聖獣転生~孤独に住まう生き物~
この世界に産み落とされた私が最初に得た意識は、「ここはずいぶんと狭いな」ということであった。もっともこれは、私がまだ殻も破れぬヒナであり、手足を丸めた自分の体と同じ大きさの卵の中に押し込められていたのだから仕方ない。
私は当たり前の鳥やトカゲなどのヒナではなく、この世界で『聖獣』としてあがめられるドラゴンの一種であったのだから、この卵の中での思索に百年の歳月をかけた。つまり百年の間、『前世』の記憶をうつうつと夢に見続けたのである。
夢の中の私は、しがないサラリーマンというやつだった。
地価の安い都心から離れた地に居を構え、毎日一時間余りの通勤時間を電車に揺られて過ごす。そして毎日を同じような書類とのにらめっこに費やし、家に帰れば平凡で無能な男として妻の繰り言に相槌を打ち、テレビの野球中継を見ながら飲むビールを唯一の楽しみとするような、そんな単調な人生の夢を、ずっと反芻して百年を過ごした。
その夢から覚めて卵の殻を破ったとき、私はすでに一人ぼっちであった。
聖獣には雄雌の別などなく、死に際に新たに聖獣となる卵をひとつきり産み落とす。だから私には父も母もなく、そして兄弟も、同族さえもいなかった。
住処はこの世界で一番高い霊峰の頂にあり、ここは年中を通して雪が降り、氷の解けぬ死界のようなところであった。
時々は山の頂を訪れる『人間』もいたが、これは聖獣が人の欲望を聞き入れて願いをかなえる力を持っているからであり、願いを言うだけ言っては下山していくような身勝手な人間ばかりだった。
この世界に生まれてから数百年、私は誰とも会話をしたことがない。
そんな私の霊峰に、一人の少女が立ち入ったのは数日前のことだった。
私は今や世界の事象のすべてを見通す神獣であり、この少女が東の貧しい村から来たことも、名前が『シェール』だということまで知っていた。しかし、彼女の願いがなんであるのか、それだけが皆目見当がつかない。
今までここに登ってくる人間は単純で私欲にまみれた願いを持つものばかりだった。
例えば二年前に来た東の国の王は、北の国と大きな戦争の最中であった。願いなど言葉にして聞くまでもない――北の国を平らげるための兵力と勝機――私はそれを彼に与えた。
またある時は太った男が登ってきたが、この男の願いは今以上の贅沢を楽しむための金であり、私の興味をそそらぬほどに単純明快で些少な願いであった。
他にも女――これは少しばかり年増であり、案の定、若々しい美貌を欲した――や、壮年を過ぎたというのに性欲の衰えない男――彼は自分を満足させるだけの女を欲し、その望み通りにハーレムの王となった――など、どの人間も願うはひどく単純な私欲に基づく私利ばかり、願いを聞く以上の会話をしたいとは思わなかった。
ところがこの少女は、若さを望むには年端もいかぬような小娘である。裕福ではないが食うに困らぬだけの暮らしをしており、身の丈に合わぬ生活を望むほど無分別ではないのだから、金を欲しがるとも思えない。女の身であれば戦勝や出世など言わずもがな。
私はこの娘の望みに強い興味を覚えて、自ら山の中腹まで降りて行った。
聖獣であるのだから姿などは望みのままだ。夢で見た自分の前世の姿を模して、ひどくさえない細身のおっさんに身をやつした私は、通りかかった娘に声をかけた。
「おやおや、あんたみたいな若い娘さんがどこへ行こうというのかね」
娘は悪びれることもなく答えた。
「この山の頂上へ」
「ほう、ここがどんな山か知っているのかね」
「知ってるわ。頂上には聖獣様がおわして、その前まで行けばどんなお願いでも聞いてくれるんでしょう」
「しかし、そこまでの道のりは険しい。頂上に近づくほどに気温は下がり、飢えをしのぐ草木も減り、石だらけの砂利道と道をふさぐような大岩しかない、死人の国のようなところを通らなくてはならないんだよ」
「それも聞いてきたから、すべては覚悟の上よ」
凛と顎をあげて頂上を見上げる彼女の瞳は強くて、山頂から吹き下ろす風にも揺らがない。「山頂までたどり着けずに死んだ人もいっぱいいるって知ってる。それでも、私はこのお願いをどうしても聖獣様に聞いてもらわなくちゃならないの」
その声があまりに力強いものだから、私はこの娘の決意の強さを感じて哀れになった。
「娘さん、若い命を無駄にするものじゃないよ。私にもちょうど、君ぐらいの年のころの娘が居てね……」
これは全くのウソというわけじゃない。私が見た前世の夢の中には、ちょうどこのくらいの年のころの少女がいた。名前は『梨々花』といって、それは確かに私の娘だった。
夢の中の彼女は高校の制服を着ていたのだから、目の前にいるこの少女と年はいくつも離れていないだろう。多感な年ごろであり、部活動で忙しく、私がビールを片手に野球を見ている最中に帰ってきて、ひとこと「ただいま」と言ったきり自分の部屋へ行ってしまうような娘だったが、あれは確かに私の娘だった。
「だから、君が若い命を散らそうというのが、とても悲しいことのように思えてね」
私の言葉に、少女は首を振ってきっぱりと答えた。
「死ぬって決まったわけじゃないです。私の人生を勝手に決めつけないでください」
ふいに遠い前世の、何気ない日常のひとこまが思い出される。
あの日、進路のことで言い争った後で、娘は私に向かって言った。
――やってみなくちゃ結果はわからない。私の人生を勝手に決めつけないで!
