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神経質

前回の予告どおり、

作者名を『雪鈴るな』から『羽村奈留』に変更しました。

皆さま、今後もどうか宜しくお願い致します。

 子供が成人し働くようになると、育児がなくなり、親は暇を持て余すようになる。

 例え趣味があったとしても毎日同じことをしていれば飽きてくる。

 男親はまだいい。平日は仕事があるから。

 しかし専業主婦として暮らしてきた女親はそうはいかない。

 パートやアルバイトで働こうとしても、専業主婦の思考はそう簡単に雇われモードにはならないし、衰えた体もなかなか労働についていかないからだ。

 50歳近い瑚沙子(こさこ)は、毎日をボーっとして暮らす事が多くなっていた。

 たまに来る友人との雑談は楽しいが、事件などの新しい話題がないと、雑談も単調になってくる。

 スポーツジムに通っているが、それも飽きてしまって最近は通う回数も減ってきている。

 昼間は独りで韓国ドラマを眺め、日が暮れれば家族の夕食を作り、夫子供が帰れば一緒に食事をして、入浴後は寝るだけの毎日だ。

 就寝時、瑚沙子は鏡を見ながら顔にコールドクリームを厚塗りする。歳を重ねた肌は、待っていましたとばかりにコールドクリームの水分と栄養を補給していく。

 瑚沙子の後ろでは、仕事で疲れた夫が既に高鼾で眠っている。

 今夜も何事もなく布団に入って眠るだけ。

 そう思いながら瑚沙子は眠りについた。

 いつだろうか。

 瑚沙子は気配を感じて目を覚ました。周りはまだ真っ暗でよく見えない。そして焦る。体が動かないのだ。隣で寝ている夫を起こそうとしても、声も出せない。

 一体自分の身に何が起きたというのか!?

 手足の感覚はある。しかし関節を曲げる事ができない。呼吸もできる。でも口は開かないし喉にも力が入らないため声が出せない。首も動かせない。脈の振動も感じない。こんな状態で自分は生きているのだろうか。瑚沙子は、動かない体をなんとかしようともがいた。

 どのくらいの間もがいていたのだろうか。首が動くようになったと思った時、重たかった体が急に軽くなり、瑚沙子は起き上がった。

「あなた。起きて! 大変なの!!」

「ん?」

 夫の反応はあるが、仕事で疲れているため起きる気配がない。

「あなた。お願い。私を病院へ連れてって!」

「なんだ? 元気じゃないか。病院は昼にしろ」

 夫は一度は起きたものの、寝返りをうってまた寝ようとする。

 瑚沙子は、夫の尻を叩いて声を大きくした。

「私。脳梗塞かもしれない。さっき手足が動かせなかったの。初期症状のうちに病院へ連れて行って。お願い!」

「何! 脳梗塞だと!? 本当に手足が動かなかったのか?」

 夫はついに起きた。かなり驚いた表情をしている。それもそのはず、ずっと家事を瑚沙子に任してきた夫としては、妻の瑚沙子が脳梗塞になったら、代わりに家事をしなければならないし、妻の介護もしないといけなくなり、仕事どころではなくなるからだ。

