。
記憶が正しければ、あの後アベルさんはオルテンシア様預かりになり、廃塔へ幽閉される。
そして魔力暴走を──というよりあの“泣く女”が災害を起こさないように、一定の魔力を使ったら即死する枷をつけられた。
その後は知っての通り、最低限のケアだけを受けて生きてきた。
私の存在しなかった真実の未来では、アベルさんは闇落ちしてしまうほど傷ついていた。その根底にはこんなことがあったのか。
そう思ったところで、ふと疑問が増えた。
「私と出会った時のアベルさんは闇落ちしてなかったのに、どうして未来で闇落ちするの……?」
アベルさんはあんな体験をしたのに、その強靭な精神力と善性により、一人静かに過ごすことを好む無害な人間になっていた。
それが、何故ラスボスに?
この先に、まだ何かあるって言うのか?
そう呟いた瞬間──まるでそれに応えるように、世界が白く輝いた。