私はすっかりこの少女が自分の娘であるような気分になって、少しだけ涙を流した。少女はこれを心配したらしく、体をかがめて私の顔を覗き込む。
「おじさん、どうしたの?」
私はできるだけ明るい声で答えようとしたが、涙を含んだ声がわずかに震えるのをとめることはできなかった。
「とても懐かしい、二度と会えない人のことを思い出してね」
「大丈夫?」
「ああ、ああ、大丈夫だ。それよりも、君の望みを聞かせてくれないか? なに、山頂になど行かなくても、簡単な願い事ならおじさんがかなえてあげよう」
実際に私は神獣だ。小娘が望むようなチャチな願い事であれば、ほんの気まぐれにかなえてやっても構わないだろうと考えたのだ。
しかし次の瞬間、私はこの少女をあまりに侮っていたのだと思い知らされた。彼女は大きくかぶりを振って、しっかりとした声でこう答えたのだ。
「おじさんじゃ、私のお願いをかなえることはできないよ」
「心配しなくても、私は金持ちだ。きれいな洋服や、おいしいものが欲しいなら、贅沢をさせてあげることができる。どこかへ行きたいのなら、その分の旅費をあげよう。好きな男でもいるというのなら、その男が君に振り向くようにちょっとした恋のまじないくらいはしてあげよう。どうだね?」
「私のおねがいは、そのどれよりも強欲で、身勝手だわ。だから、私は代償を払わなくてはならない。それが聖獣様にお願いを聞いてもらうときのルールでしょう?」
「いや、少しくらい強欲でもいいじゃないか。君はここまで自分の足で登ってきた、それはわずかだがきちんとした対価だ。おじさんが君の願いを聞いて、それが対価と釣り合うと思ったら、君の代わりに聖獣様にお願いしてあげてもいい」
「それはダメ。そんなズルをして聞いてもらえるようなお願いじゃないことを、私は知っているもの」
「ずいぶんと強欲なんだな。世界でも望む気かい?」
「そうね。私が欲しいのは世界だわ。でも、とても小さな世界なの」
「哲学かい」
「いいえ、真実よ」
私は神獣だ。ここで無理にこの少女を問い詰めなくとも、山頂で待っていれば、おのずとその願いを聞くことになるのだから。
「そうか、気を付けていきたまえ、この辺りにはまだ人が住んでいる。もっともこんな人のこないところを定宿としている人間なんてまっとうであるはずがない。よくよく気を付けていくんだよ」
私は少女に忠告を聞かせてその場を去った。これは見せかけのことであって、私はそのあとも身を隠して少女の後を追っていた。なにしろ少女が山頂にたどりつかなくては願いを知ることさえできないのだから、最低限の護衛ぐらいはしてやってもいいと思ったのだ。
そして、それが幸いしたのは彼女が山の中腹にある大きな森を通り抜けようとしていた時のことであった。
目を離したのは一瞬、彼女が白い肌を露わにして水浴びを始めたからだ。しかし、その一瞬のすきに、彼女はこの辺りに住む山賊に取り囲まれてしまった。
「きゃあ!」
彼女の悲鳴が木々の間を裂くように響くのを聞いた私は人の姿になり、彼女がいる水辺へと走った。
賊は八人、いずれもひげを伸ばし放題にして樽のようにがっしりとした体躯をしている。いかにも荒くれものといった風体であるうえ、腕もそれなりにたつのであろう、腰にどこぞから盗んだと思われる大剣をこれ見よがしにぶら下げている。
私は、その男たちの真っただ中に飛び込んだ。
拳に一切の迷いなく男たちに殴りかかったのは、私がこの世界では何者にも負けることのない聖獣であるからではない。男で、しかも父親であれば、娘ほどの年の子が男たちに取り囲まれて拒む膝を力で割り開かれ、なすすべもなく震えているのを見過ごすことができようか。
残念ながら私は見た目ほど大人しい性質ではないのだ。存分に男たちを殴りつけ、蹴り飛ばし、これらが押さえつけている少女を毛深い男の体の下から救い出した。
