星の王子様
「パソコン書類の訂正線は、アスタリスクを使っているんですね」
と話すのは、新入社員の里中。大学卒業後に入社した彼は、まだ合コンに行った事がない。勉強一筋の真面目な性格でアルコールも満足に飲めず、新人歓迎会の時には、始まった早々に真っ赤な顔をして畳の上で横になっていた。
里中の隣の机にいるのは海野。入社10年目の彼は30代の年齢で、仕事が終わると妻に電話をして「仕事の残業だ」「得意先回り」だと言って、なんの罪悪感も無く合コンに参加していた。
「昔は、油性ボールペンで伝票に書いて、訂正の時は二重線を引いて自分の訂正印を押していたんだよな」
今は仕事中なので、海野はパソコンで打ち出された伝票を順番に見て間違いがないかチェックをする。
ここは玩具会社の出庫場。パートで働く人々が倉庫内を行き来している。
そのすみっこにある事務所で、里中と海野は本社から送られてくる発注内容を見ながら、伝票の発行や足りなかった商品の追加発注などをしていた。
海野は片手でパソコンの入力をしながら、隣にいる里中に言った。
「里中。今度、俺と合コンに行かないか?」
里中は覚えたての仕事に戸惑いながら、どこまで伝票を処理したのか忘れないように付箋をつけてから答えた。
「僕は合コンに行った事がないんですよ。それでもいいですか?」
「合コンに行った事がないのか!」
海野の声は驚いているが、表情は冷静で滑らかに指を動かしてキーボードを叩いている。
里中は笑顔だが目線を下げて言う。
「彼女がいたので、合コンに行く機会がなくて」
海野は指を動かしながら里中を見た。
「結婚するのか?」
「別れました。真面目な俺はつまらないらしくって。フラれました。一ヶ月前です」
里中はパソコンに向き直ると入力途中の伝票を持ち上げた。これで会話は途絶えると思ったからだ。
だが会話は止まらなかった。
今度は海野が仕事の手を止めて里中を見る。
「だったら遠慮なく合コンに行けるな」
「合コンですか……」
里中の返事は芳しくない。
海野には里中の沈んだ様子の理由がなんとなく分かる。
「彼女が忘れられないのか?」
「まあ、そんなところです」
里中はキーボードの上に手をそっと置いた。きっと今の里中は、楽しかった彼女との日々を思い出しているのだろう。
若い時はそういうもんだ。と海野が里中を眺めていると、里中は静かにため息を吐いてから、伝票を机に放り投げた。周りに聞こえないように声を絞り出して言う。
「彼女。僕に言ったんですよ」
「なっ、何をだ?」
急な暴露話に、海野は身構える。
里中は椅子を回転させて海野に向き直り拳を膝の上に置く。
「嫌いじゃないけど別れる。って。恋愛感情が無くなっただけなの。だから友達に戻りましょう。って。そういうの有りですか?」
「それはだな……」
海野は、その先の内容を里中に伝える事はできなかった。その女は、本命の彼氏ができるまで里中を繋ぎ役にした。なんて。
海野が加減をして言葉を止めるが、里中は既に仕事が手につかないほど意気消沈してしまっている。
今、里中の相手になってやれば、詳細な別れ話は聞けるが、里中が泣かない保証はない。
海野は、里中に同情しつつ、しかしここは社内なので、また仕事を始めるために指を動かす。
「別れの1つや2つ、どうって事ないだろ。別れがあるから出会いがあるんだ」
「でも、あんな別れ方ないですよ」
「離婚した俺と比べると、まだ穏やかに分かれた方だと思うが」
「海野さん、離婚暦あるんですか」
皮肉な事だが、この不幸話で里中に元気が戻る。
海野は冷静な表情で伝票を見ながら話す。
「今の妻は二人目なんだ。戸籍はパソコン入力で作成されるから、この伝票のように、一人目の妻の名前はアスタリスクが打ち込まれて、二人目の妻の名前が入力されている」
「戸籍の訂正もアスタリスクなんですね」
里中も伝票内にあるアスタリスクで訂正された箇所を見る。
海野は一束分の伝票の仕事を終えて次の束へ手を伸ばす。
「バツイチの時代は終わっていると思うが、アスタリスクになった今も、バツイチはみんなが言う」
里中は話題が変わったこともあり、またパソコンに向き直って仕事を始める。
「せっかくアスタリスクになったんだから、バツイチはやめて、星イチにしたらどうですかね? 星が2つ、3つと増えたら、三つ星と呼んでみたりして。五つ星になったら恰好良くないですか? 経験豊富っていう意味で、理に適っていると思うんですが」
「離婚した俺の美味しさをアピールしてどうすんだ」
海野は笑い出した。離婚の後悔や悲しさは、今は思い出せないほど消えてしまっているようで、海野は笑いながら付け加えた。
「離婚を1回している俺は、まだ星一つだから、星の王子様がいいな」
「星の王子……さま。ですか……」
里中の笑顔が凍りつく。
海野は先輩。
先輩への尊敬の念は必要だが「いくらなんでも、30過ぎで、星の王子様はないだろ」と思う里中がそこにいた。