王妃と侍女
傍から見た王様と王妃様。
エマが王妃付の侍女となって半年が経つ。
正確には、王妃が王の婚約者であった頃から身の回りの世話を任されているので、彼女付の侍女歴はおよそ一年である。
エマが仕える王妃リーシアは他国の出身である。にも関わらずファラングの標準語を巧みに話すため、言葉の壁を感じたことはない。
見事に艶めいた黒髪は緩やかに波打ち、透明感のある肌はとても白いが病弱な印象ではない。青玉を思わせる瞳には落ち着いた色が宿り、その口からは凛とした声が発せられる。大胆な衣装を着こなす妖艶さには乏しいが、王妃のために用意される豪奢な飾りに負けることはない。
エマ自慢の主人である。
元々エマは王レザリオ付の侍女であった。
レザリオは一日のほとんどを執務室で過ごすため、エマはレザリオと会話をしたことがほとんどない。あっても二、三言である。それゆえ、王妃となる女性付の異動を命じられた時にはあまりの驚きに思わず訊ねてしまったほどである。なぜ自分なのか、と。
この異動は落ち度によるものではない。むしろ評価が高いからこその人事と言えるだろう。王付と王妃付、どちらも身に余る光栄と言っていいのだから。
エマに異動を告げた上司が言うには、エマの話す言葉が最もきれいだから、だそうである。王妃となる人物は既にファラングの標準語を習得しているが、その彼女が最も耳にするだろう侍女の言語が訛りや癖の強いものであってはならない。洗練された言葉に身を浴することで、既に習得している言語であっても更に磨かれていくだろう、とのことであった。
そこにエマは気遣いを感じた。王は王妃のことをよく考えていらっしゃるのだ、と。たとえ最終的には自分でなんとかしろよ、ということなのだとしても、そのための環境を整えてくれる時点で配慮が見られている。相手に無関心であることも少なくない政略結婚において、とにかく良い傾向だとエマは思ったのであった。
さて、エマの異動は慌ただしかった。朝、出仕してみたら突然の辞令を言い渡された。
昨日まで存在しなかった王の婚約者がいきなり現われたのである。
しかしそこはエマも優秀な侍女である。ただ粛々と命令に従えばよい、と割り切った。偉い人の考えることは時としてよく分からないものなのである。
よく分からないと言えば、後に王妃となるリーシアの考えもそうであった。異国の生まれだから、という理由だけでは納得できないぐらいには自主性が弱かった。
彼女の口癖は「お任せします」であった。
「私はまだこちらのことに慣れていません。ですから、ふさわしく仕上げてくだされば構いません」
初めのうちはそういうものかと思っていた。自主性が強すぎるよりはずっとよい――得てして貴族令嬢というものはわがままの塊、もとい自主性が強い生き物であるという偏見がないこともない――とさえ考えていた。
しかし、それが慣れの問題などではないことにエマもすぐに気が付いた。
「もしやと思いますがリーシア様。あまりご自分のことに興味がおありではありませんね?」
ほぼ断定的にそう訊ねると、リーシアは目を泳がせた。
それは国庫のために良いことなのかもしれないが、女としてはどうなのだろうか。
聞けば、幼少期は親から言われるがままの装いを、その後は王妃教育を受けて、未来の王妃にふさわしいとされる装いを身に着けてきたと言う。そこに個人の意見や好みが反映される余地はなかったのか、或いは彼女にはどうでもよいことであったのか。
どうでもよかったのだろうな、とエマは推察する。色や作りがどうの、というこだわりはなく、似合うかどうかですら二の次で、彼女はただ自分の立場にふさわしい身なりをすればよいと本気で考えていそうである。彼女の容姿が王妃の装いの似合うものであったのは幸いと言うべきだろう。
そんなリーシアがある日唐突に言った。
「エマ。私、気づいたことがあるの」
ファラングに来て一年、リーシアもだいぶ打ち解けたのか、侍女たちと何気ないおしゃべりに興じることがある。
「陛下はいわゆる美形でいらっしゃるのね」
「……は?」
思わぬ話の流れにエマは面食らった。
さしものエマも、この時ばかりは心の声が漏れてしまった。かろうじて「今更ですか」という言葉は飲み込むことができた。
「あら? エマはそう思わないのね? では違うのかしら」
「え、あ、いえいえ、陛下は美形でいらっしゃいます。それはもう素晴らしく整ったお顔立ちです」
決してお世辞ではない。
レザリオが美形でないとすれば、世の中の美形の基準はどれほど高くなってしまうだろうか。
「やはりそうなのね」
「……なぜお気づきになられたのか、伺ってもよろしいでしょうか」
リーシアが言うには、ここ最近ファラングが併合した地域の元王族たちと話をする機会が増えたらしい。その席には年頃の令嬢の姿も時折見られるそうだが、彼女たちは口を揃えてファラング国王陛下の容姿を褒めるのだとか。