少女は震えてうつむきながらも歯を食いしばって、「助けて」のひとことをこらえている様子である。おそらくはここが霊山であることを心得、自分の言葉が真の願いと誤解されぬようにという配慮であろう。
私は少女の強情さに半ばあきれながらも、山賊たちをにらみつけた。相手も殺しと戦いの中に身を置く生粋の荒くれもの、腰の大刀に手をそえてこちらにじりじりと歩を進める。
そんな賊どもを一瞥して、私は人の姿を解いた。ざあっと風の音とともに立ち上がり、巨大な神獣の姿を見せつける。
「去れ」
私の声はずいぶんと静かだったはずだ。それでも山賊どもはおびえ、剣すら抜くことなく逃げ出した。あとに残されたのは大きな体をした私と、小柄な少女の二人きりだ。
少女は驚きに目を見開いたまま、私を見上げて凍り付いていた。
私はさらに静かな声を彼女の上に降らせる。
「大丈夫だったか」
「おじさん、まさか……」
「そう、聖獣だ」
私は鼻先を下げて、少女の表情を覗き込んだ。彼女はいまだに体を小さく震わせているが、それは先ほど山賊の腹の下から助け出された時の恐怖の残り香的なものではなく、大型の獣の前に引きずり出された小動物がするような、完全なる諦観のしぐさであった。
だからこの少女がひどく哀れなもののように思えて、私は鼻先を地面にまで落とす。
「心配しなくてもいい。私は君を食らったりしない」
少女は少し安心したようで、私の鼻先にそっと触れた。
「本当に……聖獣様だ」
「どうだい、この姿の私になら、君の願いを聞かせてくれるかい?」
しかし少女は頑なで、静かに首を横に振る。
「だめ、そういうズルはしない」
「君は頑固だなあ。この先、山賊どもは追ってこないだろうが、人を食らう生き物もいる、前にも言ったとおり道は岩だらけで、どこで足を滑らせて死ぬかわからない、それでも行くというのかい?」
「行くわ。だってこれは、命をかけてもいいほど大切なお願いごとなの。ここに来る人はみんな、そうなんでしょう?」
「そんなことはない。前にここに来た王様なんかは何人も兵隊を連れていて、自分が危ない目に合うたびにその兵隊を身代わりにしていた。隣の国との戦争に勝ちたいなんて大事なお願いごとなのに、自分の命なんかこれっぽっちもかけなかったよ」
「じゃあそれは、その王様にとってはその程度のお願いだったのよ」
「君のお願いは、命をかけるだけの価値があると、そういう事かい?」
「ええ、そうよ、とっても大事なお願いなの。聖獣様にはないの? 命どころか、何を差し出してもいいぐらいの大事なお願い」
心のどこかが、ゾワッと音を立てて逆立った。
「あった……ような気がする」
そう答えるだけで精いっぱいだ。
私は百年間、ただうつうつと終わらぬ日常ばかりを夢に見ていた。毎日電車に揺られて会社と家を往復し、少しばかりの晩酌をたしなみ、寝て起きて、また寝てを繰り返す単調な日常の夢を。
その中で、とても大事な願いがたった一つだけ、あったような気がする。
「思い出せないけど、確かにあった……」
私がつぶやくと、少女は満足したように大きく首で頷いた。
「じゃあ、わかるでしょ。それだけ本気なの」
「そうか」
もはや少女にかける言葉も尽きた。私はのっそりと鼻先をあげる。
「わかった。私は頂上で待っているとしよう」
「ええ、待ってて」
そう答える彼女の瞳はやはり揺るぎなくて、私は彼女が必ずや頂上で待つ自分のところにたどり着くだろうという、確信めいたものを感じていた。
「気を付けてきなさい」
短い挨拶だけを残して、私は彼女と別れた。
山頂に戻った私は、少女がたどり着くのを待つ間にいろいろなことを考えた。
最初に考えたのは私の心を逆立たせた少女の言葉についてだった。
――聖獣様にはないの? 命どころか、何を差し出してもいいぐらいの大事なお願い
この言葉を思い出すだけで鼻の奥につんとした涙の気配が走る。時には本当に瞳から涙が落ちることもあって、私はこの感情に戸惑うばかりだった。