 瑚沙子はようやく起き上がった夫にすがった。

「そうなの。さっき本当に手足が動かなくて」

「それは大変だ。すぐに脳内科の病院へ行こう」

 瑚沙子と夫は急いで布団から出た。

 電話で夜間救命センターから今夜担当の脳内科の病院を紹介してもらい、二人は車で病院へ向った。

「あなた。私。怖いわ」

「大丈夫だ。早期に治療すれば、後遺症無しで回復するらしいから」

 夜間救命センターから紹介された病院は、私立病院だった。

 病院に到着した二人が夜間窓口を叩くと、あらかじめ救命センターから連絡が入っていたようで、名前を言っただけで二人は病院内に通してもらえた。

 院内の通路は、夜間用の照明のみで薄暗かったが、脳内科の診察室だけは二人を招き入れるために、通常照明が明るく灯っていた。

 二人はすぐに診察室に入った。

 診察室には若い男性医師が座っていた。白衣の左胸にある名札は小坂となっている。小坂医師は、書類を見ながら言った。

「えっと、あなたが先ほど連絡された山田瑚沙子(やまだこさこ)さんですか?」

「そうです」

 瑚沙子は、返事をしながら小坂医師の前にあった丸椅子に座った。

 夫は、診察が始まったのを見て、立って待っているのも暇だと思い、待合室に常備してある雑誌を読むために診察室を出て行った。

 小坂医師は、瑚沙子の顔を見ながら話した。

「手足が痺れて動かなかったと報告にありますが、どんな状況だったのですか?」

「痺れはありませんでした。動かそうとしても動かせなくて、首も動かせなくて、声も出せなくて、目だけが動かせたんです」

 小坂医師はカルテに瑚沙子が言った内容を書き込んでいく。

「頭痛はありますか?」

「ありません」

「目眩はしますか?」

「目眩もないです」

 瑚沙子は、脳梗塞かもしれないという恐ろしい思いに怯えて、小坂医師に訴えた。

「呼吸はしていたんです。でも心臓が止まっていたんです!」

「なるほど。心臓が止まっていたんですね」

 小坂医師は淡々とした口調で返事をしながらも、ペンの動きが一瞬止まる。だが、すぐに手を動かしてカルテに瑚沙子が言った内容を真面目に書き込んだ。書き込んでから、カルテにボールペンの先を当ててリズムをつけてトントンと何回か叩く。考え事をしている時の癖のようだ。その癖は数秒で終わり、小坂医師はペンとカルテを机に置いた。

「先に心電図をとりますので、上半身の服を脱いでベッドに横になって下さい」

「分かりました」

 瑚沙子はベッドに座ってから上半身の服を脱いだ。50近いが胸の膨らみはまだ垂れていない。

 小坂医師は、体をベッドに倒した瑚沙子の胸に計測器具を貼りついていく。

「冷たいけど直に慣れますので我慢して下さいね」

「はい」

「約5分ほど安静にしていて下さい。決して起きないように」

「分かりました」

 小坂医師は瑚沙子の上半身にタオルを掛けると、ベッドの周りにカーテンを張り巡らして、外へ出て行った。小坂医師が外へ出た時、カーテンの向こうにある心電図の機械がチラリと見えた。

 瑚沙子は、横目で機械を見てから瞳を閉じた。天井しか見る事ができないカーテンで仕切られた空間は、眼を閉じれば無限の暗闇に変わる。耳には機械の音が届き、小坂医師が動いているようで、白衣の布が擦れる音も聞こえる。

 5分という時間は、瑚沙子が思っていたよりも早く過ぎていき、瑚沙子が居眠りをしようかと考えている時に心拍の計測は終わってしまった。

 小坂医師はカーテンの中に入ってこなかった。声だけがする。

「山田さん。終わりましたので、ご自分で体についている器具を外してから服を着て下さい」

「はい」

 瑚沙子が小坂医師に言われて服を着ていると、カーテンの向こうからまた小坂医師の声がした。

「次は頭のMRIをとりますので、身につけている貴金属は全て外して下さい。結婚指輪も外して下さいね」

「分かりました」

 瑚沙子は診察室を出てから、夫に結婚指輪を預けた。

 待合室で雑誌を読んでいた夫は、真面目な表情で結婚指輪を受け取り、失くさないように自分の左小指に装着した。

 MRIは、瑚沙子が想像した以上に時間がかかった。その時間、約30分。

 小坂医師からMRIの撮影時間を聞いた時に、瑚沙子は眠たいので仮眠でもしようかと思っていたが、MRIの撮影中はかなりの騒音で眠る事ができず、筒状になっている中は圧迫感も感じ、その中で約30分も続く騒音を我慢し続けるというのは、かなりの忍耐が必要だった。

