細かいことを気にする症候群 ~異世界が書けない理由~
調子に乗ってエッセイ第2弾書いてみました。
現在「小説家になろう」では異世界転移・異世界転生が圧倒的人気です。
しかしわたくし湯田久印にはその手の異世界ものが書けません。
もしかすると以前のエッセイ「物語が書けないわけ」を読んでおられる方は、
「お前そもそも物語書けないって言ってたじゃないか。だったら異世界に限らないだろうがよ」
と仰るかもしれません。まったくもってその通りです。
ただ、物語そのものが書けない理由とはまた別のところに私を躓かせるものがあるのです。ただしご覧になれば分かりますが、この躓きが「異世界」に限った問題でないのはまったくの事実ですが。
何が問題なのか。それは書き始める前に細かいことを気にするからです。
・異世界とはどう「異」なる世界なのか。そもそも「世界」とは何か。
・この世界と異世界の関係はどういうものか。
・この世界の人間が異世界に行ったら言葉は通じるのか。
こういうことを考え出して、ストーリーどころではなくなります。
言葉の問題なんて便利な翻訳魔法みたいなのがあるでいいじゃん、と思うかもしれませんが、そこで「そもそも完全翻訳は可能なのか」なんて専門的なことを考えてしまうのが知識だけある馬鹿の性です。
異世界の自然法則は私たちの世界と同じなのでしょうか。魔法のある世界の場合、その時点で基本的な世界のありようが違う気がします。物理法則は同じだと仮定しても生物はどうでしょうか。
はたまたその「世界」は惑星なのか。そこに月はあるのか。
月がなければ満月の夜に変身する狼男も登場できませんし、その世界の暦にも「月」は存在しなくなるでしょう。潮の満ち引きもほとんどなくなり、環境は地球とは大きく違ったものになるでしょう。
これくらいのことは考えておく必要があるように思ってしまうのです。
しかしそうやって世界を隅々まで設定するのは大変な苦行です。現実的に考えれば考えるほど「それを成立させるのは難しい」という当たり前の問題に衝突するからです。
最大の問題は、こうやって真面目に考えれば考えるほど異世界は「主人公が活躍するのに都合のいい舞台」ではなくなっていく、ということです。
独自の環境があり、その世界の住人が独自の文化を持つ異世界に急に行って馴染めますか? 難しいでしょう。独自の風土や文化がある異世界で、主人公が馴染むのに何万文字もかかる話、読みたいですか? そもそも書く気力が湧きますか? 私には無理です。
異世界転移/転生ものの作者のほとんどはこうした問題をスルーします。自分がスルーするだけでなく読者にもスルーさせます。
これはきわめて大切なことです。読者が余計なことを気にして話の内容に入り込めなかったら、その時点で少なくともその読者を惹き付けるには失敗しているのですから。「スルーさせるスキル」は作家の貴重な才能です。
私も他人の書いたものを読む時にはいくらでもスルーできます。心の片隅に留めていて評論家モードになれば突っつくことができても、読む時には気にせず作品を楽しむことができます。ですが自分で書こうとするとそうはいきません。
「そう言うけどさ、みんなスルーさせるために特別なギミックを使ってるわけじゃなくて、そんなこと話題にせずに話を進めてるだけだろ。お前もそこまで分かってるならスルーして書き進めてみろよ」
そう仰るかもしれません。
よろしい、それでは現代人の主人公が異世界に行ったとしましょう。異世界の基本環境は地球と同じ、現在の地球と同じホモ・サピエンスが住んでいます。言葉は通じます。想像を絶する異世界固有の文化とかはありません。なぜとは問いますまい。
異世界の文明レベルは産業革命以前と致しましょう。
現代の知識をもって主人公は活躍できるでしょうか。
無理です。私も鉄の還元反応や溶鉱炉の基本的な仕組みは知っていますが、だからといって手製の溶鉱炉なんて作れません。溶鉱炉そのものが高度な技術の結晶だからです。そもそも自然界にある鉄鉱石を見分けることができるかどうかからして疑問です。
製鉄なんて結構古い技術からしてこうです。高度な近代技術ならばなおさらです。
ではもっとハードルを下げて、先立つ技術がなくても知っていればできるようなことが意外と知られていなかったり、ちょっと手を加えれば格段に進歩するような不完全な技術が転がっていたりするご都合主義な世界ならどうでしょうか。
この「ご都合主義」は貶し文句ではありません。この方向で成功している作品は確かにあって、手放しで褒めていいと思えるものもあります。
しかし、そんな絶妙な匙加減のご都合主義設定がすでに高度な発想力を要求します。もう私ごときには及ばない世界になってきました。「ご都合主義な感じに不完全な文明」とはどんなものか、自分ではさっぱり思いつきません。
これは現実的にしかモノを考えられないからです。
・西も東も分からない見知らぬ世界に放り出された → ムリ。生き延びることなどできない。
・ものすごい強敵が現れた → それだけ強いんじゃ倒しようがない。
・戦争が起こっている → 人類はつねに戦争してきた。世界平和など不可能。
このように現実的に考えることはとても簡単です。「現実的」というより「論理的」と言った方がいいかもしれません。ただし、それだけではフィクションのストーリーは進みません。
現実的な問題を扱って、「こういう問題に万能の解決はない」で締めている作品が「リアリティがある」「地に足が着いている」と言われることがありますが、私はそういう作品を(それだけであれば)凄いとは思いません。
現実的な問題を現実的に扱うだけならノンフィクションでもいいからです。
「フィクションならではの一歩」が欲しい。「同じような主題を扱ったノンフィクションと比べてこの小説を読む価値はなんだ」という問いに答えられねばなりません。でもそこが難関です。
もちろん、「現実路線」の傑作も存在しますが、そういう作品はやはりフィクションだからできる要素を上手く活かしています。
もういい。現代知識を選ぶ方向は諦めてフィクションに振り切り、主人公が異世界に行く時にチート能力を授かったとしましょう。
この場合のハードルについては「物語を書けないわけ」で語ったので今回はやめておきます。
とにかく、異世界に単身放り込まれるというのは完全にアウェイです。すべてゼロから始めなければなりません。こんなハードルの高いところから始めたらできることもできない――と私のような「現実派」は考えてしまいます。
いくら考えても、主人公に何もできそうにないのです。
「チート能力」でそれを乗り越えようと考えた人たちは偉大でした。どうしてそんなことができるのか、私には今もって分かりません。
これは別に皮肉で言っているのではなく、本当に私にはマネのできない技があるのです。
最後の手段、ストーリー性のある活躍も放棄して主人公が異世界でだらだら過ごすだけを目指してみましょうか。
でもここで「それじゃ異世界行った意味あるのか?」という根本的な疑問に直面して、私は停止してしまうのです。
創作法や受ける方法を論じているエッセイは見かけますが、こんな低レベルなところで止まっている理由を自己分析しているのは少数派かもしれません。