第二十五話
「さあ、降りてください」
早暁は姫子を船から降ろし、解放した。今度はヒノを押さえて歩き出す。
「でも、どこへ……」
「地面を見れば、わかりますよ」
「地面? ……ヒッ」
姫子が小さく声を上げた。
地面には乾いた赤黒い跡があった。
「陵墓の入口を警備していた者の血ですよ。それをたどってください」
「早暁さん、あなた……!」
姫子は何を言っていいかわからないようだった。ただ、非難の言葉をぶつけようとしているのだけは分かった。
「罵倒は聞きたくありません。さぁ!」
早暁は目元に鋭い光を宿して、姫子を睨んだ。
助けを求めるように、姫子がヒノを見る。ヒノはうなずいた。
――従え、と。
まだ勝機はある。ヒノは諦めていなかった。
やがて三人は、陵墓の入口があったとされる場所まで来た。それを示す囲いは破壊され、がれきには血痕が付いている。
「開く呪文は、知っているでしょう?」
「…………」
姫子は黙ったままだ。
「さあ! 開けるのです!」
「玄武の名において、知っています。中には、何もありません」
絞り出すような、姫子の声だった。
「あなたがここを開いても、この陵墓を破壊しても、世界は壊れたりしない!」
姫子が叫んだ。
「そんなこと、どうでもいいんですよ」
早暁の答えは無慈悲だった。
「私は美黒に伝わる義務に従い、ここを開けねばならぬのです」
私にもしきたりはありましてね――早暁が皮肉っぽく笑う。
「できぬというなら、できるようにするまで」
早暁はヒノを引きずり、そしてその首に手をかけた。皮膚に浮かぶ血管を押さえ、ゆっくり爪を立てる。おぞましい仕草だった。
「姫子、オレにかまうな!」
「できない!」
姫子が顔を覆う。
「できない……」
ヒノはホッとした。姫子は早暁を拒否した――そう思ったからだ。
姫子が顔を上げる。両手を前に差し出した。
「姫子……? や、やめろ!」
「玄武防禁術――解」
ズ、と陵墓が鳴動した。覆い被さった土が割れ、生えた木が倒れる。ズズズ……と重い音を立てて、石室の扉があらわれた。
扉がゆっくりと開いていく。
中に溜まった瘴気が解放され、渦を巻いて外部へと流れ出してくる。
それが治まると、姫子の体が、前のめりに崩れ落ちた。
早暁がヒノの背を押す。
「姫子!」
膝をついた姫子を、ヒノは支えた。
姫子は荒く息をつき、全身から汗をしたたらせていた。
「あなたの役目はここまで。若、お返ししますよ」
早暁は、もはや二人から興味を失っていた。石室の中へ、足早に消えていく。
「ごめん、なさい……」
「姫子……」
「追ってください……」
「ダメだ、置いていけない!」
姫子が弱っているのは一目瞭然だった。
「お願い……」
弱々しく、姫子が手を伸ばす。
ヒノはその手を取った。細く白い手が、何よりも雄弁にヒノを説得した。
「すぐ戻る。皆もきっと来る! だから待っててくれ!」
姫子は黙ってうなずいた。
ヒノは早暁を追って、石室内に足を踏み入れた。
横穴式の陵墓内は、思いのほか広かった。石室の中央には石棺が置いてあるだけで、余計に広く感じたのかもしれない。
「やはり、来ますか」
「早暁さん、教えてくれ」
ヒノは率直に疑問をぶつけた。
「あなたはいったい、何者だ?」
早暁がフッと笑う。
「美黒の一族は、異能の集団でした。千年以上続いた……ね」
つまり、四方神一族より古い氏族だ。
「ゆえにこの島に魔を封じた時、多大な犠牲と供物を奉じた。だが朝廷は我らから力を奪うばかりで、報いようとはしなかった……」
「そんな……」
「ゆえに我らは恨む! 朱を、白を、青を、黒を!」
四方神一族を恨む。
彼の血には千年の怨嗟が渦巻いていたのだ。
「千年、ないがしろにされた恨みはある……。だが我らの血は弱まるばかりで、復讐の機はもはやない。そう、今このときを除いては!」
ヒノはうつむいた。
もはや手遅れだ。早暁とは袂を分かってしまった。
「朱雀紅蓮術……」
ヒノの手に、真紅の籠手が現出する。鋭い爪先で、ヒノは首に巻かれた枷を切り裂いた。
「お相手しましょう」