 MRIの撮影が終わった時、瑚沙子はベッドの上で横になっていたにもかかわらず、どっと疲れを感じて口から息を沢山吐いた。

 その後、小坂医師に呼ばれて、瑚沙子は診察室で診断の結果を聞く事になる。

 診断結果を聞く時は、夫も同席した。

 小坂医師は、MRIの写真をライト付きの壁に貼り付け、白く映し出された瑚沙子の脳内画像を見ながら、瑚沙子たちに心電図を提示して、診断結果を伝えた。

「現在MRIの写真に異常と思われるものは写っておりません。心電図にも異常と思われる脈はありませんでした」

「そんなはずは」

 瑚沙子は、信じられないようで、もう一度小坂医師に聞いた。

「確かに手足が動かせなかったんです。首も動かせなくて。声も出せなくて。心臓の鼓動も無くて止まっていたんです」

「ええ。そうでしたね。でも今は心臓も動いておりますし、MRIにも異常となるものは写っておりませんので、現在は大丈夫ですよ。なんでしたら、落ち着いて眠れるように、数日分の精神安定剤をお出ししましょうか?」

「精神安定剤ですって!」

 瑚沙子は声をあげた。

 小坂医師は、説明の相手を瑚沙子から夫に変更した。

「奥様は神経質になられているようです。昼間は軽いスポーツでもされて、夜は熟睡されたほうがよいかと思います」

「――そういう事でしたか。分かりました」

 夫は返事をすると立ち上がった。

「帰るぞ」

「でも、そんな。だって脳梗塞の前兆があったんですもの。もっと詳しく調べてもらえば、脳のどこかに小さな脳梗塞があると思うんです」

 瑚沙子は小坂医師に訴えた。

 小坂医師は椅子の背もたれにもたれた。椅子がギリギリと軋んで小さな音を立てる。

「小さいものはラクナ梗塞というのですが、それも今は見当たらないですね。今は心配されず、ゆっくりお休みになったほうがいいですよ」

「でも、私は手足が動かせなくて、心臓も止まっていたんです」

「瑚沙子。もうそのくらいにしておけ。帰るぞ。俺は今日も仕事なんだ」

 夫は後ろから瑚沙子の手を握る。

 小坂医師は、真面目な表情で瑚沙子に言った。

「山田さんのお話は、カルテに正確に記録しておきますので、また心臓が止まったら、ご家族と一緒に当診察室にお越し下さい。精神安定剤は、どうされます? 内服されますか?」

「薬は出して下さい」

 夫が瑚沙子の代わりに返事をした。

 瑚沙子は、夫によって半ば強引に診察室から連れ出された。支払いを済ませ、精神安定剤を受け取ると、夫と一緒に私立病院を出た。車に乗り込む。

 夫はエンジンをかけてから、左手を瑚沙子に見せた。

 夫の左小指と左薬指には、結婚指輪が仲良く並んでいる。

「瑚沙子。指輪。運転しづらいから、早くお前のを抜いてくれ」

「私。精神安定剤は、飲まないから」

「ああ。分かったから、早く結婚指輪をはめなさい」

「うん」

 瑚沙子は、夫の小指から指輪を抜いて、自分の左薬指にはめた。

 夫はハンドルを握って車を走らせた。

「精神安定剤は、今日仕事から帰ったら、俺が一錠飲む。だから分かる所に置いてといてくれ」

「あなたが飲む必要ないじゃない。どこも悪くないんだから」

 車は言い合いをする瑚沙子と夫を乗せて、明け方の道路を走って行く。

 瑚沙子と夫の人生は、やっと半分の所に差し掛かったばかり。これからの残りの人生もいろいろな出来事が待っているだろう。

 瑚沙子は思う。自分にもしもの事があった時、夫は今のように隣にいてくれるのだろうか。と。

 そして夫も思う。自分にもしもの事があった時、自分と妻の瑚沙子はどうなってしまうのか。と。

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