短気
会社のお昼休み。
部長は頭を痛めていた。
でも病気や疾患の頭痛じゃないので、昼食のカツ丼はよく食べる。
「新しく主任になった山田。あいつちょっと短気じゃないか?」
部長と肩を並べて座っている課長のランチはエビフライ定食だ。
「俺の時もそうでしたが、主任になると仕事が増えるわ、部下は文句を言ってくるわで、大変なんですよ」
「大変なのは、わしも通って来た人生だから分かるが。それでも、カリカリし過ぎだと思うぞ。あいつ」
部長はカツが入った頬を膨らませながら言った。
あいつと呼ばれた山田は、もうすぐ30になる。
部下だった時、辛く当たってくる上司にも耐え、妻子のために仕事一筋に頑張ってきた。
なのに、最近の若い奴らときたら。
仕事を教えれば、できないと言い、
頑張れと励ませば、言うのは簡単だと言い、
なぜできないのかと尋ねれば、会社を辞めますと言う。
我が子はまだ幼く、確かに人間一人を一人前に育てた経験は無い。
それをどうして、結婚もしていない若い奴らに、
人の育て方が悪いと陰で言われなければならないのか。
山田には全く分からなかった。
山田は社員食堂で一人で昼食を食べていた。
仲良しの同僚は営業で外回りのため、主任になった山田とのすれ違いが多くなり、
なかなか食事も一緒にできない。
最近は人の温かみに触れる事も縁遠くなり、
ランチを提供してくれる料理場のおばちゃんが、今の唯一の山田の話し相手だった。
そんな山田の隣に、缶コーヒーを持った部長が腰を下ろした。
「なんだ山田、一人で食事か?」
「はい」
山田の返事は、元気がない。
「どうだ、今度の日曜に、釣りでも行かんか?」
部長は、のんびり釣りでもして山田の短気が少しでもよくなればいいと思い、誘っているようだ。
「釣りですか。俺、釣りはしたことがなくて、釣り道具持ってないんですよ」
「それくらい貸してやる。どうせ日曜は空いているんだろ?」
「はあ」
「なら、決まりだ。日曜日、朝6時にわしが迎えに行く。温かい恰好をして待っているんだぞ」
「朝の6時ですか?」
「そうだ。釣りで朝の6時は遅いくらいだ。いいか、必ず起きて待っているんだぞ。これは上司命令だ」
部長は山田の肩に手を置いて椅子から立ち上がった。
テーブルにある缶コーヒーを手にしたところで思い出したように言う。
「そういえば、弁当もいるからな。作ってもらうか、弁当代忘れるなよ」
部長は言うだけ言って、課長がいるテーブルに戻って行った。
山田は余計に頭を悩ませる。
平日は言う事を聞かない部下のお守りをして、休日は遊び好きの上司のお守りをしなければならない。
給料の主任手当ては一月5000円。
休日出勤の日当にもなりゃしない。
主任職はなんて損なんだ。と。
時は、悩みを抱える山田を無理やり日曜日へと引き摺って進んでいく。
山田の短気は部長に声をかけられた事もあり、多少は自重して部下に向かなくなったが、
山田の心は発散できない鬱憤が溜まり、
人のいない所へ移動して苛立つ自分との自問自答が多くなり、短気は一層酷くなっていった。
そして、日曜日がやってきた。
山田は妻子よりも早く起き上がった。
時計を見ると5時半。
休みのこんな朝早くに、妻が起きている訳がない。
朝食を食べずに山田は出かける支度をする。
今は4月。朝はまだ寒い。
山田は防寒着を身にまとう。
ふらふらと歩き、部長が迎えに来る手前、6時より10分早い、5時50分に玄関を出た。
部長を待たせるより、自分が早めに外に出て部長を待とうと思ったのだ。
山田は真面目で上司思いの性格のようだ。
しかし、部長はすでに山田宅の玄関に車をつけて待っていた。
車の窓ガラスを下ろして顔を出す。
「おはよう、起きれたようだな。早く車に乗れ」
部長は60近いのに早朝から元気だ。
山田は眠くて頷く事しかできない。
山田が車に乗り込むと、部長はすぐに車を走らせた。
「釣りはな、朝の場所取りが肝心なんだ。今日はいつもより遅いからな、いい場所は陣取れないかもしれん」
普段の部長はもっと早くから釣りに出かけているようだ。
「部長は早起きなんですね」
「釣りの時はな。あっはっはっは」
部長は一人で笑う。
山田は隣で大きな欠伸をした。
釣り場へ行く途中、コンビニに寄ってもらい、山田は朝食と昼食を買う。
釣り場に到着してからの山田は、部長が貸してくれたゴム長靴をはいて、部長のあとに続いて歩いた。
部長は脇に釣り道具を抱えて、
振り向いて山田を見ながら器用に歩いて行く。
「部長、荷物持つの、手伝います」
「いやいい。わしにとって釣り道具は体の一部なんだ。
それに高価なものもあるしな。あっはっはっは」
部長は笑って言うが、山田にはどこが笑える部分なのかが分からない。
部長は瞳を子供のように輝かせて指をさす。
「ここはな、初心者用の釣り堀だから、山田でもいけるぞ」
何がどういけるのだろうか?