先代のファラング王は面食いであったと言う。先代王妃も側妃たちも、趣の違いはあれど美女揃いであった。とりわけ先代王妃は絶世の美女と謳われる美貌の持ち主であり、その三人の息子たちもまた素晴らしい容姿に恵まれていた。三人のうち、レザリオを除く二人は母親譲りの柔らかい面差しをしており、線の細い体格であった。レザリオにもそれは言えることだが、彼には加えて父親譲りの背の高さと精悍さがあり、令嬢たちが目の色を変えて飛びつきたくなるのも分かる。むしろ王妃であるリーシアがそこに着目していなかったことが驚きである。
リーシアにしてみれば、王侯貴族は見目麗しい伴侶を迎えやすい立場にあるのだから、その血脈が容姿に優れていることは取り立てて珍しいことではない。絶世の、という言葉が多くの女性に使われることすらあるのである。一体何度世界は滅べばいいのか。
そんなわけで、リーシアは自身が貴族であったこともあり、周りの水準が高かったこともあり、レザリオを前にしても特に思うところはなかったそうである。
「それでね、思ったのよ。私も見苦しい顔ではないと思うのだけれど、陛下の隣に立つならもっと磨かなければならないかしら?」
そもそも自分の容姿に興味のない人間が他人の容姿に興味を持つわけもなかった。
まだまだリーシアのことが分かっていなかった、とエマは自戒した。
顔の美醜で人の価値が決まるわけではないが、汚いものよりはきれいなものを、醜いものよりは美しいものを好むのが一般的な感覚と言えよう。
持って生まれた造作を変えることは難しい。そのためリーシアはこれまで清潔感を第一に考えてきたと言うが、夫との釣り合いも大事ではないかと思い始めたらしい。
ついにこの日が、とエマは思った。
自主性に乏しく、自分自身に興味すらなかったリーシアが、何はともあれ夫のために自分を磨こうという意思を見せた。
なんだろうか。我が子が初めて異性と出かけるためにおしゃれしたいと言い出したかのような謎の感慨がある。エマはリーシアと同年代であるし、リーシアは既婚であるのだが。
侍女の腕の見せどころである。
もちろん本人が乗り気でなくとも美しく仕上げてみせるが、本人にその気があるのならばより一層気合が入るというものである。
「決して今のリーシア様が陛下に見劣りするということではございませんが、その心意気、エマは嬉しゅうございます」
ぜひがんばりましょう、と言ったエマの顔を見て、リーシアが若干顔を引き攣らせたのは余談である。
「生産的でないことに時間を費やすのはやめるわ」
リーシアが自分磨きに根を上げたのはわずか三日後のことであった。
一体何があったのかと聞いてみると、どうやらレザリオに言われたそうである。
「いつもの君らしくないね? 動き辛そうだけど大丈夫?」
不敬を承知でエマはレザリオを恨んだ。
夫が妻に「そのままの君で十分だよ」と言うことが悪いわけではない。むしろそんなことを言ってくれる夫と結婚したいとエマも思う。
しかし言う“時”は見計らってほしいものである。
せっかくのリーシアのやる気に水を差さないでいただきたい。おしゃれというものは基本的に生産性を度外視しているのである。静態的な美しさを追求した場合動き辛くなるのは仕方のないことなのである。
いつもよりきつく髪を結い、いつもより入念に化粧をし、いつもより凝った衣装を身に纏い、いつもより踵の高い靴を履いたリーシアは、常の半分程度の仕事量しかこなせなかった。
それだけならば、慣れれば平気です、と言うエマの主張も無下にされなかっただろうが、悲しいかなエマの主人夫妻は揃いも揃って効率性と合理性に重きを置く人たちであった。ただ美しさだけを追求する生産性の欠片もない行動に時間を割くのは無駄だと彼らが判断した以上、一介の侍女にすぎないエマには何も言えなかった。
――それは顔が良く生まれついた人間の論理だ!
何もしなくてもそれなりに見ることができる顔を持つ彼らとは違い、少なくとも化粧前の素顔で職場に顔を出したくない平凡顔のエマは心の中で毒づいたのであった。
「なーんか最近リーシアのとこの侍女に睨まれてる気がする」
「……何かなさったんですか?」
「うん、リーシアの中で俺の印象がどうなってるか知らないけどすぐ俺の所為だと思うのはよくない。たぶん俺の所為だけど」
「別に印象が悪いわけではありません。陛下と侍女でしたら、相手に何かできる立場にあるのは陛下の方ではないかと思いましたので」
この夫婦は傍から見たらけっこうとぼけた会話をしていると思う。
ちなみに、リーシアは肌や髪のお手入れには余念がありません。というか侍女たちに言われるがまま。仕事の時間に影響しない範囲での自分磨きは続行中。素材がいいだけに侍女たちは歯がゆくもある。