この言葉とともに思い出すのが前世で過ごした記憶であることから、きっと私は前世で強く何かを願ったに違いない。あの少女が揺らぎない岩のような瞳をしていたように、何を代償にしてもかまわないほどの、とても大事な願い事が……
残念ながら、その願い事がなんであったのか、それすら私には思い出せない。そもそも私の前世の記憶は不十分で、私は自分がどういう形で死を迎え、人間としての生を終えたのかさえ覚えていない。
ならばこちらからの世界に生まれ落ちてからの、今までさんざんにかなえてきた『願い事』の中にヒントがあるだろうかと考える。だが、それは思い返すだけでもぞっとするような、人間の強欲さを確認するような所業であった。
金、女、若さ……どれも短絡的であり、自分一人の人生という短い一時をより快適に過ごしたいという身勝手でしかない。そんなくだらないもののためにこんなに涙を流すほどの想いをしているのだとしたら、それはとても恥ずべきことだ。
己が短絡的で強欲な『人間』という生き物だったという過去におびえて、私は少女の到着を待った。
なぜだかはわからないが、あの少女なら、私に答えを与えてくれるのではないかと、そんな気さえしていた。
少女が山頂にたどり着いたのは私が思索を始めてから三日目のことで、彼女の衣服は一目見ただけでわかるほど大きなかぎ裂きがあちこちにあって、手足には大小無数の傷が血をにじませていた。左肩はどこかで滑落でもして痛めたのだろうか、力なくだらりと垂れて痛々しい。
私はそんな彼女の前に立って、できるだけ厳かに、しかし情け深く声をかけた。
「よくぞここまでたどり着いた」
彼女は晴れやかな顔で、にっこりと笑う。
「本気だって言ったでしょ」
「ああ、君の本気は見せてもらった、代償としては十分だ。さあ、何を望むかね?」
少女は私の前に跪き、上がらぬ左手を右手で持ち上げて祈りのために胸の前で合わせる。その姿があまりにも本気じみているのだから、私の心にまた一つ、ゾワッと毛羽が立った。
なんだか歯噛みしたいほどに焦れている。この少女がこれだけの本気の姿で、くだらぬ金や名誉など願おうものなら、きっとこの少女をかみ殺してしまうことだろう。
それほどに私は、彼女の願いを待ちわびていた。
はたして、彼女が願ったのは……
「私のお母さんはこれから赤ちゃんを産もうとしています。でもお母さんは体が弱くて、このままでは死んでしまうといわれています。でも、だから……お願いです、お母さんと赤ちゃんを守ってあげてください」
それはあまりにも当たり前すぎる、実にささやかな願いだった。だから私は彼女の真意がくみ取れず、思わず尋ねる。
「そんなことでいいのか?」
「そんなことじゃありません。とっても大切な願いです!」
「いや、確かに家族を想う愛情はとても大切だが、それが命までかけるほどのものなのかい?」
「私のお母さんは体が弱いだけじゃない、赤ちゃんを産むには、ちょっと年をとっているの。だから、本当に、死んじゃうかもしれない」
今まで岩のように強固だった彼女の瞳には、にじみだす清水のように清らかな涙がたっぷりと溜まっていた。
私はその涙をなだめようと、彼女の顔に鼻先を近づける。
「ああ、すまない、そういうつもりで聞いたんじゃないんだ。君はここまで一人で登ってきた。その体を見れば、どれほどつらい目にあったのかもわかる。それなのに、そんな簡単な願い事でいいのかい?」
彼女の声が明るく跳ね上がる。
「簡単ってことは、願いをかなえてくれるの?」
「ああ、もちろんだ。安心するがいい」
「よかった……」
気が抜けきったか、彼女はへたりと崩れ落ちる。私はそんな彼女の姿を笑う。
「欲がないなあ。ここまで君が登ってきた苦労を想えば、十分な対価を払ったと考えられる。この世のすべてを望んでもかなえられるだろうに、たった家族の安寧だけを願うのかい?」
「ええ。だって、私にとってこの世のすべてっていうのは、『家族』そのものですから」