部長の言葉は変だが、言いたい事はなんとなく分かる。
山田が先を見ると、池が二つある。
両方の池はすでに釣り客が来ていて、池の中に釣り糸をたらしている。
部長の言うとおり、6時の出発では、あいている釣り場所は少なかった。
「手前の池が雑魚。奥がヘラブナだ」
部長は入り口にいるオヤジに二人分の池の利用料を支払うと中に入った。
利用料は部長のおごりだ。
「ヘラブナだぞ。ヘラブナ」
部長はヘラブナの釣り堀へ行きたいようだ。
山田は「はい」と返事をして部長についていく。
ヘラブナの釣り堀に行くと、部長は池の周りを回ってよい釣り場所を探していく。
先に来て釣り糸をたらしているオヤジたちが振り返って山田を見る。
オヤジたちの視線が山田の体に刺さっているようで、山田の姿が痛々しく見える。
「山田は初心者だからな、いい場所が見つかるといいんだが。あっはっはっは」
部長は笑いながら親切に釣り場所を探してくれているのだが、
それが上級者の釣りの邪魔にならないかと山田は内心冷や冷やした。
釣り場所は池を半周もしないうちに見つかった。
「ここにしよう」
部長は釣り道具を組み立てていく。
「これが山田のだ」
山田は釣り竿を受け取る。
竿は思った以上に長く、竿の先端には糸がついており、
糸の途中には鉛筆のような細長い浮きがあり、糸の終わりには針が2、3個ついている。
「いいか。そのまま持っていてくれ」
部長は針に練りエサをつけると、山田から竿を受け取った。
「ここがお前の場所だ。いいか浮きをしっかり見るんだぞ」
部長は釣り台に竿をしっかりと固定した。
「あとは座って待つだけだ。浮きの動きだけは絶対に見ろ。浮きが引いたら竿を上げるんだ。いいな」
山田は、部長が持ってきた小さな椅子に腰掛けて、浮きを見る事になった。
部長も隣の釣り台で糸をたらす。
それから無言で山田はずっと浮きを見ていた。
しばらくして、部長が立ち上がり、山田の釣り竿を掴んだ。
「ダメじゃないか。エサを食われているぞ」
山田に竿を持たせ、針にエサをつける。
「いいか、山田。よく聞け。ヘラブナ釣りはな、浮きの上がり具合を見て、水中のエサの減り具合を知り、浮きの上下の動きでヘラブナの食いつき加減を見るんだ」
部長は竿を釣り台に固定する。
「様々な浮きの動きを見て、相手がどうゆう状況なのかを判断をしてアクションを起こす。これはだな、人と接する時と同じなんだ。ヘラブナにも性格や体調があるからな、食いつきのいい奴もおれば、悪い奴もいる。ビッグな奴ほどスレていてな、なかなか食いつかん」
山田は、雄弁になった部長の話を聞いて、目が覚めた。
部長は衰えのない眼差しを浮きに向け話を続ける。
「だったら、釣りの時刻や水温、天気もヘラブナにとってよい環境にしてやればいい。場合によっては服装も、ヘラブナがストレスを感じないようなのを選んで着ていけばいい。試行錯誤をし、デカイ相手、客や有能な部下を釣り上げた時、ビジネスマンのわしらは達成感と共に、デカイ相手との至福の時を得られるのさ」
部長は山田の背中を叩く。
「職場でも様々な奴がいて、その中で自分の仕事をしながら部下の面倒をみていくのはしんどいと思う。そうなったら焦らず職場でのんびり釣りでもする事だ」
そう言うと部長は自分の釣り台に戻って行った。
山田から見て、会社での部長は、
椅子にのんびり腰掛けて書類に目を通し、
時間がきたら接待で酒を飲んでいるだけだと思っていた。
部長がタバコを吹かしている時は、
目の焦点があってなくて幽体離脱をしている時もある。
そんな部長が、そこまで考えながら動いているとは思いもよらなかった。
行き詰った時、人はどうしても立ち止まってしまう。
生きていくのが辛くなって打開策も考えられなくなってくる。
なのに、部長はどうしてそこまで考えをめぐらせて先に進む事ができるのだろうか。
山田はある結論にたどり着く。
部長こそが真の短気なんだと。
短気だから、自分の足場が崩れて、居場所が無くなっても、じっとできず、考えまくり、動き回る。
座ってヘラブナ釣りをしている今も、部長は短気を起こして、ヘラブナを釣るためにどうしようか考え続けているんだと。
山田が見ている前で、部長は自分の釣り竿を持ち上げる。
「エサを取られた。くっそぉー」
悔しそうな声をあげた部長を見て、山田は笑いを漏らす。
人の愛嬌を感じて、心の底から笑ったのはいつだったか。
立ち上がって部長の所へ行く。
「部長、俺にエサをつけさせて下さい」
山田は部長の釣り針にエサをつける。
そして気づく。吹っ切れて自分の心が軽くなっている事に。
それでも、山田はまだ気づいていない事がる。
自分の短気によって、部長の心を釣り上げた事に。