早暁の腕に、黒いもやがかかった。もやは実体化し、灰黒色の籠手に変わる。
「魔封じの箱などより、ずっといい……」
早暁はつぶやいた。
「師を得て、弟弟子たちを得て、あなたと出会って……私は、私の血のしきたりの中で、なんと充実していたことか」
美黒の末裔は、虚空をながめる。
「見給うか、我が血に宿る祖霊よ。神社を崩し、朱雀門に恥辱を与えた蛇を。退化した相武どもの迎えたる滅びを。そして千年の仇敵たる朱雀門より、紅蓮術を習いし我を」
クックックッと笑う早暁の顔は、今までで一番満ち足りていた。
「私は美黒に生まれた最後の蛇。血のしきたりの中で、無能な相武どもを憎悪し、操るのは楽しかった……」
「早暁さん、あなたは……」
「私はあなたがたの敵です。四方神の一族を、千年恨む蛇の一族」
「もう……止められないんだな」
「さあ、死合いましょう。若、あなたの紅蓮術で、私が生きていると実感させてください!」
朱雀紅蓮術。
朱雀島に古くより伝わる、徒手格闘技。
ヒノと早暁はその体に流れる血により、妖艶なまでに美しく凶暴な籠手をまとう。
「うおおおおおッ!」
「はあああああッ!」
両者は真っ向から激突した。時に殴り、時に突き、時に防ぐ。金属音と火花が散る。男たちの体に、細い切り傷がいくつも生まれる。
「朱雀紅蓮術、霧椿!」
ヒノの拳が素早く何重にも繰り出される。
早暁はそれをすべてさばききる。彼の方が一枚上手だ。
「朱雀紅蓮術、散咲!」
「クゥッ!」
いたぶるような攻撃が、ヒノを襲う。
「ククク……これはどうですかな!」
早暁の籠手が、石棺の下に潜り込んだ。すさまじい勢いで石棺が立ち上がり、飛ぶ。
「な……っ!」
迫り来る石棺に、ヒノの反応が遅れる。
バチイ!
強烈な光が走った。
同時に石棺は宙で停止し、そのまま地面へ落下する。重い音が石室内に響いた。
「ハァ……ハァ……」
石室に影が入る。姫子だ。よろめきながらも、片手を必死で前に突き出している。
「ヒノさんを守れるのは……わたしだけ……」
「邪魔をするな!」
「姫子!」
ヒノの方が早かった。早暁の頬に、強烈なパンチを入れる。
「ええぇい!」
姫子が腕に力を込める。防御結界の力が早暁を捕らえ、空中ではじき飛ばした。
攻撃と防壁の二重連鎖。その重圧は、早暁を石棺に縛り付けた。
「うあああああ……!」
石棺が砕ける。
早暁は口から血を吐いて倒れた。石棺の中のものが彼の上に降り注ぐ。大量の金や銀、翡翠などの細工物に埋もれる。脱出できなくはないだろうが、もはや戦えはしないだろう。
――と、宝の中から太刀が転がり落ちてきた。早暁の手のあたりで止まる。
「こ、れは……」
朦朧としながらも、早暁が太刀を握った。
「は、はは、は……」
早暁が笑う。
「どうやら、天はここへ来て……」
太刀にすがりながら、起き上がる。
「この剣は、はるか昔に、わが美黒の一族から、朝廷が奪ったもの」
うつろな目で、太刀を握りしめる。
「やっと、取り戻せました」
「それだけの……ために!」
「ええ、それだけのために、大きな犠牲を払いました。でも、これで……」
鞘を払う。
「これで、私は真の姿に戻れます」
にっこりと笑った。
刃を顔に当てる。
整った顔が、真っ二つに割れた。
カラン、と太刀が地面に転がる。
ずるり、と。
人の皮がむける。
――おるるああああああああ。
――おろろりいいいいいいい。
鳴き声は、今までに聴いたことのない音色を帯びていた。
歓喜、随喜、狂喜。喜びの感情だけを宿しながら、慟哭にも聞こえた。
早暁は人間であることを捨てた。人の皮が破け、中から漆黒の影が膨らみ始める。それは太刀を包み込みながら、巨大化する。
同時に石室内が揺らぎ、石床が割れる。
「ヒノさん……!」
「まずいな、出るぞ! 姫子、こっちへ!」
二人は崩れる石室から駆け出す。
「キャアッ!」
崩れ落ちた石が、姫子の側頭部に当たる。
「姫子!」
転びそうになった姫子を支え、ヒノは間一髪、石室から脱出した。
初出:2015年乙未01月25日