私の中で、記憶のかけらがコチリと音を立てた。
そうだ、私もこうして、家族という『この世のすべて』を願ったことがある。そうか、だから私はこの世界に聖獣として暮らすことになったのかと。私が前世で死んだのは、何らかの神的存在が私の願いを聞き届けたからに違いない。
その年、私の娘は学校行事で旅行に行くことになっていた。生活時間が合わず、ろくに顔を合わせることもなかった親子関係だ、私が娘の不在を知ったのは、夕食の時の妻の言葉からだった。
「あの子が二日もいないなんて、なんだか寂しいわねえ」
「なんだ、二日もいないって」
「このあいだ言わなかったっけ? 学校のバス旅行で、箱根へ行くって言ってたでしょ」
「へえ、温泉旅行か。高校の行事にしては小粋なことだな」
テレビはちょうど野球中継を待ってつけられており、画面の中では若い芸人がどつきあうようなにぎにぎしいバラエティ番組をやっていた。そこに不穏な速報のチャイムが鳴る。
『番組の途中ですが……』
突然切り替わった中継は、雨で崩落した崖を映し出していた。そして、学生の乗ったバスがこれに巻き込まれたのだと……妻が呼吸を失ったかのように、口元をパクパクと動かす。
「これ、まさか」
「まさか、何?」
「あの子の乗っていたバスじゃ……」
妻がパニックなど起こさぬようにと、顔にこそ出さなかったが、私は心臓のあたりをつかまれるような不安感にあえいで声をあげてしまいそうになっていた。それでもあえて冷静な様子を崩さず、静かに言う。
「そんなに心配なら、電話をしてみればいいじゃないか」
「そ、そうね、そうよね」
妻はいそいそと立ち上がったが、テレビの中のアナウンサーは無情にも、娘の学校名を告げた。
『現場では必死の救出作業が続いておりますが、折からの雨で地盤がゆるく、作業は難航しております。以上、現場からでした』
私たちは二人とも、しばらくの間無言だった。テレビは元のバラエティ番組に変わり、芸人が大口を開けて笑っていたが、私にとってはそれさえも静寂と同じように鼓膜に届かぬものであった。
やがて、妻がわっと泣きだし、膝から崩れて床に伏せた。
そんな声さえ私たちにはもはや聞こえはしなかった
「梨々花、梨々花、梨々花ぁっ!」
どれほど泣いて呼ぼうとも、娘が返事をするわけがない。リビングには妻のすすり泣きと不安が重たく詰め込まれ、私は海の底に沈められたかのように呼吸のためにあえいでいた。
(もし……)
私の脳裏に祈りが浮かんだのは、その時だ。
(もし、娘が助かるのなら、私は何もいらない。命さえも。もしもこの先千年の間を孤独に過ごすことになってもいい。娘は……娘だけは!)
私の願いは聞き入れられた。その後、私がここに聖獣として産み落とされたということは、千年の間を孤独に過ごすという対価と引き換えに娘は助かったということだろう。
ふと視線をあげれば、少女はいまだ祈るように両手を組んでいた。自分ではない誰かのため、家族という小さな世界を守るために祈りをささげる姿は、はかなくも美しい。
だから私は鼻先をあげて、少女に言った。
「君の願いはきっとかなえよう。だから、さあ、帰りなさい」
「え、私を生贄にして食べちゃったりしないの?」
「そんなことはしない。君は、家族という君にとって一番大事な『世界』を望んだ。ならば、そこに君が居なくてどうする。さあ、かえってお母さんのお産を手伝ってあげなさい」
「聖獣様、ありがとう!」
何度も頭を下げて山を下りてゆく彼女を見送って、私は私自身の願い事を牙の間でそっとつぶやいた。
「どうかあの子が、幸せでありますように」
私は全ての願いをかなえる聖獣だ。もちろん、自分の願いだってかなえることができる。きっとあの子の下山はなだらかで、安全なものであることだろう。
例えばその対価としてもう千年、生き物すらろくに訪ねてはこないこの山の頂で孤独に過ごすことになろうとも、私は少しも後悔などしないのである。