307 “死”のタロットカード
“死”のタロット。
それは、タロットカードの中でも最も扱いに注意すべきものの一つだ。
複雑な解釈が無数に存在し絡み合うタロットカードの中でも、比較的直接的な意味で使われることが多い。
つまりは死、終焉、破滅、風前の灯。
貴族も庶民も聖職者も等しく踏み潰す骸骨の騎士が行進する絵柄は、問答無用、死の強制力に満ちている。
「死のタロットはいままで実験することが不可能でした。研究で死人が出たら取り返しがつきませんから。でも」
「死のタロットの逆位置なら、ということか?」
アベルさんが苦い顔をする。
それに私は頷いた。
話しながら、自分の中に確信が生まれてくるのを感じる。
「死の逆位置は“解放”です。これ以上、あの死竜の解放に相応しいカードはありません」
「だとしても危険すぎる! 君にやらせるわけにはいかない」
アベルさんは首を横に振った。反対のようだ。
まぁ、それも分かる。
なぜなら、タロットは文字通り使ってみなければ分からないからだ。
──タロットも、通常の魔術と同じように術者のイメージに大きく左右される。
悪魔のタロットを使えば、そこには術者がイメージした幻覚が現れる。
しかし失敗すれば無意識に脳裏に描いたものが現れるのだ。
つまり……例えば死の正位置の制御に失敗すれば、その場にいるものが皆死んだり、あるいは術者だけがイメージに負けて死ぬ可能性もある。
解釈が本来の意味から離れれば離れるほどに失敗率は上がっていくし、指示が細やかになればなるほど難易度は上がっていく。
死の逆位置で失敗しても同様だ。
「新しい始まり」をもって死の解釈にすることもあるほどだし、あるいは全員が胎児に逆戻り、なんてグロテスクな失敗も有り得る。
というか……死者を生き返らせることに自分の倫理観が激しく反発するから、まず成功しないだろう。
小部屋から通路へ移動し、結界のある曲がり角へ向かう。
歩きながら口を開いた。
「この世に“死”のイメージに負けない人間が居るとしたら、私だけかもしれませんよ」
「何を言っている……! そんな人間がいるわけないだろう!? まて、せめて私がやるから君は後ろに──」
慌てて止めようとしてきたアベルさん。
しかし私はアサメイを抜き放ち、にっこり笑って振り返った。
「私は、一度死んでいますから」
前に向き直って唱えた。
──“展開、ワンオラクル。”
そう唱えれば、応えるように光り輝いて死のタロットが浮かび上がった。
アベルさんにやらせることだけはできないのだ。
アベルさんがやれば、絶対に失敗すると私は確信していたから。
彼ほど人を死なせることに恐怖を覚える人間は、きっとこの世にいない。
町を、領土を、民を亡きものにした彼の恐怖はきっと計り知れない。
この世で一番多くの人を殺し、殺される運命にあった人。
タロットがそれに引きずられないわけが無いのだ。
彼が強靭な意思と魔力で制御に成功したとしても、その前に、彼の首に掛けられた制御のギロチンが降りることだろう。
タロットを発動させた私を見て、アベルさんが止めようとする。
しかし手元が狂うのを恐れてか無理に止めることが出来ないようだ。
私は竜の部屋へ踏み込んだ。
「さあ、出てきてください」
そう呼びかけると、部屋の物陰に蹲っていた死竜がぞろりと動いた。
クココ、という骨を鳴らすような不気味な威嚇音が聞こえる。
その音色はよく聞けば怯えていて、私はこの竜が「死」のタロットを見たことがあるのだと確信した。
タロットにゾンビ的な意味のものは無いからてっきり“呪”によってゾンビ化したのだとばかり思っていたが、違う。
朱眼の人間だった可能性はまだ残っているが、死竜となるにはタロットが必要だったようだ。
「そっか……。タロットでゾンビは作れないと思いましたが、違ったんですね」
「アリス?」
「見てください、アベル様」
私が示した先。
死竜の体には、よく見れば幾重にも傷つけられたような刺突の後があった。
「あれは……まさか」
「きっと、“死”を止めたんです。わざと傷つけて、死にゆく体から“死”を取り上げたんです。……このカードで」
それはきっと、永遠の苦しみだ。
生きることも死ぬことも許されず、死んだ体では傷を癒すことも出来ない。
どれだけの年月をここで傷を抱えて過ごしていたのか。
もしここを通る者がいても、それは癒えない傷を与えてくるものだけで、この竜を……いや、この人を解放することはできなかった。
それで凶暴にならないはずがない。
竜の目の前で「“逆位置”」と唱える。
カードがすっと逆さになる。
それを見た瞬間、竜に動きがあった。
ずる、ずる、と隅から這い出してくる。
その姿勢は低く、弱々しい。
先程の威嚇行動は本当に力を振り絞った全力だったのだ。
そうして這ってきた竜は、私の前で──頭を垂れた。
解放を願って体を差し出した竜の幸福だけを願って、力を振り絞る。
未だかつてなく魔力がカードに吸われていくのを感じながら、私は唱えた。
「“解釈”!!」
──閃光が走った。
次いで、一陣の風がザウッと吹き抜ける。
地下の淀みを吹き飛ばすような強い強い力が通り抜けていって、私は目を開けていられず、しかしふいに光が和らぐのを感じた。
アベルさんがマントで庇ってくれている。
そう思った時には、意識がブラックアウトしていた。